マキャヴェリスト #2b
蓮見がひらいた金属製のケースには、古代の戦士を象った透明なオブジェが、博物館から運び出された宝物であるかのように納まっていた。
「これが、あなたの担当するハンニバルよ――」と蓮見は言った。
義哉は手にとって、インストールを念じた。意識体戦闘補助OSは使用を希望する者の脳波を感知し、耐性の有無を分析したうえで、無数の光の粒となり、使用者の意識へ侵入を始める。義哉は光点の群れが皮膚のしたにもぐりこんでくる感覚を確かめながら、工程の進行を待った。
手のうちにあったオブジェがほとんど形をなくしかけた頃、拡張現実のウィンドウが、眼前に現われた。隼をモチーフにした東亜重工のロゴを背景にして、思考変換デバイスの精神への浸透率が、無数の棒グラフのかたちで表示されている。白衣のひとたちと一緒に、ノートパソコンを覗き込んでいた蓮見が、不意に顔をあげて指で輪を作り、微笑んだ。それを見て義哉は胸をなでおろした。ガーディアンに深刻なバグが残っていれば、死につながる事故にもなりかねない。蓮見はなにも言わないが、白衣のうちの幾人かは、それに備えて控えているのだろうと、義哉は考えていた。
蓮見は、義哉に機材の脇のリクライニング・チェアへ移るよう指示して、
「今日は仮想現実をつかって実戦形式の訓練をするけれど、思考変換デバイスのチェックが主な目的だからそんなに気負わなくていいわ。――最上くんはヴァーチャルリアルのゲームとか、やったことある?」
「ゲーセンでカーレースのを少しだけ」
「だったら、すぐに要領を掴めると思う。ゲームオーバーになっても死なないってだけで、あとは現実そのままだから。ああ、痛覚はしっかりセーブしてあるから、安心してね。仮に腕がなくなっても、その部分にすこし圧迫を感じるだけ。ただ、サイコキネシスの処理を現実に即してやるために、特殊な基幹システムを使っているの。その都合で、いちどジャック・インしたら予め設定しておいた時間を経過しないと戻ってこれないから。覚えておいて」
「トラブルが起こった場合はどうすれば?」
義哉は、チェアに身を横たえながら、尋ねた。
「ないと思うけれど――」と、蓮見は妙なことを聞くというような顔をして、「そのときはこっちの指示どおりに行動して。分からないことは、胡桃沢くんと野宮さんに聞けばいいわ」
義哉は、了解、と答えてハンニバルにジャック・インを指示した。URL部分に、東亜重工のサーバー内にある仮想現実のアドレスを音声入力し、まっ白な天井を映す肉眼をゆっくりと閉ざした。ふっと身体が軽くなったのは、思考変換デバイスが五感を遮断しはじめたためだ。その浮遊感が、意識のなかに再構築された電脳空間へと義哉を運んでいく。……
燦々たる太陽が、蒼穹に君臨している。陽炎のたった砂漠の彼方に、遺跡然とした灰色の建造物が立並んでいる。むっとたちこめる熱気に、首すじや頬が焼かれるようだった。そのとき、鈴の鳴るような声に呼びかけられたような気がして、ふりかえると、砂に半ば埋もれた避難用シェルターがあって、入口に、涼しげな日陰が出来ていた。その陰のなかに、三つの人影がある。奈々たちのようだ。それぞれ、訓練用スーツに身をつつんで、壁に背をもたれたり、膝を抱えて坐っている。
義哉は三人に手を振って、鉄鍋で炒ったような砂を踏みしめながら歩いた。
「旧東京跡地を再現したんだってさ――」と、奈々は爪先で砂をいじりながら、「いやんなっちゃうよねー。肌はかさかさするし、髪はパサつくし。どうせなら珊瑚礁のきれいな南の海とかがよかった」
「武蔵野が、いまは無惨なものだ」と、胡桃沢が地平につらなる丘陵へむかって、手でひさしをつくった。「数千年にわたって育まれてきた美しい山野が、たった一世紀二世紀ぶんの、人間の欲と傲慢によって消滅してしまうのだから、儚いよ。――美しいものはみんな、儚い」
「酔っ払ってンのか」と義哉は冷やかしながらも、思うところはあった。武蔵野は、気候の激変と次元崩壊のあおりをもろに受けて、東京と共に滅び去り、いまや御伽噺の世界だった。義哉は、胡桃沢と並んで、しばらく茫然として砂漠をながめた。その傍では、奈々がきらきらした眼で胡桃沢の横顔を見つめている。文学青年のくさい感傷も、恋する乙女には詩情にあふれた美しい歌のように聴こえるのだろう。けれども、義哉と胡桃沢が噛みしめている感慨のほんの一割も、この女は共有していないのではないか。そのとき奈々は気付くものがあってか、急に義哉を睨んで、「なんか文句ある?」と云った。
義哉は目を逸らして、「……で、俺らは誰と戦えばいいんだ。茹だるまえに、さっさと済ませよう」
しゃがんで膝を抱えていたシエラが、顔をあげて、
「仮想敵はセクションスリーです。準備が整いしだい、蓮見さんから通信が入るはずです」
「じゃあ、すぐに済みそうだね」と奈々が言った。「主力の藤林と神楽坂は、まだ病院でしょ。あと、警戒しなきゃならないようなのは残ってないし」
胡桃沢がふりかえって、
「いや、ふたりとも来ていたよ。ロビーですれ違った。藤林のほうは、金属製の大仰なマスクをしていたな」
義哉は若干のうしろめたい気持ちに襲われた。「……骨折を押して出てきたってことか?」
「たぶんあれだよ――」と、奈々が人差し指をたてる。「最上が新しいガーディアンの扱いに慣れないうちに、逆襲する気なんだよ」
「だとしたら、熱心なことだ」と義哉は苦笑いを浮かべた。仮想現実での戦闘に勝ったところで、どれだけのメリットがあるのか。それで連中の気が晴れるのだとしたら、他愛ないものだ。――ここまで考えたとき、ふと心象の視界に浮んでくるものがあった。それは、藤林の、暗い情念の透いて見えるようなふたつの瞳である。あれはシンプルな精神の持ち主がするような目付きではなかった。
なにか、思惑でもあるのだろうか。
腰を据えて熟慮する必要を思ったとき、シエラの呼び出した拡張現実のウィンドウが、砂時計のまま、いっこうに動く気配がないのに気付いた。
「通信が重いみたいです」と、シエラは義哉を見上げて、「わたしのブラウザに原因があるのかもしれません。――胡桃沢さん、すみませんが、蓮見さんと連絡を取ってみてくれませんか」
「オッケー」
胡桃沢が、おなじように空間にブラウザを呼び出す。砂時計のアニメーションがふと途切れ、下部の通信状態を示すアンテナが忽然と消えた。
「どういうこと?」奈々が近視のひとのように目を細める。
「わからない。ただ、ひとつ言えそうなのは、問題があるとしたら僕やシエラのOSじゃなくて、仮想現実のシステムのほうかもしれないってこと。――シエラ、仮想現実のステータスは呼び出せる?」
シエラは頷いて、ウィンドウをいくつか開き、そのうちのひとつを取り寄せた。画面には、カンマを間においてアルファベットと数値がびっしりと並んでいる。シエラは、スクロールの手をとめて、
「設定がいくつか不正に書き換えられているみたいです。――外部との通信ができなくなっていて、それから、痛覚制御の係数が、0.05から3.0に変更されています」
「痛覚制御?」
義哉が尋ねると、胡桃沢は、
「訓練中に負った怪我の痛みが、そのまま脳に伝わってしまったら大変だろ。だから、セーブするんだ。係数の値は、現実世界での痛覚の感度を一として、この領域でどれだけ痛みを伝えるかということ。数値を見ると、二十分の一に抑えられていたのが、三倍にあがっている」
「現実以上の痛みを味わうってことだよね」と、奈々が声をあげた。「冗談じゃないって。係数が一のときだって、大怪我とかするとショック死することもあるらしいじゃん」
「藤林の仕業だな」胡桃沢は顔をしかめた。「以前にも、あいつは仮想現実のシステム部分へ侵入して不正に索敵をしたことがあるんだ。あいつのガーディアン『アルキメデス』は通信タイプで、かなり性能がいい。証拠を残さずに設定を書き換えるくらいなんでもないだろう」
「なんでそんなことするの? ……まさか、システムの誤作動を装って、あたしたちを殺そうとしてる訳?」
「連中なら、やりかねない」胡桃沢はうわずった声をあげた。「どうする、最上」
義哉はポケットに親指をひっかけ、足元の砂を見下ろしながら、
「……あらかじめ設定された時間を過ぎないと、ここから出られないし、蓮見さんたちがトラブルに気付いたとしても、通信が不通になっている以上、訓練の中止を通告してくることは期待できない……連中は、俺たちの始末が済んだら、あとは知らなかったで押し通すことができる……なるほど、考えたな。――とりあえず、変更された部分を元にもどすことはできないか?」
「不可能ではないけれど、時間がかかりすぎる」と、胡桃沢は目を伏せた。「僕のディフェンダー『ジェシー・リバモア』の処理速度では……。制限時間の来るほうが早いかもしれない」
奈々は舌打ちをして、
「仕方ないよ。時間まで逃げ切ろう」
「それでは敵の思う壺だ――」と、義哉は即座に否定した。「藤林のガーディアンは通信型なんだろう? だったら、レーダー機能もステルス機能も充実しているはずだ。つまり、俺たちが戦いを避けようとするのは、目隠しをして鬼から逃げようとするようなものだ。結局つかまって、不利な態勢のもとで、遭遇戦を強いられることになる。連中にとっては、俺たちがパニックを起して逃げまわるというシナリオが一番望ましいだろう」
「じゃあ、迎え撃つっていうの? 無茶だよ」
「無茶もなにも、選択の余地がない」義哉は奈々を宥め、それから三人をかわるがわる見つめて、「けれども、俺たちはそんなに不利という訳でもない。まず第一に、痛覚係数の脅威に晒されているのは、あいつらも一緒だ。それに加えて、連中は頭に血をのぼらせている。想像してみろ。骨折を押してまで出てくるんだ。メンタリティは、闘牛士の赤い布を見てカッカする雄牛と、そう違わない」
「あの、どうするんですか?」と、シエラは不安げに首をかしげた。
「連中は、俺を殺したがっている。だったら、俺が囮になればいい」
