あの日食べた卵焼きの隠し味を俺はまだ知らない
──時は満ちた……
今日は始業式。
不登校明けの俺からしたら約9ヶ月ぶりの学校だ。
当然この制服に腕を通すのも9ヶ月ぶり。
「なんかドキドキすんな」
俺はちょっとテンションを上げながら階段を下り、既に家族全員が揃ったテーブルに着席する。
春野家の朝はそこそこ早い。
「おはよー」
「ああ」
「おはよう。翔太」
俺に挨拶を返してくれるのは親父と母さん。姉貴はこっちを見向きもしない。まぁいいんだけどね。
俺は既に朝食を食べ始めている姉貴の横で両手を合わせる。
「いただきます」
──〇〇〇〇──
「おい、翔太、未来、すみれ、大事な話がある」
「どうしたの?そんな改まっちゃって」
俺が朝食を食べ始めて少し経った頃、親父は俺と姉貴と母さんに真剣な眼差しを向けて口を開いた。
親父がこんな真面目な顔をするのも珍しい。母さんの疑問にも納得だ。
「あんなぁ、うちな、ほんま、いいにくいんやけどぉ」
「キメェから普通に喋れクソジジイが!」
姉は親にでもキレる。
多分、両親に対する敬意のようなものは一切ないのだと思う。親父は姉貴に頭が上がらないし、母さんは何故か何も言わない。
こんな怪獣みたいな女が社会に解き放たれると考えるだけで俺は日本の未来が心配で仕方ない。
俺は、例えどんな親でも敬うべきだと思うのだ。
「ごほん。実はな、お父さんの会社が御倒産しちゃったんだ」
「……」
おやおや、姉さんのこれからについて考察していたせいで変な聞き間違いをしてしまったようだ。
もしくは、俺はきっとまだ寝起きで寝ぼけているのかもしれないな。
「翔太聞いてたか?お父さんの会社がー」
うん。そうに違いない。
やっぱりまだ寝ぼけてる。
「もういっか──」
そうだ、絶対そうなのだ。勘違いだ。
どこかのケーキ屋さんのマスコットキャラクターの如く可愛げな舌出しウィンクをキメる父親がそんな重い話をしているわけない。
俺は目の前の現実から目を逸らし、耳を塞ぎ己の世界に閉じこもる。
それでも親父の話は続き──
「会社の復帰どころか、借金返済もきっと難しいだろう。だが一つだけ俺たち家族が生き残る方法がある。それに協力してもらいたい」
全く急に何を言い出すんだ、この人は。
しかも1人で勝手に会社のことは割り切って話を進めようとしている。
俺はちらっと姉貴を見る。全くの無表情だ。
「で、それって?」
「うむ。よく聞いてくれた、それはつまり家族を1人減らすことだ」
家族を1人減らす……?それって……!!!
「つまり、私を殺すってわけ?」
「俺を殺すと?」
「あなた、もしかして私を?」
「いや、スミレ。お前はこいつらの母親である以前に俺の女だ。何があっても手放しやしないさ」
クソ親父の誇らしげな顔を横に母さんはほんのりと頬を赤らめる。
「ちっ」
この状況には流石の俺も舌打ちが出た。
「お前ら、ジャンケンで負けた方は異世界で金を稼いでこい」
「「……は?」」
なんだ?異世界って?関西か?それとも海外のことか?
「とにかくだ、まずはお前らさっさとジャンケンしろ。話はその後だ。出さなきゃ負けよ〜」
「「「ジャンケンポン」」」
……負けた!!!
急かされてついつい繰り出してしまった俺の手はハサミを模していて、姉さんの右手は固く握られていた。
姉さんはいつもグーしか出さない。負けたら直ぐに俺を殴るためだ。
だから俺はパーを出せばよかったのだ。けれど俺の右手は姉さんの鋭いプレッシャーに打ち勝てなかったようだ。
こういうのって理屈じゃないんだよな。本能が屈してるというか、恐怖心に縛られているというか……。
「てか、ふざけんな、異世界ってなんだよ!」
今更だよ!
