XXXII.心は摩耗しやがて凍りつく
雨のように降り注ぐシャワーのお湯を、アンミュレーネは生まれたままの姿で受け入れる。
どこまでも光芒を放つ瞳は、透き通る宝石のようで。黒くて光沢のある蝶々のような睫毛は切り揃えていないのに、整然としていて目尻から星屑が瞬きそう。
つんとした鼻から艶のある唇にかけての位置取りは完璧で、どこか作り物じみているほどだ。
頬骨にくっつくように垂れている長髪は水を滴らせながら、胸元まで到達している。形のいい胸から華奢な腰のラインを滑るみたいに流れる水は、桃のように肉付きのいい尻へと流れていく。
全ての造形があまりにも完全無欠過ぎて、コロッセオの前に奴隷乙女の象徴として建てられている精緻な彫像のようだ。
奴隷乙女。
それは、アンミュレーネに永遠に刻まれる呪いの刻印。
そのせいで昨日は辛酸を味わった。グツグツと胃の中が沸騰しそうなぐらい熱くて、断続的な痛みが奔っていたアンミュレーネは、何も思い出したくなくてふて寝した。
そして、鳥の鳴き声が響く、まだ朝日がしっかりと顔出していないこの時刻にシャワーを使用している。奴隷乙女のほとんどはシャワーなどという高級なものなど自宅に設置などしていないが、アンミュレーネはコロッセオで稼いだ金で購入した。
毎日、コロッセオや家で剣技の鍛錬に励んでいるアンミュレーネにとって、心の休息は生きていく上で最優先事項だ。だからこそ睡眠や風呂に対してのこだわりは、漫然と生きている男よりも顕著。
「……っ……」
コロッセオでの戦闘で刻まれた頬の傷口が、お湯に触れて痛む。だがそれよりも痛いのは胸中だ。
蒼白な表情を浮かべたヘルクレスの視線には、崇拝していたアンミュレーネを軽蔑するかのような感情さえ込められていたようだった。自己責任とはいえ、彼女にあんな目で見られる日がまさか来るとは思わなく、胸の苦しみが治まることはない。
自分のやったことに後悔はない……はずだ。
もしもビアウッドで一戦を交えることになっていれば、ナジット一派の報復の矛先はアンミュレーネだけでなく、傍にいたヘルクレスにまで向けられてしまうところだった。
アンミュレーネ独りだけならば、誇りのために剣を抜くこともできただろう。だが、ヘルクレスを危険に巻き込んでまで守る誇りに、一体どれほどの価値がある。そんなものあるわけがない。
例え臆病者と蔑視されたとしても、本当に守りたいものを守るために、アンミュレーネはここまで強くなった。そう胸を張って生きることができたのなら、ヘルクレスの想像通りの人間だったに違いない。
だが、アンミュレーネは弱い。
どれだけコロッセオで戦闘力をつけても、精神力はちょっとした衝撃で小枝のようにポッキリと折れてしまうぐらいに脆い。
ヘルクレスに嫌悪されたことを考えるだけで、今にも死ぬほど落ち込んでしまっている。
アンミュレーネの能面な表情とは裏腹に、冷徹で非情な心を持ち合わせていない。よく、奴隷乙女の人間からも勘違いされる。何故笑わないのか、何の反応も返さないアンミュレーネが気持ち悪いとか散々陰口を叩かれている。
そのことは前々から知っていたが、つい最近ご親切にも奴隷乙女の一人が密告してきてくれた。アンミュレーネが不快な反応を示してくれるのを期待するかのように、瞳を輝かせながら……。
アンミュレーネさん、あなたみんなから酷い言われようよ。どうしてみんなあんなにアンミュレーネさんの悪口を言えるのか、私には絶対理解できない。大丈夫、私はアンミュレーネさんの味方だから。でも、アンミュレーネさんも、ちゃんと、みんなと話し合った方がいいわよ。いつもみんなのこと無視するみたいに一言しか返事しないでしょ。それってやっぱり変よ。お高くとまってるって思われてるわよ、絶対。あっ、私はそんなこと全然思ってないから。ごめんなさいね。私、あなたのために言っているの。親切心なの。言いたいことは言っておかなくちゃいけない性分なの。自分でも直したいと思っている悪癖なの。でも、気分を害してしまったごめんなさい。言い方が悪かったわよね。……云々。
彼女は確かにアンミュレーネに対する悪口に積極的に参加している方ではないが、うん、うん、そうよね、と相槌を打っているのを聞いた事があるアンミュレーネとしては、冷めた瞳で見返すぐらいしかできなかった。
それを視認した親切な奴隷乙女は、どうして自分の気持ちが通じていないのか不満そうだったがその一方で、どこか満足そうだった。矛盾するようだが、自分のお節介が通じないことを望んでいたようにも見えたのだ。
ああやっぱりこの人はダメな人間なんだ。奴隷乙女という、ベラプではヒエラルキー最下層の人間の中でも更にクズみたいな人間がいて良かった。これでこの人のことを私は見下せる。なんてダメな人なんだろう。
