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マキャヴェリスト #1

 チェーザレ・ボルジアは冷酷であるとの評判を取った。だがしかし、あの冷酷さによって彼はロマーニャ地方の乱れを繕い、これを統一し、安定と忠誠に導いた。このことをよく考えてみれば、あの男のほうがフィレンツェ人民よりもはるかに慈悲の心をもっていたことが看て取れるであろう。


 ――ニッコロ・マキアヴェッリ「君主論」



     1



 手垢ひとつないガラス張りのはるかかなたに横たわる晩夏の夕日が、ポプラの梢に砕けて、フローリングに光と影のまだら模様を投げかけている。義哉は万華鏡を思わせる構図のきらめきに眼底を侵蝕されて、視界にエメラルドの靄がじわりと浸透していくのを、幾分の痛みとともに感じた。けれども眼を逸らしてしまうには惜しい空だった。秋の訪れを予感させる高い雲が、夕焼けに炙られて、暢気に浮かんでいる。雲はまた、暮れなずむ空の、濃い藍と燃えるようなくれないの溶けあう辺りを、緩くかきまぜ、棚引かせていた。義哉は胸に押寄せる感興に抗えず、拡張現実のブラウザに表示されているファイルの一覧のことはいっとき忘れて、――時の流れまで意識の外に追いやって、夜と黄昏のせめぎあう風景に見蕩れた。

 刻一刻とすがたを変える光景へのささやかな感動から、義哉を現実へと引き戻したのは、高梨の、

「そんなに気に入ったのなら、撮影して残しておけばいい」という、からかうような抑揚をもった声だった。

「残すって、この光景を?」

 義哉は、打放しの壁のほうを振り返った。高梨は、暗がりのなかで、デスクトップに向かっていた。サングラスに、幾何学的な図柄がふたつ、ならんで反射している。

 高梨はタイピングの手をとめて、煙草を銜えた。鼻先を覆う手のなかに火がともると、横顔がポッと白く浮かび上がる。

「おまえさんの『ワイルドアゲイン』は、諜報や撹乱、威力偵察を想定して開発された戦闘補助OSディフェンダーだ。見たもの、訊いたものを簡単に記録しておける仕様になっている。――おっと、釈迦に説法だったか」

「そういうことじゃない」と、義哉は言った。「この景色を画像にして、家に帰って再生してみても、こんなショボくなかったと思うんじゃないかって気がする」

 高梨は、くゆらせた紫煙の、ぼんやりとした靄のなかで、ひっそりと、思慮を巡らせるような表情をモニターに向けていたが、だしぬけに、

「なるほど。……だったら、あの血で染めたようにグロテスクな夕日が、墓石さながらの廃墟ビルのむこうにどっぷり沈むまで、見届けりゃあいい。仕事の話は、それからにしよう」

 義哉は、移り変わる景色の一秒を惜しんで、視線を転じた。

 彼方にたたずむ、傾いた高架橋が、夕焼けのひかりのなかで淋しく翳っている。見つめるうちに、そこから荒廃の気配がぷうんと漂って、ふと気づくと、空は化粧を剥がれたかのように印象を変えていた。高梨の比喩は露骨すぎる――義哉は吐息を漏らした。

 いま眼前にあるのは、いつもどおりの、いちど沈んだら二度と昇らないのではないかと思われるほど淋しげな夕日と、そういう夕日のよく似合う、ゆっくり衰え死んでいくより他にない老人のような街……

「なあ、最上」と、高梨は思い出したように言った。「意識のなかにOSがあるって、どんな気分だ。快適か。それともうっとうしいものか」

「慣れてしまったから、どうとも言いづらいな。けれど、なぜ」

「実は――、脳を少しいじろうかと思っている。せっかく仮想現実ウェブ2.0が浸透していってるのに、いちいち端末のブラウザを経由しなきゃならんのは効率が悪すぎる。情報屋として、新しいスタイルから取り残されたんじゃあ、話にならんからな」

「仮想現実ウェブ2.0!――」義哉は、皮肉の調子が声に混じるに任せた。「なるほど、ご大層な名前をつければそれっぽく聞こえるもんだな。……あんなのは、次元崩壊の二次被害にすぎない」

「捉え方は人それぞれだ。俺としては、正直、面白いことになってくれたと思っている。もっとも、狂人どもが神の創造に失敗したのは俺たちの生まれるずっと前の話だが。――狂人か。おかげでこのサイバーパンクな時代がやってきたンだから、連中には感謝しないといけないな」

「そのせいで、幾つもの国や街が滅び、比良坂市ここだって陸の孤島になった訳だが」

 高梨はひこうき雲のような細長い煙を吐き、頬のあたりに深い皺を刻んで、

「どうにもならんことは前向きに考える他にない――違うか、青年」と言った。

 かれのサングラスは、夕日のしたの比較的新しい街並と、遠くに建ち並ぶ廃墟ビルのおりなす、好対照といえる二段構えの風景を、鮮明に映していた。

 義哉は前髪をかきあげ、すこし掠れた声で、

「やめろとは云わないが、セキュリティだけはしっかりしておいたほうがいい。ハッキングを食らって壊れるのは、メモリじゃなくてあんたの脳みそのほうなんだから」

「勿論、そのつもりだ――」高梨は軽くむせながらビールの空缶にたばこの灰を落とした。「本音を言えば、頭蓋の中身をいじるのは怖い。だが、情報屋としてやっていくつもりなら、こうするよりほかに手がなさそうなんだ。――おまえら討伐士バスターみたいに、ディフェンダーを使いこなせればいいんだがな」

「資格試験を受けたことは?」

 高梨は、ああ、とうなづいて、

「最上とおなじくらいの頃――、十六、七のときに三級を受けた。学科はすんなりパスしたが、あいにく耐性がほとんどなかった。そんなわけで、無理にディフェンダーを意識にインストールすれば、眼球が飛び出たり、耳の穴から血を吹くことになりかねん。麻薬でもやって人為的に耐性をつければ、旧式のものくらいはいけるかもしれないが、スペックの大きい最近のディフェンダーはその分要求される耐性も高くなっているから、ことごとく駄目だろうな。もっとも、近ごろはセーフティがしっかりしてきているから、インストールそのものを拒まれてしまうだろうが。――そうか、麻薬って手があったな。脳にインターフェイスを埋め込んで意識障害にビクつきながら情報屋を続けるくらいなら、いっそヤク漬けになって落ちるところまで落ちてやるのも悪くない」

「あんたがシャーマンになったら、つきあいは終わりにさせてもらう」と、義哉は言った。シャーマンとは、麻薬の常用によってディフェンダーへの耐性を保っている者たちを指す俗称である。

 高梨は不精ひげの散る痩せた頬を撫でながら、

「麻薬中毒の情報屋なんか信用できないってか。違いねえ」と、可笑しそうに言った。

「笑いごとじゃない」

 義哉は拡張現実のウィンドウを引き寄せた。

 部屋の空間に浮かぶファイルの一覧表は、ディフェンダーが直接、義哉の脳の、視野をつかさどる部位に働きかけることによって見えるもので、高梨は、義哉がデータにアクセスしていることを、デスクトップのブラウザを通して認識したはずだった。情報屋が、なにか言いかけた口を閉ざしたのはその為だろう。高梨は銜え煙草になって、タイピングを再開した。

 義哉は、ファイルにざっと眼を通して、頭を抱えたくなった。依頼の内容は、街に迷い込んだミュータントや機械生命リビングマシンの排除がほとんどで、梃子摺りそうなものはなかったが、なにしろ報酬が安すぎる。これなら、白蟻や雀蜂の駆除でもやっていたほうが、まだ実入りはいいのではないか。

「最近、急にしょっぱくなった、とでも言いたげな顔だな――」高梨は大きく伸びをして、「おまえさんも聞いている筈だ。所轄の担当者が変わったンだよ。木曽って警部なんだが、こいつがまた面倒臭いやつでな。いろいろと経歴を調べてみて、唖然とした。職権をつかってシャーマンのグループに便宜を図ったり、ヤクザの抗争に息のかかったバスターを送り込んだりと、絵に描いたような悪代官ぶりだ。署のサーバーに侵入してみて分かったんだが、こいつがどうも、討伐依頼の報酬をピンハネしているらしい」

 義哉は黒髪をかきまわして、

「それは死活問題だ」

「ま、しばらくは様子を見るさ――」高梨は短くなった煙草を揉み消し、そうしてブルーのレンズの下から上目づかいに義哉を見た。「実は、その木曽警部殿から、最優先で処理して欲しいっていう、じきじきの依頼があってな……」

「断る」義哉はぴしゃりと言った。「関わるとロクなことにならなそうだ」

 高梨は、頭に巻いたタオルをほどき、縫い目を指でいじりながら、

「標的は、一級危険区域のぬしで、一筋縄でいくような相手じゃないんだ。おまえさんの他に、安心して任せられるような奴がいない」

「待ってくれ。どうしてそんな話が高梨サンのところに回ってくる」

 義哉は話をさえぎって、云った。

 一級危険区域とは、次元崩壊による汚染がとくに酷い場所のことである。次元崩壊は、人類が神の創造に失敗したときに飛散した、純度の高い生命素によって引き起こされたもので、時間と空間の境界をゆがめ、そこに情報という新たな次元軸を交えて、複雑な空間構造を生み出す。

