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マキャヴェリスト #3

     3



 高波に激しく揺れるキャビンで、薄汚い男たちが乱痴気騒ぎをしている。かれらは海賊らしい。転覆するにせよ、船体をへし折られるにせよ、もう助からないことを知っていて、船長が制止するのを無視し、船倉からありったけの酒樽を持ちだして、互いの杯を満たし、衣服をびしょ濡れにしながら呷っているのだった。そうして床を踏み鳴らし、大声で歌い、攫ってきた女たちを牢からひきずりだして衣服を破り、聖ニコラスの彫像に唾をはきかけ、金貨を掴んでは船窓から放り投げた。……

 義哉は、深夜放送の映画の筋をとうに見失っていたけれど、男たちの振る舞いがあまりに愉快で、笑いが止まらなかった。そうして液晶画面を隔ててかれらを眺めていることを忘れそうになるくらい惹きこまれていた。麻薬の余韻がベッドを縦横に揺らしている。それが男たちの足元を覚束なくさせ、船室のテーブルからランプや食器、地図を振り落とすように感じられるのである。義哉は夢うつつのうちに、自分が男たちの一員であるような錯覚を度々起こした。

 男たちは破滅を恐れるあまり、自分から破滅を望むようになった。狂気とは本来、謎でもなんでもなく、内情を暴いてしまえば惨めなものにすぎなかった。……ひとり正気を保っている若者が、聖人の像を胸に抱いて、涙を零している。この白々しい一幕は、男たちの実相そのものだった。義哉が一体感を抱くことを禁じえない海賊たちの、真実の姿だった。義哉はなんともいえないやりきれなさをもって腹筋を硬軟させながら、字幕を追った。若者は、嵐を鎮めた逸話から船乗りの守護聖人とされたニコラスの像に、本領とするところの航海の無事を訴えず、ただ海賊として重ねてきた罪が赦されることだけを祈っていた。それを見て、義哉の頬から笑みが引いた。若者の芝居がかった泣き顔のうちに、ひと滴の切ない真心を見たような気がしたのである。やがて若者は仲間たちに突き飛ばされ、聖人像は奪われて、黒い嵐の海に抛り出されてしまった。老いた海賊が若者にむかって怒鳴る。「わしらが重ねてきた罪は、誰かが罪だというから罪なのか? ちがうだろう、それはただ、罪なのだ。過去をなかったことにできないのと一緒で、わしらの罪は、聖ニコラスにだって消せやせん」

 だから、観念して地獄行きをうけいれろと老人は言う。義哉はもっともだと思いながらベッドに寝そべった。

 ばらばらになった意識の断片が、麻薬でうす汚く濁った空間を浮遊している。その下には深淵が横たわっていた。正気を失くす人間の誰もがそこへ墜落していくところの深淵である。義哉は酩酊しながら、その縁に立って、真っ暗な谷底を見下した。そうして考えた。老人の言葉は六分儀のように整然としていたけれど、自分は狂騒するより、静かに幕を下ろすほうを選びたい。それはスミスアンドウェッソンの銃口をこめかみに当てればすぐにやってくる。麻薬の過剰摂取でもいい。クローゼットにネクタイを引っ掛けても構わない。……

 義哉は朦朧としながら、海賊たちがあれからどうなったか、ふと気になった。無論黒い海に沈んだのだろうが、案外どこかの島にたどり着き、嵐の夜のことなど忘れて平和にやっているのかもしれない。そう思った途端、かれらを遠い存在に感じた。そうしてぼんやりと天井を眺めているうち、カーテンがほんのりと明るくなってきた。

 身を起こすと、冷たい藍色の底に、家具や調度が眠ったように佇んでいた。義哉はクスリの抜けきらない意識をひきずって、壁伝いに脱衣所へ這入った。磨りガラスから白っぽい光が流れこんでいる。洗面台の鏡には、精悍な痩躯が映っていた。歯を磨き、ひげをあたると、シェービングに特有の匂いがいやに鼻腔にへばりついて、軽く吐気を覚えた。いっそ吐いてしまおうと、台の栓をはずして、喉に指をつっこんでみたけれど、粘りつく酸っぱい液体が、胃からすこしせりあがってきただけだった。それから義哉はボクサーパンツを洗濯籠に放って、熱いシャワーを浴びた。

 バスタオルで身体を拭い、下着だけつけたが、ワイシャツに袖を通す意欲がどうしても起こらない。ポータブル・ラジオのスイッチを入れると、雑音が酷くて、それが鼓膜をとおして脳を揺さぶるように感じられ、義哉は鋭く顔をしかめながら項垂れた。ボリュームを絞ろうとしたとき、アナウンサーが緊急の気象情報だと云うので、その手を止めて聴き入った。

 ……ただいま、比良坂市の一部に降りている電気雲は、午前八時を過ぎる頃には市の全域を覆うものと見られています……通常より厚みがあり……依然として晴れる見通しは立っていません……通勤通学の際はくれぐれもご注意を……

「注意だ? するしないは俺の勝手だろうが。いちいち指図すんじゃねえ……」

 義哉は脱衣所の窓を開け、白濁した空気のなかに漫然と顔をつきだした。上下左右を厚い霧に遮られて、なにも見えない。ただ、市街に特有のノイズが遠く響いてくる。幻想的な感じがした。なんとなく、飛べそうな気がして、頬が緩んでくる。

「フライ、イントゥ、ザ、スカイ……」

 歌うように囁き、冗談のつもりで窓枠に足をかけたとき、部屋のドアがノックされた。

「あの、おはようございます、シエラです」

 義哉はぼんやりとドアのほうを振り返って、

「オッス。どうした」

「蓮見さんから連絡がありました。今日は電気雲がひどくなりそうなので、わたしたちは登校しなくていいそうです。それから、窓はちゃんと締め切るように、だそうです。――あの、気分はいかがですか」

「最高」と、義哉は言った。「シエラはどうよ」

「えっ、あの」

 そのとき、義哉は洗濯籠に脚をとられて、背中を激しく壁にぶつけた。ぼうっとして窓を見上げると、脱衣所に流れこんだ靄が、視界を薄く蔽っている。一点の黒い染みから始まった幻視は、ねばねばする質感をもって蠢きはじめ、やがて、血にまみれたフランス人形のかたちをとった。なにか、呟いている。――死にたい。義哉はゾッとなってうずくまり、喉を絞るようにうなった。

「ごめんなさい。わたし、入りますね!」

 扉のむこうで、シエラが声をあげた。すぐに、錠の砕ける硬質の音がして、廊下を足音が迫ってくる。呆然とする義哉の目のまえで、シエラは窓をぴしゃっと閉め、それから傍にしゃがみこんだ。

「あの……大丈夫ですか」

「だめ」と義哉は云って、微笑した。「もう死にたい」

 シエラが、あまりに悲しそうな目をしたので、義哉は酔いの醒めるような気分になった。

「本気にするなって。雲の毒気に当てられたらしい。もう、大丈夫だ」洗面台に手をかけ、立ち上がって、「今日は、学校へ行かなくていいって? だったら、二度寝をしなきゃな。ちょうどよかった、ダルくて仕方がなかったんだ」

 脱衣所を出て、ベッドに倒れこむようにして横たわり、それからシエラを振り返って、

「そうだ、一緒に寝る?」と、誘うようにタオルケットをめくった。

「はい」

 即答だった。

 義哉は溜息をつき、濡れた髪をかきあげた。

「……それはやっぱりまずい。野宮に見られたら変態扱いされるし、寮母さんにバレたら寮を追い出されちまう」

「どうしてですか」

「男はなにかと邪推されるんだよ。とにかく、そういうことになってるんだ」

 義哉はどこか淋しげなシエラの後姿を見送ると、枕に顔をうずめた。

 深い眠りから覚めると、机のうえの時計は正午すこしまえを指していた。意識の瞭然としない感じは抜けて、かわりに寝起きの気だるい感覚が全身を覆っている。ぼんやりと天井を見上げていると、思考の流れは自ずとフェンスを挟んで対面した少女のもとへ落ちていこうとする。義哉は、そこに待ち構えている憂鬱が恐ろしくて、無理に身体を起こし、チノパンに脚を通して長袖のボウリングシャツを着ると、電気雲のせいでいつもより薄暗い廊下に出て、ラウンジへ降りていった。

 下ではろうそくを立てたレトロな燭台が、テーブルに幾つか並べられていた。その明りが、肩をよせてファッション誌をめくる奈々とシエラを、穏やかに照らしている。

「なんかあやしいな」と、義哉は燭台のくすんだ真鍮の肌に触れながら、椅子に座った。

「だって、懐中電灯の電池が切れちゃったんだもん。備品はこれしかなかったんだもん。でも、そんなに悪くないでしょ」と、奈々は弁明する。

「外はまだ曇ってンのか。これじゃあ昼飯を食いに行けないな」

「なんか、今日、やけに長いよね。いつもは三十分くらいで終わるのに」奈々が心配そうに、エントランスのほうを眺める。電気雲が、厚くガラスのむこうを蔽っている。幻影さえ、その厚みに遮られ、ぼやけて見えた。

 義哉は階段のほうを振り返りながら、

「そういえば、胡桃沢は」

「調べものだってさ。朝からずっと部屋に篭ってる」

「熱心だな。でも、この電気雲じゃ、パソコンはまともに動かないだろ」

「ディフェンダーを使ってるんじゃないのかな。ていうか、最近はあるらしいよ、雲対策バッチリのパソコンとか」

 へえ、と義哉が相槌をしたとき、薄闇のむこうから階段を駆け降りてくる音がした。

 奈々は嬉々として、

「あっ、おはよ」

「おはよ。というか、時間的には、こんにちは、かな」

 蝋燭のひかりのとどくなかに、ブラック・ジーンズを穿き赤いチェックのシャツを着た胡桃沢が、忽然と現れた。さっそく、燭台を手にとって、「これ、半端に古いのが、雰囲気出ててやだね。ホラー映画のセットみたい」と遠慮なく批評する。

「だよな」

 義哉は奈々を見やった。かの女は泣きそうな顔をしていた。

「今日、寮母さんは」と、胡桃沢が訊ねると、シエラが、

「雲が出ているので、お休みするそうです」と答えた。

「……じゃあ、いま寮にいるのは僕たちだけ?」

 声をひそめ、念を押すように胡桃沢が言ったので、義哉は、

「なにか、新しい発見でもあったのか」と、話を向けてみた。

 胡桃沢は、コーデュロイのソファに浅く腰をおろし、「……東亜の討伐士のチームは、セクションワン、ツー、スリーときて、次はファイブなんだけど、これっておかしいと思わない?」

「それなら蓮見サンに聞いてみたことがある。『四』は縁起が悪いから飛ばした的なことを言ってたが」

「じつは違うんだよ最上」胡桃沢は怪談でもしているかのように、それらしい顔つきをして、「東亜にはかつて、セクションフォーを創設する計画があったんだ。でも、中止になってしまった。事務処理の都合があって、そのまま空きになっている、というのが実際のところらしい。――どう、続き、興味ない?」

「聞こう」

 胡桃沢は得意そうに頷き、

「こんなノリになっちゃったけど、実はけっこう深刻な話なんだ。臨時防衛委員会が都市を防衛する必要からシャーマンに麻薬を流し続けてきたことはまえに話したけれど、やつらはその一方で、麻薬に依存しないディフェンダー使いを人工的に作り出すことも考えていた。人工的にと言ったけれど、それは要するに遺伝子関連技術をつかってということだ。委員会は、ディフェンダーへの耐性をもつひとたちから遺伝子をかきあつめて、組み替えや配合を繰り返したんだ。閲覧した文書のなかでは、『人間の品種改良』という言い方をしていた。そうして製作された、極めて高い耐性を持つ子供たちは、第二世代セカンド・ジェネレーションと名付けられた。この子たちは委員会が期待した以上の能力を示したけれど、委員会は後になって突然、『計画の破棄』と『被験体の処分』を決定した。その理由はよくわからない。東亜側の幾人かは、委員会がやがて成長した子供たちにその地位を追われることになるのを恐れたためではないかという見解を持っていたみたい。ともかく、東亜側は委員会の唐突な決定の背後にあるものを忖度しながら、セカンド・ジェネレーションをなんとか自社に引き取ろうと画策していたらしい。もちろん、それは人道的な理由からではなく、専属の討伐士にするためにね。そのときに、セクション・フォーのラベルが用意されたんだ」

「『処分』ってさ、つまり、殺すってことだよね……」奈々は顔をしかめる。その傍で、シエラが自分を抱くようにして細い肩をすぼめた。他人事とは思えなかったのだろう。

「……で、それからどうなったんだ」と、義哉は先を促した。

「いわゆる『処分』が行われる直前に、トラブルが起こった」胡桃沢は少しうつむいて、眼鏡を押し上げ、「セカンド・ジェネレーションはこれを事前に察知して、抵抗を試みたんだ。――今年の始めごろ、委員会の管理下にある研究施設で、かなりの規模の爆発があって、報道では反政府グループのテロということになっていたけれど、実はこれがセカンド・ジェネレーションの武装蜂起によるものだったらしいんだ。このとき、シャーマンのグループのひとつ『多頭蛇』が戦闘に介入してきて、大混戦になった。この混乱のなかでセカンド・ジェネレーションのうちの幾人かが施設からの逃亡に成功したらしいけど、委員会の息のかかった討伐士によって次々と見つけ出され、殺害された。ただひとり、いまだに行方の掴めない少女がいるそうだ。たしか、コードネームはリーナと云ったかな。……どうした、最上」

「なんでもない、なんでもないんだ」義哉は立ち上がって、「ちょっと」

「顔、真っ蒼だよ」と、奈々が心配そうに覗き込んでいる。

「この怪しい灯りのせいでそう見えるンだよ」と、義哉は微笑して、「咽喉が渇いた。水、飲んでくる」

 闇にほとんど埋もれてひっそりとした通路を渡って、給湯室に入るなり、シンクの縁に右手をついた。オマエの存在そのものが、根本的に間違っているんじゃないか――その疑問が、爆発的に膨張し、オマエに生きる価値なんかないだろう――という強迫観念に変じていく。義哉は抽斗をまさぐって、果物ナイフを取った。鞘を払い、刃先を頸にあて、ごくりと唾を飲み込んだとき、その手首に誰かの指がからみついた。だめです、とシエラの掠れた声が云う。

