マキャヴェリスト #2a
2
義哉が住んでいるマンションの裏手には入り口に車止めを挿した長い坂道があって、尖った雰囲気の中学生たちがよくスケートボードで遊んでいる。義哉も数年前までは仲間に加わって、スピードを競ったものだった。義哉が傍を過ぎるとき、数人が遊ぶ手をとめてチイスと云った。知っている顔がいくつかある。どこへ行くのかと訊くので、義哉は飯、とだけ答えた。一晩降り続いた雨のせいで、アスファルトもコンクリート壁もじっとりと濡れそぼっている。スケーターたちの制服のズボンやワイシャツは、ローラーのあげる飛沫を吸って重たげだった。壁際に放りだされたショルダー・バッグや学生鞄は見るからに何も入っていない。義哉は少年たちの自由な感じがふと羨ましくなった。
坂を上りきると、眺望がひらける。厚い雲の切れめが白っぽく輝き、そこから拡散して落ちかかる穏やかな光が市街をヴェールで包むかのようだった。洋館風の大きな家が並び、どこの敷地もちょっとした庭園の趣がある。幅のある通りとぶつかる右の角に、エンリコ・ダンドロと看板をかけた南欧風の喫茶店がある。とにかく味がいい。けれど、それよりも、マスターが変わっているので義哉は気に入っていた。金持ちが嫌いなのにどういうわけか高級住宅街に店を構えている。自然、愛想が悪くなる。それであまり流行らない。この不遜の態度を気にしない、大らかな金持ちしかやってこないのである。けれどもそのせいで、店にはなんともいえない落ち着いた雰囲気があった。怪我の功名なのか、計算の上なのか、義哉には分からないが、マスターの人柄であることには違いない。
ひざの擦り切れたジーンズに、穏健とは言いがたい柄のロングティーシャツを着ていっても、近所の紳士然とした隠居たちは奇異の目を向けたりしない。多分、かれらの子供や孫も、こんな恰好をしているからだろう。義哉はいつもどおり、通りをよく見渡せる窓際の席に腰をおろし、お気に入りの、デミグラスソースのたっぷりかかった半熟のオムライスをオーダーした。量のわりに腹持ちが悪いのはマスターの腕のせいだ。口のなかで霞のようにとけてしまう。その感覚を確かめるようにして、義哉はゆっくりと味わった。淹れたての熱いコーヒーを啜っていると、ローカルのラジオ局が、ボブ・ディラン特集と題した音楽番組を放送しはじめたので、義哉はチーズケーキを追加してもうすこし時間を潰す気になった。ディスクジョッキーが、ハムナプトラ加藤という名前だから、そこそこアグレッシブに笑いを取りに行くのかと思うと大違いで、いかにもローカルらしい地元ネタを中心にした地味なトークは退屈というより他になかったが、ボブ・ディランの懐古的でプラグレスな楽曲だけは素晴らしく佳かった。雨上がりの朝にはうってつけだ。聴きながら、レコード屋でベスト盤を探そうと義哉は思った。アルバムや書籍は、ダウンロードするより店を回ったほうが、雰囲気があっていい。
コマーシャルに入ると、義哉はかるく眠気を催し、欠伸をして椅子にもたれかかった。文通が忙しくて、昨夜はほとんど寝ていなかった。義哉が親しみを込めて書き綴った電子メールは、ウェブの海をかもめのように渡ってリーナの元へ、そうして数分もすると表題に「Re:」をひとつ足して戻ってくる。話題は多岐にわたった。リーナはまるで、自分に降りかかってきた悲しみを、とりとめのない雑談のなかにむりやり埋もれさせてしまおうとしているかのようだった。義哉はさりげのない返事を打ち込みながら、そういう意識を端的に感じとった。カーテンのむこうが白みはじめるころ、倦怠の話題が急転し、神を創造しようとして叶わず、挙句、世界を次元汚染に塗れさせた神権主義者たちのことになると、リーナは、
「あのひとたちの気持ちが、今なら分かるような気がする――」と案外思い詰めたふうに書き送ってきた。「いろいろ間違ってるこの世界を、だれかに正して欲しかったんだよ、きっと」
義哉はとつぜんの変調にすこし戸惑ったが、しばらく考えて、「あんたはこの世界が嫌いか」
「かもしれない。ヨシヤは」
「俺も嫌い。けれど、リーナには世界のことを好きでいて欲しいと思ってる」
「それって変だよ。自分に望まないことを、あたしに望むの?」
「つまり、あんたのことが好きなんだ――」と、義哉ははっきりと書いた。「けれど俺は無力で、悲しみの原因を取りのぞいてやることができない。――そうか、それで神を創造しようなんて馬鹿げたことを考える奴が出てきたのかもな。俺は、強迫神経症を患ったやつの妄想みたいな神にあれこれ指図されるのは死んでも御免だけど、リーナの願いごとをなんでも叶えてくれる神様なら、いてもいいと思う」
「そういうこと言うからあたしに粘着されちゃうんだよ。――どうせ、みんなに言ってるんだよね」
義哉は、すこし考えてから、
「信じてくれなくても構わないけれど、こういう気持を人に伝えるのは生まれて初めてのことだ」
打ち込んで、送信ボタンを押した。心臓が高鳴っていた。それから返事はなかった。そわそわして、部屋でじっとしたまま朝食をとる気になれず、つい長い坂をあがってきたのだった。
からかっていると思われているのだろうか、それとも普通に拒絶だろうか――頬杖をつき、無人の通りを漫然と眺めながら、義哉は後悔と諦めのないまぜになった胸中をもてあました。大切なひとを喪った悲しみのなかにある女にコクるとは、我ながらあざとすぎると思うけれど、その一方で、リーナに自分のことを押し付けたいという気持ちは不思議なほどなかった。話の流れのなかで、ごく普通に、きれいな花をきれいだと云うように、自分のほんとうのところを告げたに過ぎない。口説き落としてやりたいという情熱もない。ただ、リーナの目にこの世界が喜ばしいものとして映っていればいいなと思っていた。望んでいるのはそれだけで、考えてみれば、塞ぎこむようなことはなにもない。けれども、心の底にたしかに横たわっている、このいやな焦りはなんだろう――義哉は胸郭のうちに淀んだものを絞りだすようにして溜息をつき、窓越しに外を見渡しつづけた。
いつのまにか、日が厚い雲にかくれて、通りは夕暮が近づいたかのように薄暗くなっていた。黒く濡れたアスファルトのうえに落ちかかるいろいろなものの影の輪郭がぼんやりとしていって、冷ややかに翳る高台の風景へ埋もれていく。ラジオのノイズが酷くなっていた。店の椅子をまばらに占める初老の客たちが、息を合わせたように立って勘定をはじめる。彼らの交わす言葉のなかに、特異の響きをもつ単語がスポットライトを受けたように浮き上がって、義哉の注意をひいた。
近づいている……電気雲……
雑音しか流さなくなったラジオを、マスターが止めた。それから義哉にむかって、
「最上くんちは坂のしただろ。今出たンじゃ間に合わないかもしれない。注意報だと、そう長くは続かないみたいだから、ウチでゆっくりしていったらいいよ」
これはサービスだからと、家族用につくったというマフィンと、コーヒーのお代りを置いていってくれた。
ベルを鳴らしてそとに出た常連客たちが、木枯らしをうけた落ち葉のように散っていく。それからすぐ、高台がまるごと宙に浮かんで厚い雲のなかへ突っ込んでいったように、濃い霧がたちこめはじめた。通りのむこうがもう見えない。ただ電柱と路上駐車のセダンだけが、濛々としたなかに淡く色あいを残していた。
店舗のセンサー付きの照明が、ついたり消えたりした。電気雲が降りると、あらゆる電子機器が障害を起こす。マスターは皿洗いの手をやすめ、店のあかりを落としてまわった。空家のように暗くしんと静まりかえった店内に、水仕事のおとが染みわたっている。窓の外では、微風にゆっくりと押し流される霧が濃淡のうちにうっすらと七色の光を帯びて、幽かに虚像を映し出していた。次元崩壊の直後に街を覆った、混乱の模様らしい。迷彩服のひとたちが、手を振って連絡しあっている。迫りくる異様な生き物――ミュータントの群れに小銃を向け、しきりに発砲していた。すぐそこに、ガラス張りの外壁のほとんど砕けたビルが、やや傾いたまま聳えている。反対車線では、おおきく抉れたアスファルトに足をとられた戦車が、片方のキャタピラを空転させていた。
「今日はなにが見える――」と、マスターに声をかけられて、義哉は、「二流のパニック映画、ってところです」と答えた。マスターはそれで了解したらしく、ああ、またか、とひとりごとのように言った。
電気雲は、次元崩壊の直後からときおり観測されるようになった現象で、飛散した生命素が、仮想現実ウェブの膨大な情報と人間の集合意識をかきまぜ、ゆがんだ空間構造のうちに発露することによって起こるとされている。正式には、心理学や情報工学に関係する専門用語を幾つも連結した長い名称が付いているが、街のひとたちのあいだでは、電気雲の呼び名で通っていた。
電気雲は、次元崩壊を契機にはじまった人間の意識と仮想現実のボーダーレス化を象徴するもののひとつで、これをウェブの新しい形態――仮想現実ウェブ2.0として創造的に捉えていこうという向きもあり、新進のウェブ技術者やハッカーたちがこの領域を遊泳するためのブラウザの開発にとりかかっているが、現状では利便よりも害のほうがよほど大きかった。電子機器のトラブルのことは既に述べたが、雲の降りているときに表にいると、一時的な抑うつ状態、妄想、神経症など、精神に支障を来たすことがあり、少数ながら、神隠しや突然死の例も報告されていた。とくに、生命素と親和性のつよい精神の持ち主――そういうひとは往々にしてディフェンダーに対する高い耐性を持つ――ほど影響が大きく、義哉などは靄のなかをすこし歩くだけで、猛烈な憂鬱に陥る。電気雲は天敵といってよかった。
けれども、硝子窓をへだてて幻影を眺めている分には、とくべつの害もない。他愛ないものを次から次へと映し出すだけの、ひかりの悪戯に過ぎなかった。
日本風の家屋の建ち並ぶ路地を、神輿がすすむ。半被の男のひたいに、朝露のような汗がひかっている。それから砂利敷きの駐車場にあつまって花火に興じる浴衣のひとたちが映った。河川敷を埋めるひとびとが見上げる夜空に、ひまわりのような閃光が散る。この比良坂市には、ふるさとの夏を懐かしんでいる人が大勢いるのかもしれない。――義哉は欠伸をした。
マフィンを半分齧った頃、店の扉をとつぜんすり抜けてくるものがあった。うっすらと輝くホログラムである。義哉はそれを見て、なんとなく水族館の海月を連想した。顔のない宇宙人のようにも見える。ホログラムは、床のうえを滑るようにして移動し、義哉のむかいに座って、
「よう、わかるか――」と言った。
「高梨サンのアバターだろ」それから義哉は、カウンターのむこうからぎょっとした顔つきであやしげな光のあつまりを見つめているマスターにむかって、「驚かせてすいません。知り合いの情報屋です。気にしないでください」と言った。マスターは、いらっしゃいと低く言って、パイプに煙草を詰めはじめた。
高梨のアバターは動作を確認するように、しきりに手や首をうごかして、
「おもしろいブラウザを見つけてな。ちょうど雲も出ているし、アバターをつかって出歩いてみたくなった」などと無邪気に言った。
「よくここが分かったな」
「付近の防犯カメラに侵入して、坂を上ったのはすぐ分かったが、それから苦労したよ。そこのコインランドリーにたむろしてた餓鬼どもに尋ねたら、ここで飯でも食ってるんじゃないかってな。――へへ、餓鬼ども、俺を見てハンパなくビビってた」
「だろうな」
「アバターで遊ぶのはついでなんだ。実は、重要かつ緊急の話があって来た。いいニュースと悪いニュースがある。どっちから行っとく?」
「悪いほうから頼む」
アバターはうなづいて、
「俺が木曽の背後を洗うときに使ったプロクシを探ってるやつがいるようだ。――ああ、心配はいらない。いくつも経由しているし、どれも頑丈なサーバーだから、最速でも解析には数日かかる。けれども、相手が相手だからな。休暇がてら、すこしばっくれようと思う」
