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告別

作者: 橿原岩麿

 夫の親友が死んだ。葬儀は昨日に終わったので家庭は通常の風景を取り戻している。金曜日の夜に何事かと驚いていた子供たちも早々と学校の準備を始めている。私の部屋のベッドにうずくまって泣いているこの人を除いて何もかもが落ち着きを取り戻している。


 金曜日のこと。八時四十分に帰ってくる夫が六時頃に家に帰ってきた。そもそも鍵の開け方から全く違っていた。いつものゆったりとした音ではなく、強盗が押し入ってきたかのように取り乱した音を立ててからドアを開け、リビングに顔も出さす自分の部屋に入っていった。塾から帰ってきた子供たちも父親ではなく本物の泥棒が入ってきたと冗談めかしながら言っていたが、顔が少しこわばっていた。私は夫であることがわかっていた。大きな物音を立てている部屋に向かうと彼が狼狽えながら、死んだんだよあいつが死んだんだよ、と涙を押し殺したような声で私の方も見ずに衣装箪笥の奥に置いたのであろう公の場に着てゆくスーツを取り出そうとしながら説明してくれた。そう、とだけ返事をして子供たちのいるリビングへ私は帰った。聞かなくとも彼はこのままその友人の遺体のもとへ行くに違いない。帰ってきた私を見て子供たちはやはり父かと安堵して、テレビの方へ興味の関心を戻してしまった。この子ももう人の死を知らなければならない年だ。話をしておかねばと思い、テレビのリモコンを取り、電源を切った。文句を言おうと私の方を振り向いたが、ただならぬ何かを感じ取ったのかこちらを向いたまま何も言わなかった。中学生の娘の方が先に切り出した。

「何かあったの?」

「お父さんのお話に出てくるMさんがいるでしょう。お父さんがよくお見舞いに行く人。あの人がね。亡くなってしまったのよ。」

 こんな時にどんなことを言えばいいのだろう。そんな顔をして子供たちは黙ってしまった。私も気持ちを表すような言葉は出てこないので、お決まりの工程を説明するだけにとどまった。子供たちは葬儀に参列するほどその友人と仲が良かったわけでもない。夫の笑い話に出てくるだけの登場人物の一人にすぎない。喪失を感じないこの子たちは、そんな知らぬ人の死よりも自分たちに顔も見せずもう家を飛び出していった父のことを心配している。私は二人の頭をなでて、大丈夫大丈夫、と言った。私はもう一度テレビをつけて、夫の部屋の散乱を片付けに向かった。夫は朝五時頃帰ってきて、明日の葬儀場の場所だけ私に告げ、一睡もせずリビングでコーヒーを二杯飲んでから七時には家を出ていった。

 大体九時半に着くように私は出発した。親族の方に夫のことを聞くと一番近くの親族席で泣いていた。友人の母親にも、あんなに泣いてもらえるお友達がいて息子も幸せだったと思います、とハンカチで目を覆いながらおっしゃってくださった。食事の席も全く参加せず、椅子を棺の近くに持っていき時折口を動かしながら佇んでいる。そんな後姿を少し離れてみていると、男が話しかけてきた。

「すみません。あのぉ、泣いているあいつの奥さんですか。」

「はい。」

「そうですか。一つ奥さんの方から食事の方に行くように促してもらえませんか。」

「いえ、あの人は動かないと思います。悲しいことがあると食事がのどを通らなくなる人ですから。」

「そう、ですか。すみません。」

 礼儀も行事もほったらかして自分の気持ちや決めたことを固持する人なのだ。そんなぶっきらぼうで無茶苦茶なのに誰よりも大事な人がなくなるのが嫌で怖くて悲しくて、我慢できずに人前でぐちゃぐちゃに泣く人だ。この人は諸行無常の世界についていけるような人ではないのだ。それぐらい脆い心を抱えて生きている。つまりはこの世界で強く生きていこうとする弱い人だ。だからあの人は誰よりも優しい人だ。優しさとはあらゆる弱さへの対処法の総称に過ぎないのだから。あの縮こまってひくひくとたまに揺れる小さな背中を遠くからずっと見ていた。