 振りかえると、かの女のいまにも泣き出しそうな表情が間近にあった。むこうが透けて見える。義哉は手を伸ばして、白い頬に触れようとした。手のひらに伝わるものは、なにもなかった。

 突然、磨り硝子のむこうが明るくなって、給湯室に澄んだひかりが流れ込んだ。ケトルや電子レンジ、戸棚の食器が深い藍色のなかからふっと浮き上がるのと入れ違いに、シエラの幻影は忽然と消えた。

 果物ナイフの刃が、鏡面のように義哉の眸をうつしている。それを鞘に戻したとき、

「おい、最上」と、胡桃沢が外で大声をあげた。「空がすごいことになってる。来てみなよ」

 義哉が非常口からサンダルをつっ掛けて敷地へ出てみると、確かに空が異様だった。漆黒の一色に染まった天の頂に、七色の暈をまとったひかりの塊があった。高層ビルや高架橋の背にはオーロラのような青白い帯が幾重にも降りて、神々しく揺らめいている。

 義哉は、走って近づいてくる胡桃沢に、

「なんだ、これは……」と問いかけた。

「分からない」胡桃沢は眼鏡を鼻先まで下ろして、空を見上げる。なにか云おうとしてか、目を義哉のほうにむけたとき、義哉のチノパンのポケットが電子音を鳴らした。とりあえず出なと、胡桃沢が仕草する。義哉はうなづき、携帯端末を取り出して耳にあてるなり、蓮見の緊迫した声が飛び出してきた。

「みんなを集めて、本社に来て。大至急ね」


 外国の消印を連想させる波線の束に、羽根を一枚乗せたのが、比良坂の市章である。そのマークと市政のスローガンが交互に印刷された背景のまえに、市の報道官が現われた。かれは軽く咳払いをし、マイクの束にむかって、

「本日正午をもちまして、比良坂市臨時防衛委員会は、次元崩壊対処法の第六条および第七条第二項に基づき、非常事態宣言を発令いたします。市民の皆様におかれましては、市当局および関係機関による秩序快復と安全確保のための活動にご協力くださいますよう、お願い申し上げます……」

 フラッシュが激しく明滅し、報道陣の疑義を質す声が錯綜した。

 記者会見場のどよめきは、液晶画面を跨いで、東亜本社ビルのブリーフィング・ルームに伝播した。一堂に集められた東亜専属の討伐士たちが、訝しげに言葉を交わし始める。

 後方の窓辺に席を占めた義哉たちも、例外ではなかった。

「早すぎはしないか」と、義哉は目を細くする。「非常事態宣言なんて、手続きとかあって、そう簡単に出せるもんじゃないだろう。まるで待構えていたみたいだ」

「臨時防衛委員会は予期していたってこと?」胡桃沢が、会見の模様に眼をくぎづけにしながら訊ねる。

「多分な」

「ね、見て」と、奈々が窓下の道路を指をさす。

 義哉が窓枠に手をかけて見おろすと、進入禁止のポールで南北を塞いだ大きな交差点を、八本足の巨大な蜘蛛のような兵器が、アスファルトに爪を食い込ませながら歩行していた。その両脇に、機関砲を載せたジープや装甲車が連なっている。

 ポールのむこうには群集がつめかけて騒然としていた。ヘルメットに迷彩服の兵士たちが、小銃を携えてかれらに睨みを効かせている。

 そう遠くないところから、ヘリの爆音が響いてきていた。

「結局、どういうことなの、これ」と、奈々が目を険しくする。

 義哉は頬杖をついて、成層圏を喪失したように黒々とした空を見上げた。街全体が、一級危険区域のもとに入ったということに疑う余地はなかったけれど、口に出すのがなんとなく憚られた。降りかかりつつある得体の知れない災難が、言葉にすることで避けがたい宿命のようになってしまうように思えて、気が重かった。

「ねー、最上い。なんか喋ってよ」と、奈々が義哉の腕を揺すったとき、社内アナウンスが流れた。

 ……セクションワンからスリーのメンバーは、ただちに出動の準備を整えてください……セクションファイブは午後一時よりミーティングを行いますので、第三会議室へ……

 義哉は戦時の気配を判然と漂わせはじめた市街の様子をもういちど見やって、のろのろと立ち上がった。

「……だってよ。行くか」


 予定の時間を過ぎても、蓮見は会議室に姿を現さなかった。そのうち、社員食堂から弁当が届けられた。義哉たちがそれを突いていると、女性用に特有の靴音が廊下を慌しく迫ってきた。

 ドアがひらき、現れた蓮見は、肩で息をしながら手首を見て、三十分の遅刻を認め、「ごめんなさい、打ち合わせが長引いちゃって……」ホワイト・ボードのまえの席につき、吐息をした。それから奈々が差し出した缶コーヒーを受けとると、ありがとうを言ってプルトップを起こし、あごを上げてごくごくと飲んだ。

「食べながら聞いてくれて構わないわ」とかの女は前置きして、「空、見たでしょう。もうみんな、分かってると思うけれど、比良坂市の全域が、一級危険区域に入ったの」

「ええっ、まひれすか」とおおきな声を出した奈々はごはんに頬を膨らませたままで、その先を聴き取るのが難しかった。蓮見が、すこし眉間を狭くしてシエラのほうを見る。シエラは、

「あの、野宮さんは、『それじゃあゴーストってどんだけ強力なんですか』と訊いています」と、説明した。

「それは……まだ調査中よ」

 義哉は、このときの蓮見の、視線の伏せかたがなんとなく気に入らなかった。かの女は続ける。

「いま、軍と市の討伐士が街に侵入し始めたレギオンの迎撃に出ているけれど、対症療法にしかならないと思う」

「ですよね」と、胡桃沢が相槌をうつ。「ゴーストを撃破しない限りは」

「いま臨時防衛委員会が中心になって、ゴーストを直接叩くための作戦を立案しているの。それでね、あなたたちには中心的な役割を担ってもらうことになるかもしれない」

「ちょっと待ってくれませんか」と、義哉は弁当に蓋をかぶせながら言った。「蓮見サンは実際のところ、この問題について、どこまで知ってるンですか」

「どこまでって、どういうことかしら」

「セクションフォーのこと、聞きましたよ。委員会が潰そうとしていた特殊なディフェンダー使いたちを、東亜が引き取ろうとしていたって話じゃないですか」

「お、おい、最上――」胡桃沢が、義哉の腕をつかんだ。義哉はそれをいいからと抑えて、

「あんたは知っていたのに、とぼけた。それはそれで構わないが、あんたは東亜の事情の、かなり深いところまで知っているンじゃないのか」

「どうして急にそんなことを云うの」

「ゴーストについては調査中だと、さっき言ったけれど、ほんとうか。こうなることは前もって分かっていたンじゃないのか。――そして、この街が滅ぶに違いないことも」

「滅んだりなんかしないわ」

「訊きたいのは根拠のない建前論じゃない」と、義哉は冷然として言った。「この際、はっきり言わせてもらうが、俺にはこんな街と道連れになるだけの理由がない。事情をあらかじめ知っていたら、東亜の専属にはならなかった」

「………」

「云うことはなにもないか。だったら、話は終わりだ。俺はここで降りさせてもらう」

「待って、」蓮見は観念したかのように溜息をついた。「そうよ、最上くんが考えている通り、あなたたちに話した以上のことを私たちが予め知っていたのは事実よ。でも、東亜はずっと以前から、シャーマンに麻薬を流し続けて生命素を培養するっていう、臨時防衛委員会の計画にはっきりと反対してきたし、その生命素がゴースト化する可能性も認識していた。あなたのハンニバルも、野宮さんの真改も、実はこの危機に対応するために開発されたものなのよ。ゴーストのことは調査中と云ったけれど、嘘。私たちは敵の概要を知っている。作戦は立案中だと云ったけれど、それも半分嘘。軍事衛星の主砲をつかってゴーストの防御フィールドを破るという計画が、細部の調整を残してだいたい出来上がっているわ」

 義哉は机にもたれて、額をてのひらで支えた。軍事衛星を用いるということは、つまり、そこまでしなければ到底打撃を与えることのできない相手だということを意味していた。降りるとは云ったけれど、蓮見から本音を引き出すための駆引きで、そんな選択肢は始めから胸のうちになかった。奈々は孤児院の子供たちのためならすすんで作戦に赴くだろうし、正義感に溢れた胡桃沢は云うまでもなかった。シエラには、作戦を拒否するという発想すらないに違いなかった。傍で不安げに義哉を見つめている三人は、必ず戦場に立つ――義哉はその結果としての惨状が今から眼に浮かぶようで、眩暈がした。

「……作戦の概要を聞かせてもらえませんか」

 蓮見は言葉の意味を了解したと見えて、すこしだけホッとした表情を浮かべた。

「このゴーストの防御フィールドはかなり強力で、軍事衛星の主砲のエネルギーを極限まで密集させないと破壊が難しいの。小学校のころ、虫眼鏡をつかって紙を焦がしたことがあるでしょう。あの要領ね。けれども、あまり密集させてしまうと、砲撃の進路が安定しなくなってしまう。そのうえ、宇宙空間から汚染された区域のなかに撃ち込むことになるから、弾道の計算がとても複雑になる。これを制御するためのシーケンサーはものすごく容量が大きくて、超高性能のプロセッサが必要になるんだけど、それを持っている唯一のハードが、最上くんのハンニバルなの。つまり、最上くんには現場で、砲手ガンナーをやってもらうことになるわ。でね、狙撃のための座標情報を最上くんに送るポインタの役目を、胡桃沢くんにやってもらいたいの。それから、」

「待ってください」と、義哉は話を遮った。「ポインタ役は、ターゲットにぎりぎりまで近づく訳でしょう。街全体を危険区域に包んでしまうほど強力なゴーストにそこまで接近しろって……、胡桃沢に死ねと云うんですか?」

「いや、僕はやるよ。最上、気を使わないでくれ」胡桃沢は穏やかに、しかしきっぱりと言った。

「あのな、おまえ、分かってンのか!」義哉はカッとなって胡桃沢の肩を掴んだ。「……いや、すまない。とにかく、すこし考えてみよう。胡桃沢を危険に晒さずに済む方法があるかもしれない」

「そのあたりは、もちろん分かっているわ」と、蓮見は沈着した声で言った。「この作戦に参加するほかの討伐士たちが、ターゲットに接近戦を仕掛けて、胡桃沢くんをサポートする予定になっているの。……この街のために命を投げてもいいって思ってる討伐士は、最上くんが考えているより、ずっとたくさんいるのよ」

「………」

「うまくいけば、ゴーストの防御フィールドの、ほとんどを削ることができる。砲撃のダメージで、戦闘力そのものも大幅にダウンする筈よ。そこからは、最上くんと、野宮さんと、シエラの三人で、接近戦を挑んでもらうわ。野宮さんとシエラは、忘れないで、あなたたちはあくまでも、最上くんのサポートだから。最上くんが危なくなったら、身を挺して庇うのよ」

 義哉の傍で、可憐な白い顔がふたつ、そろって頷いた。義哉はやりきれず、唇を噛んだ。

「それから最上くん。あなたも、ゴーストを撃破することを最優先で考えて。最悪、野宮さんやシエラを捨石にするつもりでいてね。――あなたの言いたいことは分かるわ。でも、あのゴーストをどうにかして撃破しないと、街は壊滅するしかないの。それを阻止するために、多くのひとが自らの命を危険に晒すの。その重みを忘れず、いつもの、冷徹な判断を貫いて」

「いつもの、ね」義哉は、自虐を込めて呟いた。

「作戦の決行は、明日の午後二時よ。というのも、軍事衛星が比良坂市の上空を通過するのが、ちょうどその時間なの。衛星は、まえもって軌道をずらし、高度をギリギリまで低くする。そうしないと、計算上充分な火力が確保できないの。衛星はその後、太平洋に着水する予定。だから、チャンスは一度きり。次はないわ」

「ターゲットは具体的にどんな姿を? いま、何処に?」と、胡桃沢が訊ねる。

「このゴーストは意識体戦闘補助OSガーディアンに自己を構成したことが確認されているわ」

「ということは、つまり、そのゴーストをインストールする使用者ユーザーがいる?」

 義哉の問いに、蓮見は頷いた。

「さっき、あなたがセクションフォーの話をしたけれど、第二世代に所属していた子のひとりの、行方が分からなくなったままなの。その子が、このゴーストをインストールしているものと考えられているわ。非常に強力なガーディアンだから、要求される耐性の大きさも桁違いなの。こういう事情を考えたら、その子しか考えられないのよ」

 言いながら、書類ケースからカラー印刷のA4紙を取り出して、各々に配る。

 義哉はカラー印刷された可憐な少女を見て、愕然とした。それは金網を挟んで対面したリーナそのものだった。

「つまり、この子が狙撃のターゲットになる訳ですよね……」

「そういうことね。境遇を考えたら、可哀想な気もするけれど。どうかした?」

 義哉は、嘆息して天井を仰ぎ、「このひとに、個人的な感情があるんです。申し訳ない、狙撃の任務はだれか他のひとに。――ごめん、みんな」

 立ち上がって、会議室のドアに手をかけたとき、蓮見が肩を掴んだ。

「個人的な感情って、どういうこと」

「言葉どおりの意味です」

「でも……あなたの他に、ハンニバルをまともに動かせるひとはいないのよ。知っているでしょう」

「捜したらいい」

 蓮見の表情が、火のついたように嶮しくなった。

「今から? 冗談言わないで。見付からなかったらどうなるの。あなたね、街の存亡が懸かってるのよ!」

 義哉はぼんやりと蓮見を振り返り、

「いっそ滅べばいいんじゃないスか、こんな街」

 リーナが蓮見たちの推測どおりにゴーストをインストールしたのだとすれば、それはかの女がゴーストにシンパシーを抱いた証だろうと、義哉は考えた。そのゴーストは、麻薬常習者の生活についてまわる退廃の空気を吸って育ち、肥大化した。ふたりを繋いだ想いとは、厭世という言葉をとうに通り越した、世界への激しい憎しみかもしれなかった。