「それがいい。けれども、大丈夫か」
「油断さえしなきゃあ、な――」と、アバターは声音のなかに自負心を見え隠れさせ、「心配なのは最上のほうだ。連中がおまえのことを疑いだすまえに、手を打たなきゃならない。きわめて良心的な情報屋である俺としては、クライアントたる最上に安全と安心を提供できないうちは、雲隠れなんてとてもじゃないけどできない。どうだ、泣かせる話だろう。そこで、グッド・ニュース。最上おまえ、東亜重工の最新鋭のガーディアンに興味はないか」
「討伐士にむかって愚問だな」と、義哉は言った。とくに、東亜には青山岳というきわめて優秀な開発者がいて、かれが設計したガーディアンやディフェンダーは各方面から高い評価を受けていた。討伐士は、武士が名刀を羨望するようにして、名だたる設計者の手掛けた戦闘補助OSを希求する。東亜の青山は人気をあつめる代表的な銘のひとつだった。
けれども、トップメイカーの最新鋭のガーディアンは、戦闘機にも匹敵する価格で、フリーの討伐士がたやすく手にできるようなものではなかった。軍や治安当局に納入されることさえほとんどない。メーカー各社は傘下の軍事部門に所属する討伐士に装備させ、要請に応じて派遣するだけで、莫大な利益を挙げられるからだ。
義哉は、青山の手掛けるガーディアンとは生涯、縁などないだろうと諦めていた。それが、急に高梨の口から名前が出たものだから、我知らず手のなかに汗をかいた。
「そうだろう、興味がない訳がない」と、アバターは言った。「実は、おまえに専属の討伐士になってもらいたいという、東亜からのオファーがあるんだ。なんでも、おまえじゃなきゃ使いこなせそうにない新型のガーディアンがあるらしくてな。――蓮見夕子という女、知ってるだろ」
ああ、と義哉は頷いた。「木曽の取り巻きのなかに、確か、そんな名前の女がいた。東亜の課長代理をしているらしいが。……そいつからの話なのか?」
「なんだ、不満か」
「俺がアミューズメントパークから分捕ってきた生命素は、木曽から蓮見に流れたようだ」
義哉はそこにメイカーの利益最優先の生臭い体質を感じとって、気が重かった。討伐士としては一級のガーディアンを思うままに使いこなしてみたいが、企業の犬になってくだらない戦いを強いられることになるのは面白くない。
「けどな、だからこそ、最上の身の安全につながるんだ」と、アバターは身を乗り出して、「いいか、よく聞けよ。東亜重工は臨時防衛委員会に少なからぬ影響力をもっている。蓮見という課長代理と木曽につきあいがあったということは、すなわち、東亜が黎明党とも関係していることを意味する。つまり最上は、東亜重工所属の討伐士になることで、その庇護を受けることができ、黎明党に報復される危険性から解放されるんだ」
「まだ俺が黎明党に嗅ぎつかれたと決まった訳じゃないだろう。だいたい、木曽の取り巻きだったような女をどう信用しろっていうんだ」
「そのことなら、心配いらない」
「なぜ」
「蓮見夕子は信頼できるからだよ。それも、確定的に、だ」と、アバターは冷徹を感じさせる落ちついた声で言った。「理由はふたつある。ひとつは、俺があの女の正体を掴んでいること。つまり急所を押さえている。もうひとつは、その正体自体にある。なあ、下調べもせずにこの手の話を最上に持ちかける俺だと思うか? だが、そのことはいまは話せない。なんでって、最上にあの女の弱みを握らせたくないからだよ。ありがたいことに、蓮見課長代理は、俺にこう約束してくれたんだ。『契約が成立したあかつきには、弊社で責任をもって、最上くんに高等学校を卒業させます』とな。なのに、どうしてわざわざおまえに逃げ道をつくってやらなきゃいけない。覚えておけ、大人は甘くないんだよ」
「そうまでして俺を学校へ行かせたいのか……」
「私立蛍雪学院。――比良坂市の有力企業がこぞって資本参加している、官民共同の一貫校だよ。東亜の囲い込んでいるディフェンダーのテスト・ユーザーはみんな会社の寮からそこに通わされるそうだ」
「ふざけんな」と、義哉は即座に言った。「あんた、あそこの偏差値を知ってンのか」
「さあ。女子の制服がかわいいというのは、よく聞くけどな」と、情報屋のアバターは他人事のように言った。
「しかも金持ちのうちの子が行くようなお行儀のいい学校だ。そのうえ寮生活だって?」義哉は窓越しに電気雲のなぞめいた映像群を眺め、「……話にならない」
「おいおい、最上らしくないな。おまえはもっとクレバーな奴だったはずだ。偏差値だの校風だのは、些細なことだろうよ。最新鋭のガーディアンと、東亜の庇護の傘はこの際、おまえに最も必要なものだと言っていい。どうだ、反論できるものならしてみろ」
義哉はのっぺりとしたアバターの貌を一瞥し、舌打ちした。
「そうだろうとも」と、高梨は勝ち誇るように椅子にのけぞった。「蓮見課長代理どのには、俺から返事をしておく。先方は、今日明日にでも転入と入寮の手続きにかかりたいと言っていた。雲が晴れたらさっそくボストン・バックに当面の着替えを詰めておけよ。午後の早いうちに迎えがくるはずだから」
「……了解」
「それじゃあ、しばらくお別れだ」と、アバターは黎明に急きたてられる幽霊のように立ち上がった。
「気をつけて」
光のあつまりは、窓をすりぬけて、濃い靄のなかへ入っていったが、ふと思いだしたように振り返り、
「数学がどうにもならないようだったら、メールしろ。蓮見の正体を教えてやる。それをつかっていろいろ便宜を図ってもらえ。ただし、どうにもならなくなったら、だぞ」
「その情報、いま売ってくれ。カネならいくらでも出す」
「馬鹿たれ。世のなかにはな、おかねじゃ買えないモノもあるんだ」
「……なんのキャッチコピーだよ」
義哉は野球場のスタンドにひしめく観衆のなかにアバターが埋もれていくのを、頬杖をついたまま見守った。それから三十分ほどして、にわかに空が明るくなった。
数日分の衣類とノート・パソコンを詰めたバッグを肩にかけて、義哉がマンションを降りていくと、夏がぶり返したような強い日差しの底に、ぴかぴかのメルセデスが止まっていた。髪をアップにしたビジネス・ウーマン風の女――蓮見が、義哉に気付くなり助手席を下りて、後部座席のドアを開いた。
「どうも……」
義哉が乗り込もうとすると、車のうしろをまわってきた運転手の男が、白い手袋をはめた手をさしだした。うながされるままにバッグを手渡すと、かれはトランクをひらいて丁寧に納め、きびきびと運転席へ戻った。
「驚いた?」と、蓮見は言った。「でも、弊社が最上くんを心から歓迎しているのは、分かってくれたでしょう」
「御社のために精一杯頑張ります――、とでも言えばいいんスか」
義哉はぞんざいに応えて、座席に腰を降ろした。UVカットの青味がかった窓に囲われた車内は、冷房のひんやりとした空気と、真新しい皮革の匂いで充ちていた。蓮見はむこう側から乗り込んで、
「最上くんに直接話をもっていかず、高梨さんに間に入ってもらう形になったことは謝るわ。でも、そうしたほうがいいと思ったの。高梨さんって、いい人ね」
義哉は窓のむこうを眺めた。湖底に沈んだような街並が、音もなく流れはじめる。
「正直言うと、あなたみたいな男の子って苦手なのよ」と、蓮見がとつぜん言ったので、義哉は真意をはかりかねてかの女を見た。どことなく西洋のひとを思わせる細めの顔が、ひかりを背にしているせいで、輪郭を残したまま濃く翳っている。そのなかで、大きな眸だけが、ふしぎな光沢を帯びていた。
「蓮見さんに嫌われると、なにか不都合でも?」義哉は目を細めて、尋ねた。
「どうかしら」と、蓮見はすこし首を傾けた。「ただ、私はこれから最上くんの上司とマネージャーを兼ねることになるから」
「だったら仕方ない。うまくやっていけるように努力しますよ」
濃い影のなかの表情が、ふっと柔らかくなった。
「ごめん、最上くんのこと誤解してたみたい」と、蓮見はすこしくだけた感じになって、「初めて会ったとき、お店の女のひとにすごく甘えてたから、この子、奇麗な顔して性質悪いわあって思ってたけど、あれ、ぜんぶ演技だったのね。いまのその憎たらしい言い草ではっきり分かった。あのホステスさん、あなたが帰ってからずっと溜息ばかりしてたわよ。ひどいんだから。――そうそう。さっき、転校の手続きのためにあなたの担任と会ってきたけれど、最上くんって数学がまるで駄目なのね。わたしね、最上くんが甘えた調子で手をとってきて、数学が苦手なんです助けて下さいなんて云ったりしたら、思いっきりビンタしてやろうって、身構えてたのよ」
あんたに媚びを売るくらいなら、いさぎよく赤を食らってやる、見損なうなよ――義哉は皮革をきしませて深くもたれた。
「けれども、木曽が死んでホッとしたでしょう?」
蓮見の、なにかを含んでいるとも取れる言い方に、義哉は警戒して、けれども顔には出さず、静かに街を眺めつづけた。
「最上くんは信じてくれないかもしれないけれど、わたしもあの人のことはあんまり好きじゃなかったの。仕事だから仕方なく付き合っていたけれど。――アミューズメント・パークの件、ごめんなさいね」
「謝る相手を間違ってる」と、義哉は云った。脳裏には、人間より人間らしかった道化師と、スラムの子供たちの、団欒の光景が浮かんでいた。
蓮見は、えっ、と小さく云った。硝子窓に映るかの女は、不思議そうな顔をしている。義哉はそこから少し視線をずらし、
「そんなことより、仕事の話をしませんか。高梨サンからは、ほとんどなにも聞かされてないんです」
「ああ、そうよね。これからのことが分からないんじゃ、不安よね。ごめんなさい――」蓮見はビジネス・バッグからクリップで綴じたコピー紙の束を取り出して、「あなたには、ウチが新設した討伐士のチームに加わってもらいたいの。それから、これがあなたの担当する新型のガーディアンの仕様書よ」
義哉は受け取りながら、
「設計は青山さん?」
「もちろん。明日の夜に、仮想現実をつかったシュミレーションをするんだけど、そのときに青山さんから詳しい説明があると思うから。しっかり目を通しといてね」
義哉は、資料をぱらぱらと捲ってみた。サイコキネシスの最大出力から情報の解析速度に至るまで、性能を示す数値はどれもトップクラスで、義哉は我知らず胸を躍らせた。表題には、「ハンニバル」とあって、六桁の開発番号が添えられている。
「どう、最高でしょ、それ」
「けれど、俺なんかでいいんスか。おたくには優秀な討伐士がたくさんいるでしょう」
東亜の軍事部門には、セクションワンという名称の精鋭チームがあって、討伐士の間ではその名を知らない者がなかった。
「最初は、セクションワンの討伐士から担当を択ぶ予定だったんだけど、ハンニバルには新しいタイプの思考変換デバイスが使われていて、それに適応できる人が見付からなかったの。急遽、討伐士の資格試験のときに行う耐性テストの結果をあつめて総合的に分析してみたら、あなたが最も相応しいってことになったの」
「なるほど。けれど、こんな高性能のを担当するんじゃ、開発費の回収のために、散々こき使われるんでしょうね……」
義哉の溜息まじりの呟きは、企業人なら誰でも持っている哀愁を刺激したらしく、蓮見は愉しそうに笑った。
「そんなに心配しないで。非常事態でもない限り、十八歳未満のうちは、任務が学業に優先することはないから。東亜は、そういう体面だけはしっかりしているから、大丈夫よ。それに、あなたが配属されるのはウチの主力のセクションワンじゃないし、出動の多いセクションツーでもないから」
「新設のチームって云ってましたけど」
