姫騎士と箱の中身
夜の湖のほとり。直人は電動ポンプを使って、湖から水をくみ上げている。
キャンピングカーの吸水口と湖をつなぐポンプは、盛大なモーター音を鳴り響かせながら、シャワーで消費した水を補充していく。
また一つ、キャンピングカーの機能が問題なく作動したのを確認して、顔がほころぶ直人。
不意に風が吹いて、湖畔に草波を起こした。未だ半袖の直人は冷たい風に身震いした。
「中に戻ってこたつにでも入ろっと」
「くぅーん」
きびすを返した直人、ふと、足元から子犬の鳴き声が聞こえてきた。
いつ部屋から出てきたのか、子犬は彼の足元にいた。
小さな体をフルに使って、直人の足に押しつけてくる。
「おーわんこ、みかん箱はいいのか?」
直人はそういってしゃがみ込んで、子犬の頬を軽く押し返してやった。
すると子犬もそれにお返しとばかりに、体全体を使って押し返してくる。
しっぽをヒュンヒュンと、風きり音が聞こえてきそうなくらい盛大に振っている。よほど上機嫌なのだろうと、直人にまでうれしさが伝わってきた。
「ワン! ワン!」
「あはは、何言ってるのかわからないぞ。せっかくの異世界なんだからお前もしゃべれればいいのに。なあわんこ、お前なまえはなんていうんだ」
「くぅーん?」
体を押しつけるのをやめて、しかししっぽは振ったまま、小首をかしげる子犬。
「やっぱりだめか。まっ、そこまで都合よくいかないわな」
直人は笑って、更に子犬とじゃれ合った。手の平を出すとペロペロとなめてきて、手をあげるとそれを追いかけてぴょんぴょんと跳びはねた。
「かわいいなあ。そういえば犬を飼いたいなって思ってたんだよな」
つぶやくようにいい、またしゃがんで、子犬に視線の高さを合わせた。
「なあわんこ、ここ、気に入ってくれたか?」
「くぅーん?」
子犬は首をかしげ、不思議そうな顔で見上げてくる。
「ここここ」
直人はキャンピングカーの後ろに回り、ドアを開けて、縁側を開放した。
夕方、子犬が姫騎士を骨抜きにした舞台だ。
そこに子犬がポテポテと走ってきて、そろそろ慣れてきた、と思わせる感じで縁側によじ登った。
そこで犬座りして、直人を見上げる。
「ワン!」
「おーそうか、気に入ってくれたか」
「ワンワン!」
「縁側にするって決めた時から犬か猫かで悩んでたけど、うん、決まりだな」
上機嫌に独りごちる直人。この縁側をオーダーメイドした時から、彼はそこに犬か猫がいるという事をイメージしている。
室内のようで、屋外のような不思議なスペース、日本の心であるといっても過言ではない、縁側と言う空間。
そこにいるべきなのは和風の犬種や猫種でなければならないと思っていた。
その分、柴犬にみえるこの子犬ならなんの問題もない。むしろ最適だ。
「これも縁だよな」
子犬とじゃれ合いながら、そんな事をつぶやいた。
そんな風に微笑んでいると、ポンプのモーター音の中でもよく通る、キュルキュルな音が聞こえてきた。
分かりやすい腹の音だが、直人のものではない。
下を見ると、切なそうな顔で見上げてくる子犬と目が合った。
「あはは、腹減ったのか。ちょっと待ってな」
頭をポンポン撫でてやってから、直人は縁側から六畳間に入って、キッチンスペースにある冷蔵庫を開いた。そこに入っているパックの牛乳を取り出して、まずはマグカップに注いだ。
「温めた方がいいんだったよな、確か」
前にどこかで見た知識を思い出して、カップを湯せんで温めてから皿に移し替え、それを持って縁側に戻ってきた。
縁側に置くと、子犬はすぐさまそれに飛びついた。
牛乳を盛った底の浅い皿。子犬は舌を出してペロペロなめた。
ぺろっとなめて、くるっと皿の周りを回る。
ぺろっとなめて、くるっと皿の周りを回る。
まるでメリーゴーランドに乗っているかのような仕草だ。
「わん!」
子犬は直人の正面に来ると、顔を上げて鳴いた。そしてまたなめて、回って、正面に戻ってきて、鳴いた。
「どんな飲み方だ」
そんな風に言いながらも、直人の顔はほっこりしていた。
「そういえばソフィアは?」
自分以上にほっこりしそうな姫騎士の事を思い出す。それで顔をあげると、数メートル離れた先にソフィアがいつの間にか立っているのが見えた。
「ソ――」
「くっ、卑怯だぞ貴様」
声をかけようとしたら、どこかで聞いた事のあるような台詞でカウンターを喰らった。
それを言われた直人は「オゴオゴッ」と返事してやりたい気分になったが、それ以上に彼女がそう話した理由が気になった。
「おれ、何かしたか?」
「待っていろ!」
ソフィアは質問に答えず、身を翻して駆け出した。
夜の湖畔、銀色の髪をなびかせながら、離れた所にある林に向かって駆けていった。
「あっ、おーい、夜の林は危ないから懐中電灯もってけー」
あっけにとられて、ハッとした直人は手をメガホン状にして呼びかけたが、既に姿が見えなくなった彼女に届かなかった。