「あんた正気? いくらあんただって、インストールしたばかりのガーディアンなんか満足にうごかせないよ。危ないって」と、奈々が義哉の袖をつかむ。
義哉は微笑み、「その辺は、ちゃんと考えている」と云った。
*
頬がずきずきと疼く。しかし、処方された痛み止めを飲む訳にはいかなかった。飲めば感覚が鈍り、戦闘にさしつかえる。鉄製のマスクは砂漠におちかかる烈しい陽光を吸って、じんわりと熱を帯びていた。それがしみとおってきて、ボルトで留めた頬骨をかき乱す。顔をしかめると、ビリッと電気が走った。システムの痛覚係数を書き換えたせいで、いまにも頬の肉が飛び散りそうなほど痛むのである。しかし、元にもどす考えは微塵もなかった。この痛みは膨れ上がり、凝縮され、敵の頭上に落ちかかる。そうして初めて、頬の痛みよりよほど耐えがたい不快感に浸ったおのれの感情を、その泥沼から掬い上げることができる。――藤林は砂にザクッと踵をめりこませ、
(あの野郎……ブッ殺す……)タオルをきつく絞るようにして呟いた。
今がまさに、その千載一遇のチャンスだった。最上は名だたる討伐士であり、日がたつにつれて、最新鋭のガーディアンの扱いに習熟していくだろう。そうなったら、手がつけられない。始末するなら、早いうちに限る。いかに最上といえども、今日いれたばかりのハンニバルを使いこなすのは不可能というものだ。まごつく最上を囲んで、波状攻撃をかけ、一気にショック死へ追いやる。……
藤林は暴力的なひかりの充溢する廃墟にたたずんで、瞬きひとつせず、拡張現実のウィンドウを注視した。セクションファイヴの連中が潜んでいるであろう、避難シェルターの近辺に、傍受の網をかけている。アルキメデスが通信を拾い次第、ウィンドウに報告されるはずである。
ときおりノイズが入ると、画面に波状の線が走る。そのたびに、藤林は息をとめた。やがて、敵の通信ではないと分かると、瘴気のような吐息を搾りだす。額をつたって眉にたまった汗を、指で拭ったとき、神楽坂が日陰の男女たちから離れて、藤林の傍に立った。
「どうよ?」と、脇腹をすこし庇うようにして長躯をかがめ、ウィンドウを覗きこむ。
「通信をつかうような気配はない。ということは、あいつらは一塊になっているってことだ」
「そりゃそうだろう。痛覚が三倍になってるなんて聞いたら、ビビって蟻みたいにかたまり、こそこそ逃げ回るしかねえ。こっちは頭数の多さを生かして、散々追い回してやりゃいいんだよ」
「それでもいいが――、野宮とシエラが邪魔だ」と、藤林は言った。「シエラのガーディアン『スターリー・スカイ』はサイコキネシス攻撃に特化していて、火力はすさまじいが、接近戦に弱い。一方、『真改』を入れた野宮はサイコキネシスこそ劣るものの、接近戦にかけては比良坂でも指折りの使い手だ。こいつらはバラけさせればいくらでも料理できるが、連携を許すと厄介だ」
「あん? 大したこたあねえよ。俺のガーディアン『ユーボート』でまとめてツブしてやる」
神楽坂が不敵に片頬をゆがめたとき、「傍受」のポップアップが表示され、波状の線が激しく震動した。神楽坂がなにか言いかけたのを、藤林は唇に指をあてて遮った。
……あんた馬鹿じゃないの、あたし死ぬのは御免だからね……だから何度言えば分かるんだ、逃げようったって捕まるのがオチだ……だいたい、あんたがあいつらを殴ったりするからこんなことになるんじゃない、あんたが招いたトラブルはあんたがなんとかしたら? ……そのことは後で聞く、今はこの状況をなんとかしなきゃならないだろうが、別行動は自殺行為だ、とにかく戻ってこい……いやよ、いこう、シエラ……なあ最上、ここは素直にセクションスリーの連中に謝ったほうがいいんじゃないか……胡桃沢、おまえはほんとうに甘いな、奴らは俺たちを殺す気でいるんだ、のこのこ出て行ったらとりかえしのつかないことになるぞ……じゃあ、このまま座して死を待つのか……とにかく、やってみるしかないだろう、ハンニバルの性能自体はピカ一なんだ、うまくすれば……バーカ、今日いれたばっかりなのに、まともに戦えるわけないでしょ、謝るのも逃げるのも嫌なら、いっそ死ねば? じゃあーねー……ったく、どいつもこいつも! ……
神楽坂は、いきなり笑いだし、
「おいおい、仲間割れだってよ」と、藤林の背中を叩いた。「昨日今日に編成したチームなんて、所詮、こんなもんだ。逆境に置かれたとたんに鍍金が剥げるってな」
藤林は、最上の心臓をその手に握ったような高揚をおぼえて、カッと胸が熱くなるのを感じた。そうして仲間たちにむかって、
「連中に動きがあった。準備にかかってくれ。レーダーで最上の孤立を確認し次第、始末をつける。場所は避難シェルターの袋小路だ。上のやつらがシステムを復旧したり、訓練の中止を通告してきたら、手遅れになっちまう。速攻でキメんぞ」
訓練用スーツに身を包んだ男女たちが、凄烈な光の射すなかにすっくと立ち上がった。
避難シェルターの冥い通路はひんやりとした空気に満ちていた。土埃と黴の匂いがほんのりと漂っている。メンバーの雑然とした靴音がつくる残響には、閉塞感と奥行きの両方を感じさせるものがあった。数歩先をあるく仲間のひとりが、手にプラズマを集めて、松明がわりにしている。揺らぐひかりが青白い波紋を投げかけるむこうは、空間の断絶したような闇に蔽われていた。
埃をかぶった自動小銃や、銃弾ベルトの食み出した木箱、それからペットボトル、保存食の類いが、行く手に散乱している。レーダーで確認したときに受けた印象と較べて、やけに狭い感じがするのは、そのせいだろう。藤林は仲間たちに注意を促した。けれども半分は、おのれに言い聞かせているようなものだった。藤林には、自分たちが、ピラミッドに侵入した墓荒しであるかのような、妙な感覚があった。興奮に胸をじりじりと焼かれている。それは、冒涜の暗い喜びと財宝を手中に収めつつある多幸感のないまぜになったような、蠱惑の様相を帯びていた。この組み合わせに、藤林はなんとなく厭な予感を覚えたのである。
けれども、意識のごく浅いところに割って出てくるほどはっきりした輪郭はもっていない。脚は却って急いでいるくらいだった。藤林は、釈然としない、むず痒い感じを闇のむこうに横たえたままにして、周囲の靴音を聴きながら、通路を進んだ。あるいは「厭な予感」をすみやかに掘り下げなかったのは怠慢だったかもしれないと、涼気を通り越して氷のようにひんやりしたものを肌に感じながら、立ち止まったのは、先をゆく仲間の手に載っていた、サイコキネシスの明かりが、ぷっつりと消えたからである。
「どうした」
咄嗟のことで、声帯がうまく働かず、しわがれた声になった。闇のなかから、わからない、と返事があった直後、ひとを頭から馬鹿にしたような、気違いじみた笑いごえがあがった。
「――策士策に溺れるって云うだろ。何でだか知ってるか?」
と、その声が云う。
「策士に策を弄させるのが、情念だからだよ。情念はひとを盲にする。盲ほど策略の標的に適したものはない。たとえば、――オマエのことだよ、藤林」
藤林は、視界に暗視エフェクトをかけた。途端、つきあたりのドラム缶に腰をかけた痩躯の青年が、ぼうっと浮かび上がった。
まったく、あの男の美貌には驚かされる。面白みのないのがとにかく藤林の癪にさわった。流行りの少女漫画家がヒロインに宛がうために腕によりをかけたような、飄然とした感じのいかにもな顔立ちである。それがいま、暗視エフェクトのなかで幽かに白く見えて、呆れるほど芝居じみていた。
「最上か……」
青年の貌に、悪魔のような陰影が差した。「オマエ、自分で思ってるほど、賢くないかもよ」
「ンだと……」
「よく考えてみろ。セクションファイブとセクションスリーは、もう何度も模擬戦をやってる。つまり、こっちはおまえらの手のうちを知り尽くしている。けれど、おまえらは新戦力である俺の手のうちをまったく知らない。――俺の言わんとするところが、まだ分からないか? 要するに、オマエらは手札を晒して、俺にポーカーを挑んでいるようなものなんだよ」
ドラムのうえの人影が、ぼんやりと闇に滲んでいく。藤林は焦れて目をこすり、それから拡張現実ウィンドウを呼び出して、暗視エフェクトの感度に異常がないのを確認した。――そうなると、答えはひとつしかない。
「つまり、サイコキネシスの光が消えたのも、暗視エフェクトが正常に機能しないのも、『ハンニバル』の能力ってことなのか?」
「さあな。――ただ、これだけは教えてやってもいいだろう。ハンニバルの開発コンセプトは、『戦場の掌握』だそうだ。まったく、俺好みのガーディアンだよ。気に入ったね」
言葉が途切れるなり、ふっと気配が動いた。ドラム缶がコンクリートを擦ったらしく、あたりに特有の音を響かせる。
藤林の心拍数が、どっと跳ね上がった。
「みんな気をつけろ! やつが動きだしたぞ!」
動揺のさざなみが、闇に寸断された仲間たちの言葉に満たない声をあつめて、獣のうめきのように地を這ったかと思うと、先頭のほうのひとりが、だしぬけに悲鳴をあげた。続いて起こった、水を撒くような音は、多量の出血によるものかもしれない。――セクションスリーは瞬く間に、恐怖の奔流に飲みこまれ、我先にと全力で来た道を戻りはじめた。
藤林も例外ではなく、頬になまあたたかい息を浴びたり、誰かと肩をぶつけたりしながら、とにかく走った。そうして仲間たちの靴音を意識しながら、まだ望みはあると自分に言い聞かせた。戦力に勝っているのは依然として自分たちであり、視界の利くところへ出れば、形勢は逆転できる。ほうら、外の光が見えてきた――と、幾らかの冷静さを取り戻したとき、ビニールのようなものに脚をとられて、地面に肩をしたたか打ちつけた。
関節に匕首を差し込まれたような激痛に、藤林はうなり声をあげた。自分でやったことではあるが、痛覚係数を安易にいじったことが、恨めしかった。