 地球上のあらゆる領域は、多かれ少なかれ次元崩壊の影響を受けたが、そのなかでも特に空間構造の不安定な場所が、一級危険区域に指定される。

 理論上は、生命素が次元崩壊を引き起こすとされているから、一級危険区域には、原因となる純度の高い生命素があると考えられている。生命素とは、人間をはじめとする高等動物のいのちのエッセンスを濃縮し、構造化して物質的に安定させた存在であり、戦闘補助OSディフェンダーや、上位機種である意識体戦闘補助OSガーディアンの素材となる。

 その一方で、生命素は電波通信として空間を去来するアプリケーションや人間の思考などの情報群を取り込み、自己を複雑に構築してゆき、情報上の個性――ゴーストとなって、廃棄されているアンドロイドの電子基盤を支配したり、仮想現実インターフェイスを埋め込んだ人間やミュータントの精神を制御して、一個の軍団ともいうべきもの――レギオン――を形成する。それらは大抵、人間にあからさまな敵意を向け、仮借ない攻撃を加えてくる。

 無数の国や都市を滅ぼしたのも、比良坂市を陸の孤島へ追いやったのも、このレギオンに他ならなかった。そもそも討伐士とは、レギオンの脅威に対応するための国家資格、専門職であり、したがって義哉のもとへ討伐の打診がくることに何らの不自然はなかったが、問題は、高梨と義哉が根をおろすこの管轄区が、不断に敵の侵略にさらされている比良坂市の外周部ではなく、むしろ中心部に近いところにある、ということだった。

 とうぜん市街の中心部は、市民に害を及ぼす可能性の高い汚染区域の調査と、その中核たる生命素――ゴーストの討伐を、優先的に終えている。いまだに手付かずになっている一級危険区域は、人間に危害を及ぼす可能性がすくないと判断された箇所か、そうでなければ厄介過ぎて軍もバスターも手の出しようがなく、厳重に封鎖されているエリアか、あるいはその両方に該当するものだけである。

 そのような背景のもとで、一級危険区域に踏み込んでいき、ゴーストを討伐しろと言われても、安易にわかりましたとは答えられないのである。

 高梨はサングラスをとり、渋い顔つきで鼻梁を揉みほぐしながら、

「警部殿の狙いは、たぶん、ゴーストの生命素だろう。業界では相変わらず、ガーディアンやディフェンダーの開発競争が激しくて、メーカーはどこも良質の生命素を喉から手が出るほど欲しがっているからな。かなりの値段がつく筈だ」

「つまり、悪徳警官の蓄財に手を貸せってことか。冗談じゃない。一級危険区域の主とやりあう以上、こっちだって命懸けだ。いくらあんたの頼みでも、受けられない。とにかく、木曽って奴とは関わりたくない」

「あのな……、そういう訳にはいかないぞ」

「なぜ」

「腕がよけりゃ、名は知られるようになっちまうんだ。奴は、おまえさんの名前を知ってる。分かるだろう。俺もおまえさんも、所轄の担当者に睨まれたら、とてもじゃないがやっていけない。奴はその気になれば、いくらでも俺たちに難癖をつける理由をでっちあげられるし、そうなりゃライセンスの剥奪だって食らいかねないンだ」

「………」

「ま、最上がどうしても嫌だと云うなら仕方ない。木曽には、俺からうまく説明しておくよ。依頼は他の討伐士にまわす。――そいつは死ぬことになるだろうが。幸い、名前を売りたがってる自信過剰のバスターは少なくない。ひとりふたり潰せば、木曽も諦めてくれるだろう」

 義哉は、顔をしかめて手許を見つめた。

「……場所は?」

「スラムだ。次元崩壊の以前は、アミューズメントパークだったらしい。――すまない。精一杯、サポートさせてもらう」

 義哉はディフェンダーを経由して依頼の詳細を記したファイルを受け取ると、鼻のうえに皺をよせたまま、スツールから立ち上がった。螺旋階段のポールに手をかけたとき、高梨が思い出したように、

「そうそう。昼間、矢島って女がここに来たぞ」と、声をかけてきた。

「ヤジマ……」

 義哉は首をかしげた。

 高梨は、喉をくっくっと鳴らして、

「おいおい、忘れたのか。おまえさんのクラスの担任なんだろう。ちゃんと高校に通うように、あなたからも話をしてくださいと頼まれたよ。このままいったら留年だそうじゃないか。なあ最上、イッコ下の連中にタメ口をきかれると、かなりイラっとくるぞ?」

「余計なお世話だ」

「おまえの人生だし、好きにすりゃいいが、高校くらいは出といたほうがいい」

「厄介ごとを押し付けたうえに、今度は説教か」

「そんなつもりじゃないが――」と、高梨は苦笑した。「たしかに、俺が口を挟むことじゃないな。忘れてくれ」

 義哉は、情報屋を一瞥すると、カーゴパンツのポケットに手を突っ込み、階段を駆けおりた。


 翌日、義哉はポータルサイトの地図を睨みながら、錆と廃油の匂う、せまい路地を歩いた。七色の膜の浮く、水はけの悪いアスファルトに、昼下がりの瑞々しい空が反射して、ターコイズを敷きつめたように輝いている。その光暈のなかで、ワンピースの女の子が、水溜りを跳ねあげ、はしゃいでいた。

 女の子に、アミューズメントパークの跡地のことを尋ねると、かの女は、

「あんないしてあげる」

 と、二つ結びの髪を揺すりながら、待ち構えていたように言った。

 女の子につづいて、洗濯竿のしたをくぐり、汚泥のたまった側溝をまたぎ、身体を斜めにしてプラスティックの波板のあいだを抜けると、どくだみの繁みに横たわった、古びた看板が見えてきた。

 塗装は広範に剥げおち、ひどく錆びていたが、辛うじて、赤い矢印と、

(屋内アミューズメント、ジョイワールド比良坂)

 の表記を見てとれた。

 古びた倉庫のような建物が、ごみごみしたあばら屋の低い屋根を突き抜けてそびえている。大きな電子掲示板が、傾いたまま掛かっていた。ガラス張りのエントランスのちかくまでいくと、女の子は義哉を振り返って、目をみはり、

「あたしたちのひみつきちなの――」と誇らしげに言った。

 建物のなかの暗がりには、ぶかぶかのヘルメットをかぶり、角材のようなものを手にした幾人かの子供たちがいた。義哉が回転扉を抜けると、ひとりの男の子が釘抜きを突きつけて、

「あいことばをいえー」

 義哉は見おろし、「どけ、餓鬼」と言った。すると男の子は身体を強張らせて、工具を下した。義哉はしんと静まり返った子供たちを無視して、フロアを見渡した。スポンジのはみ出た長椅子や、アクリルの覆いの砕けた自販機、色褪せた垂れ幕や案内板が、埃っぽいマットのうえに散らばっている。

 ざっと見る限りでは、比良坂市によくある廃墟の風景だったが、視野を広くとった途端、異常な箇所に気づいた。四方を塞ぐべき壁がない。そのかわり、まるで宇宙へ繋がっているかのように、どこまでも闇が続いていた。それで義哉は、ここが次元崩壊の強い影響のもとにあるのだと認識できた。

 見上げれば、かなたをカラフルな星型の模様が無数に流れ、サイエンス・フィクションの宇宙戦争を思わせるようなレーザー光が飛び交って、チカチカと輝いている。

 義哉は、背後のほうを騒がしく感じて、振り返った。外から差し込んでくる白々とした光のなかで、子供たちが二つ結びの女の子に詰め寄っていた。

「俺は案内されたんじゃない。勝手にその子のあとをつけてきた――」と、義哉は言った。女の子が、涙まじりの視線を義哉のほうに投げかけた。ほかの子供たちは一様に怯えたような顔つきになって、押し黙った。

「おまえら、今日はもう帰れ」

 義哉は投げやりに手を振って、がらくたを避けながらフロアを歩いた。半壊したゲーム機が並ぶ辺りまで来ると、拡張現実のブラウザを通して、楽しげな装飾のたくさんついた Welcome ! の文字が、虚空にぱっと浮かび上がった。この歓迎のメッセージをどう受け止めるべきか、思慮を巡らせているうちに、高梨から通信が入った。

「よう。現場は見つかったか」

「いま着いたところだ――」と、義哉は応答した。「やっぱり、気が乗らないよ」

「今度、キャバクラに連れていってやるから辛抱してくれ。そっちはどんな具合だ」

「ゴーストがレギオンを編成している雰囲気はない。なにしろ、餓鬼どもが入り込んで遊び場にしてるくらいだから」

「ガキ――、最上がいうんだから小学生、低学年くらいか」

 義哉は舌打ちをして、

「要するに、あんたから見れば、俺も餓鬼だと言いたいのか」

「悪く取るなよ。だいたい、子供扱いしてる奴にこんな厄介な仕事を頼めるか。で、どうする」

「そうだな……このあたりに下水道や廃材置き場は?」

「ええと、」カタカタとキーボードを打つ音がしばらく続いた後、高梨は、「ある。ふんだんに」と云った。「そこのすぐしたを下水が通っているし、敷地のうしろは廃材の山だ」

「アンドロイドでもミュータントでもいい、とにかく手頃なのを見繕ってハッキングし、あんたの支配下に置いておいてくれ。俺はこの危険区域の主を捜してみる」

「わかった。気をつけろよ」

 音声通信を切るなり、頭上で大音量のオルゴールが鳴りひびき、義哉は立ち止まった。紡がれるメロディは童話的なものだったが、一級危険区域の異様な空間のせいで、まるで深夜の教会の鐘を狂ったようにかき鳴らすような、なんともいえない不気味な趣きがあった。

