いまもどこかに(後)
「ええと3024か・・・いや待て、これってもしかして最上階じゃないのか?」
最上階、ということはつまり・・・
「・・・スイートルームじゃないか」
こんな部屋をキャンセルするなんてどういう神経をしているんだ。
まあでもあれだ、スイートルームって奴は一般人が頑張って泊まるというより金持ちがほい、と普通に泊まってほい、とあっさりキャンセルするようなものなんだろう。ああなんてMOTTAINAI。
などと考えている間に24号室の前へと辿り着いた。
人生で何度泊まれるかも分からない。ひとつ深呼吸してからゆっくりとドアを開いた。
「――よう」
・・・やられた。おそらく由佳たちの差し金だろう。
ホテルを探すなと言われたりタイミングよくキーを持っていたり、そういえば妙な点はいくつもあった。
どうやら必要以上に熱心なホストだったようだ。
「・・・何でお前がここに居るんだよ」
「何でって・・・ユカの式だぞ?来ないわけないじゃんか」
キングサイズのベッドに腰掛けている彼女――綾がしれっと言ってみせる。
「試合の後すぐ飛んできたんだ・・・最後の方しか見れなかったけどな」
「全然気付かなかった・・・」
「随分熱心に眺めてたもんなー、ユカを」
皮肉気にそう言うのは嫉妬と受け取ってもいいのだろうか。
俺は結婚式に綾が来る可能性を全く考えていなかったことに気付いた。綾はちゃんとイタリアで生きているという現実味が薄れ、知らず知らずのうちに思考から排除してしまっていたらしい。
「せっかくお前らのために帰国するんだから、いい部屋泊まらせろって頼んだんだよ」
「どう考えてもお前のほうが給料いいだろうが」
この部屋は式の客用ではなく、個人的に予約したものらしい。可哀相に、敦史の財布は相当傷んだだろう。
こんなにも不遜な奴なのに、海外に行ったくらいで存在感が希薄になってしまったのが妙に可笑しかった。手が届かない、或いは手を伸ばそうとも思わないような遠い世界の人間になったかのようで。
「・・・ユカと一緒に居たくて聖陽行ったあたしがさ」
立ち上がって綾はこちらへ歩み寄る。
「お前をいつまでも放っとくわけ、ないじゃんか」
記憶にまだ残るその細い手で頬を挟まれる。
綾は確かにここにいる。遠い世界ではなくて、今俺の目の前に。
触れた手がひどく冷たいことに気がついて思わず両手で包むと、綾はふっと微笑んだ。そのままゆっくりと引き寄せられて、唇が重なる。
ゆっくりと離して、そういえばこんな風にキスをするのは初めてかもしれないとふと思った。ふざけてしてくることはあったが、よく理性がもったものだと我ながら思ったくらいだ。
そんな思い出を、捨てようとしていた。
「・・・もう、お前とは終わったのかと思ってた」
僅かに空いた隙間で呟くと、眼前の眉間がみるみる険しくなる。
「はあ?何で別れ話もしてないのに勝手に終わらせんだよ」
こいつは疎遠というものを知らないのだろうか。そう思いかけて、けれどそれが妙に納得できた。
「・・・いや、ただの勘違いだった」
距離が離れたくらいでこいつが諦めるなんて、どうして信じていたのか。
そもそも、第二外国語にイタリア語を選択したのは何のためだ?海外部署がある企業に就職したのは?毎年節目が近付くとそわそわしていたのは、異動を期待していたからじゃなかったのか?