なんとか肘をついて、身をよじったとき、入口にそとの鮮烈なひかりを背にして立つ一つの人影を見出した。亜麻色の長い髪が、まわりに漂う濃密なサイコキネシスに煽られて、青白い光を帯び、ふんわりと舞い上がる。右手には、まばゆく輝く剣――プラズマ・ソードがあった。使用者のサイコキネシスをプラズマに変換し、エッジの形に安定させる兵器である。
先頭を駆けていた神楽坂が脚をとめ、あとずさり、
「野宮……ンでテメエがそこに居ンだよ!?」
少女は、サディスティックな笑い声をあげた。
「まーだわかんない? 仲間割れは、あんたたちを袋の鼠にするための演技ってこと」
藤林は鋭く舌打ちをして、拳を壁に叩きつけた。まんまとしてやられた。野宮と一対一でまともに接近戦をやれる者は、チームにはいない。囲んで三対一、四対一にもちこんで、はじめて押し込むことのできる難敵である。その野宮に、狭い通路の、出口に居座られたのでは、手の出しようがなかった。挑んでいったところで、ひとりずつ順番に斬り斃されるだけだ。かと言って、引き返そうにも、なにをしてくるやら分からない美貌の悪魔が、闇に潜んでいるのである。
しゃらくせえ、と叫んだ神楽坂を、藤林は鋭く制止した。
「駄目だ! もう勝負はついた……済まない、俺の作戦ミスだ……」
「やってみなきゃわかんねえだろ」
神楽坂は、長躯に光をまとい、敢然と駆け出した。四角に切取られた蒼穹と砂漠を背にして、野宮のプラズマ・ソードと神楽坂の拳が、低空にたわむれる二羽の燕のように、交錯し、すれ違い、真っ向から突き当たっては放電に似た閃光を散らせる。――いくらもしないうちに、野宮の優勢は鮮明になってきた。神楽坂は防御フィールドにたびたび光の刃を受けて、よろめき、のけぞる。とうとう倒れこみ、壁際に追い詰められたとき、仲間のひとりが入れ違いに踊りかかっていった。――これは一刀のもとに、野宮に斬り伏せられた。
痛ましい絶叫が、シェルターに反響する。
睨みあいがしばらく続いたのち、何を思ったか、野宮はじりじりと後退をはじめ、セクションスリーと数歩の距離をとると、とつぜん背をむけてそとの方へ駆け出した。セクションスリーは、これみよがしに追跡する。
「よせ!」と、藤林は喉が潰れんばかりに訴えた。「戻ってこい、罠に決まっている!」
案の定、入口からすぐのところには、神々しい後光をまとい、砂がたかく巻き上がるほどにサイコキネシスを蓄えたシエラが、発動の態勢をとって、追っ手を待構えていた。ああ、いけない、と藤林は呟いた。シエラにサイコキネシスを限界まで蓄えさせては絶対にいけない。そんなときに一直線になって接近するのはもっとよくない。一掃してくれと云っているようなものだ。――シエラが舞うようにひらりと手を掲げると、かの女を中心に、ひかりの半球が爆発的に膨張して、ありとあらゆるものを飲み込んでいく。カッと視界が漂白されたかと思うと、凄まじい衝撃が走り、シェルターの通路は大地震が起こったように揺さぶられた。アルキメデスが、防御フィールドの機能低下を訴えた直後、藤林は凄まじい熱風に包まれて、吹き飛ばされ、前後不覚に転げまわった。
もうろうとする意識を奮い立たせて、藤林が身をおこすと、すぐ傍で、満身創痍の仲間たちが、くるしげにのたうちまわっていた。
歯を食いしばり、うなだれる藤林の頬を、雫がつたい、コンクリートのうえにピタピタと滴り落ちた。
*
打放しの狭い竪穴を、手探りで梯子づたいに上っていくと、突き当たったところの鉄板が、触れていられないほどの熱を帯びていた。太陽光線に炙られているせいだろう。義哉は足下の胡桃沢をふりかえって、「ここから出られそうだ」と声をかけた。
鉄板――暗くてよく見えないが、恐らくはマンホールの蓋のようなもの――を、ガーディアンの補助をうけながら押し上げると、眠そうな猫の眼のかたちをした青空から、新鮮なひかりが差し込んで、義哉の眼底をじんとさせた。蓋を脇にやって首を出した途端に、焼けつくような風が頬や喉にあたり、ひりひりする。
かなたまで続く、檸檬色の砂漠のあちこちに、歪んだ鉄骨や配管、コンクリートの残骸が飛び出ている。それらは過酷な気候に晒され続けて風化した気配をよく表していた。一様に白っぽく、まるで荒野に行き倒れた動物の骨のようだった。
つづいて穴から這い出てきた胡桃沢が、
「薄氷を履む思いとは、このことだ」と云い、実感の滲むような吐息をしたので、義哉は手を差し出してかれの立ちあがるのを手伝いながら、
「冷や冷やさせて済まなかったな。けれど、お蔭でうまくいった」
胡桃沢は、ズボンについた埃を払いながら、
「それにしても、驚いたよ。最上にあんな才能があったなんてね。きっといい俳優になる。舞台裏を知ってる僕まで、うっかり騙されそうになってしまった」
「嘘は理屈やテクニックでつこうと思ったら駄目なんだ、覚悟でつかなきゃ」
義哉はそれを教えてくれた人――ダリアの花弁を散らせて死んだコータの恋人のことを脳裏に浮かべた。きっと死ぬまで、嘘をつくたびに思い出すことになるだろう。そんな切欠で思い出されるむこうも、気分が悪いに違いない。
「それだけじゃないよ」と胡桃沢は言った、「ホラー映画の演出家の才能もありそうじゃないか。――あいつら、悲鳴も水音も、僕の仕業だとは想像もしなかったろうな。それから、最上は賭博師だってやれる。いま君がハンニバルをつかってサイコキネシスを中和できるのは、狭い範囲で、しかも微弱なものだけなんだろう? なのに、まるで凄い力でも持っているかのように、あいつらに錯覚させてしまうんだから」
胡桃沢は、眩しいものでも見るような眼で義哉を見上げていたが、義哉はあまり褒められた気がしなかった。
「自慢になるようなことじゃない――」と言って、歩きはじめ、「それに、気を緩めるのはまだ早いよ。厭な仕事が残っているからな」
「いやなしごと?」
義哉は、ちらっと胡桃沢を振り返って、
「あいつらを、始末しなきゃならない」
「……ちょっと待って」
「分かるだろ、胡桃沢。これはもう、ただの喧嘩じゃない。殺し合いなんだ」
「だからって……」
義哉は、それ以上言わず、黙々と歩いた。
砂漠の風は、ふたりの間に澱んだ重苦しい空気を忌み嫌ったかのように、はたと止んだ。砂丘の斜面にかげろうが揺らぎ、地平線を波打たせ、ぼかしている。強烈な光線の降り注ぐなか、静けさが不気味な圧迫感をもって、二人に覆いかぶさった。
砂のきしむ耳障りな音が、足下で整然とリズムを刻んでいる。義哉はその音に耳を傾けながら、なるべく物を考えまいとした。ただ、装置のように粛々と遂行すればいいのである。この際、人間らしいものの一切は不要だった。その思いが、歩調をますます機械的にさせる。
このリズムを予期しない方向から遮ったのは、義哉のもとに入った、奈々たちからの通信だった。拡張現実ウィンドウにならぶ少女たちの可憐な目元には、困惑の気配がある。
「どうした」
と、義哉が促すと、奈々は、
「あいつらが、降伏したいって」
「黙殺すりゃいい」義哉は秩父方面の山稜を眺める風を装って、さりげなく目を逸らしながら、「その通信は届かなかった――みんな、いいな?」
胡桃沢は、とつぜん義哉の肩を掴み、「なんだよ、口裏あわせってことか」と云った。双眸は、怒りを滾らせていた。
「胡桃沢くん、あのね」と、俯きかげんの奈々が云った、「あたしも、最上が正しいと思う。これって多分、罠だよ。だってあいつら、あたしらのことを殺そうとしたんだよ? そんな奴らが、降参するって言っても、信用できないよ。きっと、シェルターから出てきた途端に、あたしらに襲いかかってくる」
「胡桃沢の気持ちは分かる」と、義哉は穏やかに言って、肩をつかむ手をゆっくりと引き剥がした。「けれど、聞いてくれ。俺らが生きてきた世界じゃ、約束なんてのは、まったくあてにならなかった。あてにするほうが莫迦というくらいだ。守ったほうが得になるときしか、守ってもらえないんだよ。胡桃沢、よく考えてみてくれ。あいつらは、シェルターから出た瞬間に、不利な戦局から解放される。俺が仕掛けた手品のトリックも見破られる。あいつらが本気で降伏するつもりなのか、擬態なのか、それは分からないが、あいつらが俺らにむかって、いちど殺意を鮮明にしたのだけは確かなんだ。……なあ胡桃沢、この降伏の申し出がポーズだった場合、俺もおまえも、死ぬことになるぞ」そうして、義哉は足許を見つめたあと、意を決して顔をあげ、「この際だからはっきり言う。……俺は、遺恨を残さないためにも、あいつらを皆殺しにするべきだと思っている」
胡桃沢は目をみるみる潤ませて、
「最上、本気で言ってるのか!?」と、叫ぶように言った。「僕は……僕は……そういう考え方が大嫌いだ! 死ぬほど嫌いだ! そんな風にして生きていかなきゃならないのが世界の真実だとしたら、そんな世界、いっそ滅んでしまえばいい! そんな考え方に屈するくらいなら、僕は殺されるほうを選ぶ! ……僕は……その辺のくだらない連中が、訳知り顔でくだらない理屈を並べるならまだ許せる、けれど、最上が誇りのかけらもない利己主義を口にするなんて、それどころか、行動の規範にするなんて、絶対に嫌だ! なにがあっても認めない! それじゃあ人間ってなんなんだよ! 理性とか、信頼とか、自由とか、人間が歴史のなかで何万トンという血を流して積みあげてきた、大切な、大切なものを、全否定しちゃうのかよ!? 最上、降参したいと言ってる人たちを手にかけるなんて、絶対に駄目だ! たとえそれが罠だったとしてもだ! だって、そんなことをしてしまったら、そんなことを是としてしまったら、人間として生まれてきた甲斐がないじゃないか!」
義哉は絶句して目を瞠った。胡桃沢は、いまやぼろぼろと涙を零している。――ああ、甘すぎる、理想どおりに行ったら、そりゃ世のなかどんなに素晴らしいか、そんなことは誰だって分かっているんだ、分かった上で――そういう陳腐な反論が、義哉の胸中を駆け巡りながら、舌には頑丈な鎖が幾重にも絡みつき、容易に動かすまいとしていた。けれど、鎖の垂れる先は、不快を催すような場所ではなかった。それどころか、ひとを眩惑するような、優しい光が靄のようになって溢れている。降りていけば確かに心地いいかもしれない。しかしそれは所詮現実の裏づけを持たない、贋物のやすらぎに過ぎなかった。
