XXXI.狂剣は炎を噴き上げる
騒々しい人だかりを縫うようにして、前方を進んでいるヘルクレスの股の開き具合は思いのほか大きい。
逃亡防止として柔らかい手で腕を掴まれているがために、引っ張られる形で同行している。
先程から自分で歩けると主張しているのだが、自由奔放過ぎる彼女には瑣末なことらしい。嬉しそうにあっ、と一声を上げると、
「ほら、あそこなんてどうですか」
話場所として最適だと言いたげな顔をして、開けた酒場を指差した。巨木を屋根がわりにしている、誰でも入店できるような店構え。さわさわとざわめく葉の影の下では涼やかで、くつろぎながら談笑できるようになっている。
ビアウッド。
それが酒場の名称であり、そして奴隷乙女が立ち入りを禁じられている店でもある。店側としてはそんな制約を強要しているわけではないが、店の常連客がそんなルールを決めてしまっていた。その証拠に、店にいるのは男しかいない。
厄介事に巻き込まれる可能性もあるので、奴隷乙女独自の情報網で近寄っていい場所などは知っている。あまり他人と積極的に関わろうとしないアンミュレーネでさえ噂話は耳に入っていたのだが、他人の話に全く興味がないヘルクレスに知る機会などなかったようだ。
はやる気持ちを抑えることができずに猛進しようとするヘルクレスの腕を逆にこちらが掴んで、
「ちょっと待て、ヘルクレス。ここは……」
「ええ? いいじゃないですか、ここで。私ここで飲んだことなかったんですけど、一度でいいから寄ってみたかったんですよね」
「事情はあとで話すから、ここもだめだ」
「もうっ、さっきからあれもだめ、これもだめ。どれだけ我が儘言えば気が済むんですかっ!」
一体どっちが我が儘だ、という揶揄の言葉を、グッと呑み込まなければならなかった。それはちょうどいい酒の肴を見つけたと、どす黒い歓喜に満ちた表情をしたナジットと視線が合わさったからだ。
そいつは、今日アンミュレーネと剣を交えた男で、20数人の大勢の男たちを取り巻きにしてふてぶてしく座っている。
特に両隣にいる2人の男はずっとナジットに引っ付いていて、自称側近を名乗っている。その2人とは、丸太のように恰幅のいいブレイランと、逆に枯れ木のようにやせ細っているサニーサだ。
ナジットは力だけの直情型な男なのだが、その類まれなる行動力は男たちにとってカリスマ性があるらしく、大勢の人間に意外にも慕われている。まあ、とはいってもナジットのように力に物を言わせて他人を従わせるような男に従わないとなれば、それなりの覚悟が必要で誰もしたがらないだけなのだが。
「アンミュレーネ! どうした? そんな端っこのところに縮こまってないで、もっとこっちにこい。今日のコロッセオの主役だろ」
「あっ、ほら。ナジットさんもそう言ってますし。行きましょうよ、アンミュレーネ様っ!」
なにも分かっていない様子のヘルクレスは、不穏な空気を読めずに引き摺りこもうとしてくる。足の不自由なヘルクレスに半端な同情を抱いているアンミュレーネは、完全には逆らうことができずに、結局は魔窟へと足を踏み入れてしまった。
違う意味で歓迎する様子のナジットは、対面の椅子に座っていた男たちに席を譲るように指示する。これから観れる奴隷乙女いじめを期待しているのか、おとなしく男たちは席を立つ。
それを見やって、わー、いい人ですね、とか大変おめでたい感想を吐いているヘルクレスのように頭を空っぽにすることができたらどれだけ人生を謳歌できるだろうか。
ナジットはまだ日没までには時間がたっぷりあるというのに、アルコール作用で顔を真っ赤にしながら、滔々となにやら裏がありそうな声音で語りだす。
「聞いたか? 第3市街で吹いてるっていう、まるで暴風雨のような精霊砂塵の話を。今回の異常に巨大な精霊砂塵のおかげで、とんでもない精霊が誕生するらしいじゃないか」