 回転木馬、コーヒーカップ、観覧車――あでやかな光に彩られた無数の映像が、闇のなかを走馬灯のように巡る。義哉はポケットに手を突っ込んで、一錠の錠剤を摘んだ。指先が震える。背中をざわざわと駆けあがるものがあった。

 足許で、鼠のぬいぐるみが、義哉を見上げている。黒い目と片耳がとれかかっていて、首のあたりからは綿がとびだしていた。――ついてきてね。義哉のディフェンダーが、鼠からのメッセージを取り次ぐ。義哉はポケットのなかに錠剤を落として、それから鼠に頷いて返した。呼吸するたびに喉が震える。落ち着くまで、だいぶ歩かなければならなかった。

 積み木やジャングルジムなどの玩具が散乱するあたりに辿りつくと、鼠は少しずつ透きとおり、希薄になっていって、義哉にむかって辞儀をしたのを最後に、ふっと消えた。義哉は顔をあげると、すこしさきの、おもちゃ箱の陰になるあたりに眼をとめた。そこにうごめくものを感じたのである。ディフェンダーの拡大機能の、焦点が合っていくにつれて、パーマネントのかかった黄色い頭髪が浮かび上がった。アロエの葉を連想させる、特徴的なかたちの帽子が載っている。白と黒の能面のような貌が、ゆっくりと義哉をふりかえった。暗然とした眼の窪みに、きらっと輝きが灯る――

 通信が、意識に割り込んできた。

「大魚をゲットしたぞ――」と、高梨は言った。「今日はツキがあるかもしれない。聞いて驚け。体長四メートルのザリガニだ。そこのすぐしたの地下駐車場でスタンバってる」

 義哉は我にかえって、大きなすべり台の陰に身をひそませた。

「まずまずのミュータントだな」

 かつて軍が戦力として利用するため、遺伝子の組み換えによって高い殺傷能力を付与した生物一般が、その名で呼ばれていた。次元崩壊の混乱のなかで、多種多様のミュータントが軍の施設から逃亡して野生化し、各地で繁殖していた。

 ミュータントは軍の統制上の必要から、特定の周波数の電波信号によりコントロールされる性質を与えられていた。種や個体によってその周波数はまちまちであり、また敵に容易に乗っ取られることを防ぐ目的から、複数の周波数を設定されていることが多かった。ハッカーやゴーストは、この周波数を探り当てること――チューニングによって、ミュータントを支配下に置く。

 むろん、周波数の組み合わせのパターンは膨大にあり、チューニングの作業は往々にして難航する。高梨が上々の成果に機嫌をよくするのも当然のことだった。

「丁度いい」と、義哉は言った。「そのミュータントに、ここからすこし先にいるピエロ野郎を襲わせてみてくれ。そいつが多分ここのぬしだ。やつの手の内を見ておきたい」

「おいおい、せっかく捕まえたのにもう潰しちまうのか。魚拓でも取っておきたかったが」

 義哉は軽い苛立ちを覚えながら、「どうでもいいけど、やるならさっさとしてくれ」

「……いや、いいんだ」

 突然、ドゴオン、と凄まじい地鳴りが響き、市松模様の床がざっくりと割れて、そこから錆色のおおきな鋏が現われた。そのすぐ下で、ボウリングの玉のような眼が、きらりと光沢を放つ。ぞわぞわと、無数の脚が波打つように動いて、頑丈そうな殻に覆われた巨大な生物がフロアへ躍り出た。

「なかなかのモンだろう――」と、高梨は自慢げに言った。

「しかし、あんなのから、どうやって魚拓をとる気だったンだ」

 義哉は、高梨の現代風のアジトに落款入りのそれがでかでかと飾られているところを想像して、うっとうしさに眉をさげた。

 ミュータントが鋏をふりまわす。玩具箱の縁がベコンと凹んで、破れたところからバラバラとおもちゃが零れ落ちた。するとがらんどうの眼をしたピエロが、すうっと宙に浮かび、ジャキイン、という金属音をたてて、無数の刃物を千手観音のように取りだし、ミュータントめがけて突っ込んでいった。頑丈そうなザリガニの鋏が、みるみる輪切りにされて次々と舞う。恐慌をなしたミュータントが、それでも相手を威嚇するように、先を失った前脚をふりあげて、じりじりと後退する。

 ピエロの眼が突然、カッと輝いた。すると、風が轟々とうなって大きく渦を巻き始めた。瓦礫や玩具を巻きあげて、はっきりと旋風の形態をとったかと思うと、ミュータントにむかって急速に収縮していく。竜巻さながらの渦が、どこまでも高く伸びた。激しく身をくねらせるミュータントの、細い脚が次々ともげていき、甲殻は破れ、みどり色の体液が飛び散って、あたりに、霧雨のように降りそそいだ。

 やがて突風が小康を得たとき、フロアに残されたのは、ばらばらになった殻と、白っぽい無数の肉片だった。

 義哉の足許に転がってきた、ミュータントの爪が、がさがさとのたうつ。

「おい、なんだこりゃ。凄まじいサイコキネシスだな――」音声通信のむこうで、高梨が呟いた。

 生命素の干渉は、時空間を歪めるだけでなく、物理的な現象や運動にも及ぶ。生命素を核にするゴースト等の引き起こすこれらの攻撃性の事象は、サイコキネシスと呼ばれていた。生命素を基礎にしているのは、ディフェンダー等の戦闘補助OSも同様であるから、これを扱うバスターも、おなじ能力を発揮しうる。

 ただ、ピエロがたったいま見せつけた力は、義哉のインストールするディフェンダーの性能を凌駕するものだった。

「やるだけ無駄のようだ――」と、高梨は断じた。「討伐は中止しよう。最上、すぐに引き返せ」

 義哉は、ポケットに手を突っ込み、震える指でなかをまさぐりながら、

「逃げろというのか?」

「仕方ない。他の奴に生贄になってもらう。もういい、戻ってこい」

「………」

「おい最上、聞いているのか」

「厄介な相手だからという理由で逃げ出すくらいなら、最初から引き受けてねえンだよ」

 義哉は錠剤を取り出した。それを奥歯のあいだに挟み、ゆっくりと唾液に浸す。

「頭を冷やせ。おまえさんの『ワイルドアゲイン』じゃ、どう考えたって性能不足だ。上位機種のガーディアンでもあれば話は別だが……、そうだ、なんとかしてガーディアンを入手する算段をしよう。そうすりゃあ、後味の悪い真似をしなくてすむ。……最上、返事をしろ!」

 義哉の口のなかに溶け出したクスリが、喉を伝い、じわりと臓腑に沁みていく。熱せられたプラスティックのような匂いが、鼻腔を抜けていった。心臓にはりついていた茨のような恐怖心が、一種のやわらかい恍惚とともにほぐれ、朽ちていく。ぎゅ、ぎゅ、という血流の音が、こめかみのあたりに響いた。

 眼前の、みどりの体液にまみれたピエロが、訳もなく、とても滑稽なものに思えてきた。義哉は、口元が、得体の知れない衝動に歪んでいくのを、密かにおぞましく感じながら、

「……あのくそピエロ、ブチ殺してやる」と、歯をきつく噛みあわせたまま、呟いた。

「急にどうしちまったんだ、最上」

「うるせえ。黙ってろオッサン」

 義哉は、覚束なくなった平衡感覚をたよりに、ぐらぐらする異様な世界のなかを、ピエロめがけてゆらり、ゆらりと歩いた。ピエロは義哉に気づくと、無数の刃物をするすると仕舞い、舞台俳優のように気取ったお辞儀をした。

 途端、義哉の頭に、血管が破裂しそうになるほどの血が上り、頸から顎にかけて、凄まじい震えが走った。

「テメエ……、余裕ブッこいてンじゃねえぞ……」

 義哉は『ワイルドアゲイン』にサイコキネシスのリミッターを解除するよう、指示をくだした。するとすぐに、音声による警告が返ってきた。――利用者の発動能力は、本システムの許容量を超過しています。リミッターの解除は推奨できません。義哉は、いいからやれ、と言った。

 精神を強く集中させるのにあわせて、ぼうっと淡い光があたりを包んだ。黒髪がふわりと持ち上がり、シャツの裾がはためく。とつぜん、ダァン、と物凄い衝撃がフロアを這い、数えきれない亀裂が放射状に走った。ピエロは、衝撃波の直撃をうけ、道化の衣装をみるみる引き裂かれた。金属のボディは歪んでめくれあがり、剥きだしになった配線と電子基盤の一部が、弾かれるように吹き飛ぶ。

 義哉は顎をあげて、道化を見下した。

 ピエロがゆっくりと身を起こす。空洞の眼に、妖しい光が宿った。義哉の意識のうちでは、ディフェンダーが狂ったように警告音をかき鳴らしていた。――オーバードライブにより、思考互換デバイスと聴覚処理アプリケーションの一部が破損しました。すぐに修復にとりかかりますか。義哉は、ンなこたあ後回しにしろ、と唸るように言った。

 通信の音割れと雑音が酷くなっている。高梨が声をはりあげているようだった。なんとなく、なにごとかを懸命に訴えかけているのだけは分かった。

「よく聴こえねえよ」義哉は、耳に意識をあつめながら言った。

「それ以上、前に出るなと言っている――」高梨の怒鳴り声がノイズの隙間から飛び出た。「どうしたんだ、見えないのか。そいつは対ミュータント用のトラップだぞ。食らったら洒落にならん」