けれど、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたこの友人に、なんと言って返せるのだろう。ああまで言われてなお利己主義を並べ立てるのは口惜しすぎた。つい昼、胡桃沢に抱いた羨望は、熱を帯びて膨張し、どうしようもないほど義哉の胸を包んでいた。――やっぱり、こいつが好きだ。今どき流行らない正論をごたごた並べて泣いてしまう、この男が好きだ。だからこそ、連中の毒牙から守ってやりたい。なのに、胡桃沢は、殺されても構わないという。義哉はようやくのことで、「バカ……」と云った。けれどその先が続かなかった。
心の、ぐらつかせてはいけない部分が、焔のなかに投げ込まれたプラスティックのように軟化していくのをもてあまして、義哉はウィンドウのなかの奈々に、視線を投げかけた。奈々はそれに気づくと、きつく閉じていた唇を開いて、
「ごめん、最上。胡桃沢くんの肩を持ちたいからって訳じゃないけれど、やっぱり……できない。あたし、殺意を剥きだしにしてかかってくる奴とだったら、いくらでも戦えるけどさ……」
義哉は小さく息をつき、黒髪の少女にむかって、「なあ……どう思う?」
シエラは、叱られた子供みたいに表情を曇らせて、
「わたしは、みなさんの決定に従います。ただ、すこし、混乱しています。わたし、あのひとたちと一緒に戦ったことがあるから……」
「つまり、二対一、いや、三対一ってことか」義哉は澄みわたった砂漠の空を見上げて、苦々しく呟いたけれど、胸中は、主張を取り下げる正当な理由を得て、嫌になるほど軽くなっていた。それではいけないと焦慮したけれど、他にどうしようもなく、「……仕方ない、降伏を受け入れよう。ただ、不測の事態が起こってもすぐに対応できるよう、心の準備だけはしておいてくれよ」と、釘を刺すに留めた。
仮想現実システムの起した天候の急激な変化を、義哉は願ってもないことだと考えた。縹渺としていた砂漠は、すこしずつ威を増した風と、天高く立ち上った砂埃に席巻され、数メートルと離れるとなにもかも輪郭を曖昧にして、黄土色の大気に霞んでしまう。この見通しの悪さは、戦力の劣る義哉たちに利するはずだった。
轟々と吹く突風が砂のうえに風紋を敷き、土煙を中空に棚引かせる。仲間たちは袖やハンカチで口元を覆い、目を険しくして濁った風のむこうを凝視していた。そこには、避難シェルターの開口部がある。いまはただ、深い闇を銜えて砂嵐のなかに佇むばかりだが、ときおり見通しが極端に悪くなって建物そのものが隠れてしまうと、義哉は胃の裂けるようなストレスを感じながら、ほとんど祈るような気持ちで目を凝らし続けた。
奈々がとつぜん「あっ」と声をあげた。
「どうした」
かの女はシェルターを指をさしている。「あいつら、出てくる」
「連中がすこしでもおかしな行動を取ったら、――いいな?」
義哉が仲間たちに念を押すと、砂埃に塗れた三つのあごが下がった。
シェルターの入口の闇から、ぞろぞろと人影が現われた。かれらは、二人の怪我人を、ひとりは抱きかかえ、もうひとりは負ぶって、運んでいた。背負われているほうは女で、焼けただれてほとんど灰になった髪と、垂れ下がった火傷だらけの腕には、生気が感じられなかった。抱きかかえられた男子は、妄想に苛まれた狂人を連想させる、凄まじい形相をしていた。胸は尺取虫のように上下している。ショック状態に陥っているのかもしれない。苦しげに胸をそらすたび、かれを抱えている長躯の男――恐らくは神楽坂だろう――が顔をゆがめて、声をかける。しっかりしろ、がんばれ――ハンニバルの機能によって拡大された唇の動きを読むかぎり、そう言っている様に見えた。
藤林は、シェルターの壁に背をもたせ、疲労困憊した様子で項垂れていた。それを、セミロングの小柄な少女が慰めている。藤林が下唇を噛んで苦しげに頷くと、少女はかれの手を取って、またなにか話しかけた。藤林はマスクを背けたけれど、手は少女に委ねたままだった。
ハンニバルに慣れないせいで、ズーム・アップの機能が安定しない。ふと目を向けたところが極端に大きくなったり、視野を広く取ろうとした拍子に機能が停止してしまったりする。酔ったようになりながら、なんとなく眼についたのは、尺取虫を励まし続ける、もうひとりの女子の手のひらだった。十字の、白い痕がある。かの女は首に、クロスのネックレスをかけていた。
義哉はふと、胡桃沢にむかって、
「セクションスリーにはクリスチャンがいるのか――」と、尋ねてみた。
「キリスト教徒っていうのは、右の頬を打たれたら左の頬を差しだす人たちのことだろ。いないと思う。……それとも、通念上の意味で?」
「うん」
「信仰をもった人がいるという話は、聞いたことがないな」
義哉はもういちど、少女の手のひらを見つめた。そうして、少女がどんな想いで十字架をかたく握りしめていたかを推量するうち、得体の知れない感情のうねりが、義哉の背筋をざわざわと駆け上がった。義哉が連中を皆殺しにせざるを得ないと考えて気を重くしていたように、むこうも、自分たちは皆殺しにされるに違いないと思って絶望していた筈だった。そのときの恐怖が、少女のてのひらに、白い痕を捺させた。セクションスリーの面々は今、戦術的に優位に立ったことなど頭になく、ただ怪我人を労わり、死の淵から脱したことの安堵で胸を一杯にしているように見える。
あの少女のてのひらが、すべてを物語っていた。かの女が利己心からクロスを握りしめたのではないのは判然としていた。敵愾心を燃やして義哉たちを葬ろうとしたのは連中に他ならなかったが、仲間を絶体絶命の状況から救い出したいという強い想いのまえに敵愾心を放棄したのもまた連中だった。
義哉は、心の根幹を温かい湯に浸したような、名状しがたい安らぎを覚えた。自分たちの命を本気で奪おうとした敵のなかに、『人間』を見出したことは、このうえない皮肉かもしれないけれど、同時に、それを霞ませてしまうくらいの大きな福音でもあった。
「なあ、胡桃沢――」と、義哉は並んで立つ畏友に尋ねた、「もしかして、キリスト教徒だったりする?」
「教会に行こうなんて、生まれてこのかた、一度も思ったことはないよ。イエス・キリストは大好きだけどね」
「止めてくれてありがとう。俺は、とんでもない間違いを仕出かすところだった」
微笑を浮かべる胡桃沢の頬には、一条の黒い筋ができていた。
今日はもう上がりですかと尋ねると、蓮見はチキンタツタから顔をあげて、
「食事が済んだら残業にかからなきゃ」と、溜息をついた。「ただでさえ立て込んでるのに、セクションスリーの子たちの、あの悪戯だもの。たぶん日付が変わるまで家に帰れないわ」
「あれが悪戯で済むんですか。ったく、能天気な会社だ」
義哉はストロベリーのシェイクを含んで、ハンバーガーの包装紙をポテトの空き箱に押し込んだ。
蓮見が、個人的に話があるというので、本社近くのファーストフード店にやってきた。そとはヘッドライトの奔流で、ときおり窓辺の義哉に飛沫がかかる。
「ありがとう。助かったわ、ほんとうに」
「何がスか」
「結果として、死者がひとりも出なかったのは、最上くんのお陰よ」と、蓮見は云って、小指で唇の端をぬぐった。「実は私、心配してたの。あなたがあの子たちを皆殺しにしてしまうんじゃないかって。そうなったらこっちも事故として処理しようってことで話がまとまってたのよ。東亜にとって大切なのは、あなたたちのほうだから」
「生臭い話スね」と、義哉は呟いた。
そうそう、と蓮見は思い出したように、
「あなたに、セクションファイブのリーダーをやってもらうことになったわ。よろしくね」
「柄じゃないスよ」
「そうは思わないけど」
「俺なんかより、胡桃沢のほうがよほど相応しい」
「胡桃沢くんは、確かにいい子だと思う。きっと生徒会長だって務まるでしょうね。でも、みんなを窮地から生還させることができるのは、最上くんのほうよ。諦めなさい、これは決定事項だから」
「………」
「それでね、早速リーダーさんに相談があるの」
義哉は顔をあげた。蓮見は、チキンタツタをトレイに置くと、
「胡桃沢くんのことなんだけど、……」深刻そうな眼差しを義哉に向けて、「夕方、システム管理課から呼び出されてね。本社のサーバーに不正にアクセスされた形跡があって、辿ったら寮のルーターに行きついたって言うの。あなたはその時間帯、補習に出ていたし、シエラは寮母さんに髪を拭いてもらっていたし、野宮さんは友達と遊んでいてまだ寮に戻ってなかったみたいだし……そう考えると、胡桃沢くんしかいないのよね。いろいろとマズいのよ。わかるでしょう。あなたから、胡桃沢くんに、それとなく注意してあげて欲しいの」
義哉は、わかりました、と軽く応えたが、内心では、ガラスの破片が散らばるうえを素足で歩くような思いだった。なぜ胡桃沢が東亜のサーバーに侵入したのか、すぐにピンときた。東亜の過去を洗うことで、臨時防衛委員会にまつわる情報を得ようとしたのに違いなかった。
レコード店に立ち寄るつもりだったのを後日にして、義哉はまっすぐ寮へ帰った。ラウンジでは、シエラがソファに座ってひざを抱え、食い入るようにテレビを観ていた。画面いっぱいに、古典的のコントが展開している。芸人風の小太りの男が、わざとらしくバナナの皮にすべって転ぶと、シエラはぎゅっとクッションを抱きしめる。だいぶお気に召したようだった。義哉は、ソファのうしろを静かに通りすぎた。
そうして階段を上り、廊下へ折れようとして、ふと脚を止めた。踊り場に蒼白いひかりが揺らいでいる。見上げると、奈々が階段に腰を下ろしてメールを打っていた。義哉は声をかけようとして、けれども夢中でやっているのを中断させることもないと思い、軽く手を振ってみた。奈々は気付かず、ただひかりの加減で蒼ざめてみえる顔を携帯端末のうえに被せていた。義哉は黙って通りすぎた。
