黒ウサギの疾走と女王の標的
重く湿った黒い雲が空にひしめき、今にも泣きそうだ。そんな曇天に焦りながら、赤い少年兵は走る。彼が担った役目は速報を女王に伝えること。
その情報が綴られた文が濡れれば、どうなることか。いや、濡れるばかりか報せが少しでも遅れればそれは速報ではなくなってしまう。
自分の首のため、兵は疾走る。
ハート王国のクリムゾン・ローズ王宮、女王の間。扉は豪奢としか言いようがない。随分金をつぎ込んだのだろう、金箔や銀の装飾が目立つ。縁には、ルビーやダイヤモンドを初めとした様々な宝石が散らばっていた。絨毯はきっと高級な毛皮だ。
だからだろうか。威圧感が隠すことなく女王を含める来訪者を。
そんなそれを、脂汗を浮かべながら力一杯叩く者がいた。
「静まれ、何用か」
騒がしく鳴るノックの音を、静かに冷ややかな声が制止する。
その声は紛れもなく女王で、扉を叩いていた兵は慌てて手を止め、用件をはなそうと口を開く。
「じょ、女王よ!私めは報せを持ち、白の者の命により参じました限りであります!」
「ふむ、入る事を許可しよう。入って参れ」
豪奢な扉が重々しく開かれる。眩い光が幻覚で見えるほどの豪華な女王の間が現れる。束の間、兵は呼吸をするのを忘れていた。
「報せを申せ」
女王に話しかけられて、息が吹き返す。慌てて女王の前に跪き、文の内容を読み上げる。
「今朝、星の森にて空間の歪みを確認。異界からの生物の侵入を認めた」
「はて、なにが妾の国へ来たのだ?」
「我らが国に、降り立った生物はヒト。名は……あの『アリス』にございます」
『アリス』という単語に反応した女王は、口の端を歪めてくくっ、と笑った。
「かつて、妾にはむかった輩じゃな。あの憎たらしい顔が目に浮かぶわ」
懐かしそうに目を細める女王の瞳には、炎が宿っていた。
それが何を示すか?それは愚問である。
「後に、『アリス』は世立のローズクイーン学園に入学するようです。以上、白の者より報せでした」
「真か。であれば奴は余程の阿呆だと言えるのう」
笑みを深くしてさも愉快そうに女王は声をあげて笑った。その様子に、兵は恐々とするしかなかった。
「妾が直接管理している学園に入ろうとは、間抜けなものよなあ。有守」
ほんの小声で、誰にも聞かれぬように呟く。女王は笑いをおさめ、キリっとした表情を表に出す。自分の部下には、ちゃんとした姿を見せねばな。
「少年。名をなんと言う」
「私、ですか……?」
「その他に誰がおろう?」
「わ、私は……ブレイン。ブレイン・ブラックと申します」
そう、黒いウサギ耳と尾を持った少年兵、ブレインは恭しく頭を垂れたあと、女王の命によりこの部屋から立ち去った。
「女王よ、お時間でございます」
扉の向こう側から声がかかる。
「うむ、今行く。すこし待っておれ」
机においてある巻物に、『ブレイン・ブラック』という名と『アリス・イスフィール』という名を列ね、満足げに笑ってから、女王の間を後にした。