「あ?」

 もうろうとする意識のなか、赤外線レーザーの薄い光が、鼻先を掠めたような気がした。転瞬、視界がまばゆい光に埋めつくされ、身体が宙に浮いた。――防御フィールドを最大出力で発動します。ワイルドアゲインの報告に、遅えよ馬鹿と、義哉は呟き、眼を閉じた。重い衝撃が身体を駆け抜け、三半規管が激しく揺さぶられる。仄暗い死の予感が、意識の底のほうにぽっかりと口を開いた。

 義哉は、その穴に自分が落ち込んでいくのを、ひとごとのように感じた。

 それから、どのくらい時間が経ったのか、見当がつかない。

 柔らかな光がある。花曇りの空から降ってくる、薄ぼんやりとした、けれど瑞々しい光だった。その下を、無数の頭がうごめいている。長短の黒髪に混じって、透きとおった光沢を放つサンバイザーや、大きな耳の飾りのついたカチューシャが散見された。植込みのつつじは真っ盛りで、薄紅の花をたくさんつけていた。彼方には、大きな観覧車がそびえている。外灯の高いところに据え付けられたスピーカーから、アトラクションを宣伝するアナウンスと、愉快な音楽が流れていた。人々の歓談のざわめきが、やわらかくそよぐ風のようだった。

 視野の全体が、人込みの特定の部位にむかって、頻繁にズーム・アップをはじめた。拡大されるのは、ひとりひとりの顔、とくに子供の笑顔で、頬や目許の筋肉の動きを迅速に分析し、感情を推測していく。アイスクリームで口のまわりをべとべとにしている子の解析に、少し手間取った。手をつないでいる若い父親が、ハンチング帽をとって、なにか話しかけると、子供は破顔した。すると、この視野を操っている存在は、それを好ましいものと判定し、他の子供たちへ、カメラを転じた。

 泣いている子供がいた。かれの指さす先には、赤い風船があった。けやきの高い枝に、引っかかっている。すると視野のあるじは、パノラマをゆらゆら揺すって歩いていき、子供にむかって、義哉にしたのとおなじように独特のポーズの挨拶をした。きょとんとする子供を尻目に、猿のように軽々と木に登りはじめ、風船の紐を掴むと、飛び降りて、その子にそっと手渡した。涙に濡れた子供の顔がぱっと華やぐと、視野の主は、感慨めいたものを胸に抱いた。それは、自分の務めを果たせたことへの機械アンドロイドらしい自己肯定とは微妙に異なる、暖かい情感だった。売店の硝子窓に、うっすらと、視野の主の姿がうつっている。かれは道化師だった。

 視界が暗転する。義哉はわずかな光を捜し求めて、闇のなかを四顧し、睇視した。やがて遠くに、チラチラと光るレーザーを捉えた。そこを目指して歩いてゆくと、幼い声の構成する歓談のざわめきが、フェード・インした。――ピエロのまわりに、子供たちが集っている。大人用のヘルメットを鼻先まで被った、ランニング・シャツの男の子が、あごをあげると、つばの陰のなかで、いかにも悪童らしい眸がきらりと光った。子供たちのなかに、義哉を案内してくれたワンピースの女の子のすがたもあった。みな、道化師の一挙手一投足に興味津々という風だった。道化師は、かれらにむかって、ステッキから鳩を放ったり、トランプをアコーディオンのように操ったり、あるいは空間いっぱいに恐竜の闊歩する原始の森を描いてみせた。子供たちの笑顔と喚声にかこまれて、道化師はしきりにがらんどうの眼を輝かせた。

 ああ、厭なものを見た――義哉は小さく呟いた。

 破損したワイルドアゲインの、自己修復が進行するにつれ、五感が緩やかに快復してゆく。背に床の冷たさを感じ、多彩な光が薄目にぼんやり差し込んでくるまでになると、義哉はゆっくりと身を起こし、頭を振った。てのひらのなかに、なにか尖ったものがあった。ひらいてみると、小さな半導体メモリである。刻印から、古い型式のアンドロイドによく使われる種類と分かった。ディフェンダーの思考互換インターフェイスが暴走し、チップに残されていた情報を再構築して、仮想現実へジャック・インした状態を生じたものと思われる。義哉は、そのチップを、一種のやりきれなさをもって、握りしめた。

「よかった、やっと気がついたか――」と、通信のむこうの高梨が言った。音はクリアになっている。「ワイルドアゲインがこっちに転送してきたデータによれば、最上の身体に深刻なダメージはなさそうだが――、気分はどうだ?」

「問題ない」と応答して、義哉は、立ち上がった。「ところで、あのピエロはどこへ行った?」

「幽霊屋敷のアトラクションのなかにいる。そこから少し西へ行ったあたりだ。とにかく、無事でなによりだ。すぐに危険区域から離脱しろ。もう充分だ」

「………」

「おい最上、今度こそ怒るぞ」

「やつを始末する方法を見つけた――」と、義哉は床に眼を落として、言った。「よく聞いてくれ。ワイルドアゲインの映像データのなかに、ヘルメットを被った子供たちと、ワンピースの女の子のものがあるはずだ。タイムスタンプは一時間くらい前になってると思う。この子たちが人質に取られている立体動画を合成して、ピエロ野郎の空間認識デバイスへ、ウィルスと合わせて侵入させてくれ。――ピエロ野郎はもともと、遊園地のマスコット用アンドロイドで、セキュリティは頑丈じゃないだろうし、そのうえ、さっきの戦闘で基盤の一部を破損している。高梨サンなら、それほど苦労せずにやれる筈だ」

「子供を人質にする立体動画? 話が見えないな」

「いいから俺の指示したとおりにやってくれ。あんたがこの依頼を持ちかけてきたんだ。そのことを忘れてもらっちゃ困る」

「……分かった。すぐ取り掛かるよ。くれぐれも、無茶はするな」

 義哉は通信が終わるや、ヒップ・ホルスターからリボルバーを抜き、シリンダーの徹甲弾アーマーピアッシングを叩き落して、かわりにダムダム弾をひとつずつ丁寧に詰めていった。半端な貫通力よりは、むき出しの基盤を一気に砕けるような広がりのある衝撃力が必要になると思ったのである。

 撃鉄を起こし、肺をふり絞るようにして深呼吸をすると、義哉は幽霊屋敷の傾いた看板めがけて、歩きはじめた。入口の、ぼろぼろのカーテンを、金具ごと引き千切って、拳銃を構える。十字の墓石が無数にならぶ薄闇の先に、ピエロは居た。のっぺりとしたマスクの右半分が、白く浮き上がって見える。

 装甲の砕けた肩の辺りが、突然、バチッと音を立てて、放電の火花を散らした。

 義哉は照準をピエロに合わせて、

「大人しく、生命素を明け渡すなら、餓鬼どもには手を出さない」と言った。

 ピエロの眸が、悲しげに光った。一拍おいて、突然、マスクが落下し、乾いた音をたてた。胴体をおおう厚い装甲が前のめりに倒れ、腕のシャフトが落ち、油圧のチューブが投げ出される。基盤部がむきだしになって、LEDのランプが明滅をくりかえした。義哉は、落ちついて狙いを定めた。轟音とともに、銃口からまばゆいマズルフラッシュが起こる。基盤のまんなかに大きな穴が穿たれた。それを合図にして、ランプが一斉に消え、内部のギアや配線、電子部品の類いが、支えをうしなったようにどっと崩れ落ちた。

 大きな螺子が墓石のあいだを跳ね転がり、冷たい金属音を響かせる。

 虚空に、透明な結晶体――生命素が浮かんでいた。義哉は拳銃をホルスターに突っ込むと、がらくたを跨いで生命素を掴みとり、ポケットへ押し込んだ。

 幽霊屋敷を出ると、風景は一変していた。鉄材の梁が天井を覆いつくし、壁は蜘蛛の巣と雨染みとで薄汚れ、小さな硝子窓から黄ばんだ光が差しこんで、埃っぽい空気に淡い縞を描いていた。フロアのうえには、廃材が散乱している。まるで古い工場跡地だった。

 エントランスまで戻ってくると、午後の眩しい陽射しを背にして、ワンピースの女の子が佇んでいた。かの女はまっすぐに義哉を見つめた。義哉はそこになにもないかのように眼を逸らして、回転扉の枠に手をかけた。

「ねえ、なにがあったの?」女の子はとつぜん義哉のシャツを掴んで、言った。「なかのようすがヘン。バーン、って、すごいおとがしたし」

 義哉は、なんでもない、と答えた。

「ねえ、ピエロさんは?」

「……旅に出なきゃならないそうだ。そのうち帰ってくる」

「えー」女の子は、いかにも不満だという風に、眉を寄せた。「いつ、いつ? ね、ピエロさんはいつ帰ってくるの?」

「聞いていない。――悪いけど、その汚い手を離してくれないか」

「あっ、ごめんなさい」

 女の子が遠慮がちに一歩うしろに下がると、義哉は足早に回転扉を抜けて、うろこ雲の散る空のしたへ出た。涼気を孕んだ一陣の風が、スラムの安普請を揺すって抜けていく。シャツの襟をひっぱりながら、長袖にしなかったのは失敗だったなどと考えているうち、

