源氏〜六条院
目が覚めて、呆然とする。
源氏。
そう呼ばれたのは、初めてではない。そんな気がする。
おかしい。どうかしている。
生きた花の咲く庭、虫の音、鳥の声。小川のせせらぎ。
そんなものは、火星にはない。そんなものを、コウが知っている筈がない。
だったら、どうしてこんな夢を頻繁に見る?
あのディスクに入っていた女性は、誰?
そんなの、ひとりしか思いつかない。顔も覚えていない、写真の一枚、映像ひとつ残されていない。
コウにそっくりな女。名前が「キリカ」なら、それはコウの母親に違いない。
では、夢の中の館でコウを「源氏」と呼ぶのは誰? 母親と同じ顔をして、めちゃくちゃな物語を語るのは。
どうして、母親の物が何も残っていないのか。どうしてコウには幼い頃の記憶がないのか。
今まで、それが普通だと思っていた。それ以上、考えることもなかった。それがどうして今になって、こんなにも不安になるのか。
「コウくん?」
心配そうなユカリの声に、我にかえる。
考え事に沈んでいて、いつの間に学校に来ていたのかも覚えていない。
「悩み事があるなら、相談してみない?」
「私じゃ、頼りにならないかもだけど」と、寂しく笑う、ユカリ。コウは目を伏せ、小さく首を振る。どこから話せば良いのか、実はコウにもよく解らない。
「ユカリ、地球には行った事ある?」
「あるわけないじゃん」
即答した後で、ユカリはもう一度コウの目を覗き込んだ。
「ごめん、地球がどうしたの?」
「夢を、見るんだ」
夢、と。ユカリが呟く。
「庭には花が咲いて、小川が流れていて。夏には蝉が鳴いて、秋になると虫の音だって聞こえる」
ユカリは、答えなかった。
コウの言葉を反芻し、何かを考えている。
「何度もなんども、そんな夢を見る。ばかみたいだろ? そんな場所、火星にあるわけがないのに」
「あるよ」
はじかれたように、コウはユカリを見た。ユカリは笑っていない、ただじっとコウを見つめている。
それは、初めて見る顔だった。
戸惑い、恐れ、不安。そんなものが凝縮された、ユカリの眼。
「あるって、何処に?」
ユカリの豹変と、何より「あるよ」というその言葉にコウは驚いていた。
「何処に?」
繰り返す声が、震える。
「ごめん。よく覚えてない。確か建設中止になったテーマパークのアトラクションの一部だけ公開されるって……招待メールが来て、そこで私は男の子と会った」
ユカリの視線は、コウから離れない。まるで、初めてコウを見たように、じっと見つめている。
「その子ね、アトラクションの案内ロボットと一緒にいたの。だからてっきりその子もロボットだと思いこんでいたの。アトラクションのひとつだって」
アトラクション? ロボット? 真実に近づいたかに見えた何かが、コウの手元からするりとすり抜けたような、妙な空虚感があった。
その間にユカリの指が、コウの手に触れる。つねられた。
「いきなり、何をするんだよ」
「うんうん、生きてるね」
ユカリは、何故かほっとしているように、笑った。
「その子ね、案内ロボットに、ゲンジって呼ばれていた」
「源氏?」
再び、コウが固まる。それは、今朝見た夢の台詞だ。
ユカリまで、夢の住人なのか? 軽く、混乱する。
「コウ君に初めて会った時にね、すごいデジャヴがあって。なんだったかなってずーっと考えていた。でも、コウくんがあの時、あそこに居た子供だったら、繋がらない?」
「繋がる?」
「コウくんと私、ずっと前に一度会った事があるんだよ。あの場所で」
そう言うと、ユカリが少し照れたように目をそむけた。
「なんだよ?」
「なんでもない。ちょっと、嬉しかっただけ。小さい頃のコウくん、可愛かったし。でも、どうして今まで言ってくれなかったの?」
「だから、僕のは夢だって」
夢、ともう一度ユカリが呟く。
そうだ、ユカリにとっては「思い出」かもしれない。だがコウにはそんな記憶はない。コウのそれは「夢」でしかない。
「調べられるかな。その場所。ユカリ、手伝ってくれる?」
コウの言葉に、ユカリは嬉しそうに頷いた。
七年も前のメールを、ユカリは残していなかった。
だが、サーバーには残されている可能性がある。
ユカリ宛てに送信されたメールの記録を呼び出す。これは、かなり面倒な作業だったが、七年ほど前と解っているので数をこなせば先はいずれ見えて来る。
「出た。『貴女を「六条院」に招待します』これだ」
モニターには庭園の静止画が浮かんでいる。その静止画は確かにコウの記憶に残る庭園と酷似していた。
「招待主は?」
「アトラクション案内人、藤壺。そうそう、変な名前だからいたずらかなって思ったんだった」
アトラクションの設計者の名前もそこには表記されている。Y・サオトメ及びK・ワカミヤ。
ユウキ・サオトメはコウの父親の名前だ。ワカミヤは解らないが、Kならキリカの可能性がある。
そう言うと、ユカリが不満そうな目でコウを見た。
「もしかして、最初から自分の両親関係だと思っていた? だったら、叔母さんに聞いたら良かったんじゃないの?」
それは、コウも考えていた。
だが、彼女は「その答えはコウ自身が見つけないと意味がない」と言わなかったか?