「そう。いままでは未成年の討伐士をセクションスリーの一箇所に集めていたんだけど、東亜が耐性のある孤児を集めて訓練を施した生え抜きのメンバーと、最上くんみたいにフリーの子をスカウトしてきたりして集めた新参のメンバーと、二種類いて、――実は、あんまり仲がよくないのよね。それで、セクションファイヴを新設して、そこに新参のメンバーを異動させることにしたの。あなたが所属するのもそこよ。と云っても、いまのところあなたを含めて四人――正確には三人と一機だけだけど」
「一機というのは、つまり、戦闘用のアンドロイド?」
義哉は目を細くした。ディフェンダーを実装したアンドロイドを開発する計画があちこちにあることは、小耳に挟んでいた。
「追々話そうと思っていたんだけど、そうね、『彼女』は、――シエラは、心をもった世界初のアンドロイドになる予定だったの。というか、義体に宿る、心を持ったガーディアンね。元々、ガーディアンの素材になるのは純度の高い生命素だから、自意識を持つことがあっても不思議ではないの。けれども、それだけでは心があるとは云えないわ。感情に根ざした、高度な精神活動がないとね。それで青山さんが、専用のガーディアン『スターリー・スカイ』を設計して、少女の身体を模したアンドロイドの思考プロセッサの部分にインストールしたの。でも、情緒の働きに関するテストはすべて失敗で、……」
「悪趣味スね。だいたい、戦闘用のアンドロイドに、どうして心が必要なんスか」と、義哉が呆れて云うと、蓮見は窮したように俯いた。けれども、蓮見を責めても仕方のない話だった。どこのメーカーにも、技術的な自己顕示欲はある。
それで、と先を促すと、彼女はやや顔をあげ、
「けれども、戦闘をする分には支障がなかったから、経過を見る意味もあって、かの女をセクションスリーに配属して、学校にも通わせることが決まったの。でも、無神経なことをしたと、反省しているわ。セクションスリーは、討伐士を育成する目的で集められた子たちで構成されているって話をしたでしょう。シエラの存在そのものが、あの子たちの神経を逆なですることになってしまったの。出来損ないのアンドロイドが自分たちの代わりをやれるのなら、自分たちが小さい頃から訓練や戦いを強いられてきたのは一体なんだったんだ、あんなのと一緒にされてたまるかって。露骨ないじめがあったし、かの女は現場では誰からも庇ってもらえなかった。アンドロイドだから、いざというときに切り捨てられるのは仕方ないんだけどね……」
計画が失敗してよかったと、義哉は強く思った。兵器に心が宿ってしまうことほど、残酷なことはないだろう。東亜がこの愚挙に及んだのは、悪趣味からというより、想像力の深刻な欠如によるのかもしれない。自分がその東亜の専属の討伐士になるのだと考えると、気が重かった。
蓮見は続ける。
「最上くんにとっても、シエラは接しづらかったりするかもしれないけれど、あまり冷たくしないであげて。でも――、忘れないで。実戦で危なくなったら、彼女は一言も逆らわず、あなたたちのために捨石になってくれるから」
「大企業の考えることはちっとも分からない」と、義哉は独りごとのように云った。「……ところで、セクションフォーっていうのもあるンですか」
蓮見は視線をフロントガラスのほうにむけて、うなじの辺りに細い指をあてた。「スリーのあとは、ファイヴ。ほら、四って、縁起が悪いし、ホテルの部屋の番号でも飛ばしたりするじゃない」
「そういうことは気にするんですね」
「セクションファイヴの、あと二人の子なんだけど、ひとりは討伐士になりたての、胡桃沢くんていう男の子。真面目な子だから、仲良くしてあげてね。もうひとりは女の子で、野宮奈々――聞いたことないかしら」
「野宮、……」義哉は呟きながら、顎のうらに指をあてた。その名はすぐに思い当たった。「――そういえば、北区にブッ飛んだのがいるって聞いたことがありますけど、まさか、そいつ? 結構、有名人ですよね。確か、まだ高校生だって……」
「むこうから見たら、最上くんも充分ブッ飛んでるらしいわよ」と、蓮見は可笑しそうに云った。「あ、言っておくけれど、チーム内での恋愛は禁止だから、けじめはちゃんとしてね。今日は二人とも学校へ行ってるし、夜は開発中のディフェンダーのテストに協力してもらうから、会うのは明日になるけれど」
顔合わせの話が一段落すると、義哉は仕様書の読み込みにかかった。けれども、意識は文面を離れて野宮なる討伐士のことへと逸脱しがちだった。キラー・クイーンという物騒な二つ名を持つかの女は、噂に聞く限り、雑とも破天荒とも言いかねる仕事ぶりだったが、腕自体はかなりのものと言ってよかった。あるいは、腕に絶対の自信があるから、なにかと大雑把になるのかもしれない。いずれにしても、そのスタイルで実際に生き延びている。そうとうに気の短い人物らしく、地元ではヤクザやシャーマンでさえ怖れて近づかないという。義哉はネットで本人とされる画像を見たことがあったが、典型的なギャル系のファッションで、顎をあげた傲慢の表情と、凄みのこもった眼光が今だに忘れられない。鞄よりは金属バットが、制服よりは特攻服のほうが似合いそうな感じだった。蓮見から、チーム内では恋愛禁止だと、釘を刺されてしまったが、自分はそんなにストライクゾーンが広く見えたりするのだろうか。義哉はすこし不本意に思った。
それにしても、このガーディアンはいい――仕様書をめくるうちに、蓮見の携帯端末が着信音を鳴らした。かの女は耳にあてて、三遍ばかり短く言葉のやりとりをしたあと、
「ごめん、寄っていくところができちゃった。ちょっと付き合ってね」と云った。
「どうぞ。自分は車で待ってますから」
蓮見は少し考える様子で、
「でも、ここでじっとしてるのも退屈でしょう。さっき話した、シエラのことなの。現場で破損して、いま研究所で修復作業と部分的な改良をしているんだけど、彼女の義体をどこまで人間にちかづけたらいいかについて打ち合わせをしなきゃならないの。どう、修理中の彼女に会ってみない。どうせ会うんだし、だったら早いほうがいいでしょ」
蓮見が運転手に言葉をかけると、かれはメルセデスを中央分離帯の切れ目からユーターンさせた。ディープ・ブルーの景色が窓のむこうをしばらく流れたあと、車は陰気な感じのする大きなコンクリートの建物の前で止まった。義哉は蓮見から来客用の認証カードを手渡されて首から提げるよう云われ、そのとおりにして、かの女に続いて建物のなかへ入った。
薄暗い廊下がまっすぐ延びている。突き当たりの細長い窓から差し込むひかりが、モス・グリーンの床にあたって拡散し、白衣のひとたちが靴音を反響させて行き来するなかで淡くぼやけていた。
すこし先をゆく蓮見が、研究員らしい女性と、歩きながら話をはじめた。低く交わされる言葉のなかに、二次性徴とか、自己認識とか、精神の安定とかいうような断片が異様な響きをもって、義哉の意識のなかに飛び込んできた。それらを戦闘用アンドロイドの傍に置いてみると、胸の悪くなるような違和感があって、歩くのが遅れがちになった。
厚みのあるドアの隙間からひかりがこぼれて、廊下に鮮明なひかりの帯を投げかけていた。その隙間へ義哉は無雑作に入っていって、数多の照明で漂白された空間のなかに異様なものを見出し、息を飲んだ。円筒形の大きな水槽のなかに、手足をうしなった少女が浮かんでいる。ほむらのようにうねる長い黒髪の底に、美しい貌があった。薄くひらかれた赤い唇には、アンドロイドとは思えない艶かしさがあった。乳白色のきれいな人工皮膚が、痛々しいほどの真実味を帯びている。
まるで少女のホルマリン漬けだった。
途切れた二の腕や膝のところに、無数のコードやシャフトが覗いていた。それが硝子に屈折してゆがみ、人間の筋繊維や骨のように見える。義哉は強い酒をあおって一気に酔いが回ったようになって、立ち竦んだ。脈を打つたびに、頭がガンガン鳴る。
「シエラに、性的な特徴を付与するかどうかで、意見が割れているの」と、女の研究員が、蓮見にむかって言っている。「私、生粋の理系だし、心理学なんか全然分からないもの。乳がんで乳房を失ったひとの話を、テレビで見たくらい。うーん、やっぱり女性の特徴は、もたせたほうがいいっていうのが、みんなの意見だけれど、セクサロイドみたいにするのも悪趣味だし、本人も嫌がるんじゃないかって」
「けれど、二次性徴の精神的な兆しがあるのでしょう」蓮見が、目を細めてシエラを眺めている。あれは人間を見る目じゃないと、義哉は思った。譬えるなら――、懐中時計を分解する職人の目だ。悪意はないけれど、なくてはならないはずのなにかが、悲しくなるほど欠落している。
「美容整形のように考えたらどうだろう」と、白衣の若い男が云った。「知らないけれど、女性は、パットやシリコンを入れてでも大きく見せたいものなんだろう? いずれにしても、フロイトの説に倣うなら、セクシャリティの概念を迂回してこころを創造したりはできないはずだよ。僕は……シエラに性的な特徴を持たせるべきだと思う」
それから三人は、刑罰の軽重を決めかねた陪審員であるかのように重苦しく黙り込んで、隣室へと移っていった。義哉はシエラを見上げた。洗練された感じのする美貌が、なんとなく哀れだった。あの道化師に宿っていたのとおなじものが、この少女の姿をしたアンドロイドの中核にある。ここの人たちは、美しい兵器という型に、生命素をおしこみ、ひとつのこころを作り出そうとしている。見るほど息がつまるのに、この惨事は義哉の胸倉を掴んだままいつまでも離してくれそうになかった。
……どれだけ時間が経っただろう。息苦しさが高じて、ふと我に返った刹那、少女がゆっくりとまぶたをひらいた。長い睫のあいだの、宝石のような瞳が、まっすぐに義哉を見つめる。途端、義哉は金縛りにあったようになって、目を逸らすことができなくなった。
ふたりの視線が、溢れんばかりの光のなかで、交錯する。そうして義哉は、それぞれが別の世界を見ているように思った。あの眸には、なんの懊悩も感慨もない。眼前にあるものをただ漫然と追う小動物の目だ。いま自分の胸に押しよせている感情のうねりを、かの女は微塵も感じ取らないだろう。そのすれ違いが、義哉には残酷に感じられた。
水槽のなかの少女が、ふと目を細めて、視線を落とす。身体が、身悶えするように、かすかに動いた。
「裸の女の子を、そんなにジッと見つめたら可哀想よ」
声に振り返ると、蓮見が悪戯っぽく微笑んでいた。それから蓮見はシエラにむかって手を振り、「じゃあ、また来るわね」と友達のように云った。義哉には、シエラが小さく頷き返したように見えた。
車に戻ると、蓮見は、
「最上くんはどう思う、さっきの話」と尋ねてきた。
「さっきのって」
「聞いてなかったの。シエラを相応に女性らしくしましょうかって話」
「本人に聞けばいいじゃないスか」
義哉は車窓に淡くうつる蓮見の白い横顔を見ながら、答えた。相変わらず眸には時計職人のような冷淡の気配があった。
出席日数にすこしの猶予もないのだから、明日から早速学校へ行けという。すこしくらいの風邪では休めないと思って置いてほしいと、釘を刺された。義哉が留年すると蓮見の管理上の責任になるらしい。ご苦労なことだと義哉は他人事のように思った。特に数学はあれだから、補習を頼んである、すっぽかさないようにと、蓮見はしつこく繰り返して、ビニールに包まれた制服一そろえと部屋の鍵を差し出した。義哉はそれを受けとって脇に抱え、バッグの紐を肩にかけて、潰れたホテルを改装したような、しみったれた建物のエントランスに入った。
階段をあがって部屋のベッドに荷物をほうり、寮母に挨拶がてら百円ショップの場所を聞いて、生活用品の一式を買い込み、ついでにという感じで籠にいれた国木田独歩を、部屋に戻って開いた。旧仮名遣いのを選んでしまった迂闊さを悔いながら、それでも日々変遷していく秋の空のうつくしい描写に面白みを覚えて、明日から注意深く空を観察してみようなどと思ううち、眠気が差してきて、武蔵野にプラスティックの定規を挟むと、熱めのシャワーを浴びてベッド・メイキングに掛かった。