「おい、どうした――」という高梨からの通信が入った。「片がついたのか」

「あんたのお蔭だ。助かった」

「俺は何もしてない。――あのピエロにあるだけのウィルスを試してみたが、ことごとく駄目だった。それでいま、奴のセキュリティを分析してみて、思いのほか頑強だということが分かって、相談するために連絡を入れたところだったンだ。そうしたら、奴の反応が消えている。どういうことだ。終わったのか」

「……ピエロ野郎は俺の脅しに屈して、あっさり生命素を明け渡した。高梨サンの作業がうまくいったんだとばかり思っていたが」

「いま話した通りだよ。ピエロの空間認識に関係する機能は、正常に動いていた筈だ」

「………」

 義哉は、ポケットから半導体メモリを取り出して、ディフェンダーに、残っているデータの分析をさせた。雑然とした風景を切り抜くように現われた、拡張現実のウィンドウに、映像が映し出される。――ジェット・コースターのうねる線路を背景にして、デジカメを向ける、学ラン姿の青年がいる。義哉とおなじ高校生らしい。かれの友達と思われる数人の男女が、視野の主――恐らくはピエロ――の腕を抱えたり、肩にもたれかかったりしながら、デジカメにむかってピースサインをする。隅のほうに映りこんだ背広の男が、校名と校章の付いた旗を振って、声をはりあげた。……撮影が一段落すると、セーラー服の少女が笑顔でピエロになにか語りかけた。アミューズメントパークのマスコットであるピエロにとって、かれらもまた子供であり、その望みに応えることは、無上の幸せだった。

 義哉は、ウィンドウを閉じて、

「どんだけ極悪人なんだよ、俺は――」と呻くように言い、主を失った屋内アミューズメント・パークを振り返ると、女の子が依然として、硝子のむこうからじっと義哉を見つめていた。


 帰りがけ義哉は、横町のスーパーに寄って、食材を買い揃え、日が落ちるすこしまえに自宅マンションへ戻った。エプロンをかけ、紙袋の中身をざっと調理台に並べ終えると、口述筆記のアプリケーションを起こして、少し考えてから、

「餓鬼の頃は、あんたもいろいろアニメを見たりしただろうと思う――」と、パスタの包装を破りながら言った。「けれど、女の子は、こういうのに興味ないかもしれないな。男の子が見るようなやつは大抵、正義の熱血漢が主人公で、そして悪行三昧の敵が出てくる。とても分かりやすい、勧善懲悪の世界だ。夢中になって見ていたあの頃は、自分がいずれ正義の味方になるんだと、少なくとも善良の側の人間になるものと、当然のように思っていた。けれど今日、ふと気づいてみたら、俺はこれでもかってくらいの悪役になっていた。ショックだ。なあ、暇してるなら、慰めてくれないか」

 返事をさほど期待せずにメールを送信し、それから鮭の切り身をトレイに置いて、塩、胡椒を振っていると、ディフェンダーが軽快なアラーム音を鳴らした。

「おかえりー」ネットの対戦ポーカーで知合ったリーナからの返信だった。お互い、顔も知らない間柄だったが、その関係の希薄さを埋めあわせるかのように、楽しげな顔文字が句読点がわりにいくつも置かれていた。「てか、なにこれ。ヨシヤがなぐさめてくれって言ってる。しんじられないよ……」

 義哉は、苦笑いしながら、フライパンにオリーブ油をたっぷりと敷き、てのひらをかざして温度を見つつ、切り身を横たえた。

「結構深刻なんだけどな。いろいろと嫌になったよ。パスタでも茹でようかと思ってる」

「ねえ、音声通信にしない?」

 義哉は、わかった、と送信して、ディフェンダーに起動を指示した。

「ぺペロンチーノかな」

「ハズレ――」と答えて、じゅうじゅう鳴りはじめたフライパンを揺すった。「今日は、鮭のホワイトソースに挑戦してみようかなと」

「あたしも食べたい! これからヨシヤん家に遊びに行ってもいい?」

「俺ん家、知らないだろ」

「ハッキングして突き止めちゃうもーん」

「おー、面白れえ。やれるもんならやってみろ。――うまく出来たら画像を撮って送りつけてやるよ。それを見て、湧いてきた唾液をオカズにご飯を食え」

「深刻って、なにをしたの」

 義哉は菜箸をつかって鮭の焼き色を見ながら、「ひとの弱みにつけこんだ挙句、こどもの夢を潰してきた。このくだらない世界をもっとくだらなくするのに一役買ってきた。――なーんて言ってみたり」

「そっか。大変だったね。でも、あんまり落ち込まないでね」

「サンキュ。こんなことを話せるのは、あんただけだよ」

「恋人はいない?」

「そんな洒落たものはいない。というか、家族も、友達もいない」

「仕方ないよ。だって、あなたは孤独が大好き」

「………」

「それに、あたしに恋人がいるのかとか、ぜんぜん興味がないでしょ。あなたがあたしに心を開いてくれるのは、ネットだけの虚ろな関係だから。もっと言うと、どうでもいい相手だから。もし、あたしがあなたに触れることのできる場所へ踏み込んでいったら、あなたは途端に、別人みたいに冷たくなる。――でしょ?」

 義哉は鮭に白ワインをふりかけて、

「どういう風に返事をすればいいのか、分からないな。――とにかく、あんたは一つ、勘違いをしている。俺にとってリーナは、どうでもいい人間じゃないよ。決して」

「ふーん。じゃあ、ほかの部分はだいたい認めるのね。あたしのこと、ちょっとでも大切に思ってくれてるのなら、お父さんとお母さんのことを聞かせて」

 酒の匂いをたっぷり含んだ湯気が、ぷうんと立ち上る。義哉は換気扇のスイッチに手を伸ばして、

「二人とも、とうの昔に死んだからな。詳しいことは、よく憶えていない」と、穏やかに言った。

「やっぱりね。あたしのことなんか、どうでもいいんだ」

「拗ねないでくれ。面白いことなんかちっともない話だから、聞かせても仕方ないと思ったンだ。――おやじは、市の治安当局に勤めていた。正義の味方でも気取ってたのかもしれない。善良な市民を窮地から救ったはいいが、ミュータントに喰われて殉職した。こういう時代に、妻子を残してな。俺が六歳のときだった。お袋はそれから二年後に、浴室で首を吊った。自分を主張することができなくて、人付き合いのなかで貧乏籤ばっかり引いてしまうような人だったらしい。今思えば、うつ病でも患っていたのかもしれないな。とにかくこの人については良くわからないことだらけだ。遺品の日記になんども眼を通してみたが、字は汚いわ、頻繁に話は飛ぶわで、ほとんど読解できなかった。読み解くことのできた範囲のなかに、自分の一人息子について言及している部分は一行たりともなかったよ。――こうして話してみると、つまらないこともないか。なかなかどうして、愉快な夫婦だ」

「………」

 義哉は冗談めかして、

「おいリーナ、あんたが話せと言ったンだぞ。ドン引きすることはないだろ。いや、してもいいけど何か喋ってくれ」

「違うの、ごめんなさい――」と、洟をすすりながらリーナは言った。「ひとり取り残された、小さな男の子のことが、ぱっと眼に浮かんだの。そうしたら、涙が止まらなくなって。ヨシヤはきっと、お父さんとお母さんに、たくさん、心のなかで話しかけたんだろうなって。その声が聴こえてくるようだった」

 義哉は思わず天井を仰いで、瞬きをした。

「想像するのは勝手だけど、そんな大層なものじゃなかったよ。案外、時間は淡々と流れていった」

「うそだよ」と、リーナは極めつけた。「子供だったヨシヤは淋しくて仕方なかった。そして、二人がどうしても帰ってこないんだって分かると、激しく怒った。自分を残して逝ってしまったことが許せなかった。そして、自分に誓った。――お父さんとお母さんみたいには、絶対になるもんかって」

 義哉は、シンクの縁に手をついて、呼吸を整えた。

「リーナさんの思い描くヨシヤさんはだいぶドラマチックな奴みたいだな。けれども、どうしてそんな風に思った?」

「あたし、ヨシヤのことはなんだって分かっちゃうんだよ。……へへっ、それは冗談だけど、要するにね、捜していたパズルのピースが見つかったの。ヨシヤのキャラって、なんとなく、無理のうえに建てられた堅牢な塔のような感じがずっとしていて、その無理ってなんなんだろうなって、よく考えていたの」

「キャラね――」と、義哉は云って、冷蔵庫からバターを取り出した。「あんたの決めつけと奔放な妄想力には閉口したが、でも、なかなか興味深いことを言う。少なくとも、退屈はしなかったよ」

「そうやって余裕こいてみせれば、誤魔化せるとでも思ってるの? 小っさい男だねー」けれども、言葉とは裏腹に、リーナの声は誇らしげだった。

「さっき、友達はいないと言ったけど、訂正する。すっかり忘れてた。あんたがいたな」

「いつか、ちゃんと眼を見て言ってね。じゃ、あたしはこれからダーリンとデートだから」

「くだらない話につきあってくれてありがとよ。彼氏によろしく」

「……ねえ、もしかして、わざと言ってる?」

 義哉は、いや、ええと、などと言葉を濁し、小麦粉の袋を棚からとりだした。

「カチンときた。いつかぜったいヨシヤのことメロメロにしてやるから覚悟してよね」

 リーナは、ばーか! という捨て台詞を残して、音声チャットから落ちた。義哉はかの女のうちに膨らんだ想像が、少しくらい自分の足枷になるのは甘受するとしても、リーナの瞳に冷やかな失望の光がよぎるときがくるかもしれないことを想うと、胸が苦しかった。かの女は委細を知らない。