「さあ。私は興味ないので」
「まあまあ、聞けよ。お前にもうま味のある話だ」
執拗に引き止めるナジットは、アンミュレーネに突っ撥ねられて何やら焦っているようだった。
奴隷乙女でありながら腕の立つアンミュレーネは、力を誇示したいナジットにとっては目の上のたんこぶ的存在であり、邪険に扱うことは少なくない。それなのに路傍の石を見下ろすかのような反応でないということは、どうやら余程ナジットにとって都合のいい話らしい。
「実はな……巨大な精霊砂塵発生に伴って、今後生まれるだろう新たな精霊の捕獲隊が組まれることになった。ベラプ王が直々に下した命令で、精霊を王に進呈した者には、破格の報酬金がもらえるらしい。奴隷乙女であるお前にだってそのチャンスが舞い込むとしたら……どうする?」
「そんなもの私には関係な――」
「いいじゃないですかっ! 参加しましょうよ! アンミュレーネ様!」
横から快活に割って入ってきたのは、シリアスブレイカーであるヘルクレスだった。堂に入った様子で語っていたナジットも、呆気にとられて思わず言葉を失っている。
恐らくナジットは、アンミュレーネをこの件に引き込んで、精霊捕獲の手柄を独り占めにしようとでも考えていたのだろう。ナジットとアンミュレーネの二人が協力すれば、精霊捕獲はそれほど苦ではない。だからこそ裏で結託して、捕獲帯を出し抜こうと画策していたに違いない。
結果としてそんなくだらない野望の出鼻を挫かれる形となったナジットは、その元凶たるヘルクレスを無遠慮に睨めつける。
「なんだ……この馬鹿は? そうか。雑魚闘士に懐かれてつきまとわれてるって聞いたが、こいつがあの噂の……」
雑魚闘士なんて評されても全くめげる様子がない、ウザイぐらいに元気溌剌なヘルクレスは丁寧に返答してみせる。
「そういえば、ナジットさん。改まって話すのは今回が初めてでしたね! 私の名前は――」
「ただの馬鹿だ」
「ちょ、ちょっと、アンミュレーネ様!」
自分のしでかしてしまった落ち度を認識していないらしいヘルクレスは、アンミュレーネが相手してくれたのが嬉しくて、はしゃいだようにつっこみの手を肩に当ててくる。
冷たい双眸で軽く流す程度の会話しかしてこなかったので、眩しいまでの喜色満面になるのは分かるのだが、こちらとしては肌から噴き出る冷や汗が気になるところだ。
予想通り、両肩から壮絶な気炎を上げるナジットは、そっと帯刀している剣の柄に手を立てる。壊れるぐらいに握り締めた指から漏れ噴き出すのは、紅蓮の炎。轟轟と燃え盛る炎は、ナジットの掌から爆発的に膨張する。
一気に抜刀した剣の長い刀身には、大気を焦がすような熱量を持った火炎が隙間なく迸る。
「随分と、礼儀を知らないみたいだな」
ボウッと幽霊が湧き出たのように、突如としてナジットの斜め上に出現したのは精霊。炎そのものを体躯としている精霊は、眼球と口を象る形だけぽっかりと虚空を覗かせている。ゾッとするような闇の底は見えなくて、不気味さを醸し出している。
「これは……《浮遊する鬼火》っ!!」
「へー。意外だな。頭の軽そうなお前でも俺が契約した精霊ぐらいは知ってたのか。闘技場じゃ使用禁止になってるせいで、そこにいるアンミュレーネに遅れをとったがなあ、実戦だったらこの俺の圧勝なんだよ」
精霊と契約を交わすことによって、精霊の力を借りて超常の力を発現することができる。借りることができるのは、あくまで精霊のほんの一部分に過ぎないが、その戦闘力はあまりにも圧倒的。相手が非精霊契約者であれば、まず勝ち星を拾わないということはない。
《浮遊する鬼火》の威力をその瞳に刻んできた男たちは、破壊の炎を見やって慄く。だが、未だにその力に屈したことがないヘルクレスは、驚いた表情を見せるものの一歩も引かない。そんな勇気ある行動も、奴隷乙女差別者のナジットの前では神経を逆なでにする愚行でしかなかった。