馴れない部屋で床についた割には、すぐに寝付けたが、かわりに明けがた近くになって、厭な夢を見た。
線香のけむりの充満した、寒々しい六畳間である。薄暗いなかに、髪のほつれた女性が、背中を丸めてぽつねんと座っている。死んだような眼、魚の腐ったような眼、――そんな表現を小学校の先生がするのを聞いて、義哉がまず連想したのは、この女性のことだった。女性は義哉の母親だった。
仏壇の花瓶に花を挿し、水をかえる他に、母親はなにもしなかった。ただ煙ったい暗がりのなかで、茫然自失を続けている。おとうさんが死んでかなしいんだと、義哉はちゃんと分かっていたから、学校であった事を話して聞かせるのも、わざとズボンからシャツを出して手間をかけることも、遠慮した。ただ、担任から家庭訪問のプリントを渡されたときだけは、泣きたくなるほど困った。
どうしたら母親を慰めることができるだろうと、義哉は幼いなりに考えを巡らせたけれど、あまり好い案は浮んでこなかった。試行錯誤が許されるのであれば、なんでもしてみたかった。けれども、失敗は許されないんだと義哉に思い極めさせるなにかが、母親の淋しげな背中に亡霊のようにまとわりついていた。その亡霊が、義哉は怖くて仕方なかった。ある晩、亡霊が母親をどこか暗いところへ連れていってしまう夢を見た。悲鳴をあげそうになって、ふと傍を見ると、母親は瞬きひとつせず、天井をぼんやりと見上げていた。義哉はいたたまれず母親の蒲団にもぐりこんでいって、腋に顔をおしつけた。母親は頭や頬を撫でてくれだけれど、その手があまりに冷たくて、義哉は生きた心地がしなかった。
ある日、近所のひとに、自分はカップラーメンばかり食べている、それから母親とこんな風に過ごしていると、聞かれたままを答えたところ、翌日の晩になって、児童相談所というところから、大人がぞろぞろやってきて、母親を囲んだ。義哉は自分がとんでもないことを云ってしまったのだと気付いて、心臓を針でさされたような心持になった。母親はうつむいて、叱られた子供みたいに、はい、はいと言っていた。そうして、涙を溜めた眼で義哉を見つめ、
「ごめんね。私は、母親失格なの。だから、義哉はこのひとたちと一緒にいくの。ちゃんと可愛がってもらえるし、ごはんもいっぱい食べさせてもらえるから、あんしんしてね」
義哉は泣きながら嫌だと言った。次の日、義哉が学校から帰ってくると、母親が六畳間にいなかった。とうとう亡霊がやって来たのかもしれないと、義哉は直感的に思った。お勝手を見にいったとき、普段はすこし開いている浴室の扉がきっちりしまっていることに気付いて、身体じゅうから力が抜けてしまった。しばらく茫然としたのち、歯を食いしばってなかを覗いてみると、顔を蒼白くした母親が、換気扇にひっかけた紐にぶらさがっていた。
執拗に繰り返して見る夢だった。小学生のころは、絶叫といってかまわない悲鳴をもって夢を終えた。中学にあがると、叫んだりしなくなったかわりに、死にたきゃ死ねよと、冷淡に呟くようになった。近ごろは、本人の心象世界を反映してではなくただ生理上の理由で濁った薄目のおくをじっと凝視して、ショボい面してんじゃねえよと、やりきれなさをもって語りかけるのが常だった。思えば、母は父が死んでから一度として白い顔に笑みを湛えたことがなかった。
母親はあの空気の淀んだ薄暗い六畳間で、父の死と向きあい続けた。その閉鎖的な空間に立ち入ることができなかったのは、義哉ばかりではなかった。映画も、小説も、思想も、――おなじ苦しみを抱えたひとたちの呻きや囁きも、すべてが渦巻く悲しみの遠心力によって弾きだされた。そうして母親は衰弱していき、死ぬべくして死んだ。たとえ、いちども笑みを浮かべることがなかったにせよ、流す涙のうちには、執拗な悲しみのためだけでなく、虚実の別をとわず、共感に基づくものがあっても良かったはずだ。横からそういう光を投げかけられなかったのは、俺の責かもしれない――義哉は寮の部屋を埋める静寂と薄闇のなかで、そんなことをぼんやりと考えた。考えるうち、鼻梁の脇の窪みに熱いものが溜まっていった。
目を瞬かせて、寝返りをうったとき、ふと脳裏をよぎったのは、水槽に浸かった少女の、森林のような静けさを湛えた瞳だった。うっすらと、義哉の姿がうつりこむその瞳の奥を凝視するうち、電子基盤の断片やレンズのようなものが見えてきて、やりきれなかった。少女がとつぜん目を伏せたのはそのときだった。研究所の女が、性愛用アンドロイド(セクサロイド)という露骨な言葉をつかっていたが、ひとがひとの形をしたものにやり場のない感情の捌け口を求めてしまうのは、どうしようもないのかもしれない。シエラのことを想ううち、義哉は胸のおくが暖かくなった。
「秋雨前線が本州付近に停滞するため……」
冷たい雨を挟んで、急に寒くなったり暖かくなったりする日が続くだろうと、ポータブルのラジオが云っている。午後から激しいのがくるらしいが、窓から差し込んでくる清々しい朝のひかりを見るかぎり、そんな風にはちょっと思えない。義哉は放送を漫然と聴きながら、歯を磨いた。
なにかと古ぼけた感じのする寮だったが、脱衣所の窓からの見晴らしは好かった。すぐ下に水深のありそうな黒々とした川が流れていて、切り立った堤防のむこうに、奔流さながらの曙光のせいでひかりと影の対比のやけに際立った、フェルメールやターナーのタッチを連想させる街並みが広がっていた。流れの下手にはアメリカの古い映画に出てくるような鉄橋が架かっていて、そこを蛍雪学院の制服を着た連中が数人歩いていた。義哉はかれらの胸元をしばらく観察して、それから野暮ったい学校指定のを脇へやり、自前のナロータイを緩く引っ掛けた。
出がけに、蓮見から電話があった。野宮奈々が道案内をしてくれるからラウンジですこし待っていろという。鞄を抱えてそうしているうち、寮母が掃除機をもって降りてきた。血色がよく、体格にも声にも厚みがあって、どことなく本場のゴスペル歌手を連想させるひとだ。挨拶をすると、かの女はだしぬけに、あんた傘もってるのと言った。首を振ると、午後から雨だからと云って、寮の傘立てから白いのを一本抜いてもってきた。義哉は色をみて遠慮したくなったが、寮母の悪気のない表情を見ているうちに断りづらくなって、つい受けとった。寮母が掃除を始めてしばらくしても、野宮らしき女は降りてこない。それどころか、寮生が人っ子ひとり通らない。寮母に訳を聞くと、ここには義哉のほかに、野宮と胡桃沢、それからシエラしかいないのだという。そのうちカウンターのなかの電話が鳴りだした。飛びつくようにして出た寮母が、はいはい云っている。話の様子からすると、シエラが午前中のうちに研究所から戻ってくるらしい。けれども肝心の野宮は依然として降りてこなかった。義哉は寮母に伝言を頼んで寮を出た。
部屋から眺めた鉄橋をわたり、最寄の駅の改札口を抜け、エレベーターに運ばれてモノレールのプラット・フォームへ出た。白線の縁に立って、銀色のレールを眼で辿っていくと、朝日をうけて輝く高層ビルの谷間の、朝靄にかすむ彼方まで、その緩い曲線が続いている。そのうちモノレールが入ってくると、義哉はおなじ制服の集団に混じって乗車した。扉がしまっていよいよ動きだそうとする頃、エレベーター付近の人込みをかき分けて飛び出してくる少女に眼がとまった。少女は亜麻色のきれいな巻き髪をふわりとさせて、キッとモノレールを睨む。それから膝をあげて猛然と駆けだし、窓ぎわの義哉にむかって親指を立て、しきりに振った。窓を開けろということだろう。義哉は云われたとおりにした。
「ちょっとあんた、手貸して!」
少女は叫びながら、モノレールを追いかける。そうして人の背丈ほどある金網のうえに手をついて軽々と超越した。義哉が目を転じると、すぐ先でホームは途切れ、あとは朝日を照りかえす高層ビルの絶壁が聳えるばかりである。少女は敢然と加速していた。その走り方がなんとも小気味いい。女の子らしくない。まるで短距離走の選手のようだった。短い制服のスカートがずりあがって、白い腿のかなり際どいところまで見えてしまっている。けれども少しも色っぽい感じがしない。一生懸命の顔をしているからだろう。義哉はこの少女がなにをしたいのか、すぐに分かった。馬鹿か、と思った。仕方なく、左手で真鍮のポールをしっかり握って、窓から身を乗り出した。途端、少女が飛びついてきた。
義哉は少女の腋のしたに深く腕をさしこんだ。見下すと、ひとや自動車や街路樹が玩具のように小さくなっていて、ヒヤリとなった。かの女は両腕をまわして、義哉の首にしがみつく。義哉はかの女を上腕と肩に挟むようにして、弾みをつけて体重をうしろにかけ、一気に窓のなかへ引き込んだ。背中を激しく床にうちつけ、少女の金髪がぱさりと顔にかかった。シャンプーと石鹸の混じった、女子らしい香りが漂う。まわりから、歓声と拍手がどっと起こった。
少女は義哉の頭のすぐ傍に手をついて身体を起こし、いきなり義哉のネクタイを掴んで引き寄せた。「――あんた、蓮見さんに待ってろって云われたでしょ。なんで勝手に先に行っちゃうのよ」
義哉は訳がわからず、「はあ?」と云った。けれども、この少女がだれであるかはなんとなく分かった。キラークイーンの綽名をもつ凄腕の討伐士――野宮奈々に違いない。なるほどキラーである。ブッ殺すぞテメエと云わんばかりの眼をしている。ただ、殺伐としているのは眼ばかりで、制服の着こなしといい、薄化粧の具合といい、いかにも人生の旬を謳歌している女子高生という感じがする。それがどうも、まえに見た画像の印象とあわない。違和感のおさめどころに迷っているうち、
「あんたが……最上だよね」少女はとつぜん、声をひくくして言った。
「そっちは野宮奈々、だろ」
「うん」
「よく俺だって分かったな」
奈々は頷いて、「ウチの制服を着てる、知らない顔。イケメンだっていうのは蓮見さんから聞いてたし。――あのね、重要な話があるんだけど」
「なんだよ」
「ちょっと、こっちに来て」
奈々は立ち上がって、スカートの裾を払うと、義哉の手をとって、人込みに細い肩をわり込ませ、車輌の端のほうへずんずん引っ張っていった。義哉は黙ってあとに続いた。
人のすいているところまで来ると、奈々はとつぜん振り返った。泣きそうな顔をしている。
「あたしのこと色々聞いてると思うけどさ、学校では黙っていて欲しいの! だってさ、ひとりで組を潰したとか、エイリアンみたいなミュータントを散々ミンチにしてきたとか、みんなにバレたら、あたし誰にも口をきいてもらえなくなっちゃう」
無理もない、と義哉は思った。実際、自分も、ビビってないと云えば嘘になる。
「そのかわり、あたしもあんたのこと黙っててあげるから」と、奈々は媚びるような微笑を浮かべた。「考えてみなよ。あんたがどんな風にしてシャーマンを狩ってきたか、学校のみんなに知られたら、大変なことになるよ。死神、悪魔、処刑人……あんただって色々言われてるんだからね」
「ていうか、もうバレてるんじゃないのか?」
奈々はぶるぶると首を振った。
「案外バレてないもんよ。ほら、蛍雪学院っていいところの子ばっかりじゃん。社会の裏事情とかぜんぜん関係ない世界で生きてるから、そういうのってほとんど知らないみたい。あんたもあたしも、たまたま戦闘補助OSの耐性があって東亜重工のテスト・ユーザーをしてる人って感じだから」
「そんなものか」
「ね、約束してくれるでしょ。お願い」
「嫌だと云ったら」
奈々は、ごくりと生唾を飲み込んで、冗談とも思えない目つきで義哉を見上げた。「――そのときはあんたにタイマンを申し込むから。あたしのささやかな学校生活は誰にも邪魔させない」
義哉のシャツの下を、冷たいものが伝った。「わかった。誰にも言わない。約束する」
奈々はホッと溜息をついて、