「――ずっと、会いたかった」
終わったなんて言いながら、結局諦められてなんかいなくて。未練たらたらだったのは俺も同じで。
なのに意地を張って、自分から会いに行くことをしなかった。その気になればいつだって会いにいけたのに。
両手を離して、その細い身体を抱き締める。すっぽりと収められるほど身長差がないのが恨めしいが、この長身は綾の、サッカー選手としての強みだから仕方ない。
「・・・何で先月、メールしてこなかったんだ?」
訊けなかったことがすんなりと言えた。
「一ヶ月待ったら会えるって思ったら・・・なんか、言いたいことがたくさんありすぎて、メールじゃ足りなかった。・・・京こそ、何で今まで一ヶ月に一回しかメールしてくれなかったんだよ」
「いや、最初に送ったとき返ってきたのが一ヵ月後だったからそういうルールかと」
急に綾が身体を離した。
「なんだそれ、勝手にそんなの決めてメールしてたのかよ?」
「お前だって律儀に毎月同じ日に送ってきたじゃないか」
「それはそっちが一ヶ月に一回しかくれないならこっちもって・・・」
・・・なんだよ。ただ意地になってただけか。
お互いに頑固で譲らなくて、その所為で7年間も我慢しなくてはならなくなった。
急に笑い出した俺を見て、綾は呆れたように溜息をつく。
「・・・なんか、緊張して損した」
「緊張なんかしてたのか?」
「当たり前だろ。・・・7年振り、なんだから」
なるほど手が冷たかったのはそういうわけか。大きくて遠かったその存在はこんなにも身近で、弱い。
中学の頃にそれを思い知ったはずなのに、いつの間に忘れていたのだろう。
「――綾」
抱き寄せて唇を重ねる。今度はもっと、深く。
身体ごと後ろへ追い込んで、そのままベッドに押し倒す。綾は黙って目を閉じた。
「・・・止めないのか」
尋ねた自分の声は僅かに震えていて、それが情けなかった。
「止めねーよ。こうなるんじゃないかって分かってたし」
目を逸らして言ってみせる。
「・・・何で」
「何でって・・・なんとなく。あたしだってもう、子供じゃない」
それを言葉通りに受け取っていいものか計りかねていると、それを察したのかデコピンが飛んできた。
「ばっか、変な意味じゃねーよ。お互い良い年なんだからその辺の機微は察するって話」
「いや、でも・・・居なかったのかよ、向こうでその・・・そういう雰囲気になった奴」
女好きで有名な国だ、今まで言ったことは無かったが心配で仕方なかった。海外でたくさんの男と接すれば日本人とは違う魅力に惹かれることもあるだろう。
「・・・別に。サッカーばっかだったし・・・まあ男友達くらいならいないこともなかったけど、何もないよ」
「でも・・・」
なおもごねていると綾が苛立ったように言う。
「うっせぇなあもう、処女だよ!何か文句あるか!?」
「ばっ、いきなり何を言ってんだお前は!?」
「結局そこを気にしてるんだろーが。あーもう、だからさ・・・」
頬に手がそっと触れる。
「・・・7年も寂しい思いさせたんだから、その埋め合わせをさせてくれよ」
「そ、それだけでこんな」
「だから・・・ったく、どこまで言わせる気だよお前」
「え?」
ぎゅっと首に手を回される。
「・・・あたしがずっと寂しかったから、埋め合わせしろって言ってんだ!」
「――ッ!?」
自分でも顔が赤くなっているのが分かるくらい、体温が上がるのを感じた。
「お前なあ・・・」
「何だよ」
それは反則だろ、と柄にもなくときめいてしまった自分を恥じる。
「・・・もう、いい」
「え?ちょっ、」
諦めてキスを再開する。
シャツにそっと手を滑り込ませると、想像と違うダイレクトな感触に思わず唇を離す。
「おま・・・ッ!何でなにも付けてないんだよ!?」
「何でもなにも、だから最初から分かってたって言ったろ」
「だからってこんな格好で居なくても・・・」
まあ脱がせるまで気付かない俺も俺だが、と思っていると真っ直ぐ指を突きつけられる。
「・・・じゃあお前はなにか、いい雰囲気を保ったまますんなりブラを外せるほど手馴れてるってか?」
「頼むからそんな気遣いしないでくれ・・・男として忸怩たるものがある」
まあ実際手間取ったりしたら相当恥ずかしいわけだが、結局今雰囲気は壊れているんだから同じことだ。
「っていうか、俺が手馴れている可能性については考えなかったのか?」
言った瞬間にそれを後悔した。綾の瞳が曇ったからだ。
「・・・したこと、あんのかよ」
「・・・あるわけないだろう」
「だって・・・さっきだって、あたしとは終わったと思ってたって言ったじゃんか。だったら、他の・・・他の」
下手をすると泣き出しそうな声に、焦って否定する。
「言うな。悪かったよ。経験ないのが恥ずかしかっただけだ」