 義哉は急に面倒くさくなって、スープパスタを雑に仕上げると、菜箸をみじかく持って、フライパンからずるずると啜った。小骨を喉につっかえそうになってはじめて、骨抜きの工程を失念していたことに気づいた。残ったパスタをごみ箱に流し込み、それからリビングのソファに身を投げ出して、拡張現実のブラウザを呼び出し、メールボックスをひらいた。担任の矢島から、ほとんど一日おきにメールが届いていた。今日付けのものを開いてみると、

 ――討伐士のお仕事は順調ですか。いろいろと忙しいでしょうし、そのなかで仕事と学業の両立をはかっていくのはたいへんかもしれないけど、私としては、最上くんに学校へ来てほしいと思っています。最上くんには将来の夢がありますか。私に協力できることがあれば、何でも言ってください。ところで、クラスは文化祭の準備に大わらわです。源氏物語の研究をやることに決まり、女子を中心に盛り上がっています。出し物として、最上くんに光源氏の仮装をさせたいという案が出ました。真っ白の狩衣を着てみませんか。最上くんは照れ屋さんだから、嫌がるかもしれません。けれど、きっと一生の思い出になりますよ。みんな、待っています。……

 義哉は、首をかしげた。どうも論点がずれている。今更、学校へ行っても、屋上からの眺望を愉しむか、図書室へ行って小説の世界に戯れるか、あるいは居眠りぐらいしかすることがない。義哉の目下の関心事は生存であって、クラスメートとの馴れ合いや、遠い将来などという漠然とした概念に、意義を見出すことができなかった。考えは概ね伝えてある。まさか矢島はほんとうに仮装をさせたくてメールを寄越した訳ではないだろう。返信には及ばない。義哉は担任から届いたメールをすべて削除するよう、ワイルドアゲインに指示した。そうして浮き上がってきたなかに、差出人不詳のものがあった。

 ――よんどころない事情により、あんたを売らざるを得なくなった。一応、知らせておく。殺したいなら殺せ。

 義哉はぼんやりと天井を眺め、それから弾みをつけて身を起こし、髪をかきあげた。送信元は、ポータルサイトの無料アカウントになっている。しかし、いたずらや間違いと断じることはできなかった。差出人は、所持する端末に連絡したことを残したくなくて、ネットカフェを使った可能性がある。思い当たる節があった。コータという愛称の、麻薬の売人である。いずれにしても、看過できる文面ではなかった。文末の、挑発的な言い草は、駆けつけて欲しいがための方便とも受けとれる。受信してからすでに二日、経っていた。義哉はえぐみの強いコーヒーでも含んだような気分に駆られながら、エプロンを椅子の背もたれに放ると、クローゼットからパーカーをだして袖を通した。

 オールスターを突っ掛けて、玄関のドアを押しひらく。エレベーターを待つあいだ、つま先をトントンとやったり、潰れた踵を指で起こしたりしながら、がらくたで溢れた記憶の櫃に深々と手をさしこみ、中をかきまわした。コータと知合ったのは確か――、去年の夏だった。当時、義哉は三級の試験にパスしたばかりの、駆け出しの討伐士で、市街に迷い込んだ二三のミュータントや、暴走したアンドロイドの始末をわりあい順調にこなして、少なからず気を大きくし、一端の討伐士を気取り、公安当局の張り出した賞金首を狙ったせいで、面倒なことになってしまった。その頃、義哉は高梨のような腕利きのハッカーと組んだりしていなかったから、必要な情報は脚をつかって地道に集めるしかなかったのだが、この賞金首の足取りをどうしても掴めず、ほぼひと月を徒労に費やすことになった。賞金首は、違法のディフェンダー使い――シャーマンだった。雀荘で喧嘩をした挙句、市民数十人を殺傷するという凶暴な面がある一方で、親しい人たちには義侠の一面を見せ、この男を慕う者がすくなからずいたのである。そうした隣人たちが義哉に情報を漏らしてくれるはずはなく、むしろ露骨な妨害までうける有様だった。

 手を拱いていたところ、たまたま傍受できた通信のなかに、賞金首のひいきにしている麻薬の売人の話が出た。それが、コータだった。義哉は早速、パチンコ屋でコータをつかまえ、多額の謝礼を提示して、協力を求めた。返事はたった一言、「失せろ」だった。義哉はかれの薄汚いスニーカーや、尖った頬骨、草臥れたティーシャツを見て、懐具合を推しはかり、気が変わることもあるだろうと考えて、ノートの切れ端に連絡先を記入し、差し出した。コータは、キャップの下から昏い目つきで一瞥し、すばやく受け取って、あちこち擦り切れたジーンズのポケットに押し込んだ。義哉は、その仕草から、あんがい早く連絡が来るのではないかと踏んで、パチンコ屋を出たが、実際にコータからメールが届いたのは、季節が変わってからのことだった。

 ――恐怖や苦しみを与えずに、あのひとを殺すことができるか。

 かれはいきなり尋ねた。あのひととは、賞金首のことらしい。

 ――つまり、楽に死なせたいということか。

 ――そうだ。

 義哉は少し考えて、

 ――狙撃なら可能だと思う。ただ、奴がディフェンダーの防御フィールドを起動させたりしないよう、あんたに協力してもらわなきゃならないが。その気になってくれたのなら、こっちは、すぐにでも段取りにかかる。ディフェンダーに狙撃補助のシークエンスを入れ、それなりのライフルを手配する必要があるから、今日いっぱいは厳しいが、明日の正午までにはなんとかする。

 と、返信した。

 ――報酬はちゃんと出るんだろうな。

 ――無論だ。

 こうして、話は決まり、計画は実行された。

 コータは、眼のまえで脳漿をぶちまけて即死した、壮年のシャーマンのあたまを膝に乗せると、鋭く顔をゆがめて義哉を見上げ、この叔父貴にはほんとうに世話になったンだ、なあ、わかるだろ、俺は叔父貴が狂っていくのを見ていられなかったンだなどと、言い訳を並べた。けれども義哉は、コータのアパートの郵便受けに、消費者金融からの請求書がたくさん届いていることや、かれに死病を患った麻薬中毒の恋人がいることを、ちゃんと知っていた。この頃には、討伐士としてやっていきたいのなら、それくらいの裏を取る程度には慎重でなければならないと、身に沁みて理解するようになっていた。義哉は無駄話を早々に切りあげて、札束のつまった封筒を、泣き崩れるこの売人に差し出したが、けれどもかれを軽蔑するつもりはなかった。事実、コータの膝に抱かれた男は、麻薬の常用が祟って精神を壊し、いきずりの殺人を繰返すようになっていたし、重病の恋人にできるだけのことをしてやりたいのに、パチンコへの依存を断つことのできないコータの、自身に向けた冷やかな苛立ちも、なんとなく感じとることができた。それから義哉は、コータから情報の提供をたびたび受けるようになり、その都度、相場どおりの謝礼を支払った。

 義哉は仕事の話のついでに、

「麻薬って、そんなにいいものなのか」

 と、尋ねてみたことがある。

「なんだ、興味があるのか――」と、コータは面倒くさそうに言った。「あんたはどう転んでも麻薬には手を出さないタイプだと思っていた。意外なもんだな」

 義哉は苦笑して、

「誰が売ってくれと言った。ただ、これだけ多くの人間が、健康によくないと知っていながら手を出しちまうんだから、きっと俺なんかの想像もつかないなにかを与えてくれるんだろうなと、そんな風に思っただけだ」

「あんたは近々、手を出す。俺には分かる。もう何百人というジャンキーを見てきたンだ。あいつらがなぜ、麻薬なんかに手を出すのかって、要するに、生きる意欲がないんだよ。いっそ世界をぶっ壊してやりたいが、その手立てがない。だから自分の精神をぶっ壊そうとする。結局、一緒のことだからな」

「俺が、世界をぶっ壊したがってるように見えるか」

 コータは、馬鹿にするように鼻を鳴らして、「――さあな。だが、あんた、麻薬に関心があるんだろ。それが動かぬ証拠って奴だよ」

 予言どおり、それからひと月ほどして、義哉はコータから一錠の麻薬を買った。仕事で危うく死にかけた日の、夜更けのことだった。けれども錠剤は長いこと服用されず、義哉のポケットに収まっていた。今日はじめて嚥下されたのである。

 地下鉄をつかって、コータの築四十年のアパートを訪ね、ドアを敲くと、奥から女の声で蚊の鳴くような返事があった。どうやら、恋人しかいないらしい。義哉は急いでいるからと断って、まっ暗の部屋に上がりこんだ。手探りでようやく襖をあけると、蝋燭の薄ぼんやりとした明かりのなかに、雑貨の山にうもれてぐったりしている髪の長い女がいた。水っぽい薄目が、きらっと光る。

 女は尖ったあごをすこし引いて、大儀そうに吐息し、「最上クン、だっけ」と、掠れた声で言った。テーブルのうえに投げ出された骨ばかりの脚は、黄や紫の肉腫に覆われていた。

「なんだ、ラリってるのか」と、義哉は眼を逸らしながら言って、蛍光灯から垂れる紐を引いてみたが、ともる気配はなかった。「その、大した用じゃない。コータに逢いたいンだ。奴がいまどこにいるか、心当たりはないか」