「ありがとー、あんたって超いい人。学校で困ったことがあったらなんでも言いなね」それからトートバッグをごそごそとやって、ラップに包まれた不恰好なおにぎりを取り出した。「安心したらお腹すいちゃった。朝ごはん、まだなんだよねー。あ、あんたも食べる?」
「え……いらない……」
義哉は吊革にもたれながら、奈々が潰れた飯のかたまりを旨そうに頬張るのを、黙って見守った。この猛犬のような少女が、噂程度のことを気にしていたというのは意外だった。せっかちに食事をするさまは無邪気というより他になかったが、それでも傍にたつ義哉には、気の引き締まるような感覚があった。もとより野宮奈々に対しては、拭いがたい畏怖がある。討伐士としての力量はもちろんのこと、生存することに拘泥する自分に較べたら、この少女はよほど勇敢だと思う。モノレールを追うかの女には、一片の迷いもなかった。死ぬことを微塵も怖れていない。訓練と習慣によって、死という、あらゆるいのちのうえに隠然たる支配を及ぼしている絶対の観念を、克服してしまったのだろう。天真爛漫に見えるこの少女をうわべだけで判断してはいけないと、義哉は自分に言い聞かせた。
奈々はラップを丸め、ネイルについた米粒を猫のように舐め取ると、
「実はさあ」と、やけに目を活き活きさせて云った。「あんたがセクションファイヴに来るかもしんないって蓮見さんから聞かされたとき、あたし嬉しくてガッツポーズしたんだよね。だってさ、胡桃沢くんはディフェンダーをインストールするようになってまだ一ヶ月で、戦闘に馴れてないし、シエラはメカ子ちゃんだし。――そうそう、セクションスリーの奴らが超ムカつくの。なんか知んないけど喧嘩売ってくるんだよね。あたしら、仮想現実システムを使った実戦式の訓練をよくやらされるんだけど、あいつらには押されっぱなしでさ。でも、とうとうリベンジのときが来た!」そうして、舐めたばかりの手で義哉の肩をバシっと叩き、「強力な助っ人が加わったんだし。今日の夜、さっそく仮想戦闘をやるみたいだから。絶対ボッコボコにするかんね。おー」と、グーを高く突き出す。
「面倒だな……」
義哉は呟いた。というのも、負けても死にはしない訓練だし、成果のいかんでキャッシュが動く訳でもない。セクションスリーと仲が悪いというのは蓮見からすでに聞いているが、子供じゃあるまいし、相手になるだけ骨折り損である。関係の修復を考えたほうが賢いし、どうしても駄目なようなら、半端な喧嘩などやっていないで――そんなことを考えるうち、奈々の目付きが殺伐としてきた。
「わかったよ」と、義哉は言った。どうもこの女は苦手だった。「給料分は働くって。だから睨むなって。おまえ、ぶっちゃけ、怖えんだよ」
それからモノレールを降りて、学院のモダンなつくりの大きな昇降口に入るまで、奈々と、同業者の情報交換のようなことを話し込んだ。別れ際、奈々は急にうつむきがちになって、
「うんとね……」
義哉が待っていても続きを云わないので、「どうした」と先を促すと、奈々はなにかを振り切るように顔をあげて、
「あのね! 胡桃沢くんにも、あたしのことは話さないで」
「だって、チームのメンバーだろ」
「ううん、隠すとかじゃないの。時機が来たら、あたしからちゃんと言いたいなって……」
義哉は、奈々の耳にほんのりと赤みが差しているのを見て、ピンときた。「わかった」
「ありがと……」
義哉は廊下をぱたぱたと駆けていく奈々の背中でふわふわと躍る髪を目で追いながら、胡桃沢という奴も大変だと、内心苦笑した。
担任からクラスに紹介されて、窓側の空いた席を宛われたとき、隣の眼鏡をかけた男子生徒が、遠慮がちに宜しく、と云った。義哉は急のことだったのでつい、うん、などと横柄な返事をした。二時間目になると、数学の教師が「胡桃沢くん」と云って起立を促した。反応したのは隣の眼鏡だった。数学に造詣の深くない義哉には、教師がどういう意味の質問をし、眼鏡がどう答えたのか、よく理解できなかったが、空気を読んだところでは、質問が少々意地の悪いものであったのに対し、回答は完璧だったようだ。義哉はまわりにつられて、おー、と低く云ったが、勿論何のことだかよくわかっていない。胡桃沢は当然だという風に着席した。秋のひかりを柔らかく受けたかれの横顔はあどけないながら端然としていて、義哉は奈々の気持ちが少しだけ分かるような気がした。
三時間目は美術室に移動して、まわりが石膏の婦人像をデッサンしているあいだ、胡桃沢は膝のうえに文庫本を置いて、読み耽っていた。ときおり、眼鏡のしたを険しくして、ページを遡ったりする。かれが席を立ったとき、義哉は椅子に伏せてあるものを覗いてみた。表紙にはペストとあった。
胡桃沢は戻ってくるなり、
「最上くんは」と声をかけてきた。
「呼び捨てでいいよ」
「じゃあ、僕を呼ぶときもそうして。――ペストを読んだことは、ある?」
「ぱらぱらと捲ってみた憶えならある。確か、カミュだよな。埃っぽい街に死病の蔓延する話で、自作の小説をやたらと読ませたがる爺さんが出てきたような」
「そう、それ。――疫病に翻弄されるオランのひとたちを、すごく濃密に描いていて、圧倒されたよ。火葬場の煙が市街を覆うくだりは、読んでいてむせそうになった。登場人物はみんな素敵で、なかでも主人公のリウーはほんとうに格好いい。授業中なのに頁をめくる手が止まらなくて、困ってしまう。でもひとつだけ不満がある。この小説の語り手はリウーだけど、それが明かされるのは最後のほうで、物語はずっと三人称をつかって綴られている。リウーはこのスタイルを採った理由について、個人としてではなく街のひとたちの代弁者として記述するにはそのほうがいいと思ったから、みたいなことを言っているけど、僕は納得いかない。リウーは、この物語を一人称のもとに叙述するべきだった。全ての見解を『私は』の言葉に続いて示すべきだった。だってリウーは強いメッセージを残しているじゃないか。絶望に慣れることは絶望そのものより悪いとか、子供が責めさいなまれるように作られたこの世界は死んでも愛さないとか。僕はこの小説がリウーの立場から力強く語られなかったことがすごく残念だ。どうしてカミュはこんなことを――誤解しないで欲しいんだけど、僕はアルベール・カミュというひとを尊敬している、だからかれの真意を知って血肉にしたいんだ――こんなことをしたんだろう。君はどう思う?」
「小説のなかに書かれている以上のことは、俺には分からないよ。ただ、リウーはこんな事も言っていなかったか。――保健隊に志願したひとたちを英雄のように描くつもりはない、と。リウーは医師で、保健隊の中心的な人物だったから、これは暗にリウー自身をそういう風には書きたくないと言っているんじゃないかと思う。つまり、この一大事件を、ヒーローを際立たせるためだけの背景にはしたくなかった。たぶんカミュというひとは、人間の愛好しがちな分かりやすい物語が嫌いだったんだろう。物語はひとをよくも悪くもシンプルに見せる。そうしてペストという大災害の実相を、蔽ってしまうに違いない。筋書きのなかで役どころが割り振られ、結局、演じられることになるのは、世相を後追いするだけの旧態依然としたストーリーだ」
胡桃沢は、目を丸くした。「――なるほど。分かるよ、その『分かりやすい物語が嫌い』っていう感覚。リウーの親友のタルーが、検事である父より、法廷で死刑にされようとしている犯罪者のほうに親近感を抱くくだりは、カミュのそういう考えに基づいているのかもしれないね。なるほどな……」
義哉は、胡桃沢がやけに納得した様子だったので、気恥ずかしくなって、
「つうか、俺たちはなんの話をしてるんだろうな。……それより、数学だ」と、話題を転じた。「胡桃沢はできる子なんだろ。頼むよ。数のイロハをレクチャーしてくれ。謙遜する訳じゃないが、俺は持ち合わせている数の概念にかけてはジャングルの土人とそう違わないところがある。――ひとつ、ふたつ、あとはたくさん、だ」
胡桃沢は噴出して、チェックのカーディガンを小刻みに震わせた。「最上ってなんかいいね。数学の話は蓮見さんから聞いてる。できるだけ力になってあげてと頼まれた。――わかった、何でも訊いて」
「助かる。実際のところ、シグマとか、タンジェントとか、見るだけで蕁麻疹が出そうになるンだよ」
「さっきの授業は、平気だった?」
「あそこまで意味不明だと、却って大丈夫らしい。――多分こういうことだと思う。轢死体とかって、あんまりぐちゃぐちゃだと、逆になんでもなかったりするだろ。半端に原形を留めていたほうが恐ろしい」
胡桃沢は、よく分からない喩えだと云って微笑した。そのとき、クラスの女子が義哉のデッサンを横から覗き込んで、なんかエロいと評した。なるほど輪郭の雑であるのに較べて胸部の影は手が込んでいる。下手だからこうなったのであって意図してのことではないと弁解するうち、まわりにちょっとした人だかりが出来た。話題は義哉のことに集中した。女子のひとりから、友達のお兄ちゃんがモガミヨシヤなる男はインテリヤクザの類いだと云っていたけれどどういうことだろうと尋ねられて、義哉は閉口した。情報屋を気取ってネットで拾ってきた噂を思わせぶりに吹聴してまわる者がよくいる。その類いだろうと思ったけれど、いちいち説明するのも面倒なので、インテリでもヤクザでもないけれど、確かにろくなもんじゃない、とだけ答えておいた。すると、女子のあいだで推理が始まり、喧々諤々の末、きっとヒモのなかまに違いないということで落ち着いてしまった。そうして女子たちはどこまでもそれを訂正の余地のない既成の事実として扱うつもりらしかった。義哉は右手で額を支えた。胡桃沢は始終微笑していた。
午前の授業が終わるとすぐに、胡桃沢の携帯端末にメールが届いたようだった。モニタを見る胡桃沢の表情がすこし曇っている。訳を訊くと、
「シエラも登校してきたし、最上を入れて四人でごはんを食べようっていう野宮さんからの誘いなんだけど、食堂へ行くとセクションスリーの連中と鉢合わせるかもしれないから、気が乗らないんだよね」
「じゃあ、外で食うか。この辺なら、いくらでも食事するところはあるだろ」
「そうだね」
胡桃沢が端末をいじる。すぐに返信が来た。かれはモニターを見ながら、「セクションスリーのほうが、今日は外で食べるみたい。大丈夫、行こう」と云った。
昼休みに特有のやわらかな喧騒が、季節の透きとおった光と一緒になって、廊下に充溢している。そのなかを、義哉は胡桃沢と並んで歩いた。
優等生の顔は、なんとなく冴えない。
「最上は、まだ聞いてないかもしれないけれど……」と、かれは云った、「セクションスリーとこじれた原因の多くは、僕にあるんだ」
「なんだ、胡桃沢が喧嘩を売ったのか。てっきり野宮だと思ってた。人は見掛けによらないな」
ちがうって、と胡桃沢はくすくす笑い、それから改まって、
「僕の家は、東亜グループの創業家の一族なんだ。お祖父さんは生前、東亜重工の副社長を務めていて、ディフェンダーやガーディアンの開発を担当していた。その関係で、ディフェンダーへの耐性をもっている孤児を集めるのにも深く関わってきた。そうして設立されたのが、セクションスリーなんだけど、ちょうど僕が小学生のとき、訓練中に事故があって、大勢の子たちが亡くなってしまったんだ。僕は心苦しかった。というのも、僕にディフェンダーへの耐性があることはずっと前から分かっていて、当初は僕もセクションスリーに加わる予定だったんだけど、お祖父さんが反対したことで実現しなかったんだ。僕のなかではそのことがずっと引っかかっていた。お祖父さんは、孤児を集めるより先に、僕を東亜に提供すべきだった。だから僕は、セクションスリーに志願したいとお祖父さんに何度も訴えたけれど、討伐士の免許を取得することさえ許してもらえなかった。――そのお祖父さんはつい二ヶ月前に他界してしまった。僕はそれを契機に家族の反対を押しきって討伐士の試験をうけ、なんとかパスした。そして、セクションスリーに志願したんだ」
