リレー ⑬ 天界音楽
ちとせは走っていた。
急に現れたゾンビたちに襲われ、何もわからないまま、こぼれる涙を拭いながら走っていた。
(タケルさん……!)
泣きわめきたい気持ちを無理やりに抑え込む。ここで大きな声を上げてしまい、ゾンビたちを刺激するようなことになってしまっては、体を張って彼女を逃してくれたタケルの勇気と犠牲を無駄にしてしまうと思ったからだ。
あのとき、せめてキイチか鳥船といった男性陣があの場にいてくれたら、ゾンビを撃退とまではいかずとも、タケル一人を置いていくことにはならなかったはず。
今からでも二人が見つかればあるいは……そう思っても、この状態では助けも呼べない。
――間ニ合ワナイカモシレナイ
だからといって、ちとせに「戻る」という選択肢はなかった。
思い出すだけで体が震える。
あの、動く屍人たちの鼻を刺す腐臭。あれはクサいとかそういう段階ではない。まさしく刺すという比喩が正しい。嗅ぐという行為なしに、胃が勝手にひっくり返って中身を吐き出すほどの刺激臭。
それに加えて、腐った肉の立てる粘着質なあのいやらしい音!
糸を引く肉、ボタボタと床に落ちる垂れ流しの粘液、空っぽな眼窩。それに何より、命が喪われたモノが動いているという恐怖……。
罪悪感に潰されそうになりながらも、出口を、そしていなくなったキイチや鳥船を探すちとせ。辺りの壁にはヒビ割れが走り、床には剥がれ落ちた壁材といくつもの大きな瓦礫が散乱して、道を複雑にしている。懐中電灯を巡らせた先にぼうっと見えた薄汚れた裸足の少女に、ちとせは悲鳴を飲み込んだ。
「あ、あなた……」
ボロボロの、もとは白だったワンピースに身を包んだ少女の亡霊は、物言わずただ立っているだけだった。この奇妙な館の鍵を持っていて、中に入れてくれたことから考えても、ちとせには彼女に害意はないと思われた。
「ね、ねぇ、あなた。どうやったら外に出られるか知ってる? 教えてくれないかな?」
ちとせはぎこちない笑顔を作りながら少女に一歩近づいた。子どもは苦手なのだ。それに、同性も苦手だ。昔から女の子や年上の女性には、一方的に嫌われてきた。本当に親しい友人ができた試しもない。
少女は答えなかった。
ちとせは少し落胆しながらも仕方がないかと思い苦笑する。
だが突然、少女がすごい勢いでちとせの方へ踏み出してきた。完全に顔を覆い隠していた長い黒髪が割れ、少女の目鼻が一瞬あらわになる。ちとせは見てしまった、少女のひび割れ引き攣れた口許を。
「ひっ! ちょ、やだっ!」
突き飛ばそうとした手はすり抜けた。幽霊だから実体がないのだと気づいたときには、少女はもう、ちとせの中に入っていた。
「うあ…………」
少女の記憶が流れ込んでくる。英国人の父、日本人の母、彼女――杏樹のために建てられた洋館、迫害…………そして、怪物を鎮めるための生贄。
この村はこの辺り一帯の土地神を鎮めるために、ある一定の期間ごとに乙女を生贄に捧げてきた。よその土地からやってきて、他に親類のいない杏樹たちの家族は、村にとって都合が良かったのだ。
礼拝のための小部屋に立てこもっていた杏樹ら家族を、村の人々は引きずり出し、杏樹の目の前で父母を打ち殺した。そして、杏樹は地底湖に身を捧げられたのだった。
だが、誰の祈りによってか、杏樹の魂だけは守られた。
杏樹ら家族の死後、土地も財産も書類を偽造されて村の有力者に取り上げられてしまった。あの洋館も、ここら一体のリゾート開発の一環として改装されてショッピングモールになってしまったが、それでも杏樹にとっては思い出の我が家だ。魂だけになった杏樹は、当然のように洋館へと戻った。そこはなぜか、土地神の手の届かない場所であったから。
しかし、土地神は杏樹を諦めず、彼女を捕らえるために手下を送り込んできた。杏樹は館をどんどん作り変えていき、手下たちを迷わせ、今までその手から逃れてきたのだった。
「土地神……生贄……? そんな、昔の映画じゃあるまいし……」
「いええ」
「え?」
いつの間にか少女はまた、ちとせの前に立っていた。
声をかける前と同じように。
「いええ!」
「あなた、最初に会ったときもそう言ってた……もしかして、逃げて、って言いたいの……?」
コクンと頷く少女。
彼女が見せてくれた情報が正しければ、杏樹の作り上げてきたこの奇妙な造形の館が壊れかけている今、安全な場所はどこにもないことになる。それは、「ここなら大丈夫だから」と言われていた暖炉の部屋にゾンビたちがなだれ込んできたことからも予想できる。
かと言って、いったいどこへ逃げろと言うのか……。
戸惑うちとせに、杏樹は鍵を掲げてみせた。それは、彼女がちとせたちをこの館に招き入れたときに使っていたものだ。これがあれば、元の廃村に戻れるのかもしれない。
「待って、それじゃ、タケルさんたちはどうなるの?」
「…………」
「そんな……」
ちとせの心臓は冷たくなった。
だが、ここから逃れるためには、これしか方法がない……。
ちとせは鍵に手を伸ばした。
そのとき、ビシリという音と共にちとせの足元が抜けた。
「あっ」
カクンと膝が笑い、次の瞬間には落下していた。深い深い闇の底へと。
「いやぁあああああああああ!」
ちとせの悲鳴が長く響き渡った。




