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泣きたいとき私は



 黙って見ていろ、という事なのだろうか。

 ともかく、あたしはその光景を見ていた。


 別に、こんなの日常茶飯事だ。

 いちいち気にするようなことでもない。


 あたしは頬杖をついてスコーンに噛み付く。


「本当に鈍臭い娘だねェッ!」


 あー、女将さんが出てきた。


 かと、思いきや、倒れ込むウェイトレスの少女の胸倉を掴み、無理やり立たせると思い切り右頬にビンタをする。


「うわぁ〜痛そー」


 一瞬、意識が飛びかけたのだろう。

 ガクリと膝の折れた少女が、胸倉を掴む手だけに支えられる形になり、ブチブチとボタンがちぎれ飛ぶ。


「ったく、何やってんだい! 制服が破けちゃったじゃないのさ! アンタとこの制服、どっちの方が価値があるか、わかってるんだろうね!」


「すみません」


 ウェイトレスの少女は謝ることしかできない。

 この世界じゃ、人の命が布切れより軽いなんてザラだ。

 特に非戦闘職の女奴隷なんて犬にも劣る。


 ちらりと横目で見た先では、翔太が深刻そうな顔でその光景を見ていたが、あたしの視線に気づいたのか、こっちを向き直してフォークを握った。


「悪い、余所見してたわ」


 気丈に振舞ってはいるが、女将の怒鳴り声が聞こえる度に翔太はピクリと反応しているのがわかる。


「助けてあげないの?」


「助ける? なんで?」


 翔太はあたしの言っている事がよくわからないフリをした。なんで? って。助けたそうな顔してるから聞いたに決まってるじゃんか。


「空気悪ぃし、別の店に移るか。ルー、食べるの少し急いでもらっていいか?」


 翔太は何でもない事のように笑うと、ルーちゃんの頭をひと撫でする。


『あんたの親がどうしてもって言うから買ってやったってのに、これっぽっちも使えやしない! 売っぱらっちまってもいいんだよ!?』


『すみません……女将さん』


『さっきからそれしか言えないのかい!? もうすぐ18になるってのに、給仕すらまともにできやしない!』


 また感情に任せて、暴力を降り始める女将。


 うるせぇなぁ、あのおばさん。


 そんなことを思っていると、ルーちゃんが口を開いた。


「あの人、泣かない。酷いこと言われてる。痛いことされてる。なのに笑ってる」


 それがあの少女の処世術なのだろう。

 こうなるのは今日が初めてじゃないの事くらい見ててわかる。何度も殴られ、怒鳴られ、彼女が己を守るために見つけた道なのではないだろうか。指図め弱者の逃げ道ってやつだ。


「……ルーはきっと、涙が出る。怖くて、悲しくて、ここが痛くなる」


 そう言いながら、己の胸元をきゅっと掴む。


 確かこの子も学校で似たような経験をしたんだっけ。

 だから今日は学校をサボってきたんだとか何だとかって、さっき言ってた気がする。


「お姉さんはどうすればいいと思いますか?」


 どうすればいい、か。

 随分と難しい質問が飛んできたなぁ。


 あたしには嫌なことを全部捩じ伏せるだけの力があった。

 だから正直、この手の経験はあまりない。


 うーん、とあたしが頭を捻っている間にも、向こうでは揉め事は加熱していく。


『女将さん、その辺にしてやれよ』


 足を掛けたのだろう冒険者の男がニタニタと笑いながらそんなことを言う。


『はんっ。アンタも馬鹿なことしてないで、飯食ったらさっさと出ていきな!』


『おいおい、分かってて殴ってたのかよ。恐ろしいねぇ』


『グズなこの子が悪いんだよ』


『へっ。そうかよ。んじゃあ、俺は仲直りするために今晩辺りにでも借りちまおうか』


『馬鹿言ってんじゃないよ! 生娘かどうかで売った時の値段も倍近く変わるんだ! それとも、金貨三枚であんたが買うかい?』


 買うわけないよなぁ。

 金貨三枚もあればもっといい買い物ができる。

 それがわかってるから、女将も強気に吹っかけているのだろう。売れたら売れたで新しい娘を補充すればいいのだから。

 


「あの、子供がいるんで、そういう話を大声でするの、やめて貰えませんか?」


 翔太は顔を腫らしたウェイトレス達の方へ近づきながら、そう口にした。


 いつの間に……。てか、結局口挟んでるし。


「女将さんもです。せっかく美味しいケーキ作るのに、雰囲気がこれじゃ、楽しめませんよ」


「はっ。子供が口出しするんじゃないよ。文句があるならさっさと出ていきな」


「わかりました。残念です。──あんたも痛み誤魔化して笑ってんじゃねぇよ」


 翔太はウェイトレスの頬に手を添えて回復魔法を掛け始めた。


 へぇ、翔太って回復系の職業に就いてたんだ。


「……お兄さんは自分を弱いって、いつも言うんです」


 ルーちゃんがポツリと言葉を零す。


「そうだね。彼、ヒーラーみたいだし、あの冒険者と喧嘩にでもなったら勝ち目はないと思う」


 まぁ、あたしの所属するギルドには自分より強い僧侶がいるけど……。


「そうじゃありません。お兄さんは、見て見ぬふりができないんです。自分はどれだけ傷ついても平気なのに、誰かが傷付くと、同じくらい自分も傷付くんです」


 ああ、心の話ね。

 はて、でもそれは弱さなのだろうか。

 あたしにはよくわからない。

 誰かの為に一緒に傷付けることは、別に悪いことじゃないと思うけどな。


「むしろ、それは優しさなんじゃないの?」


 あたしの問に、ルーちゃんは初めて子供らしい笑顔を浮かべる。


「私もそう思います。私だってお兄さんの弱さに救われた一人ですから。──けど、優しさではないんだそうです。今みたいに、飛び出して行ったのも、全部、自分が傷つきたくないための行動だから──」