「そっか……」
義哉は相槌をうつように言ったが、内心では、胡桃沢の義務を率先して負おうとする姿勢が、孤児であり、危険な訓練を強いられてきたセクションスリーの面々に好意をもって迎えられるのは、やはり難しいだろうと思わざるを得なかった。そうして、そういう所へ正面から飛び込んでいってしまう胡桃沢に、なんともいえない愛嬌を感じた。
「僕はジャーナリストになりたい」胡桃沢はまっすぐに義哉を見つめ、「けれど、身のまわりの不公平を見逃しておいて、世のなかの不条理を報道するなんて、とてもできない。そんな資格なんてない。あるはずがない」
義哉はこの新しい知己がだんだん心配になってきた。いまの日本で良心の報道人をやろうとすれば、必ず黎明党のような連中と衝突することになる。そこへきて、胡桃沢がレンズのしたの瞳を熱っぽく輝かせ、
「ジャーナリストになって、いつか臨時防衛委員会を告発してみせる。――そもそも、東亜を含めディフェンダーのメーカーが好き放題やってこれたのは、やつらが開発を急がせたり、非人道的な実験や訓練を奨励したからなんだ」
などと言い出したから、義哉は俄然焦った。胡桃沢の肩に腕をまわし、辺りにさりげなく視線を飛ばしながら、耳打ちするように、
「……滅多なことを言うな。誰が聞いているか分からないンだぞ」
幸い、渡り廊下をゆく生徒はまばらで、誰も義哉たちに注意を向けてはいなかった。ホッとしたのも束の間、腕のなかで、胡桃沢が目を赤くしているのに気付き、義哉は驚いて手を離した。
「悪い、痛かったか?」
「違うよ。あんな下らない連中が、最上の首まで押さえつけているのかと思うと、僕は口惜しくてしかたがない」そうして、義哉をキッと睨んだ。「正直なところ、最上はどう思ってるんだよ。あの組織のことを」
「どうもこうも、興味がない――」と、義哉は目を逸らして、「だいたい、レギオンの攻勢から市街を守るためには、多少のことも仕方ないだろう。理想論では片付かないこともある。言論の自由があったって、人権が守られていたって、今日を生き延びられなかったら何の意味もない。そうだろう」
「だからって……」
義哉は声をひそませて、
「気持ちは分かる。けれど、連中を公然と批判したいだけなのか、それとも潰してやりたいのか、そこのところをよく考えるべきだ。この二つは、似ているようで全然違う。――ややこしい話はもうやめよう。それより、飯だ」
苦しそうに頷く胡桃沢の奥歯がギリっと鳴った。それから二人は押し黙って歩いたが、食堂の入口に差し掛かるころ、胡桃沢は口を尖らせて、
「……変なことを言い出して、悪かった」と云った。
義哉は済まないと思いながら、つい噴出した。そうして、かれの人生の物語を主人公然と生きていくであろう胡桃沢に、透きとおった羨望を抱いた。
食堂に近づくにつれて廊下が混雑してきた。その流れに押されるようにして食堂へ入った途端、青空と白雲の鮮やかな色彩が義哉の頭上を襲った。息を飲んで見上げると、緩やかな曲線を描く硝子天井が、食堂を高く蓋っていた。格子に組まれた鉄骨のむこうから豊かな光線が降りそそぎ、床やテーブル、生徒たちの真っ白なワイシャツ、ブラウスにくだけて暈をつくり、歓談の風景をぼかしている。
「ついこのあいだまでは閑散としていたんだけどね」胡桃沢が、ひとと光で溢れかえった食堂を見渡しながら言った。
義哉は手をひさしにして、
「夏の盛りにここで飯を食うのはよほど日焼けしたい奴かマゾだけだろうからな」
「季節が変ったのを感じるよ」
胡桃沢は中庭へ視線を転じた。義哉がつられてそのほうを眺めると、芝生のむこうに、淡く色づきはじめた公孫樹の林があった。
風がそよぐと葉がいっせいにゆらゆら揺れ、ラメのように日差しを照り返す。
義哉は自販機で食券を買い、カウンターでハンバーグ定食に換えた。そうして手頃な空席をもとめてテーブルのあいだを歩くうち、跳びあがって手をふる奈々の姿を見出した。かの女は打放しの壁の日陰になるところに、人数分の席を押さえていた。
奈々の傍に、黒髪の少女――シエラのようだ――が坐っていた。シエラは遠くを見透かすように目を細くすると、粛然と立ちあがり、近づく義哉にお辞儀をした。
「初めまして、でもないんだよな」と義哉は云って、シエラのむかいにトレイを置いた。「セクションファイブに入ることになった最上だ。よろしく。――それにしても、あんた、まるで人間だな」
シエラが不思議そうに首をかしげる。絹のような黒髪がほっそりした肩から零れて、みずみずしく揺れた。
「研究所じゃ、ガン見して悪かった。嫌がらせをするつもりはなかったんだけど、なんとなくあんたから眼が離せなかった」
シエラは少しまばたきをしただけで、なにも云わなかった。義哉は物足りず、このアンドロイドの少女を、どうかして微笑ませてみたくなった。
「最上、さっきからキモいよ」奈々が柳眉のあいだを歪めている。「声が妙に優しいし、なんかにやついてるし。……もしかして、アンドロイドしか愛せない性癖のひと?」
すると、シエラがはっとして切れ長の目を伏せ、
「わたしは戦闘用アンドロイドなので、あなたの要望には応えられないかもしれません……」と云ったので、義哉はおかしくて、
「あんたにそういうくだらない知識を吹き込んだのは誰なんだ」と笑った。それから奈々に向かって、「わかった、おまえだろ」
「あっ、あたしじゃないもん」と、奈々は慌てたように云って、横目に胡桃沢をうかがった。胡桃沢は腕を組んだまま、ざる蕎麦に手をつける気配がない。「ん、どうしたの」と、奈々が声をかける。「あー、もしかして、いじめられた? ――最上、あんたねえ」
義哉がそんなことするかよと答える先に、胡桃沢はそうじゃないと云った。「ただ、最上の言葉にいろいろ考えさせられてさ。なんていえばいいのか……つまり、衝撃、だったんだ」
奈々は俄かにたちあがった。そうして、義哉を睨みつけ、ちょっとツラを貸せとばかりに、親指を肩越しにうしろのほうへ向けた。義哉は「なんだよ」と席を立って、奈々のあとに続いた。
テーブルから少し離れると、奈々はいきなり義哉の胸ぐらを掴んで、
「あたし、フジョシ的なことを心配しなきゃならなかったりする?」
「は? なんだそれ。フジョシって、あれか。婦人のフじゃなくて腐ってるのフのほうの? ――おまえ、アホだろ」
「じゃあどうして胡桃沢くんがあんなこと言ってんのよ」
「おまえのなかじゃ、解釈はそれ一択なのかよ。ホモ漫画の読みすぎだ」
「ホモ漫画って言わない。ボーイズラブ」
「知らねえよ……」
「ちょっとまってよ」と、奈々は戻ろうとする義哉のワイシャツを後ろからぐいと掴んで、「この際だから、あんたの趣味と性癖を確認しておきたいんだけど」
「男ともアンドロイドとも、したいと思ったことはない。安心したか?」
「つまり、ノーマルさんだってことでいいのね」と、奈々が念を押したとき、かの女の瞳が前触れなしに義哉からパッと離れていった。そうして、食堂の入口のほうを見つめている。義哉が振り返ると、七、八人くらいの男女のグループが、自販機のまえでがやがやと談笑をしていた。
男子はそろって腰穿きにして、白や赤の派手なベルトをしている。そのうち幾人かは耳の縁のほとんどをピアスで覆っていた。女子はかなり短くつめたスカートに、サイハイを穿くという按配で、規則どおりに制服を着ているのは一人もいない。まわりがちゃんとしている分、他校の集団のように見える。
義哉はなんとなく、そんな気がして、
「あいつらが、噂のセクションスリーか」と訊いてみた。
案の定、奈々は厭そうな顔をして頷いた。「なんで戻ってくんのよ。ムッカつく」
「目当ての店が休みだったんだろう。――絡まれちゃつまらない。さっさと飯を済ませよう」
「ハァ? 逃げるってこと? なんであたしらが逃げなきゃなんないの」
奈々は、露骨にガンを飛ばし始めた。義哉はその腕を引いて、「おい、頼むよ」と云った。懸念が募るより先に、彼我の剣呑な視線がかちあって、のどかな食堂のうちに火花を散らしはじめた。義哉は急に重たくなった額を支えながら、校則をよく読んでおかなくちゃいけないなと考えた。――やはり校内で喧嘩をすれば停学だろうか。正当防衛なら情状酌量してもらえるのか。お互いディフェンダーもガーディアンも入れていないから殺し合いにはならないだろうが。
義哉たちは、あっという間に、友好的とは言いがたい態度の男女に囲まれた。まわりの生徒たちは雰囲気を察してか、トレイを持って次々と立っていく。
百九十に届きそうな、モアイ像のような顔をした男子が、薄ら笑いを浮かべて義哉に近づいてきた。「――あれ、オマエが噂の快楽殺人犯? 最上つうンだっけ」
義哉の脊髄を灼熱したものが駆けあがった。
「うす汚え恰好で近づくんじゃねえよ、タコ――」と凄み返すと、モアイ像は表情を硬くしてベルトのうえに食み出したトランクスを見下した。義哉は深呼吸し、「いや、悪い。喧嘩を売る気はない。こいつの目付きが気にさわったんなら、謝る」と云って、奈々の肩を押さえた。「ほら、いくぞ」
奈々が、嫌々ながらという風に、義哉のあとに続く。その行く先を、二三の男子が塞いだ。義哉は硝子張りの天井を仰ぎ、頭にのぼった血をなんとかふり落として、
「ちょっと通してくれないスか」
短髪を針鼠のように立たせた男子が、「お前らさ、人間としてどうなの?」と蔑むような顔つきで云った。「キラー・クイーンに死神、だろ。なんでお前らみたいな極悪人が普通に学校とか通ってンのよ? いままで殺めてきたひとたちのことを考えたらさ、いっかい、死んでお詫びとかしたほうがいいんじゃない?」
「……つーか、冗談抜きで、あんたに『死んでお詫び』させるよ?」
奈々の白い額にぱっと赤みが差し、筋が浮くのを見て、義哉は抱きとめるようにして宥めた。「分かるけど、堪えろ」と念じるように囁きかけると、奈々はすこし落ち着いたようだった。それでも、依然狂犬のような目つきをしている。義哉も義哉で、額や脳の様々な繊維がいっぺんにぶち切れそうだった。けれども、ここで殴りかかれば、針鼠の言葉に少なからず理があることを、認めることになる。それではやりきれない。義哉には言い分がある。だれに言い訳をするのでもなかった。同じように、奈々にも言い分があるはずで、だから奈々はなんとしても押し留めなければいけなかった。ひとに冷静を強いる以上、まず自分が我を失ってはならない。血の激流と討伐士としての一分が鋭く相克し、その一点から膨張する言葉にならない感情に胸を覆われて、義哉は泣きたくなった。
背中に浴びせられた冷笑が、かえって義哉を慰めた。セクションスリーの意図がそこに見え透いていたからだ。要するに、自分たちを傷つけたいのだろう。針鼠の言葉が、殺害したひとの遺族や友人から発せられていたら、今日一日、誰とも口をききたくなくなるほど塞ぎこんでしまったかもしれない。それから義哉たちはほとんど無言で食事をした。奈々がいつまでも目を赤くしていて、それが義哉には辛かった。セクションスリーの連中は愉快げに騒ぎながら、食事をしている。
やがて、例のモアイが、「おい、シエラ――」と、舐めきった声を投げつけてきた。「これ、片付けといて」
「放っておけよ」と、義哉は引きとめたが、シエラはすぐ済みますと言って立っていった。そのうち、流れる雲が太陽を遮り、食堂がサッと翳るのと同時に、食器の転がる騒音がむなしく響きわたった。義哉は反射的にふりかえった。シエラが床に倒れこんでいる。それを見おろして、男たちがからからと笑っていた。――義哉は我を失った。
テーブルが横転し、トレイごと食器が散らばった。揉みあい、髪を鷲掴みにし、ワイシャツを引き千切った。殴打し、足蹴にした。椅子を投げつけた。憎しみのこもったうめきを聞いた。顔からしたたる血を見た。喚き散らした。……