と考えているようだった。
奴隷乙女として扱いを受けているのは、彼女にとっても相当に辛いことだ。だからこそ、他人を見下すような態度を取ることが、どれだけ相手を傷つけるのか知っているはずだ。
それなのに、区分化された身分制度の中で、更に下の人間を見つけ、大勢の人間が寄ってたかって一個人を阻害する。
それは、最低な屑であるベラプの男どもとやっていることが同じはずなのに。
歪んでしまったのかもしれない。
奴隷乙女として生まれ、育ってきたということは、ずっと男達に服従してきたということだ。そんな尊厳の欠片もない人生を送っていれば、自分たちだって価値ある人間だと証明したかったに違いない。
だが、だからこそ無表情のままコロッセオで戦い続けるアンミュレーネのことが憎いのだろう。どうして苦しんでいないのかと、自分たちと同じ場所かもしくはもっと下に落ちてこいなどという、妄執にも似た感情に彼女たちは支配されている。
心がないわけではない。
ただ奴隷乙女という変えられない宿命を背負っているのならば、せめて辛い表情だけはしたくないだけだ。悲痛な表情をすればするほど、男たちが喜ぶのを知っている。だから、泣きそうな顔を隠すために、表情を抜け落ちさせている。
独りが好きなわけではない。
傷ついた雌犬のようにこぞって集まって、自分たちは奴隷乙女であろうと平気だと認識し合う。それから、地獄のような日々でも、個人を阻害しておけば、悪口を募らせていれば、自分の弱さを直視しないで済む。そんな恥知らずな真似ができないだけだ。
だが、アンミュレーネに理解者なんて一人もいない。
男だけならまだしも、仲間であるはずの奴隷乙女にでさえ疎まれるというのは、中々にキツイものだ。心と身体が擦れ切れそうになりながらも懸命に戦ってこれたのは、きっととある人間のおかげなのだろうと思う。
フッと、凍結していた心がちょっとだけ和らぐような笑みを洩らすと、シャワーを止める。清潔さを保っているが、使いすぎて摩耗しそうなタオルで、水を拭き取る。
そうして奴隷乙女専用の服に着替えていると、
ダン、ダン、と何やら騒がしいノック音が反響する。
こんな早朝から一体何事なのか。
完全に着替え終わったアンミュレーネは、訝しげな表情を浮かべながら簡易なドアを引き開けると、厳しい表情をした男が2人並んでいた。アンミュレーネが遁走しないよう、逃げ道を塞ぐみたいに日光を遮っている。
見れば、ベラプ王国直属の騎士団の甲冑を2人ともに着込んでいる。奴隷乙女であるアンミュレーネは、そうそうお目にかかれない。男でさえかなりの身分が高くなければ、騎士団には所属できない。実力のあるナジットでさえ、家柄の関係上入団できない。
そんな高貴な身分である彼らが、第4市街の一角に過ぎないアンミュレーネの家に押しかけるなんてただ事ではない。
「……何の用――」
「君がアンミュレーネという奴隷乙女かね」
奴隷乙女のような下級身分の人間には、まともに会話するのも不愉快らしい。眉を八の字に顰めながら、こっちの質問を遮断してきた。その代わりに一方的に、ここまで足を運んでやった理由を剣のように突き立てる。
「昨夜未明、ヘルクレスという奴隷乙女が何者かに襲われた」
――え? と、声に出せたかどうかも定かではない。
身体が袈裟斬りに斬られたかのように、バラバラになりそうだった。騎士団の人間がわざわざジョークなどを言えるユーモアさを持ちうるはずがない。
ヘルクレスが襲われた。
昨日あんなこともあって、目を合わせることもできなかった。合わせてしまったら、更に失望の眼差しを向けられてしまうのを恐れてしまったから。だから、ヘルクレスとは離れて、独りで自宅へ帰宅した。
その時に襲われてしまったとしたら。
全ては、自分のせいだ。
「今も意識不明の重体。いったい誰が犯人か聞き込みを行ったところ、君がヘルクレスを刺したのを目撃したという人物が見つかった」
網膜がチカチカして、目眩を起こしていることだけは分かった。
眼前の騎士団の男はいったい何を言っているのか。それこそ彫像のように固まってしまったアンミュレーネの腕を強引に掴む。ほとんど抵抗できないままアンミュレーネの腕には、奴隷乙女専用の枷ではなく犯罪者専用の手枷を手首にはめられた。
手枷は冷たい。
血管ごと凍りついているかのように、自分の手首も同じぐらい冷たい。奴隷乙女として首や足につけられたことがあるが、その時とは比較にならないぐらい、温かさの片鱗も見いだせない。まるで、真っ暗闇の荒野の中、独りで凍える風に晒されているようだった。
「奴隷乙女のアンミュレーネ。君をベラプ騎士団の名において、君を拘束し、牢に監禁する」