 すべてがリーナの望んだとおりになればいいという義哉の気持ちは変わっていなかったし、そんな風にかの女を追いつめたのが自分だという罪悪感は、依然、胸に深く刺さっていた。

 義哉は、言葉を失った蓮見をよそに、静かに部屋を出た。


 エレベーターで一緒になった青山が、会議はどうしたと尋ねるので、義哉はありのままを話した。青山は無雑作に頷いて、

「だったら、寮まで送っていこう。丁度、臨時防衛委員会に出頭を求められていて、出なければならんところだった。なに、遠慮するな。この厳戒態勢下で不用意に出歩けば、兵隊どもに捕まりかねんぞ」

 地下駐車場の隅にとまったBMWにむかって、青山がリモコンキーをいじると、すうっとサンルーフが後退した。

「実は、買ってから一度もオープンにしたことがなかったんだ」と、青山は苦笑いをした。「ローンはあと二年残っているが、この調子なら、払わずに済むかな」

 本社前の検問を抜けると、青山はカー・ステレオの音量を絞り、

「じつは、君にどうしても言っておきたかったことがある。――私はあのとき、君をマキャヴェリストと評したが、君はこれを蔑称と受け止めたかもしれない。だとしたら、それは間違いだよ。だいたい、この言葉は長いあいだ曲解されてきた。『マキャヴェリスト』は『権謀術数主義者』と訳されるそうだが、そこからしておかしいと思わないか。権謀術数は手段であって主義や目的にはなり得ないのだから。――手段そのものに、善悪はない、絶対に。考えて見給え、ここに二人の母親がいる。ひとりは子を養うために娼婦をしている。ひとりは売春を厭い、子を餓死させてしまった。どちらが良い母親だなどと、誰が論じられるというんだ。身体を売った母親は、子を愛した。子を餓死させた母親は、子の父親を愛した。それだけの話だよ。とすれば、マキャヴェリストという言葉は、ただ巧みな人だとか、聡明な人だとか、そういう風に解されて然るべきだ。しかも、これは人に冠しうるなかでもっとも荘厳な標題のひとつだ――そう、私は信じている。躍動的な彫像がすべてそうであるように、この言葉にも、生き抜こうとする人間の美しい影がある。私はこの影を君のなかに見た。だから、君をマキャヴェリストと呼んだ」

「けれども、青山さんは知性を邪悪な蛇だと」

「そう、確かに言った。けれども悪戯三昧のヘルメス少年は長じて、ギリシャの偉大な神のひとりとなったんだよ。そこを見落として欲しくないね。詐欺師は詐欺師、泥棒は泥棒に過ぎないが、マキャヴェリストは翼をもった蛇だ。――これ以上誤解を重ねたくないので言ってしまうよ。私は、街の存続に骨を折れと君に云うつもりなど微塵もない。むしろ逆だ。私は、君に賛成なんだよ。この街はいっそ滅んだほうがいい」

 義哉は、冗談かと思って、青山の横顔を見つめた。その双眸は険しかった。

「リーナのことは、小さい頃からよく知っている。言葉でじゃれるのが大好きな、淋しがりやの子だった。かの女だけじゃない、第二世代の子は顔も名前も、全員憶えている。というのも、私は大学時代から、あの計画に関わってきた。……この手の機密を他言すると消されることになりかねないが、街がこうなった以上は同じことだ」

「………」

「シエラのガーディアン『スターリイ・スカイ』の元となった生命素をどこから持ってきたか、分かるかい? 答えは、生贄に選ばれてしまった第二世代の不幸な少女から、だよ。私はその子から、手作りのバレンタイン・チョコを貰った。なのに、その子は私が打った注射によって意識をうしない、抽出器のなかに運び込まれた。くっくっく、騙されているとは露も思っていなかったろうな。かの女はそれから半年間、私たちの手で麻薬漬けにされた挙句、死んでいった」

 義哉は息を飲んだ。青山は口元を押さえ、喉を震わせていた。

「人間は、理屈や大義によって生きるものではない。私は、そのことに気付くのが遅すぎた。街を守るために必要なことだと、自分に言い聞かせても、私の胸はおさまらなかった。罪悪感と、悲しみと、息苦しさが、毎晩、生存という絶対の大義を越えて私に迫った」

 街の四方から、断続的に轟音が響いてきた。そのたびに、フロントガラスが振動し、義哉の肌はひりひりとした。

 青山は、訥々と続ける。

「あのとき、君と話してみて、私と似ていると思ったんだ。すまない、これは私の勝手な思い込みだ。その思い込みの先に、君の感じている息苦しさみたいなものを、なんとなく想像している。君はたとえ、歯を食いしばって作戦に赴いたとしても、愛する女性を殺害することはできないだろう。仕方のないことだ。だから、君ははやく、街から脱出する算段をつけるといい。そうして、こんな街のことなんか、さっさと忘れてしまうんだ」

 BMWは、静かに寮の門前に止まった。義哉は降りる際、

「青山さんは、これからどうするんですか」と、尋ねた。

「作戦の技術面をサポートする仕事が残っている。今日は徹夜になるだろうな」

「いや、そういうことじゃなく……」

 青山は、疲れたように笑って、

「街のためと称して子供を殺してきた大人が、どの面下げて街から逃げられるというんだ。そんなクズは、臨時防衛委員会のなかにだっていやしないよ」

 かれは、じゃあ元気でと云って手をあげた。BMWは無人の片道二車線の通りを、ホイルを軋ませてターンするなり、みるみるうちに小さくなった。義哉はそれが見えなくなってしまうと、寮に入った。


「最上、つまらん気は起こすなよ」

 寮の部屋の鍵はシエラが壊したままになっている。けれども義哉は侵入者を疑わなかった。声は耳に馴染んだものだった。――高梨のアバターが、机に腰をかけている。

「あんたか」

「この危険区域は尋常のものじゃないぞ。霧が出てる訳でもないのにこうしてアバターを使って出歩けるのがなによりの証拠だ」

「バカンスはもういいのか」

「蓮見は正義の味方だ。きっと、おまえにいろいろ言うだろう。けれど、口車に乗せられて、あのゴーストと戦っちゃいけない。絶対に、だ」

「わざわざ、それを言いに来たのか」と、義哉は微苦笑した。「ところで、蓮見サンはいったい何者なんだ。中央の政府機関の関係者か」

「いや、特捜の検事だ。比良坂市の臨時防衛委員会の内偵のため、戸籍を偽って、東亜に潜入している。というのも、委員会は一切の情報を秘匿することで自らの権力を保っているが、刑法の適用を免除されている訳ではないんだ。特捜は、証拠を固めて裁判所から逮捕状を取ることさえできれば、委員会を追い込めるかもしれないと考えている。無論、裁判所に手をまわす必要に気が付かないほど間の抜けた委員会じゃないがな。けれど、そんなことはどうでもいい。比良坂市はもう駄目だ。すぐ、脱出の準備にかかるんだ」

 義哉はベッドに座ると、前かがみになってフローリングの木目を見つめた。「分かっている。けれど、いまは考える時間が欲しい」

「今更、なにを検討する必要がある。まさか、おまえ」

「蓮見サンには、他をあたれとはっきり言っておいたよ。考えたいというのは、個人的なことだ」

 アバターは、机の大学ノートを取り上げて、「なあ、つまり、これのことだろ。いや、覗いた訳じゃない。このページがたまたま開いてあったから……」

 義哉は呆れて、アバターののっぺらぼうの顔を見つめ、それから視線を落とした。

「恋の病、ってことか」アバターは仕方ないとでも云うように溜息をついて、「まあ、だれでも一度は通る道だ。けれど、手遅れにならんうちに区切りをつけろよ。リーナって子は、自分の意志でゴーストの媒体になる道を選んだんだ。誰の責任でもない。それに、あの街の様子じゃあ、軍も討伐士たちも、二日ともたんだろう。シャーマンがレギオンに組み込まれている。連中はゴーストの影響で、麻薬なしにディフェンダーを使えるようになったようだ。こいつらが、亡者のようになって市の軍や討伐士を襲いはじめている。――いいか最上、包囲網が出来上がってしまったら、もう脱出は望めないぞ」

「ああ、わかってる」

「まったく。おまえは妙なところが甘くて、変なことに意地を張ったりするからな。決心がついたらすぐに連絡しろよ。待っている」

 フローリングが照り返す、アバターの淡い影は、義哉の視界の隅で、スイッチを切ったように消えた。


 脳がぬるい湯に浸かったように、思考は散漫をきわめた。考える時間は欲しかったが、何について考えようとしているのか、義哉自身、よくわからなかった。ただ、リーナと交わした言葉の数々が無意味に脳裏をめぐる。そうして、金網を挟んでの凄烈な視線にはっとなって、我にかえる。呼吸を整えると、また自然にリーナのことが心を占める。そのあいだずっと、目覚まし時計のちいさな針の音が、チッチッと時を刻みつづけた。

 ときおり、轟音が微風を割った。すると、窓のむこうを悪夢のように覆っている漆黒の空に、真っ赤な光が滲んで拡散した。市街の随所から、青々とした煙がたちのぼっている。そのうえで、暈をひろげた太陽は、白々しく輝きながらゆっくり傾いていった。

 やがて、追憶は使い古した布のようにボロボロにすりきれて、義哉の意識を淡く包むようになった。断続的に響いてくる爆音は、この淡さをわたるうち、古びた鐘の音に似た優しさを帯びるようになった。

 リーナの悲痛な叫び。心の底から絶望した人間の自暴自棄。もう死にたい……本気になってわたしのことを殺しにかかれば……。卒然として、義哉の視界が涙に揺れた。

「馬鹿言うな……ンなことできっかよ」

 そのとき、遠く声がした。義哉は袖で目元をぬぐって、立ち上がった。階段をかけあがる足音が、少しずつ近づいて、やがて、半開きのドアを、コツコツとノックした。

 胡桃沢と野宮が、指の先を絡めて立っている。ふたりとも微笑を浮かべていた。義哉にはそれがあまりにあどけなく、無邪気に見えた。ふたりは幼い兄妹のようだった。

「……ああ、なんて言ったらいいのか」

「よかったあ。もう居なくなってたらどうしようって思ってたの」と、奈々はいつもの調子で言った。「最後に、どうしてもあんたに会っておきたくて」

「済まない。ずっと、野宮の味方でいるって約束したのに」

「なに言ってんの。あたしもあんたの味方なんだよ。最上が、好きになった女の子のことを、殺せるわけないって分かってるしさ。出来ないことをやれって言うのって、そんなの味方じゃないもん」

「野宮……」

「ちょっと淋しいけど……元気でね。あたしのこと、忘れないでね」

「本音を言えば、僕は最上と一緒に戦いたい」と、胡桃沢はすっきりとした表情で、言った。「最上ならなんとかしてくれるんじゃないかって、そんな気がするし。それに、どうせ命をかけなきゃならないんだったら、最上に預けたいよ。けれども、それとおなじくらい、最上には生きていて欲しい。だから、これでいいと思ってる。蓮見さんはまだ諦めがつかないみたいだけれどね」

「あたしたち、今夜は家族と一緒に過すことにしたの。ほんとうは、作戦の主要メンバーは外出しちゃいけないらしいんだけど、蓮見さんが役員さんと掛け合ってくれて」

「そうか。――シエラは、どうしてる?」

「寮で過すってさ。あんたに貰った一輪挿しを眺めていたいんだって」

「じゃあ、僕らは行くよ。車を待たせてるんだ」と、胡桃沢は言った。「言っておくけれど、死ぬつもりはないよ。絶対にゴーストを仕留めて、街を救う」

「ああ……気をつけろよ」

 義哉は、まるで悲壮感のないふたりの後姿を見送りながら、言葉の響きの味気なさにやりきれなくなり、壁を激しく殴打した。気休めにさえなっていない。いくら気をつけたところで、どうなる相手でもない。唯一の勝算になるかもしれない自分は参加しないのである。

 自動車の動きだす音が、季節の微風と一緒になって部屋に流れこんできた。そのとき、ノート・パソコンのメーラーが着信を知らせた。高梨からだった。――いつまで考えているんだ、さっさと心を決めろ。義哉はそれに、――一晩考えたい。と返信して、ごろりとベッドに横たわった。

 生きながらえるつもりは、元よりなかった。


 湖底に沈殿する泥のような眠りが続いた。湖面から差すひかりは濁って、白くぼやけている。もやもやした抽象の視界のなかを、深刻で、ただ見守るにはあまりに重苦しい無数の事柄が、異様に絡みあって、鯨の吠えるようなノイズをうちおろしていた。

 寂然とした闇のうちに、義哉はふと瞼をひらいた。そうして何故か、覚醒することが、避けがたい必然のように感じられた。――声がする。

「戦場に立ち、切りの好いところで死ぬつもりか」しわがれた男の声である。節のつけかたがどことなく古めかしい。「よい案だ。貴様は女にも仲間にも面目が立つ。妥協点として、このうえなかろう」

 義哉は身を起こし、眼を細くした。

 頭から厚手の麻布をまとい、鎖を幾重にも巻きつけた長躯のひとが、うっすらと光を帯びて、ベランダに続く窓のところに佇んでいる。

「なんだよ、あんた」

「私は貴様の刃、貴様の鎧」布のひさしのしたで、精悍な感じのする口元が、ふっと笑みをたたえた。「それ以上でも、それ以下でもない」

「なるほど、とうとう出たか。あんた、『ハンニバル』だろ?」

「そう呼ぶ者もいる。だが、名などどうでもよい。――よく聞け。貴様がどうしても敵を討ち滅ぼしたいというのであれば、私はリミッターを解除する用意がある。むろん、その場合、私の機能のみならず、貴様の脳神経も時間とともに擦り切れていくことになるだろうがな。――それから、友よ、刮目するのだ。臨時防衛委員会に謀略を仕掛けるつもりなら、いまほど適した時機はない。――さて、云うべきことは云った。茶を濁して犬死するか、マキャヴェリストとしての本分を貫くかは、貴様の自由だ」