「恥ずかしいって何で」
「え?」
そう言われると説明しにくいところだけれど。
「男っていうのは経験して初めて本当の意味で“男”になるみたいなところがあるっていうかだな」
「なんだそりゃ。ヤれれば相手はどうでもいいってか?」
泣きはしないものの機嫌はばっちり損ねたらしい。言葉に棘が感じられる。
「女にとってはどうでもいいことなのかもしれないが大事なことなんだよ。こう、いざ本当に大事な相手とするときに何も出来ないと情けない・・・んじゃないか?・・・多分」
自分で言ってて、これは綾には分からないだろうなとしどろもどろになって説明する。
「だから・・・あー、いやなんでもない」
よく分からなくなってきたので匙を投げる。
「俺そんな風に思ったことなかったし・・・だからつまり、あー、これが初めてだ」
「そっか。そりゃ良かった」
「何が」
「それってあたしが、京にとって最初で最後の女になれるってことだろ?」
・・・どうしてここで殺し文句が来るんだ、こいつは。
「もう知らないぞ」
「え?」
「嫌だって言っても止めないからな」
最後の忠告をすると、綾はばーか、と笑った。
「嫌だなんて言うわけないだろ。・・・ずっと、待ってたんだから」
「・・・そっか」
実際に待たされたのは俺なわけだが。
待たせてごめん、そう素直に折れてしまえるほどには、この女に惚れている。
シャツをすっかり脱がしてしまうと、何にも隠されていない胸が露になった。生唾を飲んで固まっていると、
「・・・いつまで眺めてんだよ、早くしろ」
と苛立ったように急かされる。
「もうちょっと雰囲気とかあるだろう・・・」
「雰囲気なんかとっくに壊れてるっつの」
まあ、それもそうだ。
「その・・・さ、触っても?」
「何だ、今更。・・・好きにしろよ」
言われるままに手を伸ばそうとして、寸前でやめた。
「京?」
黙ってそこに顔を埋める。
「お、おま・・・!」
「ちょっと、しばらくこうしててもいいか?」
「や、でも・・・」
「なんか、こうしてると安心するんだ」
「・・・ふーん」
そんなもんかねぇ、と呟いて、綾は俺の髪を撫でた。
頭を横に向けて鼓動を直に聞く。マザコンの気はないつもりだが、こうしていると子供の頃を思い出してほっとする。
撫でる手がいつものガサツな言動とは裏腹にひどく優しいのは、母性本能の表れなんだろうか。まさかこいつに母親の面影を見るはめになるとは思わなかった。
しばらくそうしていると、ぴたっと頭を撫でる手が止まった。
「・・・なあ、京一」
「うん?」
「お前ひょっとしてこのまま朝まで過ごす気じゃねーだろうな?」
びくっと身体が反応してしまったのは我ながら不覚だった。
「お前なあ・・・」
「い、いや最初からそのつもりだったわけじゃないんだ。ただその、この後どうするか考えていたらだな・・・」
「要するにヘタレたんだろうが!何なんだよもう!」
だってこのまま進めば綾に苦痛を与えてしまうかもしれないわけで、そう考えたらどうしていいか分からなくなるじゃないか。優しくするなんて言ったって結局負担がかかるのは綾だ。
「・・・別に、いーよ。したいようにして」
「でも」
「分かってる。京は優しいから、あたしを傷付けたくないとか思ってんだろ?」
図星だった。綾は眉を寄せて、少し悲しそうな目をした。
「そんな風にされると、辛いんだよ――あたしは、ユカじゃない」
「な、何言って」
「そうやって壊れ物みたいに大事にされると、ユカの代わりみたいでさ・・・そんな風には思ってないって、分かってるつもりなんだけど」
「・・・悪い」
綾はくしゃっと泣き笑いのような顔をする。
「・・・なんだよ、謝んなよ・・・そんなこと言われたら本当に、そうみたいじゃんか・・・」
代わりなんかじゃないと、そう断言できない自分がもどかしかった。
「初めて好きになったのも、ずっと側にいたのも由佳だった。由佳以外の女を知らなかったんだ。だからどうしても、同じように考えちまう」
綾の頬をなでて、親指で目尻の涙を拭う。
「ただ、分かってくれ。俺は由佳を選ばなかったし、由佳も俺を選ばなかった」
お互いしか知らなかったから、だから好きになった。けれど二人以外にも世界があることを知って、互いが唯一絶対の存在ではないと気付けたんだ。
「俺に必要なのは綾で、由佳に必要なのは敦史だった。きっと最初からそう決まってたんだ」
「・・・そうだな。敦史にはユカが必要だったし、あたしには京一が――」
最後まで言わせずに唇を塞いだ。
「・・・京一?」
俺には綾が必要で、綾にも俺が必要。きっとそうなんだろう。けれど、それだけじゃない。
「・・・綾」
「うん?」