「お前ら奴隷乙女はなあ、俺達男の足の下で一生這いつくばっていればいいんだよっ!!」
「そんなことないですっ!!」
決然と言い張るヘルクレスに、ナジットは気が抜けたような声を上げる。
「……はあ?」
言い返してくる奴隷乙女が、あまりにも意外だったのだろう。奴隷乙女ガベージの誰もが自分の身分に引け目を感じて、男の前では借りてきた猫みたいにしゅんと大人しくなる。
ヘルクレスは、胸に手を当てて堂々と言い張る。
まるで身分の差なんて関係ないと主張するように、酒場の人間全員に聴こえるような透き通る声を響かせる。
「私は弱くて、なにもできないです。いっつもコロッセオでは負け続けて、いらない人間だって男の人だけじゃなくて、奴隷乙女のみんなからも陰口を叩かれてるのは知っています。……だけど……アンミュレーネ様だったら、あなたたちに負けないっ! 奴隷乙女制度だって、どうにかしてみせますっ!」
「奴隷乙女制度だって、どうにしかしてみせるぅ? はっ、聞いたかみんな?」
どっ、とビアウッドで酒をあおっていた男たちはひとり残らず、示し合わせたかのように嘲笑した。ナジットに脅されて嫌々というわけじゃなく、誰もが自分の意思で吹き出している。
あまりにも突飛な話を、他の誰でもない身分最下層の奴隷乙女が口走ったので、どいつもこいつもおかしくてしょうがないのだ。下に見るとか、差別とかそういう次元ではなく、絵空事を吐くのが子どもではなく、身体が成長した人間だったならどんな人間だろうと笑いがこみ上げてくる。たったそれだけのことだ。
「そんなもん、ベラプの王にでもなれなきゃどうしようもないだろうが。それとも奴隷乙女が、この国の王でも目指してみるか?」
くっ――だらない、と一蹴すると、
「……ったく、あまりにもつまらない冗談で、すっかり酔いが覚めちまったぜ」
緩めていた唇を引き締めて、冷酷さを孕んだ瞳をヘルクレスへ投射する。
全身から殺意が吹き上げる。
《浮遊する鬼火》によって装填された剣を頭上まで引き上げると、
「お前みたいな馬鹿は、さっさとくたばれよ」
一気に振り下ろされた高速の剣を止められるほど、ヘルクレスは強くない。そのまま受ければ重症を負う程度の傷で済むとも限らない。だから、アンミュレーネは半歩前に出て、
「……それぐらいにしたらどうだ」
メラメラと燃える狂剣を受け止める。
タイミング的にほとんど奇跡だったが、涼しい顔をしてアンミュレーネはヘルクレスと剣の間に滑り込ませた剣に力を込める。だが、両手でなんとか持ちこたえているアンミュレーネと違って、あっちは片手で押さえつけている分、余力があるようだ。
「アンミュレーネ様っ!!」
勝ち誇ったように声を上げるヘルクレスだったが、状況的には不利に傾いている。ざわつく男連中がこれからの状況推移に、目を光らせ、耳の穴を大きく広げて待機している。
ここでナジットが退くことは……まずない。
鞘から引き抜いた剣を振り下ろさなければ、男たちに示しがつかなず、重要な場での発言権を失うことになる。ただでさえ今日は公衆の面前で、たかだが奴隷乙女のアンミュレーネを圧倒できない失態を晒してしまった。
この最悪の状況を丸く収めるためには、ナジットの顔を立てられるように下手に回るほかない。
「すまなかった。……あとでこいつにはよく言い聞かせておく」
アンミュレーネは、よりにもよってナジットに深々と頭を下げる。あまりの屈辱に、頭のてっぺんが痺れるみたいに感覚がなくなる。ナジットから見えない唇を噛み締めると、口内に鉄の味が広がっていく。
なっ……なんで……と、斜め後ろからは、地の底から這うような絶望感の伴ったヘルクレスのうめき声が飛来してくる。
「……なにやってるんですか? この人が、この人が悪いんですよっ? なんで、なんでアンミュレーネ様が謝るんですかっ?」