「なあ、訊いてもいいか」

 窓辺の男は、軽く顎をあげた。

「俺は、どうすればいいんだ。ぶっちゃけ、あんた、どう思う」

「自棄を起こした者の云うなりになることは、誠心の成すところだろうか」

「いや」

 男は、微笑んだ。「貴様はすでに答えを知っている」


 月のない夜の底に、水族館の水槽のようなコンビニが横たわっている。入っていくと、眠そうな眼をした金髪の店員が、カウンターの中から普段どおり「いらっしゃいませ、こんばんは」と言った。客はほかにひとりもいない。義哉は炭酸飲料とグラビア誌を無雑作に掴んでレジへもっていって、――おいおい、バイトしてる場合かよ。と、心のうちで苦笑した。

 店員のほうも、似たようなことを考えたらしく、釣銭を返すとき、

「街がこんなだってのに、コーラ飲んで水着ギャルをご堪能っスか。なんつうか、暢気っスね」

「大きなお世話です」義哉は受け取って、「そっちこそ、バイト以外にすることはないんですか」

 店員は、顔を悲しげに歪めて、

「嫁と、生まれたばかりの娘が、殺されたんだ、アンドロイドに」と言い、じわりと眼を潤ませた。「結婚するとき、嫁と約束したんだよ、真面目に働くって。だから、ここでレギオンにやられてくたばるまで絶対にバイトはやめない。ハハッ、店長と奥さんはとっくに逃げちまったけどよ」

「………」

 義哉が自動ドアを抜けるとき、店員は、――ありがとうございました。と、ごく自然に言った。冷たい夜風に、ほんの少し硝煙の匂いが混じっていた。


 寮の階段を上がるうち、義哉は気付くものがあってふと足を止めた。季節に取り残された蛾が、ランプ風の壁灯のまわりをひらひらと舞っている。けれども、義哉を踊り場で止めたのは、それではなかった。か細い声が聞こえてくる。歌のようだ。聞き覚えがあるけれど、曲名が浮んでこない。

 じれったい感じを頸のあたりに這わせながら、廊下に折れると、部屋のドアの傍にパジャマ姿のシエラが座っていた。壁に背をあて、キャラクターのプリントが入った枕を抱き、ぼうっと宙を見上げている。歌は、かの女の喉から零れてきたものだった。シエラは義哉に気付くと、歌をやめて、

「こんばんは」と言い、すっくと立ち上がった。「最上さんは、もう戻ってこないだろうなと思っていました。だから、あの、嬉しいです。――コンビニへ?」

「まあな、」と言って、義哉はなんとなく袋を隠した。中には、グラビア誌が入っている。そうして、かの女が自分にとってどういう存在なのか、改めて分かったような気がした。「つか、それ、いい歌だよな。曲名、なんつったっけ」

「あの、内緒です」

 まるで秘密を楽しむように、シエラは眼を細くした。けれども、それが有名なラブソングだということだけは、義哉は思い出していた。

 シエラはとつぜん、足許を見たり、かと思うと急に横を向いたりしながら、「……いまは、寮母さんも野宮さんもいないです」と、小さな声で言った。

「つまり、俺は誤解も追い出されもせずに済むな」と、義哉は苦笑いを浮かべて、「わかったよ。腕枕してやるから、来いよ」

「はい」

 シエラは嬉々として、義哉につづいてベッドに這入った。

 義哉は、自分の二の腕に耳をあてて幸せそうに眼を閉じるシエラを見、なんとなく、

「なあ、怖くないのか」

 すると、シエラはゆっくりと眼をひらいて、機械部分のうっすらと透過する眸をまっすぐ義哉にむけ、

「わたしは戦闘用アンドロイドです。恐怖の感情ははじめからありません。けれど……わたしが終わってしまうのかなって思うと、すこし淋しいです」

「そっか、だよな」

 心配するな、俺が守ってやる――そう言えないことが義哉の胸をしめつけた。言えば壮語になる。

「わたし、人間に生まれたかった」

 唐突に、シエラは言った。

「えっ」

「おとこのひととおんなのひとが一緒にベッドに入るのは、特別の意味があるんですよね。わたし、学校の友達に教えてもらいました。どうして最上さんは誤解されるのか知りたくて、訊いてみたんです」

「マジかよ」

「わたし、おとこのひとはそれが大好きだって聞きました! 最上さんも好きですか?」

「このシチュエーションで、答えづらいことを聞くな、あんた」

「わたし、最上さんにしてあげたいです。でも、わたしはアンドロイドだから……」

「気持ちだけで充分だよ。ありがとうな」

 シエラは初めて微笑んで、「わたしがリーナさんだったら良かったのにね」と言った。

 その一言が、まったくの善意から、シエラの透きとおった感情から来ていることを、義哉は分かっていたから、ただそっとかの女の髪を撫でた。

「最上さんにとってのリーナさんは、わたしにとっての最上さんなんです。わたし、アンドロイドだけど、ひとつだけ聞けない命令があるんです。それは、貴方と戦うこと。そんなことになったら、わたし、きっと、自分で自分を壊してしまうと思います。だから――、最上さんは絶対にリーナさんと戦わないで。――ずっと、悩んでいるんでしょう?」

「まあな。でも、腹は決まったよ」

「……どうするのですか?」

 義哉は悪戯っぽく、「シエラさんには内緒です」と言った。

「いじわる」

 シエラは拗ねたような顔をして、それから瞼を閉じた。



 義哉は黒檀の扉を蹴り開けると、革張りのソファを後ろから跨いで勧められる先からどっかと腰を降ろし、大欠伸をして、

「テメエ……いま何時だと思ってンだよ……マジでヤんぞコラ」テーブルの縁にガツンと靴裏を当てた。

 むかいに座る中年の男は、眼鏡のしたから義哉をすくい上げるように凝視し、

「貴様のようなロクでもない餓鬼にしかハンニバルを操れんとは。皮肉なものだな」

「ご挨拶だな、オッサンよ。え」義哉はぐいとテーブルに乗り出し、中年に顔を肉薄させた。「臨時防衛委員会がツラを貸せっつうから、こんな朝っぱらにわざわざ出てきてやったンだ。おまえみてえなペーペーの小汚え顔を見に来たんじゃねえんだよ。ええと、津村っつうんだっけ。とにかく、さっさとそいつを呼んで来い」

「副委員長は多忙だ。秘書である私が君に街の事情を説明することになっている」

「テメエなんかに説明されなくたって、あのドス黒い空を見りゃ分かんだよ。あのな、俺は臨時防衛委員会に死ぬほどムカついてンだ。テメエらがそろって拳銃を自分のこめかみに当ててバアンとやってくれりゃ、いくらでもゴーストの相手をしてやるけどよ、なんでテメエらみたいなカスどもを延命させるために、俺が命を張らなきゃならないわけ? だいたい街がこんなになったのは、おまえらの所為だろうが。いったい誰がこの責任を取るんだよ。おまえンとこのボスか、あン?」

 秘書は眼鏡を中指で押しあげ、「それについては委員会が然るべき時期に検討をするだろう」

「おいおい、おまえは餓鬼の使いなのかよ。なあ、おまえ、俺を説得するようボスから言われてるんだろ。議会の答弁みたいな言い草で俺が納得するとでも思ってンの? ここまで使えねえ秘書っているンだな、実際……」

 途端、秘書の顔が紅潮した。義哉は畳み掛ける。

「おまえじゃ話にならねえよ。いいからボスを呼んでこい。それともボスが怖くて呼びにも行けないか。まあ、無理もねえか。秘書なんてパシリの類いだもんな。――お互い時間の無駄って訳だ。じゃあな、オッサン」

「繰り返し云うが、副委員長は多忙なんだ。だが、要望があるならちゃんと伝えよう。いったいなにが望みなんだ」

「望みはたった二つ、二つだけなんだよ」と、義哉はテーブルをまわっていって、秘書の肩に腕をまわし、耳元で猫なで声を出した。「ひとつは、この問題を引き起こした委員会の責任者を厳正に処罰し、それを市民に報告すること。ふたつ。再発防止のため、委員会は今後半年間、無条件の情報開示を実施すること。――こんだけのポカを仕出かしたんだからよ、それくらいやらなきゃ、委員会としても極まりが悪いだろ? もしこの条件を飲むってンなら、文書にして委員長の署名を取り、俺のところまで持ってこい。そうしたら、ゴーストと命懸けで戦ってやる。ああ、約束する」

「飲めないと言ったら」

「しょうがない。そんときは、比良坂市と一緒に滅ぶしかねえな。ま、あんたらはよくやったと思うよ。ここまで市を生きながらえさせたんだ。胸を張って死んでいけよ」

「これだから餓鬼は――」秘書は激しく頭を振った。「そんなこと、委員会が飲むはずないだろう。考えてみなさい。街が滅べば、君も無事では済まない。とうぜん我々は君にハンニバルを貸与しない。二流どころのディフェンダーをインストールし、この街から逃げたところで、君はレギオンに食いつかれ、嬲り殺しにされるだけだ」

「ンなことは分かった上で言ってンだよ。そんだけ俺はおまえらが嫌いだってこと」そうして義哉は秘書のネクタイを掴んで引き寄せ、ドスを利かせた声で、「いいか、俺は本気だ。わかったらさっさとボスに報告を入れろ」と、ソファに突き飛ばした。


 市役所ビルのロビーには、大勢の報道陣が詰め、ごった返していた。壁を背にして照明をあつめた小奇麗なアナウンサーが、カメラにむかってリポートしている。その報道クルーのうしろを義哉が歩いていると、とつぜん腕を掴まれた。振り返ると、昨日とおなじパンツスーツを着た蓮見が立っていた。その横顔はやつれ、アップにした髪はほつれている。化粧を直す時間すら取れないのだろう。

 蓮見は無言のまま義哉を引きずるようにして歩き、裏口からビルを出ると、セダンの助手席に座るよう促し、自身も車をまわって運転席へ乗り込んだ。

「やっと貴方の意図が分かったわ。もう、あんまりやきもきさせないで」

 蓮見の、額を支える指のあいだから、蒼白い静脈が見えた。義哉はなんとなく心苦しかった。

「けれど、事前に相談して欲しかったわ。最上くんにしてはすこし勇み足だったわね。まだ遅くはないわ、委員会につきつけた条件を取り消していらっしゃい。……貴方、戦いに勝ったとしても、殺されるわよ。残念だけど、文書なんて、何の役にも立たない。だいたい、委員会が約束を破ったら、いったいどこへその文書を持って行くつもり? 誰が貴方の味方をしてくれるの? 貴方は相手にされないどころか、却って自分を危険に晒すことになるわ」

「そんなことは分かってますよ」と、義哉は言った。「俺が欲しかったのは文書でも委員長の首でもない。『俺の提示したふたつの条件が、副委員長から委員会に伝えられる』という事実です」

「ごめん。いま、徹夜明けで頭がボーっとしてるのよ。貴方が賢い子だっていうのはちゃんと知ってるから、わたしにも分かるように説明してくれる?」

「そのまえに確かめておきたいことがあるンです。蓮見さんは委員会の内偵に従事している特捜の検事だって聞きましたけど、間違いないスか」

「貴方、ちょ、それ、何処から!」

「証拠固めはどこまで出来てるンですか。委員会は間違いなく裁判所にも手を回してるでしょうけど、逮捕状は取れそうスか」

「そんなこと言える訳……」蓮見はハンドルにもたれて、すこし悩んだ様子だったが、「いいわ、話してあげる。はっきり言って、あんまり進んでいない。それに、たとえ、証拠を固められたとしても、裁判所が逮捕状の発行を拒否するかもしれないわ。ああ、せめて、委員会の内部に協力者でもいれば……」

 蓮見が柳眉のしたを翳らせたとき、かの女の携帯端末が鳴り響いた。

 耳に当てる蓮見の顔に、サッと疲労の色が拡がり、五つも六つも歳を重ねたようだった。

「街の北部の防衛線が突破され、展開していた軍は壊滅状態、だそうよ」蓮見は端末を畳みながら溜息をついた。「この辺りにレギオンが迫ってくるのも、時間の問題のようね」

 義哉は、「三十分後に、また時間をくれますか」と言って、ドアを開いた。

「ちょっと待って。どこへ行くの」

「そろそろ、委員会の関係者から連絡が来ると思うンです」言い終えるなり、携帯端末が電子音を鳴らした。義哉は着信元を見て、唇の端をすこしつりあげ、「これから、副委員長をハメて来ます」


     *


 津村は委員会の席で、秘書から具申のあった次第を、そのまま述べた。とくべつ見解を添えた訳ではない。けれども、最上義哉から責任者の処分と情報開示について要求があったことに言及したとき、委員たちが一様に苦虫を噛み潰したような顔になって、津村に曰くありげな目を向けたのには、さすがに念を押す必要を覚えた、――これは自分の意見ではない、と。なかでも委員長である坂田の面貌たるや、土色になって小刻みに震えるほどで、津村はかれが脳梗塞でも起こしたかと、ギクリとしたものだった。むろん、この老人が逝ってしまえば――そこまでいかなくとも職務の遂行に支障を来たすほどの後遺症を負えば、その席は副委員長である津村のもとへ自ずと回ってくることになるので、ギクリというなかには、少しばかりの期待も混じっていた。津村は言葉を続ける。

「……しかしながら諸君、この提案を無下にする訳にもいかんでしょう。実際、このような事態に至ったことの責任は、誰かが取らなければいけませんし――」津村は委員長をさりげなく見やり、「一蹴すれば事態打開の唯一の切り札であるハンニバルは動かず、我々としては座して死を待つのみということになります。なに、相手は子供です。ゴーストの問題が片付いたあとは、我々は知らぬ存ぜぬで通せばよろしい。最上が約定を盾にうるさいことを吹いてまわるようなら、そのときは止むを得ない、我々の義務を果たすまでです。――勘違いしてはいけません。それは情報開示に応じるのでも、委員のだれかに白羽の矢を立ててこれを処分するのでもありません。そんなことをすれば、我々は市民の批判に晒されることになり、良識派を自認する愚か者どもから都市の指導者としての地位を駆逐されるのみならず、内乱罪を始めとして、ありとあらゆる法的責任を問われかねません。それではこの比良坂を無用に混乱させるのみで、我々の責務を果たすことにはならない。そうではなく、あの生意気な小僧の口を、永久に鎖すということです」