『胡桃沢寿人』の名札が掛かったドアはすぐ見付かった。ノックすると、ハーフパンツにティーシャツ姿の胡桃沢が出てきて、義哉の顔を見るなり、
「ちょうどよかった! 通信を入れようかと思っていたところなんだ。とにかく、入って」
味気ないくらいに整頓の行き届いた部屋だった。義哉はベッドカバーの端のほうに座って、
「東亜の過去のことでも調べたのか」
「さすがは最上だ。どうして分かったんだ? 実は……」
義哉は遮って、「尻尾、掴まれてンぞ」
「え?」
「蓮見サンから、それとなく注意してやってくれと頼まれた。心当たりがないとは言わせない」
胡桃沢の顔がみるみる歪んでゆく。その様に、義哉は思わず噴出した。
「わ、笑うことはないだろ。僕は真剣なんだ」
「悪い――」義哉はこみ上げてくるものをなんとか押さえ込みながら、「けれど、真面目な話、ハッカーは侵入くらいできてあたりまえ、いかに痕跡を残さないかが腕の見せどころ――なんだそうだ。これは知り合いの情報屋の受け売りだけどな。調査をやめろとは云わない。云われてやめる胡桃沢でもないだろう。ただ、これだけは言わせてくれ。……もっと慎重になったほうがいい。リスクを負うのは自分だけと思うなよ。下手すりゃ、家族にも累が及ぶ。胡桃沢んちは経営者の一族なんだろ?」
胡桃沢の顔から、血の気がひいた。それを見届けて、義哉は立ち上がった。
「待って、最上。なにかいい方法はないものかな」
「いま降りておけば、子供の悪戯で済む」
「そうだ。最上は情報屋をたくさん知っているよな」と、胡桃沢は云って、義哉の袖を掴んだ。「腕利きのハッカーを紹介してくれないか? 頼む、この通り!」
「紹介して、どうするんだ」
「弟子にしてもらう」
「本気か?」
「なあ、知ってるんだろ」
「知らないこともないけど……」と、義哉は頬に手をあてた。真先に脳裏に浮んだのは、身を隠すと称してどこかでバカンスを楽しんでいるであろう高梨のことである。なんとなく気が進まない。けれども胡桃沢はつぶらな瞳で義哉を見つめてくる。
これは厄介ごとだった。胡桃沢に下手を踏ませるわけにはいかない。とすれば、方策は結局二つしかない。もっと脅かして調査を思い留まらせるか、それとも信頼できる情報屋に丸投げしてしまうか。――義哉は胡桃沢にじっと見つめられているうちに揺さぶるのが億劫になって、後者を選ぶことにした。そもそも、義哉に学校を押し付けたのはあの男である。だから、あの男には胡桃沢を教育する義務があるはずだ。
「ちょっと、待ってろ」
義哉は携帯端末をいじり、耳にあてた。高梨はすぐに出た。「とうとう数学に行き詰ったか」と、冷やかすように笑っている。
「いや、まだだ。けれど、そのうち確実に死ぬと思う。そのときは改めて連絡を入れる。――じゃなくて、ちょっと聞きたいことがある」
「なんだ」
「高梨サン、あんた弟子を取る気はないか。いや、取ってもらわなきゃならなくなった。大丈夫、俺と違って数学はバッチリできる。そういうことだから。本人に代わる」
「おい、勝手に話をすすめるな。というか、いま女と一緒なんだよ」と、高梨は狼狽しきった声をあげた。義哉は構わず、ほら、と胡桃沢に携帯端末を預けて、「俺は疲れたんで部屋に戻るよ。それは、明日返してくれたらいいから。じゃ、おやすみ」と云い、部屋を出た。
自室にひきとって、洗剤の匂いの仄かに漂う薄闇を横ぎり、照明のスイッチを入れたとき、腰が机にあたって、スリープ状態のノートパソコンの画面が、ふっと明るくなった。メーラーに、新着のマークがある。ひらいてみると、
「えっと、昨日はごめんなさい。うれしくて、なんだかホッとして、どきどきしながら返事を考えていたら、爆睡してしまいました。怒ってない? よね? ヨシヤはあたしのどんなところが好きなの? 聞いてあげてもよくってよ!」
リーナからだった。義哉は椅子をひいて、手のひらに額をのせると、目を閉じて文面を考えた。伝えたいことは沢山ある。それだけに、整理にすこし手間取った。やがて上体を起こすと、タイピングを始めた。
――いつか、リーナに頼まれて、両親の話をしたことがあった。話し終えると、リーナは泣いてくれた。正直に打ち明ける。衝撃だった。そんな風に感じてくれるひとがいるなんて、思ってもみなかった。リーナの涙声は、暗くてじめじめした俺の部屋のカーテンを押し開いてくれた。意味がわからないと思うけれど、あれで、記憶の底に空転していた歯車が、カチッと音をたてて、あるべき場所に戻ったみたいなんだ。それから俺はひとを助けて死んだ親父のことを考えた。悲しみに埋もれて自殺した母親のことを考えた。それまで、閉じた輪のなかを執拗に巡っていたのが、ひかりの差すほうへ流れはじめた。
――今日、俺は危うく殺されかけた。なのにいま、心臓は少しも高鳴っていない。いつもみたいにイヤな不安で胸を覆われていない。それは多分、敵のなかに人間性を見出したからだと思う。こんなことは、以前の俺には考えられなかった。俺の目は、すこし透きとおって、遠くが見えるようになった。そうしてつくづく思うことがある。恐怖は、危険それ自体から来るんじゃなく、どれだけ危険かを推し量れなくする闇から来るんだって。明るいところへ出なければ、決して気づけなかったことだ。このひかりは、リーナが注いでくれたものだ。リーナはそんなつもりはなかったかもしれないけれど、俺はあんたに救われたんだ。
――ざっと読み返してみたけれど、ちょっと酷いな、これは。でも、俺の正直な気持なんだから、仕方がない。恥ずかしいのを我慢して、送信する。そうだ、肝心のことに答えていなかった。リーナのどんなところが好きかって? 全部だよ。悪いか。
シャワーを浴びて、パソコンの前に戻ってくると、やけにハイテンションの返信が入っていた。今週の日曜は予定がない、という意味のことが、言い回しを変えて三度出てきたので、
「それはなにか、リーナさんを遊びに誘ってもいいってこと?」
「どうしてもって言うなら、誘われてあげてもよくってよ!」
「じゃあ、是非。どこか行きたいところ、ある?」
「あたし、ヨシヤと一緒ならどこでもいい……」
短いメールが幾度か往復したのち、待ち合わせは『午前一〇時、JR比良坂駅の改札前』と決まった。義哉は大学ノートにメモを取ると、「絶対、忘れんなよ」と念を押して、新鮮な匂いのするシーツのあいだに潜り込んだ。身も心も疲れきっていたけれど、夢を見ているような喜びが胸に居座って、睡魔に身を任せるにはすこし時間が必要だった。
うつらうつらしてきて、一瞬意識が遠のいたように感じ、ふと瞼を開けてみると、カーテンがクリスマス・ツリーを蔽っているかのように多彩なひかりを透過して、窓から流れ込む微風にふわふわと揺らいでいた。
割れるように側頭部が痛む。身体じゅうがだるくて、呼吸をするのさえ億劫だった。けれども、いま歯を食いしばって電気雲を遮らなければ、そのうち首でも吊りたくなってくるかもしれない。義哉は一念発起してベッドから降り、手当たり次第に窓を閉めてまわった。
バスルームの小窓をしっかり締め切って、もどってくると、幻影がひとつ、部屋に入り込んでいた。それは立ち姿のやけに美しい少女で、机の傍にほの白く浮かび上がっていた。
少女は、細長い指を流れるように動かして黒髪を耳にかける。そうして現れた横顔は、シエラのそれとよく似ていた。かの女は机の大学ノートをじっと見おろしていたが、急に顔をあげて、眠たそうな目を義哉にむけた。義哉は気にせず、頭痛薬の小箱をひらいて、パッケージから錠剤を多めに取り出し、奥歯ですこし崩してからペットボトルの水で流し込んだ。冷蔵庫を閉めて、ベッドに身を横たえながら、ふと机のほうに視線をやると、幻は消えていた。
頭痛が和らいでくると、意識は自然とリーナのことに占められて、胸が心地よく高鳴った。それからしばらく、カーテンは盆提灯のようにちらついていた。
右隣の席の女子が、世界史の資料集を忘れたから、見せてという。机を合わせて、あいだに資料集を開き、秋の陽気にぼうっとしながら、ラファエロのマドンナとかパールの耳飾りとかいうような、一見、格調高い芸術の薫りがするようで、その実、どことなく内装のきたないパチンコ屋を連想させる固有名詞を意識と無意識のはざまにゆらゆらさせているうち、ふと隣の女子が、
「最上ってさあ、隣のクラスの野宮ってひとと仲いいんでしょ」
義哉は欠伸をしながら、
「まあな」
「大丈夫なの?」
「なんとか。つか、なんでいきなりンなこと聞くんだよ」
「だって、あのひと超ヤバいらしいじゃん――」と、女子は声をひそめる。「洒落になんない噂とか、よく聞くよ」
義哉は、ああ、と言って頬杖をついた。ここ数日、奈々が塞ぎ込んでいるが、その理由がわかったように思った。
「組をひとりで潰したとか、北区では怖がって誰も近づかないとか。あれって本当なの」
「いい奴だよ。気は短いけど」
「答えになってないよー。ね。あんたも、討伐士ってやつなんでしょ。いろいろ知ってるんでしょ。教えてよ」
「俺が平気なんだったら、あいつのことも怖がる必要はないって」
女子はやれやれという風に溜息をついて、
「最上ってさ、話の逸らしかたとかうまいよね。やっぱりヒモだ。そうやって女の子を言いくるめて、アダルトビデオに出演させちゃうんだ。ドンペリ漬けにしちゃうんだ。嫌……怖い……」
「ヒモとキャッチとホスト、ごっちゃになってないか?」
話をせがむ女子に、義哉は寝ると一方的に宣言して、机に伏せた。
チャイムが鳴って、それから二三人にさよならの声をかけられたような気がする。はっとして身を起こすと、教室にひとりとり残されていた。帰りのホームルームはとうに終わったらしい。土曜の補習は午後一時からで、それまでに食事を取る余裕があった。義哉は昇降口を出て、正門からはすむかいの牛丼屋でテイクアウトを注文し、教室棟の屋上にあがった。
