心の傷
「……そう。クリスマスなのにごめん」
デザイン事務所の年の瀬は忙しいのが常だ。年賀状の発注などが終わったかと思えば年末セールや新春初売りのチラシデザインの注文が舞い込んでくる。営業が営業をせずとも仕事のほうから飛び込んでくる状態で、そんな状態だとわかっているからかこの時ばかりは営業職もデザイン部署の手伝いに回されている。朝4時から深夜12時まで働きづめで、会社に泊まり込みになる生活。本当に辛いのは碌に眠りもしないデザイナーたちだとはわかっているのだが、そもそも芸術というものに操を捧げたつもりがない営業職の自分としては愚痴の一つも漏らしたくなるのが人情というものだった。
「そっちはどう? ……そりゃそうだ、話せないよね」
目覚ましのコーヒーを買いに廊下に出たタイミングでかかってきた一本の電話。大学時代に買ったスマートフォンは、事務所に文字通り缶詰めになっている彼にとっては外界と自分をつなぐ数少ない窓口だった。その電話が1つ年上の彼女からのものともなれば電話に出ない理由はなく、こうして5分もうだうだとコーヒー片手に話し込む怠け者社員の一丁上がりだった。
とはいえ、今日はクリスマスイブということもある。廊下の向こう側では上司が、仕事での毅然とした姿を知る者からすると吐き気がするような猫なで声で家族に詫びを入れている。クリスマス商戦のさなかではなかなか家に帰れないのが決済担当の中間管理職の悲哀だろうか。
どのみち、新入社員の自分には縁の遠い話でしかない。そう割り切ってしまえば早いのが自分のいいところだと考えるようにしていた。
「……そりゃそうだろ、今や業界を魅了する美人弁護士先生なんだから。司法試験トップ合格ともなれば忙しいのは仕方がないんじゃないかな」
しかし、生涯でもっとも努力したことが叶わなかったのはさすがに痛い。その努力の成果になるはずだったものを今叶えている人間が自分に最も近いところにいるのも、痛いといえば痛かった。
司法試験。日本で法曹になろうとすれば必ず通らなければならない難関試験だ。その試験を受けるために試験を受けなければならないあべこべも、司法試験だからという理屈で業界では許されてしまう。ある意味人生を決める試験に、自分は落ちた。痛恨のミスというほど決定的な何かをやらかしたわけではない。頭が真っ白になったとか、そんなパニックを起こしたわけでもない。可もなく不可もなく、合格ラインには届いているだろうという希望すら見えた出来具合で、落ちた。
そんな人間の隣に司法試験トップ合格者が彼女として存在しているのは奇跡なのだろう。実際、同じく司法試験に落ちた友人は自分のことを違う生き物を見るかのように見ていた。お前はなぜ平気でいる。人生の勝者と敗者がいっしょにいることに何の疑問もないのか。プライドはないのか。そこまで堕ちてしまったのか――。
「平気だって。営業……人と丁々発止やりあうのだって楽しいし。それがしたくて司法試験受けた面だってあるんだから、人と関われる仕事なら案外何でもよかったのかもね」
その問いには、勝者敗者の区別自体がよくわからないという本音が答えとしてまず先に来る。プライドが傷つかなかったわけではないが、それで彼女と別れるというのもバカらしいと感じた。堕ちたといえば堕ちたのだろうが、そこまでしてまともでいようという気も起きなかった。これ以上なにも変えたくなかったといえばいいだろうか。過去を捨てるには時間がかかる。また白っぽいかさぶたがかかっただけの心の傷は放っておくに限る。自分が気にしないのなら彼女も気にしないといっているし、彼女といると安心できる自分も確かにいる。自分でかなえられなかった夢を先にかなえてくれた彼女を支えられるのなら、それは間接的に自分の夢をかなえていることになるんじゃないか。
欺瞞と分かっていても、日常の中で日々風化していく傷を自覚するにつれこのままでいいとも考えられるようにもなった。彼女の友人――自分と同い年だという事務所の社長に「営業職が必要だ、あなたにはセンスがある」と告白めいた言葉とともにヘッドハンティングされ、難関とされていた顧客を次々に手中に落としていく日々。人を操っているようで楽しみすら感じていた。
「君だって独立考えてるんだろ? 俺だって手伝いしたいしさ、別の道のほうが案外よかったのかもしれないよ」
欺瞞なのか本音なのかもわからないのなら、深く考えずに全部本音として扱ってしまえばいい。これも、彼女の友人の言葉を借りれば、運命なのだから。
心の傷を負っても、それでなにがあっても、与えられた環境で頑張っていれば誰かが何とかしてくれる。運命とやらが本当にあるのなら、そういう生き方もいい。「じゃあ、そろそろ戻らないと。社長にどやされるからね」と冗談めかして電話を切り、彼は何度目かわからない言葉を自分に言い聞かせた。
おい営業、とデザイナーが呼ぶ声が聞こえる。自分が呼ばれているらしい。なにがあったのやら、とひとつため息をつき、彼は残ったコーヒーを飲み干した。