「大丈夫なのかな……」
後を追いかけたほうがいいのかな、そう、直人が迷っていると。
「なんか光った……ああ、彼女の髪か」
林の向こうに赤く、揺らめく光が見えた。それがソフィアが魔法を行使する時の髪の色だとすぐに分かった。
離れた所からでも、それが周りをよく照らしているのが分かる。
直人は追いかける事をやめ、縁側に座り込んで、林の中を高速で移動する赤い光を眺めて独りごちた。
「便利だなー、魔法って」
独りごちる直人。その横で、子犬がなおもメリーゴーランドを続けている。
ソフィアにまったく興味のない様子だ。
「なあわんこ、お前もっとソフィアに優しくしてやれ?」
直人は子犬に語りかけた。
「たぶんなー、俺よりもずっとお前の事気に入ってるからさ」
「わん!」
子犬は皿から顔を上げて、しっぽを振って高い声で鳴いた。
そのまま近づいてきて、直人に体を押しつけてくる。
犬の愛情表現のフルコースだ。
「いや、おれにじゃなくて。ソフィアにな」
「わんわん!」
「……ま、いっか」
言葉が通じないんじゃしょうがないと、直人はあきらめる事にした。
ソフィアの事はまたゆっくりとやっていけばいい、そう思ったからだ。
考える事を投げ出した直人は縁側に座ったままぼけっとした。
その間ミルクをなめ終えた子犬が横にやってきて、みかん箱の縁にする様に、彼の太ももにあごをのせてきた。
目が半開きになって、ぼけっとした顔をする。
それまでなっていたポンプのモーター音が鳴り止んだ。
代わりに、子犬のしっぽが静かに揺れて、縁側を叩く音がした。
パサッ、パサッ。
給水はおわったが、ポンプの片付けはあとでいいや、と直人は思った。
穏やかな時間が、しばらく続いて。
ふと、赤い光が林を飛び出し、猛スピードでキャンピングカーに戻ってきた。
「いま帰ったぞ!」
陸上競技で世界新記録を出せるんじゃないかってくらいのスピードで戻ってきたソフィア。鎧姿でダッシュしたのに、彼女は息一つあげていない。
代わりに険しい……どこまでも真剣な顔をしていた。
「どこに行ってた……ん、だ?」
座ったまま彼女を見上げて問いかけるが、途中で言葉を失ってしまう直人。
ソフィアが抱えている、両腕を使って抱えているものに言葉を失ってしまったのだ。
「これをとってきた」
「それ……もしかしてみかんか?」
「そうだ!」
彼女はそう言って、みかんを一つとって、直人の目の前に突きつけてくる。
「それ、どうするつもりなんだ?」
いやな想像が頭をよぎったけど、とりあえず確認するためそれを聞く。
「あの箱に絵が描いてあっただろ! みかんの」
「ああ……描いてあるな」
直人は縁側から部屋の中を見た。隅っこに、さっきまで子犬が入っていたみかん箱がある。
ソフィアの言う通り、箱の側部に見間違えようのないみかんが描かれている。
「だからこれをとってきた。そうだナオト、コタツも貸してくれ」
「コタツ?」
「ああ、コタツとみかん、これさえあればわたくしにも――」
そう言って、期待に満ちた眼差しで子犬を見た。
「あー、息込んでる所悪いんだけど、それはだめだ」
「なっ、貴様邪魔をする気か」
「いやそうじゃなくて、その……すごく言いにくいんだけど」
「なんだ?」
「犬って……みかんそのものはきらいなんだ」
「え?」
「というか柑橘類全般の匂いが苦手らしい」
「ウソ……」
信じられない様な顔をして、子犬を見るソフィア。
大量のみかんを見たせいか、子犬のしっぽがとまって、見るからに警戒するポーズをしている。
「そ、そんな……」
自分の努力が無駄になった、切り札だと信じていたみかんが全くの逆効果だった。
そうしったソフィアは、世界が終わるかのような顔をしてしまう。
絶望した彼女の腕からみかんがこぼれ、地面に落ちた。
「こんな……こんなものなんて!」
涙声で振りかぶって、手の中にある最後のみかんを投げた。
林の方向に、みかんがすっ飛んでいく。ソフィアの悲しさをのせて飛んで行った。
なにか言って慰めようと、直人が思った、その時。
「わん!」
子犬が急に鳴いて、縁側から飛び降りた。ぽかんとするソフィアをよそに、みかんが消えていった方にかけていく。
「ど、どうしたんだ?」
「……あっ」
何が起きたのか分からないソフィア、ある事を思い出した直人。
その直後、子犬がみかんをくわえて戻ってきた。
みかんをくわえたまま、しっぽを揺らしてソフィアの前に犬座りした。
「こ、これって」
「もう一度なげてあげて」
「あ、ああ……」
言われた通り、みかんを子犬から受け取って、もう一度投げた。
するとまた子犬は走って行き、みかんをとってもどってきて、犬座りでしっぽを揺らした。
「はわーん」
はじめて自分に向けられたかわいらしさに、姫騎士はいともあっさり陥落したのだった。