 ひとりの委員が、腕組みをして、

「つまり、約束を履行するつもりはなくとも、文書はとにかく作成せざるを得ない、というのが津村副委員長の御意見ですね」

「そうです」

 坂田委員長は白髯を病的に震動させながら、

「レギオンどもに北部の防衛線を突破されてしまった以上、仕方あるまい。……至急、文書を作成して、津村副委員長のところへ持っていかせよう」

 そうして、午前の会議は散会した。けれども、至急というわりには、いっこうに津村のオフィスへ委員長からの使いがやって来ない。そのうち、委員のひとりが電話を寄越してきた。

「いま、委員長が、最上義哉くんを直接召喚して事情を説明したところだ。私も立ち会ったが、かれはまったくの好青年で、委員長の言葉にいちいち頷き、命懸けでゴーストと戦うことを約束してくれたよ。津村さんの秘書と話したときはだいぶ機嫌が悪かったということだが……」

 津村は要領を得ず、首をかしげた。委員はなんとなく気まずそうに、

「……最上くんは十七歳の少年であるのだから、比良坂の命運を背負って戦わねばならんという重圧のまえに、少なからず動揺するのも、止むを得ないことだろうね。……あるいは、おたくの秘書と反りが合わなかったのかもしれない」

「それでは、文書の話は、最上から……」

「一言も、出なかった」

 数秒、沈黙が続いた。

「子供というのは気まぐれだよ、まったく」と、津村は苦笑いした。「しかし、それなら良かったではないか」

「そうだな。……委員長も、『直接本人に確かめて正解だった』と仰っていたよ。……じゃ」

 津村は受話器をおろし、委員長の言葉を漠然と反芻するうち、気づくものがあって、ゾッとなった。なんといっても、責任者の処分と情報開示の実施の約定を文書に残すという要求は、あまりにデリケートすぎる。他の委員たちは、ややもすると、津村がこの機会を利用して、委員会の刷新や委員長の失脚を図ったのではと邪推しかねなかった。文書は、最上のような子供が持っていても何の役にも立たないものであるが、副委員長である津村の手に留まるとなると、話は違ってくるのである。……

 津村は釈明の必要を痛感し、慌てて受話器をとりあげ、委員長室の短縮番号を押したが、いままで一度も粗略に扱われたことのなかった通信が、このときはいっこうに繋がらず、ついには留守電に切り替わった。津村は呆然として電話を切った。

 そのとき、書類を手に入ってきた秘書が、津村をのぞきこんで、

「……どうされたのですか」

「ああ、君か。明日から来なくて構わんよ」

 吐き捨てる津村の脳裏には、委員会の不興を買って粛清された数多の人間の顔が次々と浮んでは消えた。


     *


 義哉がセダンの助手席に身をすべりこませるなり、蓮見は、耳に当てていた携帯端末の口を塞いで、

「ねえ、これってどういうことなの」と、柳眉をあげた。「副委員長が検察との司法取引に応じ、証人保護プログラムの適用を要請してきたそうよ」

「そうしなきゃ自分と家族を守れなくなった、と考えたんでしょう」

「いったいどんな手を使ったの」

 義哉はそのうちに、とだけ答えて、

「ここから先は、蓮見サンたちの仕事です。街がこの騒ぎでバタついてるうちに一気に詰めないと、折角のチャンスが台無しになりますよ」

「それは分かってるわ」と、蓮見は表情を引き締める。「ついでだから知恵を貸して。裁判官を確実に逮捕状の発行に踏み切らせるにはどうすればいいと思う?」

「サルトルの『嘔吐』に、こんな逸話があるンです。――ある司祭が、臨終間際の老人のことで悩んでいた。老人は汎神主義者で、臨終の秘蹟を受けようとしなかったンです。そこへたまたま通りかかったド・ロルボンという人物が、自分ならこの老人を説得するのに二時間とかからないと云いました。祭司はこのロルボンと賭けをして、負けました。祭司が感心して『あなたは議論の術にたいへん長けておられる』と云うのに、ロルボンはこう答えるンです。『自分は議論をしたのではありません、ただ地獄の恐ろしさを語ったのです』……」

「つまり?」

「ひとを駆り立てるのは往々にして理屈ではなく感情だってことです。だから、委員会を怖れる裁判官に、正義や義務の話をしても無駄になる。はっきり言えば、その裁判官を、臨時防衛委員会を潰しにかかるか、それとも殺されるかの二者択一へ追いやってしまうのが一番いい。手段さえ選ばなければ、その方法はいくらでもある」

「それは、わかるけど……」蓮見はハンドルに寄り掛かった。

「そういうやり方には、抵抗がありますか」

 蓮見は嶮しい顔つきになって黙っていたが、とつぜん身体を起こすと、

「私、本当を云うとね、昔から曲ったことが大っ嫌いなの。内偵なんてまわりくどいことをやってないで、堂々と強制捜査に踏み切ればいいじゃない、くらいに思ってるの。でも、それじゃ犯罪を取締れない。理屈では分かってるんだけど、この任務を続けるためには見て見ぬふりをしなきゃいけない犯罪がたくさんあって、どきどき、ほんとうに嫌になっちゃうの。――私ね、野宮さんを守るために人身売買のシンジケートと交渉をしたのよ。私たちの出した要求は、孤児院の子には手を出さないで欲しいっていうこと。それって、要するに、他の子供はどうにでもしてくださいってことなの。それをはっきりと黙認することなの。分かる? この悔しさ! 正義のために働きたくて検事になったのに! どうして私が犯罪を認めるようなことを! 子供を見捨てるようなことを!」

 蓮見は涙を滲ませ、拳でハンドルを幾度も叩いた。

 義哉はなにも言わず、蓮見の朱に染まった横顔を見つめた。

 やがてかの女は肩を落として弱々しく微笑み、

「違うの。最上くんの言ったとおりにするしかないって、ほんとうは分かってるの。ただ、そうでもしなきゃ逮捕状を出してくれない裁判所にちょっとうんざりしただけ。――この街、臨時防衛委員会なしでもやっていけるのかしらね」

「さあ。良くなるという確証はないし、もしかしたら、今より悪くなるかもしれない」

「でも、最上くんにいっそ滅んでしまえばいいと言われないような街にはなってくれるかしら」

 義哉は備え付けのデジタル時計を見やって、

「すべては、ゴーストを始末できたら、の話です。そろそろ、時間じゃないスか」

「そうね」と、蓮見は顔をあげて、「……最上くん、いつもごめんね」

「いきなりどうしたんスか」

「高級クラブで最上くんに名刺を渡したときから、ずっと思ってたのよ。ちゃんと伝えておきたかったの」

 蓮見はギアをバックに入れた。助手席に手をかけてリア・ガラスのむこうを振り返るかの女の眼には、力強さが戻っていた。



 煙ったい風が吹いている。義哉の鼻の粘膜を刺激するそれは、嫌になるほど焦臭かった。義哉は経験から、それが髪や肉、合成繊維の焼ける匂いだと分かっていた。そうして脳裏には、惨状の様がくっきりと浮んでいた。その舞台には火の粉がさらさらと舞い、サイコキネシスの閃きが殺陣を彩る。匂いが示唆する生々しい痛みとは、あまりにかけ離れた美しい画だった。

 義哉は敢えて視界を閉ざし、ハンニバルの表示する数多のウィンドウに意識を集中していた。作戦本部によって「ツクヨミ」と名づけられた凄まじく強力なガーディアンをその身に宿したリーナに、天空からの鉄槌を命中させるためには、肉眼はかえって邪魔になる。純粋なデータの集合として戦局を読み、時々刻々とポインタから送られてくる座標情報と、軍事衛星の主砲の充填状況および位置情報を照らし合わせながら、砲撃するに最善のタイミングを計る。精神を強く刺激するであろう戦場の光景は、判断力を削ぐ役にしか立たないと義哉は考えた。

 軍事衛星が比良坂市の上空を斜めに落下するたった二分十六秒のあいだに、いちどだけ引鉄をひくことを許されている。その限られた時間のうち、三十秒がすでに虚しく過ぎていた。この三十秒というわずかな間に、リーナの解き放ったサイコキネシスによって、何十機という軍用ヘリや歩行兵器が破壊され、何十人という討伐士が防御シールドごと貫かれて骸になった。爆音や断末魔が空気を割るたび、義哉は焦燥を募らせた。

 ツクヨミに付き従うシャーマンたちは、自意識を喪失し、墓から甦った亡者のように、あるいは単純な捕食性の生物のようになって、兵士や討伐士たちに見境なく踊りかかる。そのせいで、ポインタ役の胡桃沢はうまくリーナの座標情報を拾えないでいるようだった。義哉は、引こうと思えばこの瞬間にもトリガーを引くことができる。けれども、ハンニバルが計算して拡張現実のウィンドウに表示するところによれば、命中率は四割に満たなかった。これが割りの良い勝負なのか、無謀の賭けなのか、義哉は判断がつきかね、脳漿をしぼるようにして思慮を巡らせた。劣勢と言ってよい戦局を考えれば、このあたりで砲撃に踏み切るのも止むを得ないように思える。けれども、四割という数字は、都市の命運を託すにはあまりに頼りなさすぎる――この間にも、無情な時の針は軍事衛星を落下させてゆく。

 残された時間が一分を切り、義哉が妥協のラインを真剣に考えはじめた頃、その数値が突如として50%……60%……と上昇を始めた。胡桃沢がリーナに接近するための経路を見つけたのかもしれない。息を飲んで見守るうち、値が極端に落ち込んで、ピタリと止まった。15%――焼けつくような後悔の念をふり払ってその現実を受け止めるのに、五秒かかった。直後、通信が入った。

「セクションスリーの藤林だ。たったいま、胡桃沢が重傷を負った。焦って無茶をしやがったんだ。こいつのディフェンダー『ジェシー・リバモア』とポインタの役は俺が引き継ぐ。いいか最上、命中率が九割を超えるまで絶対にトリガーは引くんじゃない」

「おい、何をするつもりだ」

 義哉は瞼を開き、壁の崩れた廃墟ビルの、フロアの縁に立った。眼下に激しい戦闘の模様がある。闇に慣れた眼には眩しすぎる光が煌いていた。じわりと痛む眼を戦場に凝らすうち、戦闘用スーツを着た少女を羽交い絞めにする、マスクの少年を見出した。

「今だ、やれ――」と、通信の声は叫んだ。

 義哉は数値を確認した。99.84%、しかし――「馬鹿野郎、巻き添えを食うぞ。せめて五メートル距離を取れ」

「なに躊躇してるンだ。俺を無駄死にさせる気かよ」

 そのとき、戦闘用スーツの少女――恐らくはリーナ――が、右腕に凄まじい光をあつめて、少年の腹に肘うちを入れた。かれの背中は無残に破れて、赤いものが散る。

「もう……もたねえ……はや……く……」

「ちくしょう、許せ」

 義哉はハンニバルに、――ファイア。と告げた。

「あとは……頼んだ……」最後の通信が届いたとき、少年が口元に笑みを漂わせた。

「藤林……」

 義哉の呟きは、一閃した空から雷鳴のごとく落ちかかってくる轟音に掻き消された。天にまっすぐ延びたひかりの柱は際限なく密度を増して、空間のありとあらゆるものを七彩の光暈のうちに埋没させていく。耳を聾する爆音が熱気と衝撃波をともなって駆け抜けると、義哉はフロアの縁からひかりに満ちた爆心めがけて跳躍した。――理論上、この砲撃がリーナを即死させることはないと分かっている。しかし、ガーディアン「ツクヨミ」の防御フィールドに強烈なストレスを強い、その機能の多くをダウンさせ、サイコキネシスの絶対値を大幅に減殺する筈だった。そこに勝機がある。

 プラズマ・ソードのグリップをベルトから抜き、接近戦制御デバイスを起動させ、アスファルトに着地するやレーダーを頼りに一気に加速する。靄めいたひかりの漂うむこうに、リーナの影が仄かに浮んだ。義哉はコンマ数秒のあいだにかきあつめたサイコキネシスをソードのエッジに乗せ、居合のように溜めを利かせる。

 刹那、義哉はリーナの眸にあどけない怯えを見た。それは殺戮に没頭するかの女のうちに、「人間」が残されている証だった。義哉は動揺し、蓄えたサイコキネシスをバケツから零すように半減させた。

 生半可な攻撃はリーナの防御フィールドにあえなく弾かれ、義哉はバランスを失って地面を転げた。デバイスのサポートを借りて態勢を整え、むきだしになった廃屋の鉄柱の寸前でとまったとき、眼に不気味な光をたたえたシャーマンたちが、ぞろぞろとリーナの前にたちはだかった。

 リーナはその人垣のむこうで、肩を押さえながら、消耗した様子で佇んでいる。

「やっぱり、来たんだ……」と、かの女は喘ぎつつ言った。「ねえ、さっきのポインタの男には、どんな罠を仕掛けたの?」

「あいつの名誉のために言うが、あいつは自分でそうしたンだ」

「どうだか」

「こんなクソみたいな街のために、命を賭けちまう奴だっているんだよ。……わかるだろ」

「馬鹿じゃないの。それって君みたいなひとの言う台詞じゃないでしょう」

「俺を否定しても、俺の話を否定したことにはならないぞ」

「うるさい!」

 リーナの周囲に、ぼうっと白い光が集まっていく。ハンニバルはウィンドウを通し、至近距離でサイコキネシス攻撃の直撃を受けた場合は即死も覚悟したほうがいいと告げている。義哉は構わず、