 ふーん。

 あたしにはイマイチ違いがわかんない。

 別に自分のためでも、結果としてそれが誰かのためになっているのなら、それでいいのではないだろうか。


 それとも、偽善者と呼ばれるのが嫌なのか。



「私が泣くと、お兄さんも悲しくなる。お兄さんは(やさし)いから」


 ……確かに見ず知らずの人相手にさえ心を痛められるなら、身内相手に過保護になるのも頷ける、か。


「学校で意地悪されると涙が出るけど、お兄さんがぎゅってしてくれるから、私は頑張れる。けど、その度にお兄さんが悲しくなるのはイヤ。……だから、私は学校に行きたくない」


 愛されてるんだなぁ、翔太って。

 ただの変態ってわけじゃないみたい。


「一緒に傷付いてくれる人がいるのはね、とても大きな財産なんだよ。だけど、もしそれがルーちゃんにとって嫌なことなら、ルーちゃんはお兄さんを守れるくらい強くなればいい」


「強く?」


「そう。友達の意地悪に負けない強い心を手に入れるのでも良いし、友達を蹴散らすのでも良い」


「暴力は、あいつらより得意。……意地悪言うあいつらは力で黙らせればいいの?」


 ひどく真剣な眼差しでルーちゃんはあたしの言葉に耳を傾ける。


「そう。それでいい。ぶん殴って解決。あたしもずっとそうしてきた」


 いたいけな子供相手には不要な知識だと、翔太は怒るかもしれない。


「けど、この世は弱肉強食。弱けりゃ餌だからね。そこのウェイトレスさん見ててわかるでしょ?」


 殺られる前に殺れ。

 これほど簡潔で、わかりやすい言葉はない。


 イジメだかケンカだか知らないけど、言葉を丸めただけでやってることは犯罪だ。


 そんなん正当防衛の適応内でしょ?

 学校のことは、よくわかんないけど。


「でも、私が人を傷付けたって知ったら、お兄さんは私を軽蔑しない?」


「どうだろうね。もしかしたら、怒るかもしれないね。けど、大丈夫。そんなことで嫌われたりなんか絶対にしないし、もっと大きな揉め事になったとしても、きっと彼はルーちゃんの味方だよ」


 翔太とはまだ何度かしか会ったことがないけれど、二人を見てればそれくらいは何となくわかる。



「まぁ、どうなるにせよ、それで余計な傷を負っちゃ、意味がないけどね!!!」


 あたしは素早く腰を浮かした。


 向こうでは、機嫌の悪くなった冒険者が治療中の翔太に対して武器を振り上げたからだ。

 

 あの攻撃を受け止めるのに、回復職の翔太ではどう見ても力不足だ。


 けど、黒の方舟が運営する冒険者ギルドで鍛えたあたしにとっては、あんなの敵じゃない。


「翔太、危な──」




「座れよ、おっさん」


 ──ゾワッ


 突如全身を駆け抜けた悪寒。


 な、何これ……


 手が震え、足がガクガクと揺れ出す。


 ──ガチガチガチガチ


 意志とは関係なしに歯を鳴らす口は、既にカラカラに乾いている。


 理由はすぐにわかった。

 翔太の放った殺気だ。


 この店でルーちゃん以外の人間は全て、その殺気に呑まれ身動きを取れなくなっている。


 こんな命の危機、今まで感じたことがない。


 内蔵を全て鷲掴みにされたような苦しさ。

 呼吸すらままならない。


 殺気をもろに浴びた冒険者の男は泡を吹いて倒れている。


「ねぇ、女将さん。この子、俺に売ってよ」


 強く低い声。口調も敬語ではなくなっている。


 翔太はポケットから金貨を何枚か取り出すと、女将さんに突き出した。


 恐る恐る両手を差し出した女将の手には少なくとも10枚以上の金貨が乗っている。


「これだけあれば、この子よりも優秀な子、買えるよね? 暴力も暴言も、無くなるよね?」


「……あっ、ああ。そうだね」


 絞り出すような声に、翔太は満足そうに頷いた。


「ありがとう。じゃあ、この子は俺が貰うね」


 そう言ってウェイトレスの手をとり、こちらへと戻ってくる。


「これが私のお兄さんです。……見蕩れてるんですか?」


 見蕩れる?

 冗談はよして欲しい。こんなバケモノから視線を外すのが恐いだけだ。


「悪いな、ルー。次は花の庭園でも見に行こうか」


 翔太はルーちゃんの頭を撫でてから、席を立たせる。


 本当に、本当に、良かった。この人に人間の心が宿ってて。じゃなきゃ今頃この国は──


「ねぇ、あんた一体何者なの……?」


「別に何者でもねぇよ。俺は春野翔太。黒き船の操縦士さ」


「おぉ〜」


 ルーちゃんの拍手する音だけが、ぺちぺちと静かな店に響いた。



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