バレーコートが四つくらい入りそうな、広い庭園を、高いフェンスで囲っていて、その一角に、余った机や椅子が積まれたまま雨ざらしになっている。義哉は付近へ歩いていって、ふと人影に気づいた。
強く吹きはじめた秋風に、亜麻色の巻髪がさらさらと流れて、白い横顔を蔽ったり、露にしたりする。相変わらず深刻そうな表情で、携帯端末をいじっていた。義哉がよほど近づいても、かの女は気がつかない様子だった。
「よう」と、義哉が声をかけると、奈々は驚いたように顔をあげて、
「おどかさないで」と、弱々しく言った。
「今日も補習なんだよ。ここで飯食ってもいいか?」
奈々は頷くなり、また携帯端末にかかりきりになった。
「俺にできることがあれば、言ってくれ」牛丼をかっ込みながら、話しかけると、
「ありがと。ていうか、バレちゃった」
「北区での武勇伝の数々が、か」
奈々は溜息をついて、「笑い事じゃないんだからね」
「分かってる」と、義哉は言った。「けれど、しょうがない。いつかは分かることだし、正直、俺も噂を聞いてビビってたくらいだからな。いや、リスペクトかな。おない年で、しかも女なのに、死ぬことをまるで怖がってないような仕事をする。会うまでは、どんな奴なんだって思ってた。普通にギャルときたから、二重でビックリだ。それで俺は分からなくなった。なあ、野宮には命より大切なものでもあるのか。それを守るために、命を張ってたのか。だったら、俺のなかで辻褄が合うんだけど」
奈々は微笑して、うん、と云った。
「あたしンち、教会なんだけど、孤児院みたいなこともやってるのね。子供がたっくさんいて、わあわあ、ぎゃあぎゃあ、年じゅううるさくってたまんないの。ちっちゃい男の子とか、あたしの髪にガムくっつけたりするし、鼻水垂らしっぱなしだから服がいつもテカテカしてるし、教会の祭壇から飛び降りてマリア様の像を壊したりしちゃうし。でもみんな超可愛いの。……その子たちが、ときどきいなくなったりする。どうしてだか、分かるでしょ」
義哉は顔をしかめた。北区は人身売買の盛んなところで、眼球や内臓をくりぬかれた子供の死体が、よくゴミ捨て場に転がっていたりするという。
「……討伐士になったのは、餓鬼を守るため、か」
奈々は、頷いて、風にみだれた髪をかきあげた。
「筆記試験は超あれだったけど、三回目でなんとか合格できた。それから犯罪組織の下っ端を退治したり、アジトに殴り込んだり、子供を監禁してる倉庫に突入したり、とにかく暴れまわった。怖かったけど、でもそうすることで一人でも多くの子供を助けられるんだったら、全然構わなかった。あのころは、力さえあれば、子供を攫ったりする最低なやつらを北区から一掃できると思ってた。……バカでしょ。結果はまるで逆。あたしは朝から晩まで、あいつらの雇ったシャーマンに狙われて、孤児院の子たちまで巻き込んじゃって、どんどんヤバくなってった……」
奈々がとつぜん、口元を押さえた。長い睫がみるみる潤い、涙が頬を伝う。「あたしのせいで、孤児院の子たちがいっぱい連れて行かれて……殺された。あたしどうしていいかわかんなくて、がむしゃらに暴れまわって、でも状況は悪くなる一方で、いっそ殺されるのを覚悟で、あいつらに謝ろうって心に決めたとき、蓮見さんに出会ったの。あのひとが、シンジケートとの間にはいってくれて、やつらは孤児院の子に手を出さないかわり、あたしもやつらに攻撃を仕掛けないっていう風に、手打ちの斡旋をしてくれた。それで東亜にスカウトされて、いま、こうしてるの」
「そっか。……心細かっただろ。わかるよ」
奈々は、目を瞠った。
「――あんたもそんな風に思ったりするんだ。意外。だって、あんたがドツボに嵌ってるところって、想像できないんだもん。いつも涼しい顔して敵を手玉にとって……みたいに見える」
「ンなこたねえよ」義哉は箸の先に紅生姜をすこし挟んでくちに運び、「ほとんど、綱渡りみたいな毎日だった」
「でもあたし、心強いよ」と、奈々は普段よりずっとあどけなく見える笑みを浮かべた。「これからはあんたが一緒だと思うと、安心する。……ごめんね、急にヘンなこと言って」ちからなく項垂れる彼女の、携帯端末を握る手が、白くなって、すこし震えていた。「なんだか、ショックでさ。裏サイトにあることないこと書かれてんの。……あはっ、酷すぎて、笑える」
言葉とは裏腹に、奈々は嗚咽していた。
「気にすんなって。そいつらはそいつらの狭い世界からモノを見るしかないんだ。上っ面しか見ないで好き勝手云うなったって、無理だ。世のなかは元々そういうもんだから。けれど、おまえのことをよく知ってる奴はみんな、おまえの味方だろ。だって、おまえほどタフで優しい奴はいないもの。だから、自信を持てって。分かってくれるやつは、ちゃんと分かってくれるからさ。――ああ、もう、泣くなよ。子供かよ」
義哉は、牛丼の容器を危うくひっくり返しそうになった。眼のまえを、ばさりと金髪に蔽われ、シャンプーの甘い匂いと柔らかい質感が被さってくる。耳の傍には、奈々のわんわん泣く声があった。義哉は、割箸をもったままの手で、奈々のほそく頼りない背中を抱くかっこうになった。
「ねえ最上、」と、奈々は涙声で云った。「これからもずっとあたしの味方でいて」
「そのつもりだ」
「どっちかが、東亜から離れたりしても、変らず、ずうっとだよ」
「ああ……」
高く雲を奔らせる秋風が、フェンスを揺すってびゅうびゅう抜けていく。奈々はその肌寒さに耐えかねたように、義哉の懐のなかへ潜ろうとする。義哉が仔猫でも抱いているような温かさをもてあまして、なあ、と呟いたとき、緩やかに風を渡ってくる声があった。
おうい、とその声は云う。喜色を孕んだ青年の声だった。義哉が少し焦りながら、「胡桃沢だ――」と、奈々の耳元に囁くと、かの女は身体を起して、「えっ? えっ!」と、左右を見回した。それから素早く身体を離し、「胡桃沢くん、ちがうんだよ。これはね!」と、しどろもどろの釈明を始めた。
「あっ、気がきかなくて、ごめん」胡桃沢はだいぶ遠いところで、卒然と立ち止まった。「最上に話があったんだけど……今度でいいや」
「あんたもなにか言ってよ、早く!」
奈々に物凄い剣幕で急き立てられて、義哉は大声をあげた。「誤解すんなよ。俺と野宮は、胡桃沢がいま想像しているような仲じゃないからな」
「いいんだ、いいんだ」
胡桃沢は、自分のほうが恥かしいところを見られたとでも云うように背をまるめて走っていき、屋上の扉に飛び込んだ。
「もうー、ちょっと!」と、奈々は義哉の上腕をひっぱたいた。
「痛っ、」義哉は牛丼のバランスを取るのに苦心しながら、「つうか、俺のせいなのかよ」
「あんたから、ちゃんと説明しておいてよね!」
「……しょうがねえな」
箸をそろえて、つゆの染みたご飯をかっ込んでいると、奈々が腕を組んで敢然と見おろしているのに気が付いた。
「なんだよ」
「あんた、なに余裕こいて食べてんの?」奈々は、追っていますぐ釈明してこいとばかりに、扉のほうへ顎をしゃくった。
「いや、だって……」
「容器はあたしが片付けといてあげる」
義哉は無言の抵抗を試みたが、手をぐいと差しだす奈々に成すすべがなく、嫌々、半分も残っている牛丼を明け渡した。
胡桃沢には、自転車置き場で追いついた。胡桃沢はモノレールを使わず、愛用のマウンテン・バイクで通学している。
「あ、最上……いいの?」
かれは自転車を押しながら、心配そうに校舎を見上げた。
「違うから」と、義哉は云った。「身の上話をしていて、野宮が泣き出して、で慰めてたンだ。――わかるだろ、あいつはおまえに首ったけなんだから」
すると、胡桃沢は急に赤くなった。「そ、そんな訳ないよ」
「思うよな、俺って自意識過剰なんじゃないかって。けれど胡桃沢、あいつはガチだ」
「じゃあ、どうして最上には打ち明け話をするのに、僕には……」
僻むように胡桃沢が云うので、義哉は、これはと思った。
「そりゃあ、俺が完全な『オトモダチ』だからだよ。考えてみろって。胡桃沢は好きな女の子に、なんでも洗いざらい喋れるか? 言いづらいことだってあるだろう」
「僕は、すべてを知って欲しい」
義哉は、がさがさと髪をかきあげ、
「ま、男と女は少し違うかもな――」と、若干の軌道修正をした。「女には、こんな風に好きな男の目に映っていたいっていう希望があるんだよ。で、野宮は、自己像と理想像が、若干食い違ってて……」ここまで云って、奈々から、昔のことは胡桃沢に喋るなと釘をさされていたことを思い出し、「あーもう。とにかく、胡桃沢、おまえはどうなんだ。野宮のこと、どう思ってるんだ」
「最上こそ、どうなんだよ」
義哉は、胡桃沢が目を赤くしているのを見て、まったくの善意から「女として、あれはない」と断言した。
「野宮さんのこと、悪くいうな!」
「そ、そうだな、ごめん」
義哉は憮然とする胡桃沢を横目に見ながら、しかし脈はあると思った。二人の背中を軽く押してやるだけで、案外うまく行ってしまいそうな気がする。とすれば、分の悪い釈明を続けるには及ばない。そこで、
「……そういや、話があるって言ってたな」と、話題を切り替えた。
「あ、うん」と、胡桃沢は腕時計に眼を落す。「でも、そろそろ補習でしょ。大丈夫?」
「たまにはサボっても、構わないだろ。だいたい、こうも連日じゃ、窒息する」
「しらないよー」胡桃沢がいたずらっぽい笑みを浮かべる。と、その脚がはたと止まった。胡桃沢は口をすこし開いたまま、再開発ビルのオーロラ・ビジョンを見上げている。
「どうかしたか」
義哉もつられて映像に視線を据えた。エプロンをかけたふたりの女性が、グラタンの仕込みをしている。上部にテロップが出ていた。死者四名……マンション立て篭もり……シャーマン……といった断片が目についた。
「またか。最近、多いな」
「話っていうのは、あれのこと。最上も知っているかもしれないけど、シャーマンが殺気立ってるのは麻薬がなかなか手に入らなくなっているからなんだ。そのことに……臨時防衛委員会が絡んでいる」