そういう事なのだろうと、解釈する。
「そのアトラクション、まだ公開されてるのかな?」
「ちょっと待って」
ユカリが「六条院」に自分の市民IDでアクセスすると、すぐに、『六条院はユカリ・ミソノの来訪を心待ちにしています』というメッセージが出て、来訪日と目的、同行者などの入力画面が続いた。
ユカリに促され、コウもそこに自分の市民IDを入力する。
『六条院は、早乙女 光の来訪を心待ちにしています』
やったと、ユカリが拳を握って小さく叫んだ。
「コウくんって、『光』っ書いてコウだったのね」
火星ではほとんど使われる事がない名前の漢字表記に、ユカリはすこし嬉しげだ。
「僕も初めて知ったんだけど、何で僕だけ漢字表記なんだろう」
「ちなみに私は、御園……ちょっと、コウくん聞いてる?」
勿論、聞いていない。コウは改めて役所に接続しなおし、自分の市民IDで市民データを呼び出した。
KO SAOTOMEの隣に、小さく漢字表記された名前。そこには「早乙女 孝」と書かれていた。
悩んでいても、はじまらない。
コウは叔母さんには「友達と鼠王国」に行くと嘘をついて、シャトル乗り場に行った。
ちなみに鼠王国とはD―4ドームにほど近い小さなドームで、流行のテーマパークのひとつだ。コンセプトは「夢と冒険の世界へようこそ」。ハイスクールに通う学生なら、友達と一泊二泊程度で遊びに行くにはうってつけの場所だった。それこそ、偽物だらけの世界だけど――ここまでやってくれるなら、それもアリかなというのが、コウの感想だ。
だが、今回の本当の行き先はその鼠王国ではない。
いやおうなしに高ぶる興奮の行き着いた先。専用シャトルで到着したそこは、ドームの形をした廃墟に見えた。
開発中止となったテーマパークと言われて、なるほどと思う。作りかけ、壊すにも経費がいるのでそのまま朽ちるに任せた残骸達がそこに残されていた。
そんな中を通り過ぎ、シャトルは発着場に停車する。
発着ゲートをくぐると同時に、かぐわしい香のにおいが鼻をくすぐった。
そして。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
と、迎えてくれたのは和服を着て、後ろ髪を長く垂らした若い女性――いや、よく見れば解る。それは、ロボットだ。
面立ちは、夢に見たあの人そのまま。
「わたくしは案内人の『花散里』と申します。六条院は、ユカリ・ミソノ様、ヒカル・サオトメ様のご来訪を心より歓迎致します」
違う。
「僕は、ヒカルじゃない。コウだ」
言われた女はコウを見て、深く頭を下げた。
「登録にミスがあったようです。ご不快な思いをさせ、たいへん申し訳ありません。早急に訂正致します」
違う。改めて、そう思う。
あの人は、こんな機械的な物言いはしなかった。
これでは、エミリのほうがよほど人間っぽい。そう、考えてコウは苦笑する。
所詮、ロボットなのに。ロボットに何を期待していたのだろう。
「ここの案内人って、前からあなただった? 『花散里』」
コウの落胆を察したように、ユカリが尋ねる。
「以前の案内人は初期化されました。現在は私が案内人です」
あらかじめ、予測された質問に対する答えを選び出し、的確に使用する。ロボットのあるべき姿だ。だったらと、コウもそれに見合う質問を投げかける。
「その以前の案内人の名前も、『花散里』だったのかな?」
「『藤壺』だと、記録されております」
顔色を変えることもなく、『花散里』は答える。では、かつてユカリを招待したのはロボットだったのか? ロボットの一存でそんなことが、出来るのだろうか。
「どうして、『藤壺』は初期化されたの?」
ユカリの質問への答えは、コウが想像した通り「そのデータは残っておりません」だった。
あらかじめ入力された内容以外の事には答えられない。元来ロボットとは、そういうものだ。
エミリや夢で見た――『藤壺』が、特別なのだろう。
「それでは、六条院をご案内いたします。六条院の見所は、流れる水と四季の折々の花の世界です。現在は太陽暦の十月、庭園の萩や桔梗が見頃です。そうそう、こちらでは珍しいフジバカマも生息しておりますので、ぜひ何か珍しい植物がございましたらお尋ね下さい」
『花散里』は優雅に会釈をすると、ゆっくりと歩き出す。
その動きはロボットには思えない――たおやかというのだろうか。それとも、みやびやか?