怪訝そうに俺を見上げる瞳はひどく純粋な色をしていて、俺はこういう素直で真っ直ぐなところに惚れたのだったかと遠く想いを馳せた。もはや、そんなことはどうでもいい。
「――綾、俺はお前が好きだよ。だからずっとこのまま一緒に居てほしいし、居たいとも思ってる」
どこが好きとか、そういう問題ではない。ただ単純に、俺は“森咲綾菜”という存在を愛している。
そう言うと綾は笑い出した。
「なんかプロポーズみたいだぞ、それ」
「・・・いいよ、それでも」
綾の左手を取って、甲に唇を押し当てた。いつもならば絶対にしないであろう気障ったらしい行為に綾の頬が僅かに染まる。
「今はないけど、もう本物の指環を贈れるくらいの男にはなったつもりだ」
花の指環などという子供の約束ではなく、本当の契りを結びたい。確かな約束が欲しい。
「――結婚しよう、綾」
その時綾の頬を伝ったのは一筋の涙だった。
「綾?」
「ち、ちが・・・泣くつもりなんか・・・!」
綾は後から後から溢れ出るそれを乱暴に拭う。
――“キョーイチは、ただのニブチンより性質が悪ぃよ”
昔敦史にそう言われたことがあったけれど、今ではそれがどういう意味だったのか何となく理解できる。
気付いているのに、気付かないふりで感情を殺す。それが俺という男だった。綾が好きだったのに、気付かないふりをして由佳が好きなんだと思い込もうとした。結局それは何も生みはしなかったけれど。
俺は綾が好きで綾も俺が好きだって、ちゃんと分かったから、だからもう気付かないふりはしない。
「・・・ありがとう、泣いてくれて」
俺のために泣いてくれてありがとう。
「――それは、悲しい涙じゃないんだよな?」
綾は驚いたように目を見開いて、そしてくしゃっと笑って頷いた。
「・・・泣いたら、嫌がってるって勘違いするんじゃないかって思った」
「ああ。昔だったら・・・そうだったかもしれないな」
でも今は、ちゃんと分かってやれる。
「好きだよ、京一・・・大好き」
「・・・ああ」
もうその言葉を疑ったりしない。俺は綾を信じている。
ぽつり、と綾が呟く。
「・・・“あやな あやな”になっても、笑うんじゃねーぞ?」
俺はそれを鼻で笑った。
「馬鹿、誰が笑うかよ。何なら森咲京一になってやろうか?」
「・・・や、いい」
「何で?」
「んー・・・」
少し考えて、綾は言い放った。
「――なんとなく」
「・・・そっか」
多分、そのうち分かるときが来るだろう。まだ先は長いのだから、焦らなくてもいい。
今度こそ行為を再開すべく唇を重ねると綾の舌がそっと触れてきて、高まる熱を共有しながら、夜は更けていった。
▽▽▽
『決まったああああああああッ!!絢南がねじ込んだああああああああああッ!!』
『文句なしですね。キャプテンとしての意地を見せました』
W杯の中継がテレビから流れてくる。仕事の都合で観に行けないのが悔しい限りだ。
「あ、パパまた笑ってるー。へんなのー」
正面に座るサキがけらけらと笑う。ミートソースでベタベタになった口の周りを拭ってやると、くすぐったいのかまたけらけらと笑った。
綾は、分かっていたんだろうか。
結婚したところで綾は日本に留まってはいられない。すぐに俺の元を離れてしまう。だからこそ、明確な証が必要だった。
あれから5年、綾をキャプテンに据えたW杯が始まって以来テレビや新聞の至るところで“絢南綾菜”の名前を見るようになった。一応多少は名のある人間だったから便宜上元の苗字を使うという手段もあったのだが、綾はそれを良しとしなかった。それは、俺と綾が共に生きていく証だからなのだろう。
『日本の勝利です!決勝進出を勝ち取りました!!』
『今回のMVPは絢南でしょうね。圧巻のプレイでした』
だから、俺は笑う。
「サキ、ママが勝ったぞ」
「ほんと!?やったね、パパ!」
サキがフォークを突き上げる。ミートソースがテーブル中に飛び散るのを見て俺は苦笑した。豪快な食べっぷりは母親譲りらしい。
「サキは本当にあいつそっくりだな」
「んー?あいつってなあに?」
「何でもないよ」
このままいくと、突然「イタリアに行く」とか言い出しかねない。
・・・でもまあ、それも悪くないか。俺はそういう綾が好きだし、だからサキがこの先どんな夢を持ったとしても応援するんだろう。
平凡だろうと構わない。その過去を経て、俺は今ここにいる。
傷付いた過去でも、忘れたいなんて思わない。
ありふれた物語は今も刻々と、俺の胸に強く刻まれているのだ――
ええ、はい。妄想が止まらなくなった結果こうなりました。
違うんだ!こんなの書くつもりなかったんだ!と言っても説得力ないですね。短く終わらせるつもりだったのに妙に長いし。
行為を最後まで書かなかったのはR指定をつけたくなかったからなんですけど・・・このくらいだったら要りませんよね?