 あん、と女はうなった。「……もしかして、コータ、捉まらないの」

「違うよ」と、義哉は素気なく答えて、「その辺にいるんだろうけど、捜してあちこち歩き回るのが面倒くさい。たまたま用事があって近くまで来たから、あんたに聞けば早いだろうと思ってな」

 女は赤い口をすこしひらき、目だけで微笑み、

「キミ、自分で思ってるほど嘘がうまくないよ」と、悲しげな声で言った。「ねえ、コータ、やばいんでしょ。少し、商売を控えなきゃって、云ってた。おねがい、最上クン。あいつのこと、助けてあげて」

 義哉は女の瞳をしっかりと見て、「――あんたこそ、思い込みが激しいって云われたりしないか。いや、知らないならいいんだ。急におしかけたりして、悪かった」

 敷居をまたぎ、襖に手をかけると、女に、

「あのね、ベッドに戻りたいんだけど、動けなくなっちゃって」と、呼び止められた。

 義哉は散らばっているものを脚でよせて、女の背中とひざの下に手をさしこみ、ゆっくりと持ち上げた。信じられない軽さに、義哉は顔をしかめた。

「……痛むところはないか」

「大丈夫、ありがとう」と、女は言った。声が震えていた。

 義哉は女を寝台に横たえると、コータのことは心配するな、できるだけのことはすると、そっと声をかけた。女は骨張った胸郭を波打たせて、嗚咽をはじめた。

 燭台を女の枕元へ運んだとき、義哉は屑籠のなかで筒になった求人情報誌に気づき、取り上げてぱらぱらと捲ってみた。たまに端を折ったページがあって、そのなかのひとつに、赤い丸のついたものがあった。義哉はその部分をちぎって、コータのアパートを出た。

 コンビニから零れてくる光のなかで、紙の切れ端を開いてみると、印は、クラブのフロア係の求人広告に付いていることが分かった。そのクラブは有名どころではなかったが、幸い、義哉の知っている場所だった。中学のときに一度、ハウスを聴きにいったことがある。繁華街の雑居ビルの二階に入っていて、下は居酒屋、上はテナント募集になっていた筈だ。アパートからそう遠くない。

 行ってみると、スタッフ風の男が、義哉と目を合わせるなり、客入れは九時からだよう、も少し待ってね、と、軽快に声をかけてきた。義哉が、お伺いしたいことがあるンですけど、と、採用になったばかりのアルバイトのことを尋ねると、男は、あいつならついさっき友達に呼び出されて上の階へ連れていかれたよ、と答えた。どうも、と云ってクラブを出た途端、天井から激しく言い争う殺伐とした声が降りかかり、ドサッという、重い荷物の落ちるような音が続いた。義哉は階段を駆けあがった。

 不動産会社の張り紙のついた扉の下に、鎖のからみついた南京錠が落ちていた。扉は半開きになっていて、そこから暴行の騒音が漏れてきている。義哉は飛び込んでいって、オイ、そこまでにしとけ、と怒鳴った。窓から差し込んでくる夜の街のひかりが、床の血だまりに白っぽい光沢をつくる。そのなかに、コータがぐったりと横たわっていた。まわりを囲む、スケーター風のファッションの、数人の男たちが、乱暴の手をとめて、殺伐とした眼をいっせいに義哉へと向けた。

 そのうち、腰穿きに無数のチェーンを垂らした男が、歩み出て、

「あんた、一級討伐士のモガミって奴だよな、知ってる――」と、媚びるような笑みを浮かべる一方で、仲間たちに落ち着くよう指示した。「そう怖い顔すんなって。こっちはあんたとやりあう気はねえよ。違うんだ。この売人ふぜいがよ、サツにいろいろ垂れ込んでやがンだよ。あんたも多分、売られてるぜ。お互い、こんな犬野郎にシマをウロチョロされたんじゃ、やりづらくってしょうがねえだろう。要するに、自業自得なんだ」

 コータは、義哉から視線を逸らし、弱々しく咽込んだ。義哉は、男たちの目付きに込められた凶暴の感情を受け止めるようにして、ひとりひとり見つめ、

「とにかく、その売人の身柄は俺が預からせてもらう。訊かなきゃならないことがあるからな。やりあう積りがないのは俺も一緒だ。ただし、そっちが譲らないというなら、話は違ってくるが」

 ンだとコラ、と、肉厚のナイフを握った男が凄む。チェーンの男は、それを、やめとけ、と鋭く抑えて、

「あのな、モガミさんよ、俺たちは『多頭蛇ヒュドラ』の指示でこいつをツブしに来てンだ。あんたも、名前くらいは聞いたことあンだろ。だからどうだってンじゃねえけどよ、俺たちと揉めれば、『多頭蛇』を敵にまわすことになるぜ。そこンところをよく考えてもらいてえな。売人ごときに肩入れして、厄介ごとを抱えちまうのも、つまらねえンじゃねえのかい」

 多頭蛇は二十歳前後のシャーマンで構成されるストリート・ギャングで、凶暴をもって知られ、ヤクザや治安当局からも敬遠されている。義哉は胸のあたりが重苦しくなるのを感じたが、ディフェンダーがコータの心拍数の低下を伝えてくると、ぐっと顎をあげて、

「ごちゃごちゃとうるせえな」と、大見得を切った。「いま、ここで俺にブチ殺されたくなかったら、さっさと失せろ。……二度は云わねえぞ」

 そういきり立つなって、とチェーンの男は困惑したように言った。「分かったよ、仕方ねえ。悪いが、このことは多頭蛇のヘッドに報告させてもらう。じゃあな」

 男たちは、義哉を遠巻きにしてゆっくりと移動し、扉のあたりで固まると、ひとりが駆け出すのを皮切りに、雪崩をうって逃げていった。義哉は階段の足音が遠ざかるのを待って、血だまりに膝をつき、コータを抱き起こした。脾腹をナイフで抉られたらしく、湧き水のように出血しているのが、ワイシャツの上からでも分かった。

「俺を殺しに来たのかよ」と、コータは唇の端をゆがめた。額の脂汗が、鈍く光っている。

「いま救急車を呼ぶ。もう少しの辛抱だ」

「無駄なことはしなくていい」と、コータは天井を見上げた。「内臓をやられたようだ。もう間にあわねえ」

 ディフェンダーも、おなじことを宣告してきた。義哉は下唇をつよく噛んで、勘のするどいあの女の、長い髪にうもれた美しい貌を思い浮かべた。

「尻ポケットにクスリが入っている。取ってくれないか」

 売人が喘ぐように言った。鎮痛剤がわりにするつもりなのだろう。義哉は頷いて、頼まれたとおりにした。コータは血塗れの手で錠剤を握りしめると、

「さて、トリップするまえに、あんたに謝っておかなきゃならないな」

「気にしなくていい」

「そうはいかねえ――」と、コータは力強く義哉を見返した。「あんたも聞いてるだろ、このあたりを管轄する担当者が変わったって。木曽ってやつのことだよ。いままでの担当者は、事なかれ主義で、なにかとやり易かったが、こんどのお代官様はいろいろな意味で締めつけを強める方針らしい。そんな風に言えば聞こえはいいが、つまりは、このあたりでいちばんデカい顔をしてる多頭蛇と、利権争いをおっぱじめる気なんだ」

「もう、喋るな」

「木曽に、あんたのことを、根掘り葉掘り訊かれたよ。それで、あんたにクスリを売ったことを白状した。……くそ、ひとを裏切ってばかりの人生だった。あいつらの言ったとおり、自業自得だ。それでも生きることにしがみつきたくて、あんたにみっともないメールを送った。ああ、俺ほどのクズはいないよ」

「あんたは、あの女を背負って、できる限りのことをしただけだ。そんな風に思うな。女が辛くなるだろう」

 とつぜん、コータの双眸に涙がどっと溢れた。

「おい、最上よ。おまえ、そんなお人よしじゃ、この先、生き残れンぞ。自分をサツに売った売人くらい、毅然としてブッ殺さないでどうするンだ。俺みたいなクズにいい顔をすれば付け込まれるのがオチなんだぞ。……なあ最上、偶にでいい、連れの様子を見にいってやってくれ、頼む」

 義哉は、わかった、と言った。

「信じられないかもしれないが、俺は、おまえが心配でならないよ」コータの血で汚れた頬を、涙が伝った。「済まない。やつらの抗争に、おまえを巻き込んじまったみたいだ。どうか、気をつけてくれ。ああ、少し苦しい。悪いけど、やらせてもらう……」

 コータは、弱々しい手つきで、錠剤を口に含んだ。大きな喉仏がもちあがり、落ち込む。薄く開かれた口から零れる、しゅうしゅう云う息が、細くなっていき、かれの瞳孔が焦点を結ばなくなってすこしあとに、ひっそりと止まった。

 義哉は、瞼をおろして、遺体を床に横たえた。そうして、コータの恋人のことを思って、気持ちが塞いだ。

 アパートの、コータの部屋を見上げることのできる場所まで戻ってきたところで、義哉は、脚の重さをどうにもできなくなった。だらだらと、その辺りを行ったり来たりした挙句、思い切って隣室のドアのまえに立った。補助輪のついた小さな自転車が傍に寄せてあって、勝手の窓からはみりんと醤油のいい匂いが漏れてきている。ノックすると、少しして、ワイシャツにネクタイの男が出てきた。義哉は夜分の訪問を詫びたうえで、自分は隣に住む男の知り合いだが、その人は事情があってしばらく帰宅できそうにない、同居人は、ほとんど寝たきりの病人で、近いうちに病院の手配をするつもりだが、それまで、朝晩だけでいいので、様子を見てもらえないだろうかと、頼み込んだ。男は妻を呼んで、二言三言、言葉を交わした。すると妻は、今までもそうしていたし、困ったときはお互いさまだから、と気持ちよく言ってくれた。義哉は、すいません、と云って辞儀をした。足許で狭くなっていく光を見詰めながら、なんとなく思った。他人に頭を下げるなど、ここ数年、一度としてなかった……