「『ツクヨミ』をアンインストールするんだ。リーナは間違ってる」と叫んだ。

「間違ってるのはこの世界でしょう、君の存在でしょう」リーナは眼に涙を溜めて怒鳴った。そうして、「あの男を殺して!」と、亡者たちにむかって手を振った。

「おい――」

 義哉の呼びかけを無視して、リーナは黒煙をあげる戦車の残骸のむこうへ走っていく。義哉はそれを追うどころではなかった。飛躍的にサイコキネシスを高めたシャーマンたちが、一斉に光を帯びて踊りかかってくる。義哉は繰り出される拳をかわして、プラズマ・ソードを横に払った。防御フィールドを切断する重い手ごたえが伝わる。胴を寸断されたシャーマンがアスファルトのうえで蜥蜴の尻尾のようにのたうちまわった。そのおぞましさを感じる間もなく、敵の後続がサイコキネシスを放ってくる。亀裂を曳きずりながら地を這うそれのひとつは、跳躍した義哉のすぐ右手を抜けていき、廃屋のコンクリート壁を大破する。もうひとつは、義哉の右脚のあたりで防御フィールドを掠め、地面を抉った。

 飛散するアスファルトの破片のしたを、義哉は疾風のように走りぬけ、シャーマンの首を二つ続けざまに刎ね上げ、ひとりを袈裟懸けに両断した。鮮血がアーチを描くうえから、シャーマンが下降してくる。義哉はドロップ・キックを右肩に受けて背中を地面に叩きつけられた。そこへ跳躍して殺到する無数のシャーマンたち。潰されそうになったとき、カッと背景が輝いた。シャーマンの凄まじい形相が、その光に飲まれていく。

 身を起こす義哉の眼前に、奈々の後姿があった。髪を振り乱して、プラズマ・ソードを巧みに繰り出し、シャーマンを次々と斬り伏せる。その鮮やかさは前衛の創作舞踊のようだった。怯んだシャーマンたちのうえから、蛇のようにうねる無数の白い光が、次々と降りそそぐ。カーブを描くその光を辿ると、黒髪の少女――シエラの姿があった。

「ここはあたしたちに任せて。あんたはあのを追って」奈々はそう叫ぶ間にも、ソードを振るって二人のシャーマンを骸に変えた。

 義哉は敵の数を考えて、一瞬、言葉をつまらせた。けれども、決死の覚悟で役割を果たそうとしている者だけがここにいるということを思い起こして、

「……頼んだ」

 シエラがサイコキネシスによってこじあけた路を、全力で駆けた。


 オナモミやエノコログサ、ヨモギなどのつまらない秋の雑草が、植物園の跡地に見渡すかぎり生い茂っていた。その草葉の海を、赤蜻蛉の一群が蕭然とわたっている。ガラスの抜け落ちた温室の枠に、赤みがかった蔦が絡みつき、天井まで這い上がって、錆びついた肌を蔽っている。枠のむこうには骸骨を連想させる大きな鉄塔が聳えていて、傾いた避雷針の傍に、七色の暈をかけた太陽が輝いていた。

 枠は、碁盤の目のように整然とした影を、雑草のうえに敷いていた。

 秋の風が草叢をざわつかせた。義哉はふと、特有の青臭さのうちに、爽やかな芳香を感じた。こんもりと盛り上がった緑葉に近づいていって手を差し込み、そっと寄せてみると、暗い葉陰に、赤い林檎がたくさん実っている。

 ひとつもぎ取って、腿のあたりで軽く拭い、齧りついた。空腹を覚えたというより、好い薫りがする鮮やかな色のものを口に含んでみたいという、抗しがたい誘惑を感じたのである。齧って、義哉は酸味のつよい林檎がすぐ嫌になって、それを草叢に放った。麻薬が無性に恋しかった。

 ひとが雑草を踏み倒した微かな跡を辿っていくうち、義哉は果樹の陰に、ひかりが集まっているのに気がついた。そのひかりの塊は、滑るように雑草をすり抜け、近づいてきて、

「『ハンニバル』の通信識別コードを知らんから、とんだ手間を食ったよ、ちきしょう。――喜べ。最上は俺のなかで、『甘っちょろい男』認定されたぞ」

「甘いのは高梨サンも一緒だろう。どうして戻ってきたりしたンだ」と、義哉は尋ねた。ハンニバルが解析したところによれば、高梨の接続元は市内になっている。

 アバターは大仰に鼻を鳴らし、

「遺憾ながら、クライアントには最高のサービスを、が俺の信条なんでな」

「どこの法律事務所のキャッチフレーズだ。――済まない」

「実はついさっきまで、逃げ遅れたハッカー連中と一緒になって、ツクヨミを崩壊させるためのコンピュータ・ウィルスを組んでいたンだ。幸い、ツクヨミが自己をガーディアンに組織化するときに使ったと思われるソースをいくつか特定できたンで、セキュリティの穴を見つけることができた。もっとも、リーナって少女にインストールされてるうちは手の出しようがないぞ。ウィルスはハードを汚染するものであって、人間の精神は対象外だからな。だから、あの少女を殺害するか、それが無理ならせめて二者を切り離す必要がある。……できるか?」

 義哉は顔をしかめて、足元の影を見つめた。「つうか、やるよ」

「ホッとした。俺はおまえが大言壮語するところを一度も見たことがないからな」

「これが初めて見せるビッグマウスだ」

「いま、ファイルを転送する。……実はこんなことを掴んだ。シャーマンの集合意識のうちに結晶化した生命素が、委員会の管轄下にある研究所のネットワークに侵入して、保管されていた脳と脊髄をスキャンしたようだ。ちょうどゴースト化を始めた頃だ」

「スキャン?」

「知っているだろ。生命素はゴーストとなる過程で、ウェブやメモリ、人間の思考など、ありとあらゆるものから情報を集めて、自己を形成していく。で、保管されていた脳と脊髄はだれから摘出されたものか。第二世代の子供からだ。その子は無理な訓練が祟って脊髄を損傷し、死亡したらしい。リーナって子の親友だったそうだ。その子の脳が生命素を呼んだのか、生命素が脳を求めたのか、そこまでは分からんが、少なくとも、相通じるものはあったんだろう。ともかく、『ツクヨミ』はその子の影響を強く受けている、もっと言えば、自分とその子を同一視しているはずだ」

「………」

「それから、おまえ、とうとう臨時防衛委員会に仕掛けたンだって? 蓮見が相談に来たよ。裁判官をハメたいから、音声ファイルを偽造してくれってな。いちげんさんはお断りだが、おまえの紹介なら仕方ないからな、引き受けてやった」

「サンキュ。ところで、胡桃沢の容態は分からないか」

「それなんだが、いま病院に搬送中で、心肺停止の状態だそうだ。でも、きっと後悔はしていないだろう。あいつはおまえと違って、ヒーロー願望の男だからな」

「ちがう。胡桃沢はヒューマニストだ。臨時防衛委員会を涙が出てくるほど嫌っているのに、必要とあれば、その指揮のもとで命懸けで戦うことも厭わない――そういうヤツなんだ」

「ああ、分かってる。どうだ最上、学校ってのも、あながち悪くないだろう。……転送は終わったようだな」

「なあ、高梨サン。どうして、そこまでしてくれるんだ」

 アバターは突然動きをとめた。それから数秒して、

「いつか言わなきゃいけないと思っていた。……ええい、白状しちまおう。おまえの親父さんは市民を救うために殉職したと、そう聞いていると思うが、そのとき助けられた一人が、つまり……俺なんだ。だから、最上サンの息子が討伐士になったと知ったときは、本当に驚いた。あのひとに恩返しをするチャンスだと思った。いや、隠すつもりはなかったんだ。ただ、なかなか言い出せなくてな……」

「それで、いろいろ協力してくれたのか。……ありがとう」

「いいんだ、礼なんかやめてくれ。俺がおまえの役に立てたんなら、それは親父さんの遺産なんだと思ってくれれば、それで充分だ。――最上、必ず生きて戻ってこい」

 義哉が頷くと、アバターは忽然と姿を消した。



 ストリート・アートで埋もれた壁登りの遊具に、リーナは背を預けていた。疲れきった、どうすればいいのか分からないというような顔つきで、空を仰いでいる。

 義哉はプラズマ・ソードのグリップの先に、蒼白い光の刃を起こして、ゆっくりとかの女に近づいた。

「……あたしを、どうしても殺したい?」リーナは視線を天に投げ出したまま、尋ねた。

「そう訊かれると辛い。この街を滅ぼしたくないンだ」

 リーナは微笑し、冷たい光を湛えた眼で義哉をまっすぐに見据えた。「あたしは、君を殺したい。この街を、君ごと滅ぼしてやりたい。……ものすごく、ね」

「だったら、戦うしかないな。来いよ、覚悟はできてる」

「いいよ。ソッコー、バラバラにしてあげる!」

 リーナの艶やかな黒髪が突風に煽られたようにバサバサとはためき、全身を濃いひかりの靄が包んだと思うや、そこから幾筋もの光の帯が奔り出て、八方から義哉に迫った。義哉はそれを跳躍してかわし、リーナめがけて砂を蹴る。さえぎる光をソードで断ち切り、渾身の力を込めて薙ぐ。

 リーナはてのひらを重ねてそれを阻もうとする。サイコキネシスと防御フィールドの衝突によってシャワーのような火花が散った。間近に、リーナの双眸がある。義哉はそこに、ふたたびあどけない怯えを見出した。いま、態勢は確実に有利であり、第二、第三と次々に攻撃を繰りだすのが正解と分かっていても、義哉は踏み切ることができない。かわりに、リーナの蹴りをまともに脇腹に受けて、地面を転げまわった。

 外灯に背を激しくぶつけ、義哉の視界が安定したとき、すでにかの女は地を鋭く蹴って迫り、右手に熾したサイコキネシスの輝きを振り下ろしつつあった。義哉は防御フィールドをマニュアルに切り替え、全ての精神力を集中させてフィールドを厚くする。いったんは押し戻したリーナの腕が、すぐに威力をもりかえし、フィールドの表層をゼリーのように薄く光らせてめり込んでくる。幾度か押し合ったすえ、防御フィールドの底を抜かれ、義哉は火の海に投げ込まれたような熱さに包まれて、鋭いうめき声をあげた。

 下段からソードを振り上げ、リーナが腕を引くのに合わせて間合いを取る。

 リーナは、黒髪をすこしふわりとさせたまま、

「あたしたち第二世代が、どんな目に遭っていたのか、きっとたくさんの大人たちが知っていた。なのに、だれもあたしたちを庇ってくれなかった。街を守るためには多少の犠牲も仕方ないって、切り捨てられた。でもね、『多少の犠牲』にだって、こころがあるんだよ。絶望の縁まで追い込まれたら、こころは世界を憎みぬくしかなくなっちゃうんだよ」

「リーナはいつか言っていたな、世界は間違っているって。その通りだと思う。俺も間違っていたよ。けれど、間違っているから滅ぼすってのは、違うだろう。間違ったら、やり直せばいいンだ」

「やり直したら、あたしの幼馴染たちは生き返るの? お兄ちゃんは戻ってくるの?」

「リーナ……」

「君がお兄ちゃんを殺したくせに……ふざけないで!」

 リーナのふたつの瞳が、化生さながらの不気味な光を放つ。ハンニバルは警戒を呼びかけるブザーを鳴らした。つき破られた防御フィールドの再生作業の進捗は、六割。義哉は胃の縮むいやな感覚に苛まれ、激しい吐き気を催した。死を覚悟したとき、突如として、

(……リミッターの解除を指示せよ。他に手はない)

 頭に鳴り響くその声は、昨夜、義哉のまえに現われた長躯の男のものに他ならなかった。義哉は、――頼む。と答えた。それと前後して、リーナから放出された光の奔流が、津波のようになって義哉に覆いかぶさる。

 脊髄に茨のとげが食い込むような、ぞっとする感覚に義哉は顔をしかめた。アンリミテッド・モードのハンニバルが要求する耐性は、多分、自分の限界をすこし超えている――義哉は鼻から滴るひとすじの血液を拭いながら、慄然として考えた。

 エネルギーの濁流が抜けていったあとに残ったのは、肩で息をするリーナと、焼け爛れた遊具と、めらめらと燃え上がる植え込みの木々だった。その焔が投げかけるひかりのなかで、リーナは、

「勝つためだったら悪魔にだって魂を売るんだもんね。君って、やっぱり歪んでる。でも、そうこなくっちゃ」

 義哉は額をささえた。猛烈な痛みが側頭部にじんわりと拡がるのと引き換えに、視野に凄まじいノイズが走り、リーナの像がブレはじめた。

「クソ……案外脆いな、ハンニバルの視覚制御系統は……」義哉は瞼のうえから眼球を抑えながら言った。「そのうち、接近戦制御デバイスにも影響が出るかもしれない。そうなったら、もう手加減はできなくなるぞ」

「誰もそんなこと頼んでないし」

 リーナは踏み込んで跳躍した。が、義哉には、その速度がひどく落ちたように感じられた。リミッターを解除したことで動体視力や反射神経が飛躍的に向上したためだった。義哉は難なくリーナの蹴りをかわすと、反射的にプラズマ・ソードを繰り出した。エッジは義哉が予測していた以上に深々とリーナの防御フィールドを抉る。その感覚に焦燥感がこみあげた。リーナは素早く身をよじらせてエッジの直撃を避け、二の腕が裂かれることはなかったけれども、戦闘用スーツが破け、鮮血が散った。

「うっぐう……」リーナは顔をゆがめ、けれども間を置くことなく攻めにまわってくる。サイコキネシスに輝くかの女の拳を、義哉はエッジを寝かせて受け止める。火花が鮮やかに散り、衝撃が空気を振動させる。