令和だよ!
今頃異世界なんかに行ったってどこも日本人に革命された後だって!
異世界は平成のうちに平和になったって!
魔王ももう一人も残ってないよ!
俺が行っても盗賊に殺されるモブキャラにしかなれないって!誰かのチュートリアルキャラで精一杯だって!
みんながゴールしてるのに全力で走らなきゃいけないリレーのアンカーの気持ちになる。
もしこの世界に20代の魔法少女が居たら仲良く慣れただろうか。
しかし俺の気持ちは汲み取られることなく、しばらくして床に倒れて駄々を捏ねる俺の身体は見たこともないような光に包まれた。
待って?これあかんやつや。
まじで飛んじゃうやつだ!
初めてスペースマウンテンに乗った時と同じハラハラ感が胸を刺激する。
あれ、乗るまでの非常用出口が多過ぎて初見の時はかなり勇気がいるんだよなぁ。
いや、そんなこと考えてる場合じゃない!
まじで! ほんと無理! ほんと無理だって。
頼むからさ、言うこと聞くから!
「執拗い!さっさと支度しろよ」
姉貴は随分と余裕そうだな。こっちはビビって今にも漏らしそうだってのに。
いや、これは姉さんが現在進行形でしてる電気アンマのせいか。
「じゃあなー! たんまり稼いでこいよ!」
「行ってしまうのね、およよ」
「私はお前が弟でよかった。ジャンケンの最初はチョキしか出さないアホで」
クソッタレ覚えてろよ!誰がお前らみたいな家族を敬えるってんだ!
次第に俺の身体は光に飲まれるように溶けていく。
「我が息子よ、当分はお前の保険金でどうにかなるだろう。向こうで宝石かなんかでも集めて来てくれ、ちゃんと換金できそうなものな!」
「あああぁぁ!ちくしょう!」
俺は急いで部屋に戻って手当り次第に使えそうな物をカバンに詰める。
ヤバい消えちゃう、消えちゃう!!!
少しずつ俺を呑んでいく光に焦りながら俺は靴を履いて外へ飛び出す。
とりあえず走れ!走れ!全力だ!
「じゃんけんに負けて異世界とかやってられっか!」
ただひたすらに、がむしゃらに走り──あった!これだ!
俺はトラックの前に飛び出すと……
スワァ……俺は完全に光に包まれ、天高く登って行った。
──〇〇〇〇──
気圧の変化に耐えられなかったためか、どうやら俺は気絶していたらしい。
目を覚ますと体の至る所が冷たい。が、一応動く。
よかった、凍死はしてないみたいだな。
俺はなんとかトラックに轢かれることに成功したらしい。そう、俺はトラックに轢かれてこの世界にやって来たのだ!
決してじゃんけんに負けて来たわけではない。
あ?なに?お前とトラックの間には100mほど距離があったじゃないか!だって?
いいんだよ。俺の視界にトラックが入ったんだ。後は編集長がどうにかしてくれる。
ほら、異世界ものの小説とかってコミックになっても轢かれてぐちゃぐちゃになる描写自体はないだろ?
つまり大事なのはトラックがそこにあったという事実だけなんだよ。
はい、論破ー!
「……」
ともかく、俺は自分の状態を確認する。
「特に異常は……いや、ある」
先程から異様な臭いが鼻につくのだ。
「漏らしたか?いや──大丈夫だ」
俺は中2の頃の記憶と今の俺の状態が違うことからそう結論付ける。
「じゃあ、この臭いは……」
はっと、周りを見渡すと……その時にはもう手遅れ。
「ウェっ」
俺は感想も抱くことなく真っ先に胃の中身をぶちまけた。
見渡す限り一面が死体の山。
ここは……戦場だった。