義哉はさりげなく辺りを見回した。雲の輝く秋空を背に、高低の建物が連なっている。人通りは多かったけれど、別段、自分たちに関心を寄せているような人物は見当たらない。それを確かめて、義哉はいくらか気持ちが落ちついた。
「最上は首を突っ込みたくないかもしれないけど……」と、胡桃沢はうつむく。「でも、そう遠くないうちに、街が大変なことになるかもしれないんだ。僕たち討伐士にとっても、他人事じゃない。いや、それどころか、比良坂に住んでいる誰もが、いずれ直面しうることだよ」
「……そりゃ、またデカい話になりそうだな」
「結論から云うと、臨時防衛委員会はとんでもない失策を犯した。それに端を発する問題は、すでに制御できない状態に陥り、暴発寸前のところまで来ている可能性がある」
「高梨サンと一緒に調査したんだろ。その件について、高梨サンは何と言ってる?」
「詳細が分かってきたら改めて最上に連絡するけれど、街から出る準備だけはしておいたほうがいいかもしれないって……。師匠も、しばらく言葉がなかったみたい。師匠っていうのは、その、高梨サンのこと」
義哉は目のあいだを揉みながら、吐息をして、
「話が見えないな。要するに、イリュージョンの流通が滞った背景に、臨時防衛委員会の意向があった、ということか?」
胡桃沢はうなづき、「もっと言えば、委員会は麻薬の流通を完全にコントロールしていた」
「しかし、なぜ」
「そのことを説明するには、次元崩壊直後にまで時間を遡らなきゃならない。当時、比良坂は他の地方都市とおなじく、滅亡の危機にあった。その頃は初期のディフェンダーが実戦投入されたばかりで、比良坂市は防衛に最低限必要な戦力を揃えることを最大の課題としていた。ディフェンダーの製造体制だけはなんとか整ったけれど、肝心の耐性をもつ人間がなかなか見付からなかった。そこで、有志の自衛隊員や警察官にイリュージョンを服用させて、急遽、ディフェンダー使いに仕立てた。けれども絶対数はまだまだ足りない。やむなく、臨時防衛委員会は、犯罪組織をつかって市中にイリュージョンとディフェンダーを流通させることにした。つまり、故意にシャーマンを増やして、都市の防衛に当たらせようとしたんだ。この政策は功を奏し、レギオンの排除は大いに進んだ。この方針は、ついこのあいだまで続けられていたんだ」
「ふうん……シャーマンが官製のものだったとはな」
「ところが、これには裏の目的もあった。イリュージョンは元々、服用者のディフェンダーへの耐性を高める目的で開発された訳じゃないんだ。人間から『生命素』を抽出するために、神権主義者たちが合成したもので、実際、次元崩壊前には多くの政治犯が施設に連行されて、イリュージョンを強制的に投与されていた。そうして抽出された生命素は、結晶化され、『神の創造』に使われたんだ。――このイリュージョンを市中に流通させた臨時防衛委員会のもうひとつの意図、わかる?」
「シャーマンから生命素を抽出して、ミニチュアの『神』でも作ろうとしていたのか」
胡桃沢は、パチンと指を鳴らした。「その通りだよ。ところで、生命素が生じるのは心臓のなかでも脳のなかでもない。意識のなかなんだ。形而上に生じたものを抽出して結晶化し、物質的に安定させる。なかでもシャーマンは特別で、かれらは麻薬の常用によって精神を傷めていることが多く、総体的に意識のボーダーレス化が進行していて、その生命素は個別の意識ではなく、集合意識のなかに渾然一体となって生じるらしいんだ。臨時防衛委員会はこの大きな生命素をいちどに回収することを計画して、タイミングを見計らっていたんだけど、生命素は充分に成熟するまえから、ゴースト化を起してしまった。その理由については諸説あるみたい。有力なところでは、シャーマンの集合意識が麻薬に侵食されて歪んでいたために、その悪影響をもろ受けてしまったのではないかというものがある。ともかく、臨時防衛委員会はこのゴーストを危険視し、現状以上に肥大化させないため、麻薬の流通を急遽ストップしたんだ。けれど、それが却ってシャーマンたちを苦しませ、ゴーストの暴走に拍車をかける結果になっている。ゴーストはシャーマンの集合意識から影響を受けているように、ゴーストもまた集合意識に影響を与える。研究者の多くは、その循環的なプロセスのなかで、シャーマンの事件が増加していると見ているみたいだ」
「神権主義者たちとおなじ、自縄自縛のパターンか。懲りない連中だ」
「けれど、調べるなかでひとつだけ嬉しいことがあった。東亜が――僕のお祖父さんが、この計画にはっきりと反対していたと分かったんだ。人類は神による統治に依存してはならない、たとえ不完全でも自分たちで自分たちを律していかなきゃならない――そういう主旨の発言が、議事録に残っていた。お祖父さんたちは、生命素が暴走してしまう危険性もしっかり認識していた。そうしてイリュージョンに依存しない防衛体制を構築しなければならないと考え、討伐士の育成に力をいれるようになったんだ。セクションスリーのことは、すべて賛成はできないけれど、お祖父さんなりに考えがあったんだなって、いまは理解できる」
「それはいいが、これからどうする」と、義哉は目を細めた。「暴走しつつあるゴーストの規模というのがよく分からないけど、その話を聞くかぎりじゃ、後戻りできるラインを確実に超えてしまっているように思える」
「とにかく、師匠と一緒に、もうすこし詳しく調べてみるよ」
「………」
モノレールを使って帰る義哉は、駅前で胡桃沢と別れる際に、「そういや、明日、暇か?」
「うん、まあ」と、胡桃沢はサドルに跨りながら言った。
「だったら、野宮と三人で遊びにいかない?」
「え、悪いよ。二人で行きなって」
「だから違うって。行くだろ? はい決定」と、義哉は強引に云って、それから携帯端末で奈々に連絡を入れた。「……明日の予定はどうよ? つか、胡桃沢と三人で遊びに行くから、空けとけよ。いいな」
義哉は携帯端末をたたむと、声を潜めて、
「……明日は綺麗なパンツを穿いてこいよ」
「……えっ、なんで」胡桃沢は、目を瞬かせた。
「備えあれば憂いなしって言うだろ。念のためだよ」
じゃ気をつけて、と義哉は言って、信号の変わりかけている横断歩道を小走りに渡った。
明朝、義哉はラグランのティーシャツのうえからスタジャンをはおり、鏡を睨みながらワックスで髪を整えると、「悪い、行けなくなった」と、奈々に電話で伝えた。
「はあ? なにそれ。あんた、言い出しっぺでしょうよ。……って、もしかして!」
義哉は苦笑いして、「二人で行ってきて」
「あんたって、超いい奴! 帰りにたこやき買ってきてあげるかんね!」
「がんばれよ」
通信を切って、気合をつけるように頬を強くこすった。ひとを心配している場合ではない、自分こそ頑張らなければと思い至ったのである。リーナとの待ち合わせには、まだ時間があったが、手持ち無沙汰になるのを承知で、すこし早く出ることにして、寮の階段を下りていくと、裾にバナナの皮が落ちていた。掃除の行き届いたところにぽつんと落ちているものだから、なんとなくシュールである。
誰が落としていったのだろうと思いながら、バナナの皮を拾いあげたとき、廊下のかどからシエラが首を出しているのに気が付いた。ピタリと目が合うと、シエラは頭をひっこませて、ぱたぱたとサンダルを鳴らして駆けていく。義哉はふと、シエラがバナナの皮にすべって転ぶベタベタなコントを熱心に見ていた晩のことを思い出した。そうして、「こら」と云って、あとを追いかけた。
シエラは給湯室の壁に背を当てて、退屈をもてあましたような表情を、すこしうつむかせていた。
「一応、確かめるけど、このバナナの皮は、シエラが仕掛けたンか」
義哉は、ぐいと腕を突き出し、黄色くてみすぼらしいものをぶらぶらさせた。シエラはなにも云わない。
「俺のコケるところが見たかったのか? どうしてもか? マットでも敷いてあれば、見せてやらないこともないけど。でもな、よく人が通る場所に、こういうものを置いておいちゃいけないだろ」
「………」
「シエラが『ごめんなさい、もうしません』と云うまで、俺は引き下がらないからな」
「あの、お出かけですか」と、シエラがおどおどした様子で訊ねる。
「うん、まあな」
急にシエラは顔をあげて、「行かないほうがいいと思います!」と云った。
「なんで?」
「それは……」
「困ったな」義哉は首のうしろを撫でながら、バナナの皮をごみ箱に放った。「大切なひとと逢うんだよ。まえからの約束で」
「………」
「行かせてくれないか。お土産、買ってくるからさ。なにか欲しいものはある?」
「あるけれど、最上さんには教えてあげません」
まるでモノクロの洋画から抜け出てきたような、かの女の大人びた美貌の曇るさまと、子供っぽい言い草のつくるふしぎな落差に、義哉は虚を衝かれて言葉を失くした。そうして、電気雲の晩に部屋に紛れこんだ幻影が目のまえのシエラのすがたとぴったり重なって、ひとつのありふれた、けれども情感にあふれた言葉を、落差のうえに刻みつけた。
その言葉は、むせるほど薫る香水に似たところがあって、嗅ぐひとに芳香の主への認識をあらためることを強くせまるような独特の鋭利さを伴っている。その穂先をあやうく躱して、なんとなく――そういう曖昧な副詞のうちにすべてをやんわりと収めてしまおうとした矢先、シエラは長い黒髪をなびかせて、義哉の傍を風のように駆け抜けていった。
残り香に包まれて酔ったようになり、ふりかえって、義哉はアッと声を出しそうになった。急須を手にした寮母が、分かってるからなにも言うなという顔をして、立っている。
「シエラちゃんは子供とおんなじなの」と、寮母は云った。「だから、好きな子が出来たって不思議じゃないのよ」
義哉はなんと答えていいのか分からず、あごの裏のざらざらしたところを弄った。
「ガラス細工なんていいんじゃないかしら」
「え、なにがスか」
「さっきの、お土産の話。シエラちゃんは、ラムネの瓶とか、ビー玉とか、色つきのガラスのコップとか、よく光にかざして遊んでるわよ」