コウが今までに見たムービーの中にすらない、優雅な仕草だった。
笑う時に着物の袖をそっと口元に当てる、『花散里』。
見えるのは目だけなのに、その仕草で微笑んでいるのが解る。
精巧な、ロボット。そして、彼女が案内するのは、確かに生きている庭。
そこに咲くのは、火星で自生することは有り得ない、本物の花だ。ドーム一個をまかなえるぐらいの地下水が、この建物と庭の為に使われているのだと『花散里』が教えてくれた。
地下水を循環させ、大気を作り、植物を育てる。それだけの可能性がある土地を、「火山帯に近い」という理由で政府は見捨てた。
「おかげで、訪れる人も少なくて。お二人は久し振りの来訪者です。どうぞ、ゆっくりおくつろぎ下さい」
ゆっくりとくつろげと言われても、眠れるわけがない。
布団を通して感じる畳の感触に、コウは意味もなく寝返りを繰り返す。
障子に面する庭から、香の匂いとは違う花の香が漂っていた。
リーンリンと啼くのは、鈴虫だと聞いた。
いや、違う。
虫は啼かない。なぜなら虫には声帯がない。羽を摺り合わせたり腹膜を振るわせたりして、音を出すのだ。だから虫の声じゃなくて虫の音と言うのが正しい。
そんなことを、説明してくれたのも、あの人だったような気がする。
「コウくん、寝た?」
障子ごしの声に、
「起きてるよ」
と、コウが答える。
「入って良い?」
返事を聞くこともせずに、浴衣姿のユカリが部屋に入って来た。
「似合ってるでしょ?」
「まぁ……そうだね」
「どうして、そこで言葉を濁すかなぁ」
むくれるユカリが可愛いからだとは、あえて言わない。
「眠れない?」
言われて、ユカリが素直に頷く。
「あ、でも別に怖いんじゃないよ。ベッドじゃないから、寝付けなくて」
そう言って、ユカリがそっとコウの隣に身体を横たえた。
「ちょっと待てよ」と慌てて布団を出るコウに、
「手を出したら、死刑」
ユカリが言う。
「出すか、馬鹿」
「馬鹿っていう奴が馬鹿なんだよ」
まるで、幼稚園児の問答だ。
布団を取られてしまったので、仕方なくコウは少し離れた場所に座布団を並べて丸くなる。
あの人は、もういない。同じ姿をしていても、『花散里』はコウの思い出に残るその人ではない。
偽物だらけのこの星で、唯一、ほんとうだと思っていた。
それも全部、作り物だった。
歪んだ世界。歪みきった、場所。
そして。
その中心に居る筈だったその人が、いない。
どうして?
彼女が一体、何をしたというのだろう。
「ずっと考えていたんだけど」
コウに背を向けたまま、ユカリが呟く。
「此処が何なのか。知っているのは叔母さんじゃないの?」
「だけど、叔母さんは自分で答えを出せって言ったから」
コウも小さな声で答える。それが言い訳だと解っていたから。
「どうして、それで納得するのよ。小さい頃の記憶がないって、すごく異常な事なんだよ」
少し、怒ったように告げる、ユカリ。
だから。
コウは、その言葉を口にした。やっと、口にすることが出来た。
「僕は、本当に人間なのかな……」
振り返ると、ユカリがコウを睨んでいた。
「当たり前でしょう。お馬鹿」
いつも通りのユカリの反応に安心して、コウは目を閉じた。