 葬儀も終わりもう日曜日の夜。そうして、この人は私のベッドでうずくまっている。いつも別室の私たち夫婦の暗黙の決まりで悲しいことがあったときはどちらかの寝室で一緒に寝る。大学時代の交際時から数えても大半はこの人が私のところに来ている。明日は月曜日だ。この人は仕事に行くのだろうかと思いながら、私も彼の隣に横になる。この人はすぐに右腕で腕枕をして私のお腹の上に左手を置いて目をつむっている。時々目を開けてこちらを見て安心したように目を閉じる。この人は寝つきが悪いから、隣に人がいると眠れないのだけれど、こんな日は何をしようと眠れないから私のところに来ているのだろう。胸に空いてしまった空白を私で埋めようとしているに違いない。

 今日は、昨日のように半分以上何を言っているのかわからないほどぐちゃぐちゃに泣きながら鼻をすすって携帯で写真を見せようとしない。じっとしている。しかし、両方の目から涙が静かに流れ落ちている。この世の一切の苦痛を知らぬ子供のような顔をしている。この人が周りの人に与え続けた優しさが彼に帰ってきているに違いない。そうでなければ、こんなに愛おしい顔で、そして、こんなきれいな涙を流せるのだろう。

 この人はあのお友達が死なないとでも思っていたのだろうか。四か月前の入院。目に見えて痩せてゆく体。生気のない顔。この人が見舞いに行って写真を見せてくるたびにもうこの人は駄目なのではないだろうかと思っていた。痛々しくて見ていられなかった。十歳から一緒にいたのだからこの人の方がそれはわかっているはずであるのに、どうして心構えをしておかなかったのか。一通りの経験をした大人ならすでに身に着けているはずの、心が傷つかないように、怪我をしないようにする諦めの護身術をこの人は身に着けていないように思う。俗世の困難と懊悩の波が私を諦めに押し流してゆくのに、この人は桃源郷のような理想の島に向かってもがいている。この人は全身全霊で生きているのだ。だからこんなにも悲しいのだ。心から友人の無事を祈っていた。一切の不安を振りほどいて捨て身で祈っていた。こんなに不器用な人は他に見たことがない。頭の後ろを髪をとかすように撫でた。男の髪らしく歯ブラシのような感触だった。


 トイレに行ったついでに夫の部屋を見てきた。明日の仕事の用意がされていて安心した。彼も立ち直りつつはあるのだ。私は安堵して部屋に戻った。夫は寝る気配もなくやはりまだ静かに泣いている。こんなに感情を削り取り仕組みだけが動いている現代社会に向いていないような人は他にない。しかし、これが彼なりの復活なのだろう。涙が枯れきるほど泣ききって、そうして人より多く背負ってしまった悲しみを洗い流すのだ。当然彼はそんなことは考えていない。これは私自身がなるべく生きやすく過ごすためにこの身にこびりついた処世術的な考えであって、一切の諦めを捨てて今を生ききっているこの人には友人が死んだ悲しみしか頭にない。

 「今日は眠れそう?」

 夫は黙って縦に頭を振る。私は彼の頭を撫でてから軽く抱きしめて、涙の筋を袖で拭ってあげた。私は、大丈夫大丈夫、と言った。彼はまた頭を縦に振った。拭ったばかりだというのにまた涙が流れ出してきた。もう一度袖で拭ってあげた。人差し指でほほに触れた。鬱の下地に不安の化粧をして一人前だというのに、この人の肌は、しっとりして、柔らかくて、とても暖かかった。髭はちゃんと剃っている。

「明日は休んでもいいんだよ」

 夫は頭を横に振った。 夫の頭を撫でてから、私もベッドに入った。やはりさっきと同じ体制でくっついてきた。私も目を閉じた。私の胸には二つの想いがある。この人は私がいなくなってしまったら、どうやって生きていくのだろうという愛おしい心配と、この人は私のためにどれほど泣いてくれるだろうという密かな期待が。

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