金星
あなたをお連れしましょうか、この丘の下の幸せの町に──
少女は俺に問いかけてきた。
質素な白いワンピースを着ていて、艶のないサラサラの髪は肩ほどで切り添えられている。
町娘のような華やかさもスラム街の子供のようなみすぼらしさもない。
それでもおもわず見とれてしまうほど少女は美しかった。
少女は真っ直ぐ手を伸ばして俺の後ろに広がる町を指を指した。
「この丘の下に幸せの町があります。私がここに居るから、みんな幸せ」
少女の後ろには小さな教会が建っている。
「君は神様?」
俺は質問した。
少女が人々の信仰対象であるのだと思ったからだ。
「いいえ、この町の聖女…不幸を受け止める者です」
聖女なのに、不幸?
そういう疑問が顔に表れたのかもしれない。
丘の少女の不幸という伝承を聞いたことがありませんか?と少女は優しく微笑んだ。
それは、こんな伝承だった。
夢を見たような、幻を見たような──
涙がでないのは空が泣くから
怒りが消えるのは遠雷が鳴るから
幸せなのは不幸を受け止める少女がいるから
少女が笑えるのは空に光が瞬くから
楽しいこととか嬉しいこととか、全部変わらずにはいられない
それでも少女は幸せ
少女だけが金星を手に入れられるから
「皆さん、私にとても優しくしてくれます。私が祈りを捧げるほど、町の人たちは幸せを手に入れられて、私に不幸が集まる。町の人たちは祈りを欲し、罪滅ぼしに私に優しくするんです」
身動き一つとらずに、少女は淡々と語る。
「私の祈りは決して魔法ではないから、幸せを願い、祈ることはできても、不幸を受けとることはないんです。でも、自分より可哀想な人がいると思っているから、祈りがあるから皆幸せ…」
ほぼ一息で言い切った後、少女は自嘲気味に微笑んだ。
「幸せなんて、比べられないのに。空に瞬く金星はどうやっても手に入らないのに。それでも皆、幸せを求めて幻想を私に押し付けていく」
そこでやっと顔を上げ、俺のほうを見る。
「すみません。こんな話、旅人さんにはつまらないですよね」
俺はそっと首を振る。
少しでも音をたてると壊れてしまいそうなほど静かな時間の中、俺はもう一度少女に問いかける。
「君は…君は幸せ?」
少女は困ったような顔をして首を振る。
「さあ、どうなんでしょう。いつの時代のどんな人も日常が壊れればいつもそこにあった日常を幸せと呼びます。だから、私が不幸を受け止めなくてもよくなれば、この日々を幸せだったと呼ぶのかもしれませんね」
慣れすぎた明るさに目を眩めないように、当たり前にそこにあるものを幸せと呼ぶ。
少女はそういった。
俺は黙って背負っていた帆布のリュックからいくつかの石を取り出した。
黒くてゴツゴツしたものやくすんだ黄色や緑の半透明のもの、角のとれた艶ややかな紅色や藍色がかった灰色のもの。
それらを少女の前にざらざらと置いていく。
「俺は、いろんな街を旅してきたけれど、どんな人でもどんなものでも手にいれることができると思ってるんだ」
取り出した石の中から金色の粒が混ざった小さな欠片を指差す。
「これはあの山の向こうの川で探したんだ。金粒の欠片が岩に入っているらしい。」また別の石へ手を伸ばし、少し大きな藍色の塊を手の中で転がす。
「こっちはこの町から十日ほど馬車に揺られた先の大きな街の市場で見つけたんだ。炭鉱の中でまれに見つかるらしい」
「なぜ…なぜ石を集めているのですか?」
少女はポツリと呟いた。
「俺の師匠は旅する宝石商だったんだ。もう引退してアクセサリー工房にいるから、俺が宝石を集めているんだよ」
今度は黒く艶々と光る小さな欠片を麻袋から取り出し、少女に渡す。
「これは…?」
「金星だ」
少女は顔を上げた。
瞳は丸く、こちらを見つめている。
「遥か昔、落ちてきた金星の欠片だ。君にあげる」
初めて、自分で取引した石だ。
けれども、少女に最もふさわしい石だ。
強くて固い、飛来の熱にも衝撃にも耐えた空の上で輝く石。
「金星…」
少女は一度うつむき、再び顔をあげる。
その目には雫がたまり、今にも溢れそうだ。
「私が諦めていただけで…この特別な星を私はいただけません。これは、あなたの大切なものでしょう?」
ポトリと水滴が地面を濡らす。
「いや、君に貰ってほしい。それに、君は諦めていなかった。本当に諦めていたなら伝承なんていうお伽噺話を口にしない。そうだろう?」
少女は濡れた目をぬぐい、口を開く。
「ありがとうございます。いつかきっと、私も自分の力で金星を手にいれます。そうしたら、あなたに幸せだと胸を張って言えるから」
少女の頬は濡れていた。
しかし、口元には笑みがこぼれていた。
随分昔に書いたので拙いかもしれませんが、楽しんでいただけたら嬉しいです