 義哉はリーナを弾き返して、ふたたび猛烈な頭痛に襲われた。膝を折り、地面に手をついたとき、右目が突如として見えなくなった。眼窩から、なにかがせり出してくる。

「アアッ……!」

 義哉は歯を食いしばってそれを押し戻すと、ポケットから錠剤を掴み出した。

「リーナ、済まない。苦しくて……俺はもう駄目だ。どうすればいいか分からないンだ。このまま戦っていても、脳漿をブチ撒けて死ぬだけだろう。ああ、だからもう……トリップさせてくれ。ただ、こいつを、イリュージョンを飲んだら、俺はどうなるか分からない。リーナを本気で殺そうとするかもしれない。自殺をしようとするかもしれない。ほんとうにわからないンだ。でも、これだけは分かってくれ。できれば、リーナを傷つけたくなかった。だって、あんたを本気で好きなんだ。あんたが街を滅ぼしたいっていうンなら、俺はそれを見届けて死のうと思ったりもした。けれど、あんたを好きだって気持に真摯でいるなら、どうしてもこの世界は肯定しなきゃいけないって気付いたンだ。だって、そうだろう、俺とリーナはこの世界で出会った。この世界のほかにどこにも、あんたと俺を繋いでくれる場所はないンだ。うまく言えないけど、ひとを好きになるってことは、世界を大切にするってことなんじゃないかって。……思い上がるつもりじゃないけど、あんたにとって俺がどうでもいい人間という訳じゃなかったから、俺が大崎を殺したって知って、ブチ切れたンだろ? その気持のやり場がなくて、『あたしを本気で殺しにかかれ』なんて俺に言ったンだろ? リーナの苦しみは、俺なりに、胸をしぼって想像しているんだ。……ああ、俺はつくづく自分が嫌になった。いっそリーナに殺してほしいくらいだ。でも、リーナはきっとそれ以上なんだろうな。ヤケになるって、そういうことだもんな。もし、リーナが死を望んでいるのなら、叶えてやるのが優しさかもしれないとも考えた。けれど、それってなんか違うよな。ああ、正気を失くすまえに言わせてくれ。俺はもう……なにがなんだか分からない。ただ、街がこんな状況で、みんなを残して投げることなんかできないンだよ。だから、麻薬に逃げさせてくれ。クズで無力な俺を、どうか許してくれ」

「ヨシヤ……?」

 義哉は汗ばんだてのひらにくっ付いた無数の錠剤を、しゃぶりつくように口に含んで、飲み下した。胃に染みる異様な感覚が、すこしずつ胸に広がって、得体の知れない喜悦にポッと身体が熱くなったかと思うと、凄まじい震えが背骨をかけあがり、嘘のように脊髄の痛みがとまった。

「右目が、」と、義哉は言いながら立ち上がった、「超痛えんだけどよ、――ああ、痛くてたまんねえんだけどよ、いま、どうなってる? ちっと見てくんね?」

 義哉が指でまぶたを押しあげると、リーナは表情を凍りつかせ、眼を背けた。

「なにこれ。うげ。やべえって……血、垂れてンじゃん」義哉は頬を伝うものを指で拭いながら、言った。「こっち全然見えねえし。あーあ、眼、潰れちったよ。――リーナのせいだかんな」

「はあ?」

 義哉は、リーナに向かってゆらゆらと歩き出し、

「おい、いつまで不貞腐れてンだよハニー。大崎のことまだ怒ってンのか。死んじまったモンはしょうがねえだろ。もう忘れて、機嫌直してくれよ。でよ、こんなことやめてさ、俺とブラジルに渡って、コーヒー農家でもやらねえ?」

「……頭、おかしくなっちゃったの」

「大崎は、多頭蛇のヘッドになったときから、ちゃんと覚悟ができていた筈だ。俺や大崎が足を踏み入れたのは、そういう世界なんだよ。お互い、恨みっこなしだぜっていう、な」

「自分を正当化する気? あたしたちのこと、全然わかってないくせに!」

「分かってないのはリーナのほうだよう」義哉はおかしくて、頬が緩むのを止められなかった。「大崎が、いまのリーナを見て喜ぶとでも思ってンのか。なあ、兄貴を悲しませちゃあ、いけないって……」

「それ以上、近づかないで」

「逃げる泥棒に待てと云うくらい、無駄。だって俺、リーナに惚れてるんだもん。……あんたが可愛すぎるからいけないんだよ」

 リーナが、怒りとも羞恥ともつかない表情を浮かべた。眼が潤み、頬に赤みが差している。

「近づかないでって言ってるでしょ!」

「い、や、だ」

 義哉が甘えるように調子で答えると、リーナの絹のような黒髪が下から強風を受けたように逆立った。そうしてかの女はサイドスローの態勢から、まばゆい光の砲弾を撃ち出す。義哉はそれを寸前で暖簾のようにひらりとかわすと、リーナに素早く肉薄した。かの女がくりだす拳をいなし、背後をとって首に腕をまわす。

「俺……悲しい……大好きなリーナと戦いたくなんかないンだ」

「離して」

 義哉はリーナの髪を撫で、耳元で、「なあハニー、『ツクヨミ』をアンインストールしてくれ、頼むから……」と、誘惑するように囁く。

 腕のなかで、リーナは眼をうつろにし、流感に冒されたかのようにがくがくと震え、

「いやああ!」凄まじい濃度のサイコキネシスを集め、全身を爛々と輝かせはじめた。

 義哉はリーナから手を離すと、飛び退いて地に伏せた。途端、猛烈な爆音が轟いて、四方に衝撃波が奔った。地面が抉れ、コンクリートの壁は粉砕され、大小の破片が漆黒の空に渦をまく。

 義哉がゆっくりと身を起こすと、リーナは涙を浮かべて後ずさり、

「おねがい……もうやめて」

「やめるもんかよ――」と、義哉は微笑した。「俺は、人の弱みにつけこんでなんとか今日まで生き延びてきたクズ中のクズなんだぞ? リーナは、俺に言っただろ。『自分を貫け』って。だからそうしてるンだ」

 リーナは油を欠いた機械のように首を振る。

 義哉はかの女の怯えきったような視線を正面から受け止めて、

「それに、俺は嘘をついてリーナを騙そうとしている訳じゃない。――あんたをそこまで絶望させてしまったのは俺だけど、これからは、俺がずっと、あんたを支える。だから、俺と一緒に、この世界で生きてくれないか」

 リーナは胸を押さえて、なにかを吐き出そうとしているかのように「うっ……うっ……」と唸った。

「その決意が、リーナにとって死ぬより辛いものだということはよく分かってる。ああ、これは俺の我侭だ。でも、リーナ、俺の願いを聞いてくれ。俺のために生きてくれ」

 義哉が、一歩一歩、踏みしめるようにして近づく。すると突然、リーナが一際大きな声で唸ったかと思うと、胃のなかのものを逆流させた。ビタビタと黄色い液体が散らばり、饐えた匂いが風に運ばれて義哉の鼻腔に届いた。

 リーナは膝を折って両耳を塞ぎ、うわ言を呟きはじめる。

 義哉はそれを見おろし、心を込めて、

「愛してる」と、言った。

 そのとき、リーナの瞳から人らしい輝きがぷっつりと消え、魂の抜けたような顔が、ゆっくりと下を向いた。身体から、数多の光の粒子がさらさらと流れ出し、傍に半透明の像を結ぶ。

 その像は、純白のブラウスを着、チェックのスカートを穿いた、七八歳くらいの少女に見えた。

「あんたが『ツクヨミ』か」と、義哉が尋ねると、少女は、こくりと頷いた。

 義哉は高梨から受け取ったファイルを開きながら、「この世界が憎くてしょうがないらしいな」

「あたしのこと、消すの?」

 義哉は溜息をついた。「――正直、悩んでる」

「ねえ、リーナに言ったこと、ぜんぶほんとう?」

「ああ」

「だったら、いいよ。あたし、消えてもいい。そのかわり――リーナのこと、お願い」

「おまえ、リーナとは幼馴染なんだってな」

「うん」

「消えたくないンだろ。行けよ」

「……いいの?」

「生まれてきたからには、いちどくらい大人から優しくされることがあったっていい。おまえは第二世代のひとりとして生まれてきて、ロクでもない実験を散々強要された挙句、ガキのうちに死んじまったンだから――、おまえがどんなに危険なゴーストだったとしても、ンなことは関係ねえ」

 少女はしばらく、ぼんやりと義哉を見つめていたが、やがてリーナの首に抱きつき、耳元でなにかささやくと、煙のように消えていった。

 義哉はその場にしゃがみこみ、それから麻薬の酔いと疲労に抗しかねて、地面にぐったりと横たわった。

 左目を通して、朦朧とする意識のなかに差し込んできたのは、漆黒の塗装をバリバリと剥ぎ落としたようにして現われた、秋の盛りのうつくしい蒼穹と、いつか高梨のアジトから見た、縁日のわたあめのような無数の雲だった。



 義哉は眼をあける先から、病院だろう、と思った。アルコール性の消毒液の匂いがするし、第一、断絶した記憶とうまく繋がる。覚悟していたとおり、右目には光が差し込まなかった。かわりに、ひだりの睫が鈍くぼかす暗闇の先に、白っぽい布がちらついていた。すこしして、それが月光を背に受けたカーテンだと分かった。

 ベッドから身を起こしてみて、四肢がちゃんと動くことにホッとするのと引き換えに、眼窩に妙な違和感を覚えて手をあててみると、厚い包帯のしたに空洞を孕んだまぶたを感じた。眼球は摘出されてしまったのだろう。包帯は頭をすっぽり覆っていて、頭髪はすべて剃り落とされてしまったようだった。メスは頭蓋の中まで及んだらしい。頭皮にじわりと拡がる麻酔のしびれのなかに、皮膚を縫いつけたと分かる圧迫の感覚があった。

 棚のうえのスタンドが、病室に淡いオレンジの光を投げかけている。その陰気な明りのなかで義哉は包帯で蔽われた身体をおおむね確かめると、麻薬のせいで曖昧になった記憶の掘り起こしにかかった。リーナが嘔吐して、ツクヨミが切り離されたことは覚えている。それから、空が奇麗だった。……

 古い墳墓の土をはけで払うように丁寧に、陶酔の靄に沈んだ出来事を、明瞭な意識のひかりの元へ引きずり出そうとするうち、義哉は理由の判然としない、漠然とした、しかし重い憂鬱を覚えて、頭を抱えた。それから、素足のままベッドから降りて、病室を出た。

 寂然とした廊下の先に、ナースステーションの白い光が見えた。寸毫も違わない病室のドアが、パラノイアじみた調子でどこまでも並んでいる。

 リーナはどこだろう?

 誰にという訳でもないその問いかけに、返事があった。

「この階ではない。ひとつ上だ」

 義哉が驚いて振りかえると、鎖と古びた厚地の布をまとった、幽鬼じみたもの――ハンニバルが立っている。

「あんた……」

「案内しよう」

 長躯の男は床をすべるようにして進んでいく。階段をあがり、左へ折れ、それから病室を三つ通りすぎたところで止まった。

 義哉はなかなか思い通りにならない身体をよたよたと動かして、ドアに近づき、名札を確かめた。――リーナ。

 振りかえると、ハンニバルは消えていた。

 ドアを開いた途端、光の奔流が義哉を包んだ。まぶしさに左眼を細めるうち、折畳み椅子に深く腰掛ける人影に気付いた。人影は義哉をふりかえって、それから驚いたように立ち上がった。

「意識が戻ったのか」

 声は、青山のものだった。義哉は頷いて、よろめきながら歩いた。懸命に眼をこらしてようやく、白いシーツに覆われたベッドの、空間との境界線を見つけ出した。

 頭のほうに、髪をぼさぼさにしたみすぼらしい少女が半身を起こしている。義哉は、それがリーナだとは俄かに信じられなかった。可憐だった顔立ちは、魂が抜けたようになって、眼は白痴のひとのように一種異様な気配を漂わせていた。瞳はすこしも動かない。瞬きさえしない。

 義哉は唖然として、リーナを見つめた。やがて、リーナはゆっくりと首をよじり、義哉と目を合わせると、突然ガクガクと体を震わせて、絹を裂くような悲鳴をあげた。

 眼の焦点があっていない。口の端からは唾液が滴っている。顔はきつく首を絞められているかのように紅潮していた。

「いかん――」青山はナースコールのボタンを押しながら、「最上くん、済まないが、ここから出ていってくれ」と、凄まじい目つきで言った。


 看護婦たちに支えられて自分の病室へ戻ってきて、義哉はすべてを思いだした。そうすればリーナからツクヨミを切り離すことができるかもしれないと、漠然と考えていた策略を、麻薬の酔いに任せて実行してしまったらしい。作戦中、このアイデアが明瞭なかたちを取って意識に上ってこようとするのを、義哉は執拗に拒み、なんども忘却のなかへ押し返そうとした。こんな卑劣なやりかたはない――そういう雷鳴のような反発が起こって、ひとつの可能性として検討することさえ拒絶したのである。

 記憶を辿るなかで突き当たった名状しがたい憂鬱の下に潜んでいたのは、これへの予感だったのだろう。

 悄然としてシーツの端を見つめるうち、部屋に誰かが入ってくる気配がした。

「リーナはもう落ち着いたよ。大丈夫だから」青山の声だった。「いいかい、最上くん。あれは君のせいじゃない。君は最善を尽した、よくやったよ。ああするより他に手はなかった。そもそも、かの女をあそこまで追いつめたのは、他ならぬ第二世代計画の関係者、つまり私たちだ。君が気に病むことではないんだよ」

「リーナに、いったい何が起こったンですか?」

「臨床のほうは専門ではないんだが――」青山はすこし視線を落とし、「恐らく、重度の解離性障害を起こしているんだと思う。虐待を受けた子供がよく起こす障害だ。大好きな親から辛く当られ、子供はどう受け止めていいのか分からない。その分裂した状況に適応するために、別人格をつくりだしたり、記憶を無くしたり、ああいう錯乱した状態に陥ったりする。元々、かの女は特殊な環境に育っただけに、見た目よりずっと不安定な精神をもっていた。そこへきて、大崎甚一という、初めてかの女に無条件の優しさを注いでくれた大人を、身を焦がすほど好きになった君が、罠にかけて殺してしまった。この精神の枠組みを崩壊させかねないほどの鋭い葛藤は、君や世界を激しく憎悪することで、緩和されていたんだよ。ところが、君がリーナの君に対する恋愛感情を強く喚起させたために、リーナは憎悪という緩衝材を奪われて、鋭い葛藤と正面から向き合うことを求められてしまった。そうしてかの女は、精神の均衡が取れなくなった。――かの女は、君と会うたびに、この葛藤を正面から見つめることになるだろう。君はしばらく、かの女に近づかないほうがいいかもしれない」