気付くと、狭い部屋にいた。ワイシャツのボタンがいくつか無くなっている。鼻を潰す生々しい感覚が拳に残っていた。中指の付け根の、尖ったところがすこし切れて、血が滲んでいる。息はようやく落ち着いてきた。肩と腿のあたりが少し痛むほか、とくべつの異常はない。眼前には、テーブルを挟んで、担任と蓮見と、それからジャージを着た男性教諭が二人いた。ごちゃごちゃと、何か云っている。あのモアイは神楽坂と云って、あばらを骨折したらしい。針鼠は藤林という名前で、砕けた頬骨にいまボルトを入れているという。
知ったことじゃない、寮に戻ったら、すぐに荷物をまとめようと義哉は思った。
蓮見が担任たちになにか云った。担任は、義哉に困惑の目をむけて、男性教諭たちと一緒に席を外した。
「不本意かもしれないけれど」と、蓮見は溜息のあとに切り出した、「最上くんは退学させないし、停学にもさせない。会社の都合があるの。あなたは子供じゃないし、ただの乱暴者でもない。それでもあの子たちに殴りかかったのだから、よほどのことを云われたんだろうと思う。でも、わかってあげて。あの子たちは、耐性があったために、人生を歪められたの。あの子たちの運命を決めたディフェンダーへの耐性は、あの子たちの存在意義そのものなの。それなのに、ディフェンダーやガーディアンを扱う技量では、最上くんや野宮さんに敵わない。あなたたちを見ると、自分たちは主人公じゃないって否定されているような気分になるうえ、自分たちが苦しんできたことへの慰めを失ってしまうの。それに、シエラのようなアンドロイドにだって代りができる。あの子たちが、小さい頃から訓練を強要されていたことは、もう聞いたでしょう。胡桃沢くんは、あの子たちに無理を強いた会社の役員のうちの子で、しかも大金持ち。セクションスリーの子たちがお父さんやお母さんの愛情に飢えていたころ、胡桃沢くんは家族に囲まれて不自由なく暮していた」
「………」
「ディフェンダー使いなら、だれだって優れたガーディアンをインストールしてみたい。けれど、社が全力を挙げて開発した『ハンニバル』の担当は最上くんに決まった。――それでも、セクションスリーの子たちが腹立たしい?」
「蓮見サンの話だと、自分のことを不幸だと思ってる奴は何をやってもいいんだという風に聞こえるな」
「そんなことない。ないけれど……、もうひとつだけ言わせて。会社からあなたに処分は下されない。けれども、あの子たちには警告が行くことになると思う」
そのとき、義哉はひんやりしたものに首筋を撫でられたような錯覚を起こした。それは、セクションスリーの側に立って自分を振り返ってみて、かれらが自分に極悪人の烙印を押したことをそれほど不当とは思えなかったためだった。彼らが物語の主役であれば、自分はまちがいなく敵役だろう。それどころか、自分はヒューマニズムの敵であるのかもしれない。少なくとも、自分などより、セクションスリーのだれかのほうが、主人公に相応しいに違いなかった。
義哉が溜息をつくと、蓮見は悲しげな顔をして、「辛い?」と尋ねた。
「もう慣れた。それに、自分が悪者だってことくらい、とうに自覚している。けれども、人からはっきりそう云われると、やっぱり腹が立つ。厭になってくる」
「でも、正義や悪なんて、結局は相対的なものだって……立場とか価値観しだいで簡単に入れ替わってしまうものだって、最上くんも気付いているでしょう?」
「………」
「午後の授業、出られるよね」
義哉がうなづくと、蓮見は微笑み、がんばってと言い残して出ていった。
それからもったいつけて入ってきた学年主任につきなみのことをくどくど諭されて、義哉は釈放になった。説教のさ中、携帯端末がポケットのなかで震えたので、渡り廊下を歩きながら見てみると、胡桃沢からメールを着信していた。――あのとき自分は野宮を止めるのに懸命だったが、いまになってよく考えてみたら、最上に加勢すべきだったかもしれない。そのことを、野宮から咎められた。申し訳ない。正直に打ち明けると、自分は小学校から喧嘩らしい喧嘩をしたことが一度もなく、気後れしたことは否めない。けれども、次にやるときは一緒のつもりだ。そういう内容だった。義哉は苦笑いして、――連れションじゃあるまいし、気にするなよ。と打って送った。
クラスメートに白い眼で見られることを覚悟してうしろからこっそりと教室へ入っていくと、なぜかヒュウヒュウ騒がれて要領を得なかった。前の席の女子に尋ねてみると、義哉は隣のクラスの女子ふたり――野宮とシエラを庇ってやむなく喧嘩をしたという筋になっていて、その子の言葉を借りると、「あんたクラスじゅうの女子のハートをがっちりキャッチ」ということだった。必ずしもそういう訳ではないのだと義哉は説明したが、義哉が持ち上げられた裏には、セクションスリーの評判があまりよくなかったこともあったようだった。それから手芸部員だという女子が名乗り出て、ワイシャツにボタンを縫い付けてくれたのは好かったが、「ヒモ」のからかい文句だけはそのままで、義哉は微妙に納得がいかなかった。
帰りのホームルームが終わって、胡桃沢に借りた辞書を引き引きしながら武蔵野を散策するうち、ふと壁の時計を見ると、補習の始まる五分前になった。すこし前からぱらつき始めた雨はあっという間に本降りになって窓の景色をゆがめ、そとを水浸しにしていた。部活の掛声や、体育館の床にバスケット・ボールの跳ねる音が、雨音のなかで水彩画のようにぼやけ、教室に染みとおってくる。義哉は鞄を引っ提げて立ちあがった。補習は実習棟の学習室でやるという。
昇降口のあたりに差し掛かると、シエラがひとりでぽつんと軒先に立って、雨にけぶる空を見上げていた。義哉が声をかけようかとためらううちに、シエラはなにを思ったか、傘も差さずに飛び出していって、白い顔に、ひたひたと雨を浴びはじめた。その態はまるで子供だった。長い黒髪がみるみる水を吸って、光沢の質をかえていく。細い首を、透明な蛇のように雨水がつたう。ブラウスが肌にはりつき、スカートは重たく垂れて、シエラはあっという間にみすぼらしい姿になった。そのなかで、表情に乏しい目が、却って象徴的に美しかった。シエラとそのまわりだけが、まるでこの世のものでないようだった。
義哉は寮母から借りた傘を広げて、昇降口を下りていった。
「そんなに雨を浴びて、故障したりしないのか――」と声を掛けながら、白い傘のうちにシエラをおさめた。シエラは、今気づいたという風に、義哉を見た。そうして、瞬きをした。
「防水は万全ですから、問題ありません。水深二百メートルまで耐えられます!」
義哉はシエラの誇らしげな感じにすこし気圧されて、
「そっか、じゃあ、あれだな」と大して意味を成さないことを云った。「雨、好きなンか?」
シエラは、猫のように首をかしげて、
「わかりません。……あれ、わたし、どうしてこんなことをしてるんだろう。やっぱり、わかりません。最上さんは、雨が好きですか?」
「考えたことなかった。――だよな、いきなり聞かれても困るよな、そんなこと」と、義哉は苦笑いして、「雨を眺めて憂鬱になるときもあれば、心が弾むときもある」傘のさきから滴る雨水に手をのべて、「冬の夕暮に降る冷たくて陰気なやつは勘弁してほしいけれど、春のさかりに花曇の空からしたたり落ちてくる霧雨みたいのは嫌いじゃないな。そういうのがクローバーの茂みやツツジの蕾を濡らしている光景を眺めるのはけっこう楽しい。餓鬼のころによく捕まえた、かたつむりとか雨蛙を思い出すんだ。知ってる? かたつむり。それから、この土砂降りも悪くない。さっきのあんた、絵になってたよ」
「あの、わたし、帰ります」とシエラはとつぜん云って、傘から離れ、激しい雨のなかに立った。
「だったら、これ持っていけよ。寮の傘だから」
シエラはあなたが使ってくださいと云い残し、髪をふり乱して雨のなかを走っていった。それから義哉は、かの女の謎めいた行動を脳裏にひきずったまま、補習に出た。相変わらず、数学的なものの見方、考え方が受け入れられない。端的に云うと、アラビア数字と味気ない記号の集まりが、素朴に気にいらない。悶々として、驟雨に覆われた窓の外を眺めていると、ふと胸に閃くものがあった。――シエラにもきっと虫唾の走る教科があったのだろう。そんなのにつき合わされたら、誰だってむしゃくしゃして、頭から雨を浴びたくもなる筈だ。……
「ヘルメスという神を知っているか。ギリシャ神話の、だ」
青山岳は、机の上に脚を投げだした恰好で、手に持っている書類の束へ目を落としたまま、いきなり義哉にむかって尋ねた。その第一声もさることながら、この名だたる戦闘補助OSの設計者が、案外若いのに、義哉は驚かされた。白衣のしたはジーンズにコットンのシャツというラフな恰好であるが、端整な細面とよく手入れされた鬚は気品と鋭敏さのほどよい均衡を感じさせる。三十五を過ぎてはいないだろう。とすれば、かれは大学院にいた頃から、一流の技術者として名を馳せていたことになる――義哉は青山が手がけた初期のディフェンダーの開発年を脳裏に浮かべて、推論した。実際のところ、この男のことは、天才であるという事実を除けば、年齢を含めてほとんどなにも公にされていない。専門誌に寄稿をしたり、その取材を受けたりということも一切なかった。義哉は、少なからぬ好奇心をもって、青山を見つめた。
青山は、観葉植物の傍にあるスチール椅子をつかうよう義哉に勧めて、
「ヘルメスは知性を司る神だ。学問や商売の神であり、魔術の神でもあった。そのヘルメスは、幼少の頃、手の付けられんほどの悪餓鬼だったそうだ。散々、いたずらをし、詐欺をし、盗みを働いた。恐らくはそのせいで、泥棒からも崇められることになった」
云いながら、忙しなく書類を捲ったり、ボールペンで書き込んだりしている。義哉は、依然として話が見えてこないことにやや困惑ながら、壁際の、分厚い書籍で埋まった大きな本棚を眺めた。脳やシナプスの構造に関するものや、プログラミング言語に関するものなど、種類は多岐にわたったが、神話に関係するものは見あたらない。
青山は腕をのばしてマグカップを手にとり、ひとくち啜って、
「ヘルメスは創造的すぎた。恐らくかれにとって知性とは、便利なアーミー・ナイフというより、おのれを載せて天を駆けまわる暴れ馬のようなものだったのだろう。ひらめきに恵まれると、試したくなる。ヘルメスはそれが常時だった。とくに子供のうちは、創造性に手綱をつけるなんてとてもじゃないが考えられなかっただろう。幼少時の悪童ぶりは、かれの悪意のせいじゃない、ただ創造的すぎる知性を持ってしまったことの帰結だ。知性には元々、ひとをそそのかすようなところがある。ヘルメスの杖の意匠は有名だから君も見たことがあると思うが、それには二匹の蛇が絡みついている。関連して、私はひとつの寓話を思い出す。それは旧約聖書の、イヴに善悪の知恵の実を食べるよう唆した蛇の話だ。なんと、その蛇の正体はサタンだった。……つまり、こういうことが言いたかった。知性とは本来、危険な蛇なんだ、と」
「なるほど――」と、義哉は云った。「けれども、どうしてそんな話を?」
青山は書類に目を落としたまま、唇の右端をすこし上げ、それから抽斗からなにかを拾い上げて、放った。光沢のある小さいものが、放物線をなぞってやってくる。義哉はそれを、腰を浮かせてつかまえた。掌におさまっていたのは、透明な馬のオブジェだった。
「俺が使っていたワイルドアゲイン? どうして……」