「すまない。こいつのやったことは私が代わりに謝る」
だから、この通りだと、またもや腰を曲げて謝罪の意を示す。かすれ声を残しながら、絶句してしまったヘルクレスは、信じられないものを見るかのように瞠目する。
ずっと憧れのフィルターを通してでしか見えていなかったアンミュレーネが、男達に向かって屈辱のポーズをとっているのが許せないみたいに、ヘルクレスの歯ぎしりが聴こえる。
だが、アンミュレーネにはこの方法しか思いつかない。
仮に今ここでナジットを倒せたとして、その後はどうなる。かなりの強さを誇るナジットと対峙して無傷というわけにもいかない。周りの男どもが黙っているわけもなく、連戦を強いられることになる。万が一切り抜けられたとしても、奴隷乙女が男達に手を出したとなれば、ベラプにとっては大問題だ。
この件を発端に、奴隷乙女の一斉テロが発生するやもしれない。だとするならば、全力を持ってアンミュレーネとヘルクレスはベラプ全ての人間を敵に回すことになる。そうなってしまえば勝目なんてあるわけがない。そうなってしまえば、一方的に蹂躙されるだけだ。
「こりゃあ、驚いたな。あのプライドだけは一人前のアンミュレーネが、この俺に謝る? プッ、フハハハハ。こりゃあ面白いなあ」
見下すようにして痛快そうに笑うナジットの声が妙に響く。あまりにも悔しくて、じわっと瞳から涙が溢れそうになるが、顔を上げてなんとか溢れるのを食い止める。ここで泣いてしまったら、それこそ惨めの極地だ。
くだらなくたっていい。ただ最低限のプライドだけは持ち合わせていたい。本当に大切なものを守るためならば、頭の一つや二つ下げるなんてどうってことないと、自分に言い聞かせる。
「そうだ。それでいいんだよ。最初からお前ら奴隷乙女は、俺達男に素直に従ってればいいんだ」
自分の思い通りに事が運んでいて、よほど嬉しいのか満足そうに顎に手を当てる。コロッセオでの鬱憤も晴らせて、愉快だろう。
何かよからぬことを考えついたかのように、ああそうだ、と顎に絡めていた指を放すと、
「だがなあ、アンミュレーネ。その程度でこの俺が許すと思うか。最低限、頭を下げるってのはどういうものか、誠意ってやつを見せて欲しいもんだなあ」
一瞬身体が石になったみたいに硬直する。そして、ナジットの言っている意味が麻痺した頭に浸透すると、今から自分のやる行為が一瞬で脳裏を駆け抜けて蹈鞴を踏む。後ろに倒れそうになりながら、ふわふわと体重を感じさせない浮遊感に支配される。まるで地面そのものがふやけたみたいに自分の身体が言うことを聞かなくて、できることならばそのまま暗転したいぐらいだ。
「辞めてくださいっ! アンミュレーネ様っ……!」
血を吐きそうなぐらい悲痛な声を上げるヘルクレスの声が、アンミュレーネの全身に取り付いていた闇を切り裂く。広がった視界では、後ろから男達に引っ張られているヘルクレスがいる。アンミュレーネを止めようと必死の形相をしていて、物見遊山的な男達はヘルクレスを静止しているといった構図だ。
ギシギシと関節が鳴りながらも、アンミュレーネは膝を地面につける。ピクピクと頬のあたりが痙攣して、まともに表情を繕うこともできない。奴隷乙女として、今まであらゆるものを捨ててきた覚悟でいたが、それでも残っているものが未だにあったらしい。
だが、それすれも自分の手で破砕しようとしている。
アンミュレーネを支えてきた一本の大樹みたいなものが、根本から倒壊しようとしている。だが、それでも根っこの部分。誰もが普段目にすることのない、そんな心の奥底に潜んでいる、アンミュレーネ自身ですらほとんど気がついていない大事なもののために全てを捨て去る。
両の掌を地面に押し付けると、極限にまで頭を下げた。
「どうもすいませんでした。もうこんなことがないように気をつけます」