 義哉は天井を仰いで、左目を瞬かせた。それから吐息を震わせて、

「あの……聞いてもいいですか」

「なんだね?」

「青山サンは、死ぬのと狂うのと、どっちが辛いことだと思いますか?」

「さあ……私は死んだことも狂ったこともないから」と、青山は義哉のほうを見ないまま言った。「ただ、死んだ人間を生き返らせることはできないけれど、精神を病んだひとを癒すことはできる。時間と忍耐が必要になるかもしれないが、不可能ではない。私も、そのためにできることをしたいと思っている。もし、リーナが許してくれるのなら……養子縁組をしたいと考えているんだ。恋人の理解も得ている。リーナのことは小さい頃からよく知っているからね。他人という気がしないんだ」

「けれども、リーナは第二世代の生き残りでしょう。大丈夫なんですか?」

「ああ、君はあのとき、戦闘中だったからな。――臨時防衛委員会の委員は副委員長をのぞいて一人残らず当局に拘束されている。特捜部は、委員会の息のかかった討伐士たちがレギオンとの戦闘に忙殺されている隙をついたんだ。それに伴って、委員会は事実上の解散となった。君が刻み込んだ亀裂を切欠にして、とうとうダムは決壊したんだよ」

「……そうですか」

「君は胸をはるべきだ。少なくとも、リーナのことを消極的に考えてはいけないよ。過ぎ去ったことより、明日に目をむけよう。リーナはきっと良くなる。この物語の終幕は完璧ではないかもしれないが、充分にハッピーエンドだ」

 義哉は頷いた。青山が病室を出ていった途端、左の目から熱いものが零れ落ちた。



 二日がかりでスラムのジャンクショップをすべて回ったけれど、義哉は東洋人にあった黒い瞳の義眼を見つけることができなかった。最後に入った店の、四十がらみの主の話では、

「取り寄せることもできるけれど、半年かかるなあ。輸送費もかなり高くつくよ」

 ということだったので、義哉は仕方なく、

「じゃあ……これを」と、サイズの一致する灰色のものを差した。

 翌朝、ブレザーに袖を通し、脱衣所の鏡を見ながら慎重に義眼を嵌めてみた。さすがに肉眼よりクリアにものが見えるし、拡張現実ウェブに対応しているから便利は便利だが、まるで片方だけカラーコンタクトを入れたようで、見栄えが納得いかなかった。けれども眼鏡をかけて誤魔化そうにも、視力はそれほど悪くなかった。伊達眼鏡はわざとらしいところが気に入らない。まさか高校にサングラスをしていく馬鹿もいないだろう。諦めるより他になさそうだった。義哉は憮然として歯を磨いた。

 十一月の朝のすがすがしい光が、脱衣所を斜めに流れ落ちている。窓台に置かれたジャムの瓶は、その光を浴びてきらきらしていた。なかでは、寮母の小二になる男の子から分けてもらったメダカが泳いでいる。義哉が餌の小箱に指をさしこんで、瓶のなかに幾粒か落とすと、メダカたちはそれを用心深く突き、やがて先を争うように口にいれ始めた。――以前、ジャムの瓶におさまっていた沢山の白い錠剤は、窓下に黒々とうねる深い川をくだって、いまごろは海に流れついている筈だった。義哉は麻薬を棄てるとき、粘りつくような執着に悩まされたけれど、済んでしまえば案外それをしつこく悔いたりはしなかった。

 ラジオのディスク・ジョッキーは、冬型の気圧配置の影響で、東北や北陸では初雪の降るところもあるかもしれないと注意を促している。義哉は口を濯ぐと、やっと眉にかかるまで伸びた髪をワックスで整え、教科書のぎゅうぎゅうにつまった鞄を抱えた。

 ラウンジに降りていくと、うしろから首が見えるほど髪を短くした奈々が、ソファの肘掛けに頬杖をつき、欠伸をしながら朝のニュースを見ていた。あの激戦で自慢の髪を焼かれてしまったかの女は、泣く泣くベリーショートにしたのである。

 奈々は義哉に気付くと、男の子のようににたっと笑って、

「色、微妙にあってないじゃん。いっそ両目にカラコンでも入れたら」

「趣味じゃないンだよ」

「もう出るの?」と、奈々が壁掛け時計を見上げながら訊く。

「職員室に呼ばれてンだ。しばらく休んでたから、出席日数がとうとうあれでさ。留年せずに済むように、担任らとしっかり相談しとけって、会社からもきつく言われてンだよ」

「ふーん。大変だね。後遺症とかは?」

「いまンところは問題ないけど、医者は、少し様子を見ないと分かんないってさ。――で、学校の具合はどうよ」

「どうって、べつにどうもしないけど」

「ていうか……」

「あ、あたしの過去がバレちゃった件?」

 義哉はテレビを見やりながら、頷いた。

「隣のクラスの女子のグループが、避難シェルターでうちの孤児院の子たちと一緒になったみたいで、そのグループのひとたちからメールが来たんだ。『あたしら野宮のこと超誤解してた。ごめん』って。それから食事とか誘ってくれて。だから、前ほど居心地は悪くないよ」

「そっか……よかったな」

 奈々は髪を揺すって、うん、と云った。

 義哉は階段のほうへ目を転じて、

「胡桃沢もシエラもいないと、やたらがらんとしてるように感じる」

「昨日、胡桃沢くんと電話で話したけれど、はやく寮に戻りたいって言ってた。でも、お父さんとお母さんの気持ちが落ち着くまでは、実家にいるつもりみたい」

「両親がビビるのも無理はないからな。一時間くらい死んでたンだろ、あいつ」

「臨死体験して世界が変わったとか言ってた」と、微笑する奈々の瞳が少し光っていた。「暢気だよね」

「ところで、シエラのテストはまだ終わらないのか」

「みたい。なんだか研究所のひとたち、シエラに『高度の感情』が確認できたってすっごいテンションあがってたけど。あの調子じゃあ、しばらく寮には戻れないんじゃないかな」

「そのメカ扱いな感じが微妙に気に入らねーな……」

「あっ、そうだ!」と、奈々は義哉を呼び止めて、「だいじなことを忘れてた。今日、寮であんたの快気祝いをやるの。胡桃沢くんとシエラはもちろん、蓮見さんや青山さん、それにあんたの情報屋で、なんていったっけ、胡桃沢くんの師匠? の人とか、みんな来るっていうから、覚えててね」

「別にいいって」

「そうゆうこと、言わないの」

 奈々は微笑を浮かべている。

「……何時から?」

「うんとね、七時。忘れないでね」

 義哉は曖昧にうなづいて、寮を出た。


 相変わらず黒板の数式は唖然とするくらい謎めいている。

 義哉は胡桃沢がとなりで熱っぽく臨死体験を語るのを適当に聞きながしながら、すっかり葉を散らしてしまった体育館の脇の公孫樹を眺めた。

 空を透かしてたかく広がる枝の下に、水のみ場があって、ジャージ姿の女子たちが、水道の水を飛ばしあってはしゃいでいた。大人びた綺麗な茶髪と、子供じみた話言葉と、麗かな日溜りと、冷たい水をすくう赤いてのひらが、ひとつの構図のうちに絡み合っている。その光景には、いつまでも胸に残しておきたくなるような、優しい情緒があった。

「ねえ最上、聞いてる?」と、胡桃沢に腕を突かれて、

「聞いてるって――」と義哉は答えた。「お花畑になぜか水着ギャルがいて、胡桃沢にむかって『キミ、まだ逝くのは早いわよ』とか言って、不自然に胸の谷間を強調したんだろ」

「そうそう! ただ、故意に谷間をアピールしたのかどうかについては、ちょっと微妙なところなんだ。でね……」

 そのとき、斜め前の席の男子――松山が二人を振り返って、

「な、おまえら、知ってる?」

「ン、なにが」と、義哉は聞き返した。

「隣の隣のクラスに、すっげー可愛い子が転校してきたンだってよ。あとでみんなで見にいかね?」

「行きたい気もするけど……ダルいし、いいわ」

「ンだよ、連れねえな。ま、退院したばっかだから無理強いはしないけどよ、眼から滋養をつけていったほうがいいと思うぜ。で、胡桃沢はどうするよ?」

「えー、最上がいかないんだったら行かない」

 松山は、とつぜんハッと言って、「なんだおまえら、たかだか十七でもう枯れちまったのか。それとも草食系でも気取ってンのか。あのな、ンなもん、今日び、流行んねーんだよ。もういい、もういい」それから隣の男子と、噂話の続きを始めた。

「転入生って――、『青山リーナ』さんのことだよね」

 胡桃沢は、ぽつりと言った。

「多分な」

 義哉は窓越しに初冬の澄みわたった空を見上げて、目を細くした。

「記憶喪失になってからだいぶ精神的に安定したって聞いたけれど、急に色々なことを思い出しちゃったりしないのかな」

「………」

「いいの、最上。会いに行きたいんじゃない」

「べつに。『青山サン』が元気になったンなら、あとはどうでもいい」

「ほんとうは、会って思い出させちゃうのが怖いんだろ」

「………」

 義哉が漫然と窓の外を眺めるうちに、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。


 最上義哉くんを留年させるのはいかがなものか――とは、私立蛍雪学院の理事会が比良坂市の各方面から受けた好意の助言であるが、実質的には厳然たる圧力に他ならなかった。市長や市議会議員はその面目にかけて、功労者の名誉の負傷にともなって生じた進級の危機に手をさしのべなければいけないと考えたらしい。

 ――という趣旨のことを、いかにもおまえは有難く思ってしかるべきだという調子で言い立てた学年主任が、次に義哉につきつけたのは、図書委員として学校に奉仕せよということだった。それでもって出席日数の欠乏を埋めてもいい、というのである。この憎たらしい学年主任をやりこめる謀略は、義哉の脳裏にチラとも閃かなかった。

 仕方なく、放課後に図書室の受付カウンターで脚を組み、図書カードを整理していると、シエラがランボーの詩集をもってやってきた。義哉は貸出の手続をしながら、

「俺は詩が全然分からないンだよ。どこが面白いの。――いや、からかうとかじゃなく普通に」

 尋ねると、シエラは恥かしそうに微笑んで、

「わたし、あのとき、雨を浴びたいと思った気持を、最上さんにうまく説明できませんでした。でも、詩をたくさん読んだら、あの感覚を言葉にできるかもしれないと思ったんです。それに、詩を読んでいると、わたしの気持ちが、光に翳したガラスみたいにゆらゆらしてすごく楽しいんです」

「ふーん、なるほど。俺もすこし読んでみるかな。まえに中原中也を読んでちっとも面白くなかったから、ずっと敬遠してたンだよ」

 返却期限のスタンプを押した紙を挟み、シエラに手渡すと、かの女は、

「灰色より、水色のほうが似合うと思います、絶対」

「え、なにが」

 シエラは義哉の右目を遠慮がちに指さして、ぱたぱたと駆けていった。

「そうか? ブルーの瞳とか、調子乗りすぎじゃない?」


 雑用を粛々とこなすうち、図書室の人影はだいぶ疎らになった。窓から差しこむ光線がうっすらと赤みを帯びている。生徒たちのページを繰る音や、シャープ・ペンを走らせる音が、瞭然と聞こえてくるほど、静かだった。その穏やかな空気のなかで、ドアがひらく音はすこし窮屈そうに響いた。義哉は仕事の手を止め、なんとなく顔をあげて、そこに怖れていたものを見出し、動悸した。そうして怖れの感情を一枚剥いだすぐ下に、抑えることのできない暖かいものがずっと対流し続けていたことを知った。

 時が止まったような多幸感をもてあましながら、さりげなく視線を伏せる。

 転入早々、美少女の評判を恣にしているその少女は、たしかに義哉をまっすぐ見ていた。凜としていながらどこか甘えるようなところのある双眸のむこうに、どんな思惑や感情があるのか、推測のしようもないが、図書室の幽寂な光景のなかで、カウンターの義哉が、かの女のうちに一つの際立った姿として映ったことは疑いようがなかった――そう云う目をしていた。

 義哉は依然、顔をあげることができない。かの女から漂ってくる、ある種の気配が、そうさせる。俯いているほうが不自然ではという考えをもってしても、その圧迫に克つことができなかった。内心おろおろするうちにも、かの女のサンダルが、夕日の落ちるフローリングを踏んで近づいてくる。

 顔をあげる機を掴めないまま、リーナはカウンターの前に立った。

「あの、」

 それは幾度も義哉の追想のなかを巡ってきた声だった。義哉は図書カードの箱に目を落としたまま、つとめて事務的に、「はい」と云った。

「あの、B組の最上くんだよね」

 義哉は始めて顔をあげた。そうして、ほんのりと朱のさしたかの女の可憐な顔をたしかめて、たまらなく愛おしい気持ちが胸に溢れた。

「ヘンな女だって思わないで欲しいんだけど……」

 尻すぼみに声を小さくするかの女のすぐうしろに、がんばれ、と冷やかし半分に声をかける女子の集団がある。

 義哉はその集団を一瞥し、それからリーナに頷いた。

「キミを、ずっと前から知ってるような気がするの。あのね、その、全校集会のときに見かけて、――一目ぼれしました!」

 さかんに囃したてる女子たちに、リーナはいたたまれず追い払うような仕草をする。義哉はうつむき気味になって、口元を押さえ、歯を食いしばった。

「やっぱり、カノジョいるのかな……」心配そうに、リーナが云う。

「いないよ」答える義哉の声が、すこし震えた。

「よかったら、一緒に帰りませんか? あたし、終わるまで待ってるから……」

 義哉は、呼吸を整えてから、すぐに片付けると言った。すると、安心したとはっきり分かる笑顔が返ってきて、義哉は胸にこみあげてくるものを押さえられなくなった。

「それはいいんだけど……すこし義眼の調子が悪くて……目、洗ってくる」

 義哉はブレザーの袖でさりげなく顔を蔽い、小走りになって図書準備室を出た。女子たちのはしゃぐ声が廊下まで漏れている。それを別世界のことのように感じながら、義哉は、夢でも見ているのに違いない、さもなければ運命の仕掛ける罠の序曲に決まっていると考えた。自分が、この幸福に値する人間だとは、どうしても思えなかった。そうして、背筋が凍るほど怖ろしくなった。蛇口を捻り、両手に溜めた冷たい水道水に目を浸して、顔をあげると、仄昏い鏡のなかから、不気味な色を湛えた瞳がじっと義哉を見つめていた。


(了)

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