「経緯のことを尋ねているのか、それとも意図のほうかな。――まあいい、ふたつとも答えよう」青山は書類を脇にやり、脚をおろして机の縁に肘をついた。「警察には、カネの亡者もいれば、自身の信条にもとづいて臨時防衛委員会に奉仕したがる莫迦者もいる。東亜はそういう連中とつながりをもっている。事件の証拠品を入手することはそれほど困難ではない。もっとも、フリーの討伐士だった君に改めて言うほどのことでもないかもしれないが。それから意図についてだ。私は君にハンニバルへの適性があることを知っているし、うまく使いこなしてくれることも疑っていない。そのことを改めて調査するには及ばなかった。ではなぜ、君が大崎甚一のもとに残していったディフェンダーをわざわざ入手したのか。答えは至って簡単。君に興味があったからだよ。個人的に、ね。しかし、驚かされた。削除された動画ファイルをいくつか復元させてもらったが」青山は拳を口元にあててクックッと笑い、「君はなかなか創造的であるようだ。それで、ついヘルメスのことを考えたりした」
この研究者は舞台裏を承知しているということらしい。それがなにを意味するのか、うまく考えを整理できず、義哉は髪をかきあげながら、絨毯のオリエント風の模様に目を落とした。そのとき、青山の発した、
「まったく、大したマキャヴェリストだ」の一言が、千枚通しのようになって心の柔らかいところに突き刺さった。
「いったいなにが君をそうさせる」と、青山は机に身を乗り出した。「我々が君をハンニバルの担当に択んだ理由の、大体のところは、蓮見から聞いていると思う。ハンニバルの名は、ヨーロッパ戦史のなかでも指折りの力量を誇った武将から取っていて、そのコンセプトはすばり『戦場の掌握』だ。サイコキネシスの発動、接近戦制御デバイス、それから情報の収集と解析といった諸機能を、有機的に統御するため、感度を極限まで高めた新型の思考変換デバイスを採用している。このため散漫な思考習慣の持ち主がインストールすると、脳や神経に負担がかかってとても危険だ。使用するのはどうしても、クリアーで安定した思考をする君のような人物でなくてはならない。だが私の知るかぎり、この特徴を持つのは、長いこと憂鬱や神経症に悩まされた者か、さもなければ職業上の必要から習慣的に思考力を酷使することを求められている人物だけだ。君のような若者がこういう特徴を示すのは、実際のところ有り得ないと思っていた。もしそういう若者がいたとしても、精神を擦り切れさせた挙句、麻薬中毒にでもなっているか、隙あらば自殺を企てるような、討伐士としては使い物にならん奴か……それが、極めつきのマキャヴェリストときた。私は謎と奇蹟に満ちたこの世界への畏怖を新たにしたよ」
義哉はなにを云う気も起こらなかった。青山の見解はまったく的を射ていた。自分はいつか麻薬に溺れてしまうだろう、そうでなければふとした拍子に理性をうしなって自滅的な振る舞いをするに違いないという、密かな予感があった。
青山は義哉の表情を察してか、
「いや、余計な話だったな。本題に入ろう。……と言っても、開発者として君に云うべきことは、あまりない。私は出来るかぎりのことをしたつもりだし、あれは君の気に入るはずだという確信もある。というのも、君はパワー・タイプのディフェンダーではなく、威力偵察用のワイルドアゲインを敢えて択ぶような人間だ。要するに、力より、知性や情報に重きを置いている。それは君が、力なんぞ戦局を左右する要素のひとつにすぎない、ということを熟知しているからだ」
義哉はてのひらのなかの形象を見つめて、
「こいつを使い続けたのは、ほかに性能のいいやつを入手できなかったからですよ」
青山は肘掛けにもたれて微笑み、
「では、そういうことにしておこうか。――その様子だと、ガーディアンをインストールするのは初めてだろう。説明しておいたほうがいいかもしれんな。ガーディアンがディフェンダーと際立って異なるのは、その『有機性』だ。ガーディアンと接するうち、君は直感的に『魂魄』の存在を感じ取るだろう。それに伴なって、制御のプロセスが立体的になる。ディフェンダーの制御は、アクションとリアクションのみで構成されており、良く言えばシンプル、悪く言えば平面的だ。ところが、ガーディアンはそうではない。意識して同調するということが、重要になってくる。はじめのうちは苦労するかもしれんが、――まあ、習うより慣れろ、だ」
「オカルトめいた話なら、色々聞いてますよ」と、義哉は言った。ガーディアンと対話をし、友情を育んだと主張する、トップクラスの討伐士は少なくないし、使用者とガーディアンの相性が、サイコキネシスの出力の実質的な限界値を大きく左右することはよく知られていた。ガーディアンにはある種の神秘性がある、という点に異議をとなえる実務家は皆無に等しい。
「ふとしたとき、その眼に予期しなかったものを映すことになっても、あまり驚かんことだ」
青山が、冗談とも本気ともつかない調子で云ったとき、扉がノックされた。青山は不機嫌の皺を額にあらわし、「いま、重要な話をしている」と答えた。すると、ドアのむこうから、少女の声がかえってきた。このとき義哉は、ブラインドから落ちてくる縞状の光線のなかで、青山の苦みばしった顔がほんの一瞬だけ、色を失ったように感じた。青山は短いひげで覆われた顎をすこしあげて、「構わないよ、開けなさい」と言った。
扉が遠慮がちに、ゆっくりと動く。廊下の暗がりにほの白く浮かび上がったのは、訓練用のスーツに身を包んだシエラだった。髪をひっつめにしているせいで、細い首がいつもよりはかなく見える。
「最上さんを呼んできて欲しいと、蓮見さんに頼まれました」
「わかった。すぐ行かせる。そう伝えてくれ」
はい、と応えてシエラが扉を閉めようとするのを、青山は呼び止めて、「――学校はどうだ、楽しいか」
「えっと……」シエラは瞳だけでちらっと義哉を見て、「わかりません」
青山は、軽く息をついて苦笑し、
「セクションスリーの連中は、相変わらずらしいな。もし、学校生活にそれほど魅力を感じないようであれば、私から研究所のほうへ話をしよう。遠慮せずに言いなさい」
「いいえ」と、シエラは今度ははっきりした調子で言った。「わたし、学校を続けたいです」
「そうか。だったら構わない」
シエラが一礼して扉を閉じると、青山はボールペンを持った手で襟足の辺りをかき、
「あの子の身体を製作したのはアンドロイドの部署の連中だが、核になる部分は私が手掛けたんだ。……君の言いたいことはおおよそ分かる。悪趣味だ、だろう? 君はまだ未成年だ。大人の都合というものを、鼻で笑う権利がある。もっている権利は行使するに限るというものだ。私は弁解しないよ。ただ、ひとつだけ頼みがある」
「なんですか」
「あの子を人として扱ってくれ、とまでは言わない。けれど、命を持った存在であるということは、認識していて欲しいんだ」
「マキャヴェリストの俺に?」
青山は、意外そうな顔つきをして、「君主論を読んだことは」と尋ねた。義哉がいいえと答えると、かれは得心したように頷いて、「だったら誤解するのも無理はないな。――蓮見が待っている。行き給え」
義哉は部屋を辞し、古びた象牙のような色調の床に目を落として歩きながら、歴史上マキャヴェリストと評されてきた人物のうちの幾人かを、意識に上らせた。そうして、かれらの為政者としての堅苦しい肖像のうちに、蛇をもてあました悪童の横顔を見出そうと試みた。そういう風に解釈すれば、なるほどレーニンや松永久秀などには一種の頑是なさを感じる。けれどもかれらは幼少期のヘルメスに通じるような童心の人というよりは、思想や利害、猜疑心の奴隷であった。レーニンはマルクス主義が御する馬車の馬のようなものだったし、松永久秀は信長が幾度となく示した好意を信じず、ついにはあてつけるように信長の希求した平蜘蛛釜を抱えて爆死してしまった。かれらの稚気は、なにかに執着することで狭窄した視野が産んだもののように感じられた。
では、自分はどうだろうと義哉は思った。生存への執着は、胸が苦しくなるほど強く自覚するところだった。ほとんど溺れたようになって、ほかになにも見えなくなるときがある。そうして鎖された狭い世界のなかで蛇に身を委ねる。なるほど一端のマキャヴェリストかもしれない。――義哉は自嘲して右の頬をするどくゆがめた。ちょうどそのとき、エレベーターの扉がひらいた。なかに、訓練用スーツを身につけた奈々が乗っていた。かの女は、ぽかんとくちをあけて義哉を見上げている。
義哉は、よう、と声をかけて乗り込んだ。
階を幾つか経由したころ、奈々はふと、
「あんたどうしたの。怖い顔して」
「無愛想は元々だ」
奈々はううん、と首を振って、「なにか、厭なことでもあった? 昼休みに喧嘩したときだって、そんな顔してなかったよ。ね、話してごらん」
義哉は奈々がほんとうに心配そうな顔をしているのに気づいて、
「おまえ、いい奴だな――」微笑を洩らした。「けれど、ほんとうに何でもないんだ」
奈々は、なにかを言いかけて、口を噤んだが、エレベーターを降りる間際になって、
「言いたくないならいいけど、――その、なんとなく分かるの。あたしも、やりきれなくなったりすることがときどきあるから。――元気だしなね」
「……ありがとよ」
冷たい色彩のひかりが充満する底に、リノリウムの廊下がまっすぐ延びている。その水を薄く敷いたような表面に、扉や自販機、長椅子が逆さに映りこんでいた。靴音や話し声が、曲り角のむこうから響いてくる。近づくにつれ、戦闘用のスーツを着た大人たちが、ひとりふたりと姿を現わし、すぐに十数人の集団になった。
奈々が、おつかれさまでーす、と声をかけると、一団もフランクな挨拶を返してきた。奈々は義哉に、「セクションツーのひとたち」だと教えてくれた。義哉は、軽く会釈した。
すれ違いざま、かれらのうちの一人が、
「今月に入って何件目だ?」などと、並んで歩く男に話しかけた。相手は指折り数えて、「――六件か。確かに多いな。噂は色々と聞くが、実際のところはどうなんだろう」そのとき急に、前を歩いていたボブの女が振り返って、「いつものことだからって油断しないでね。窮鼠猫を噛むっていうし」と言った。男二人は、異口同音に、了解と答えた。
奈々は遠ざかっていく集団を眼で追いながら、「またシャーマンが市街で暴れてるっぽい。ねえ最上、あんた何か知ってる?」
「詳しい事情はわからないが、麻薬の流通がほとんど止まっているらしい」と、義哉は知っていることを話した。「連中は禁断症状でまともな判断ができなくなっているか、それとも麻薬を切らすまえにひと暴れしたくなったか……。そんなところだろう」
「ふうん。なんだか嫌な予感がするなあ」
「市当局が麻薬を遮断したんだとしたら、うまいやり方じゃないな。さっきの女のひとの話じゃないけど、追い詰められたシャーマンたちが挙って暴走しかねない。むしろシャーマンに少しばかりの麻薬を与え、連中が争奪戦を始めて互いに潰しあうよう仕向けるべきだ。そうすりゃ、市民への被害は最小限で済む」
うう、と奈々は首を竦ませて、「やっぱ、あんただけは敵に回したくない……」
「ちょっと悪辣すぎるか」
義哉はふと自分の考えを省みた。そうして、自分がシャーマンそれ自体に対してさほど敵意を持っていないことに気付いて、ゾッとなった。公益のため、シャーマンを徹底して取締るべきという考えを、単純すぎるとさえ思っている。ディフェンダーをインストールした麻薬中毒者がその辺りをうろついているのは確かに問題だけれど、それは症状であって病原ではない。少なくない人間が、麻薬に逃げ込まなければやっていられないほど追い詰められてしまうような、社会の構造や価値観こそが問題なのだと考えている。義哉にとっても、他人事ではなかった。なのに、シャーマンを徹底排除するための方策を、無意識のうちにめぐらせる。そこに、蛇のとおった確かな跡を見たような気がした。その跡を足で踏みならすようにして、
「でも、シャーマンてのは、哀れな連中だと思うよ」と云ったが、そこに弁解じみた響きを自覚し、義哉はいやな後味をもろに噛みしめた。
奈々は、うん、とすっきりしない様子で云った。