カシブの穴
暗黒の熱波が到来しようとしていた。それは柏布の存在の数センチ先まで迫っていると言えた。
柏布は少年時代からのスポーツで鍛えてきた逞しい二本の腕で顔を庇い、逞しい二本の足で地面をしっかりと踏みしめて自分の存在をそこに維持しようと努めた。
しかし暗黒の熱波の力はそんな抗い等、まるで微小なる虫の生存本能を指一つで押し潰す人間の無感覚な行為を連想させるほどにあっさりと打ち破った。
まず初めに愛する人々の幾人かが柏布の前から唐突に去っていった。それは柏布からの一方的な愛であった。勿論恋愛感情ではない。友情でも家族愛でもない。どちらかといえば、同族意識と言った方が近いかもしれない。そんな類の愛である。しかしそんな人々はある日、何の前触れもなく去っていった。柏布は置き去りにされた。その胸に、まだそんな人々への愛を抱えたままの状態で、唐突に置き去りにされた。
次に一つの果実が柏布の前で地面に落下し、砕けた。内に秘めていた甘き果汁を四散させてそれは粉々に砕け散った。残ったのは柏布のズボンの裾に飛び散った果汁の数滴のみである。柏布はいまだにその果実の味を忘れることが出来ない。しかし果実の死は、それを忘れなくてはならないことを彼に告げていた。
最後に柏布の信じていたあるモノが唐突に色を失った。非常用シャッターを下ろされた災害時のビルの通路のように、目の前に見えていたものが見えなくなった。色を失うとは、透明になるのとは決して同義と言えない。むしろ極めて黒寄りの紫に染まったと言えるかもしれない。柏布には分からないのだが。
このようにして、彼の前から最も大事な三つの要素がある時、突然にして失われた。それは柏布を絶望的な気持ちにさせた。勿論、希望を失わないように努めた。しかしその力はあまりにも無力で、柏布にはそれを成し遂げることが出来なかった。
柏布は暗黒の熱波に呑み込まれた。熱波とはいえ、それは温度を伴ってはいない。寒波と言ったって、差し支えは無い。とにかく大事なのは、それが彼を呑み込んで、これまで居た位置から遥か遠く、深遠に移動させてしまったという事だ。
柏布は自らを失い、それに抵抗しようとはしなかった。今はその方がむしろ心地いいとさえ感じていた。そうしておけば、最低限苦しまずに済むと思っていたからだ。しかし本当にそうなのかは、誰にも分からない。
しかしある時から柏布の前に……柏布の居るその場所に、数日に一度の感覚で穴がひとつ通り過ぎることになった。その穴は突然姿を現し、F1マシンのように超高速で小さくなっていく。音は無かった。静寂のままに一瞬だ。柏布は始め、その穴を動物園の動物を見るような感覚で眺めていた。
ところがある時から急に、自分はその穴を捕まえなくてはならないということに思い至り始めた。それは理屈で考えて導き出した答えなどではなく、もっと自分というモノの内側、最も深い内側から、滲みだす液体のように自然とわき起こった衝動のようなものだった。
では何故柏布はその穴を捕えなくてはならないのか?
おそらく、それは柏布が今後も柏布足り得るために必要な事なのだ。誰が決めた訳でもないがそういうことなのだ。柏布はそう思った。だからひたすらに穴が現れてはその速度を見極めようと必死に見つめた。
穴はとてつもなく早かった。一瞬間である。
柏布はもう長い事立ち上がることをしていなかったので、その穴を捕えることは想像を絶するほど困難な事であった。しかしそれを為さねばならない。でなくては柏布の場所は終わってしまう。
柏布は失くしたものを心にもう一度甦らせようと試みた。出来る気もした。不可能な事のようにも思えた。吐き気を覚えた。不快感からではなく、途方も無さからくるものであった。
気が付けば柏布の手足は失われていた。しかしそこには新たな手足が生まれていた。
柏布の心は失われていた。しかしそこには新たな心が生まれていた。
しかし柏布は柏布でしかなかった。今でも昔の柏布のままであった。柏布はそれをずっと昔から理解していた。
涙を流したかった。叫び狂いたかった。真相というものが存在するのなら、それを知りたかった。
しかし彼はそれを捨てなくてはならなかった。
その時の柏布の居る場所は、それまでの静寂な美しい場所ではなく、渦を巻く異様な形の、そこに居続けるだけで深い底に引きずり込まれてしまうような困難な場所となっていた。
柏布は足を取られながら必死の思いで歩き始めた。
穴がやってきた。
柏布は膝を曲げた。
穴は近づいてきた。
柏布は跳んだ。
穴が目の前に来たのと、柏布が前方へ跳躍したのと、タイミングは完壁だった。
柏布は穴に飛び込んだ。
柏布の目は二つの状況を捉えた。
穴の先は塞がれていた。
穴の先は別の場所に通じていた。
どちらを信じるでもなく、柏布はそこに存在した。
そして、柏布は穴の中を進んだ。