そのとき義哉の脳裏に浮んだ想像の絵は、微笑ましいという表現を少し超えていた。一面では、凄絶ですらあった。シエラは戦闘用アンドロイドである。ガラスを透したひかりを受け止めるのは機械仕掛けの眼球である。
では、秋の澄んだ空をわたる電線や、梢に金色の陽射しを絡めた街路樹は、シエラの目にどう映るのだろう。欄干にとまって羽根をやすめる百舌鳥は。空地に揺れる薄の群れは。――かの女はともすると、自分よりよほど瑞々しい感受性をもって街を眺めているのかもしれない。色つきのガラスほど美しいものはないが、義哉はその美しさを長いあいだ忘れていた。父の生前、幼少期を過した六畳間のテーブルには、復刻の薩摩切子の一輪挿しが飾ってあった。エメラルドを嵌めこんだような目のさめる碧に、曇った格子が切ってあって、テレビやスタンドに翳すと、千変万化の輝きを放つ。ティッシュで手垢を拭ってから覗くと、見違えて華やいだ。それが嬉しくて、幼い義哉は骨董趣味のひとのようにしょっちゅう一輪挿しを磨いて、よく両親にからかわれた。一輪挿しは、母の誕生日に父が買ってきたものである。あの頃、母親はときどき明るかった。声をあげて笑うことさえあった。テーブルに伸びた、一輪挿しの翠いろの影は、色褪せてゆく団欒の記憶のなかに、不思議なほどはっきりとした輪郭を保っている。
切子にまつわる追想をつらつら辿りながら、鉄橋のうえを駅方面にむかって歩いていると、とつぜんリーナから連絡が入った。端末を耳に当てると、人々のざわつく声がまず聞こえた。ヒップ・ホップ風の、地を這うようなリズムを基調に、掛声とも歓声ともつかないものが飛び交っている。女の声もあるが、多くは遊びなれた感じのする男のそれである。そうした騒音がだらだら続くばかりで、義哉は間違いかと疑って、もういちど番号を確認した。やはりリーナだった。思わず首をかしげた。リーナの個性と、クラブ的な雰囲気は、なんとなく馴染まない。それだけに、不気味なものを予感せざるを得なかった。義哉は、三度目の「もしもし」を云った。声がひくくなっているのが、自分で分かった。
「あっ、ごめんね」という急な応答は、幾度となく音声通信で話をしたリーナのものに違いなかった。
「そっち、賑やかそうじゃん」と、義哉はつとめて普通に云った。けれども、心のうちでは異変を確信していた。リーナの、ごめんね、の言葉から、蔽いきれない冷淡が滲んでいる。そう聞こえるのは、恋愛にありがちな甘い気まぐれのためではなかった。かの女のうちで、何かが変ったのである。それを、喋りかたが端的に示している。――義哉は理由をあれこれ考えるより先に、重い事実に耐えかねて空を仰いだ。
「まあね――」と、リーナは言った。「あのさあ、待ち合わせの場所、変えたいんだけど」
「都合が悪いンなら、日を変えても構わないし」
「そういうんじゃないって。別に、いいでしょ」
義哉はどう答えればいいのか分からず、欄干にもたれて黒くうねる川面を見下ろした。
「キミにどうしても逢いたいの」リーナは義哉のことを初めてキミと呼んで、「でも、嫌なら来なくってもいいよ」
「……いや、行く」
リーナは一方的に待ち合わせ場所を告げると、じゃーね、と通信を切った。
義哉は端末を内ポケットに落とすと、寮をふりかえって、スミスアンドウェッソンと、ワイルドアゲインのことを考えた。けれども、取りに戻る気にはなれなかった。どうして、リーナと会いに行くのに武器が必要なんだ――そういう理性から離れた反発がある。
雑居ビルと潰れたボウリング場のあいだを折れると、空調の埃っぽい匂いと一緒に、麻雀牌をかきまわす音と、中国語でまくしたてるような声が、サッシ窓の隙間から零れてきた。ごみごみした路地である。調理服を着た二十歳くらいの男が、ポリ容器の傍にしゃがんで煙草を吹かしていた。かれは義哉がまえを通りすぎるのを、莫迦のように見上げていた。
突きあたりは、有刺鉄線を絡めたフェンスになっていた。そのむこうは私有地らしく、寂れたビルに三方を高く塞がれて、薄暗かった。どこからか、キックドラムの重低音が響いてくる。あるかなしかの微風が抜け、濃いドブの匂いが漂った。
右手に、自転車やバイクが乱雑に停めてある。左側の白線を引いたスペースの、濃い日陰のなかには、十数人の若者がいた。階段に腰をおろす男の、ニットキャップのしたで落ち窪んだ眼が、鈍くひかる。その傍で、バスケットボールを衝くバミューダパンツの男が、友好的とは云いがたい一瞥を義哉に投げかけた。屯するほかの男たちも、似たような様相だった。
義哉は集団のなかに、異彩を放つすがたを見出した。ノルディック柄のワンピースを着、ラビット・ファーの帽子を被った、細身の可憐な少女である。肩にかからないくらいの黒髪のあいだに、凛とした眼があった。
かの女は、ゆっくりとフェンスに近づいてきて、
「キミが、同姓同名の別人だったらよかったのに……」と、悲しげに微笑んだ。
「あんたが、リーナ?」
「大崎甚一――、知ってるよね。あたし、実のお兄ちゃんみたいに思ってた」
義哉は突如として白日夢でも見ているような感覚に囚われた。――記憶を辿れば、大崎が木曽を襲撃して治安当局の討伐士に殺された晩、リーナは、「大切な人が逝った」というメールを寄越してきた。義哉は、それらの意味するところをうまく整理できないまま、ああ、と廃人のように言った。
とつぜんリーナは表情をゆがめ、金網を鷲掴みにして、
「あたし、キミのこと絶対に許さない! 最低だよ! なにも……なにも……あんなに卑劣な殺しかたをすることないじゃん! どうして……たったひとりの家族だったのに……あたしに優しくしてくれた、たったひとりの大人だったのに……」
「そうだったンか……済まなかった」義哉は立ち竦んで言った。
リーナはぼろぼろと涙をこぼし、
「いつもは優しいお兄ちゃんが、悪魔みたいな顔をして、『木曽の野郎ブッコロス』って怒鳴るのを、あたしがどんな気持でなだめていたか、分かる? ねえ、お兄ちゃんを罠に嵌めたときの気分ってどうだったの? さぞ気持ちよかったんでしょうね。あたし、キミのこと、たくさん聞いたよ、あのひとたちから――」と、階段の辺りをうろついている連中を振り返る。「ほんと、キミって、酷いよね。あたし、そんなひとを好きになっちゃったんだね。……なんていうかさ……もう……死にたい」
「リーナ……」
少女は、壮絶な目つきで義哉を睨んだ。「……行って」
「え」
「今度キミにあったら、殺すからね……」
リーナの身体が、うっすらと青白い光を帯び、髪が無風のうちにそよいだ。
「サイコキネシス……そうか……」
「これで、ただの脅しじゃないって、わかったよね」
「なあ。俺が死ねば、リーナの気持が少しでも晴れるのか。死にたい気持が、少しでも和らぐのか。だったら、構わない。殺せよ、ここで」
「馬鹿にするのもいい加減にして!」リーナは身体じゅうを震わせて叫んだ。「そんなに簡単に投げて構わない命なんだったら、はじめからお兄ちゃんを殺したりしないで! キミはなにがあっても生き延びるんでしょう? どんなに汚い手を使ってでも、生き抜くんでしょう? もし、キミがあたしと交わしたたくさんの言葉たちのなかに、少しでも真実があるっていうのなら、キミはどこまでもキミ自身を貫けばいいじゃん! 本気になってあたしを殺しにかかればいいじゃん!」
重低音のリズムと、ボールを衝く音が、響いている。やがてフェンスのむこうのリーナは決然と背中を向け、男たちと連れ立って、建物の陰影のなかに消えていった。
義哉が悄然としてせまい空を見上げると、数羽の雁が銀色に輝く雲のまえを横ぎっていった。
それから、どこをどう歩いたのか、義哉はよく憶えていない。ただ、ターコイズ・ブルーの背景に、さまざまなものが投射された。電柱と電線、鉄筋を剥きだしにした廃墟、壊れた信号機、ペンキの剥げた歩道橋、堆く積みあがった廃材。――オイルと赤錆の匂いがする。つなぎの男に肩をぶつけ、罵声を浴びた。土煙が陽射しを黄ばませている。むこうに、ちろりとひかるものがあった。老眼鏡を鼻にかけた白髪の老婦人が、雑貨屋の店先に椅子をだし、手を遠くのばしてハードカバーを読んでいる。そのすぐうしろのカウンターの、レジの脇に、切子の一輪挿しが飾ってあった。黎明の空のような深みのある瑠璃色が、下町の埃っぽい風景のなかでいかにも飄然としていて、優雅だった。
「それは売り物じゃないのよ」と、老婦人は小説から顔をあげた。
義哉は、なにも云わず、ただ切子の爽やかな光沢のうちに自分の全存在が吸い込まれていくような感覚を味わった。やがて、日が行雲に鎖されると、土埃は匂いだけを残して忽然と払われた。老婦人は黙ってページをめくる。一輪挿しの、蒼然としたきらめきだけが、時の流れから隔絶されたようだった。
「そんなに欲しいのなら、さしあげますよ――」と、老婦人は立ち上がって、椅子のうえに本を伏せた。
「あ、いえ、いいんです」
「その薩摩切子は、娘の形見なのよ」かの女はにっこり笑った。「ずっと大切にしてきたのだけれど、このとおり老い先のみじかい身ですからね。大事にしてくれるひとがいれば、お譲りしてもいいと思っていたところなの」
「いえ、ほんとに。ガラスの大好きな友達に、見せてやりたいなって、なんとなく考えていただけですから」
「まあ。お友達って、ガールフレンドかしら」
義哉が頷くと、老婦人は満面を輝かせて、
「うちの娘も、透きとおるものが大好きだったの」と、一輪挿しを丁寧に包装して、リボンをかけてくれた。
そのリボンがよくなかった。義哉のまわりを石鹸玉のように包んでいた非現実的な遊離感が、人間味を湛えた薄桃の色彩に突き破られ、そこから流れこんできた酷寒の因果が、義哉を芯から凍りつかせた。そうして、寮のクローゼットに紐をかけて首をつる妄想が、リフレーンする「死にたい……」のリーナの呟きと一緒になって、執拗につきまとった。
その日の夜更け、義哉は三錠のイリュージョンを噛み砕いた。