 義哉は、帰路を行く人でごったがえす駅前の、落書きで埋まったコンクリート壁によりかかって、音声通信のアプリケーションを起こした。高梨はすぐに応答した。

「あんたに頼みたいことがある」と、義哉は言った。「戸籍に瑕のありそうな女に、終末期医療を受けさせたいンだ。市のサーバーに侵入して、問題がないか見てくれないか。もしあったら、そっくり書き換えておいてくれると助かる」

「了解」高梨は食事でもしていたのか、口をもごもごさせながら言った。「昼間の礼だ、手数料は取らん。ところで、その女、昔、なにか仕出かしたのか」

「そういう訳じゃない。ただ、孤児院から拉致られてきて、ヤクザ資本の売春宿で働かされていたという話を、女の彼氏から訊かされた憶えがある。もしそうだとすれば、組織絡みの人間と養子縁組でもされているか、戸籍をいじられて指名手配犯とか不法入国者の扱いになり、大手を振って街を歩けないようにされているかもしれない。そんな状況であちこち出歩けば、たちまちヤクザに報復されるか、でなければ、入管やらサツやらに引っ張っていかれるのがオチだ」

「なるほど。そういうことなら、書き換えるより、いっそ別人になってもらったほうがいいかもしれんな。ついでだ、健康保険もつけといてやる。二三、いい病院があるから、紹介してやろう。なんなら、入院の実費も、持ってやってもいいぞ。保険会社の基幹システムのパスを、ちょうど知ってる」

「ありがたい、と言いたいところだが――、今日はやたら親切じゃないか。なにか切り出しづらいことでもあるのか」

 ええと、なんというか、と高梨はひとしきり言葉を濁らせたあと、低い声で、

「実は、木曽警部どのが、おまえに会いたがっているンだよ」などと言い出した。「どうしても、ってな。アミューズメント・パークのゴーストを仕留めてくれたことの、お礼がしたいそうだ」

 義哉は、壁に背をあてたまま、ずるずるとしゃがみ込んで、街のあかりに蓋をするような夜空を見上げた。――礼の話だけで済むはずがなかった。むこうから切り出される用件の、だいたいのところは、見当がついた。考えもなしに出ていけば、木曽のペースになるだろう。けれども、気に入らないからというだけの理由で、無下にしていいような相手ではなかった。

「長いものには巻かれろ、という諺がある」と、義哉は言った。「あんた、どう思う」

「真実と呼べるようなものはだいたい、不愉快だ。夢やロマンの欠片もないからな。――少なくとも、楽しいことわざじゃないな、それは」

 義哉は唇の端をすこしあげて、「なるほど。で、問題は、警部どのが『長いもの』かどうかってあたりだが」

「実際に逢って、確かめてみたらいい。……こういう話のもっていきかたは、ダメか」

「いや、悪くないよ」義哉は苦いものを飲み込んで、云った。「仕方ない。木曽が、長いほうの奴だったら、おとなしく尻尾を振っておくか」

「短いほうだったら?」

 義哉は、答えず、ただ漠然と手許に視線を落とした。

「おいおい、よからぬことを企んでるんじゃないだろうな。じゃあ、そうだな、俺は最上に乗っかるとしようか。ついていくぜえ、兄貴」と、高梨はおどけた声を出した。

「あんたまで付き合う必要はないよ。俺には選択の余地がないんだ。木曽に弱みを握られちまったらしい」

「麻薬か」

「………」

「やっぱり、な――」と、高梨はどこか口惜しそうに言った。「ピエロと対峙したとき、急に様子がおかしくなったンで、もしやとは思っていた。おまえにクスリをやらせたのは俺だ。ごめんな。けれど、これっきりにしてくれ」

「分かってる。もう手は出さない」

 義哉は、じゃあ、と云って通信を切ると、勤め帰りの人たちに混じって駅に入り、改札口を抜けた。

 電車に乗り込むと、義哉は、窓のむこうを過ぎていく夜の街並みを眺めながら、脳裏で、女との想定問答を執拗に繰返した。けれども、脇から冷たい汗が滴り、舌が乾くばかりで、よい切り口はいっこうに見つからない。腹立ち紛れに、踵で床を蹴りつけると、すぐ傍の背広姿の男が、さりげなく離れていった。

 電車を降り、駅を出て、マンションの前まで戻ってくると、車高の低いワンボックスが停まっていた。傍には、コーンロウの頭にドレスシャツを着た男が立っている。男は視線があうと、小走りに近づいてきて、ひとまわり年が違うと思われる義哉に向かって、

「……討伐士の、モガミさんスよね」と、丁重な感じで云ってきた。「自分は木曽警部の使いです。あ、警部のことは知ってますよね。悪いんスけど、これから一寸付き合ってもらえませんか」

 義哉は黙ってあとに続いた。スポーツ用品のロゴのような剃りこみを入れた男の運転するその車は、繁華街の方面へまっすぐ向かい、ラスベガス調のカジノの前で止まった。水商売風の女に先導されて、ポーカーの卓に着くと、ワイシャツの袖をまくった肥満体の男が、いきなり手札を放り出した。

「どうも今日はツキがないなあ――」前髪にむくんだ指をつっこんで、がさがさと掻きまわした。それからディーラーに向かって、「おい、いかさまでもやってるんじゃないだろうな。逮捕だ、逮捕」

 男をかこむ大勢の人たちが、一様にリアクションを取って、場が楽しげにざわついた。

 先導してくれた女が、卓をまわって、耳打ちをすると、男は脂っぽい顔を昂然とさせて、義哉を値踏みするように見た。

 この男が、木曽なのだろう――「どうも。討伐士の最上です」と、義哉は穏やかに云った。

「おーう、君がそうか」と、男は弛んだ頬をゆすって、「十六、七だったかね――、こうしてみるとやっぱり若いねえ。いろいろ聞いている。たいした腕だそうじゃないか。私は比良坂中央署の木曽という者だ。このエリアを担当することになった。これから、なにかと君に協力してもらわなきゃならんこともあると思うが、ひとつ、よろしく頼むよ」と、卓に身をのりだし、肉厚の手を差し出す。

 義哉は、「こちらこそ、宜しく」と、握手に応じた。

「しかし、なかなかいい男じゃないか。ん?」木曽は云いながら、傍の筋者風の男にむかって、人差し指を動かした。すると男が、丁重に葉巻のケースの蓋をひらく。木曽が一本手にとって、端を噛み切り、銜えると、パーティードレスの女がガスライターの火を口元に運んだ。木曽は、すぱすぱと煙を吐いて、「私は君の歳のころからこの体格でね。まったく、君みたいな若いのを見ると羨ましくなるよ。女には苦労せんだろう」

 義哉は答えるのも馬鹿らしくなって、そっと目を落とした。

「そうそう、礼を云わなきゃならんねえ。君がスラムに残った一級危険区域の主を始末してくれたおかげで、あの一帯の子供たちは、これから安全に過ごすことができそうだ。比良坂市は、君に感謝状を出すくらいしなきゃいかんよ。私も、生活安全課の連中に面目が立って、ほっとしているところだ」

 義哉は、よく喋る男だと、半ば呆れた。けれども、この調子で喋らせておけば、そのうち墓穴を掘るかもしれない――その思惑を胸に潜ませて、平静の姿勢を保った。

「いや、本当に助かった。君もだろう、蓮見くん」

 木曽が、太い首をよじって、パンツスーツの女性を振り返る。女は、ええまあ、と、曖昧な笑みを浮かべた。

「蓮見くんは東亜重工の課長代理をしている」と、木曽は言った。「君も、社名くらい聞いたことがあるだろう。兵器産業の――とりわけ戦闘補助OSの、トップメイカーだよ。良質の生命素を調達できたと、彼女も喜んでくれているんだ」

 蓮見は、「はじめまして。最上さんの噂はかねがね耳にしています。我が社としても、優れたディフェンダー使いには大変興味があって、機会があれば今度、ゆっくりお話をさせていただきたいのですが……」と云い、名刺入れから一枚取って、差し出した。義哉は「どうもご丁寧に」と受けとって、しかし一瞥もくれずポケットに押し込んだ。木曽が見ていなければ、二つに裂いてやりたいところだった。蓮見は、思うところがあるのか、黙ってうつむいた。

 木曽はよい事を考えついたという風に、とつぜん身を乗り出して、

「せっかく来てくれたんだから、どうだ、最上くん。お姉ちゃんたちの酌で、一杯やらないか。私もね、君くらいの歳の頃は、こういうところへ来て派手に遊ぶのに憧れたもんだ。――なに、かれが未成年だって? おい、そんな堅苦しい話を横から挟まんでくれ。少しくらい構わないじゃないか。なあ、最上くん。小父さんに付き合ってくれるだろう?」

 義哉は微苦笑をつくって、ドレスの女性たちを見やり、「奇麗なお姉さんたちと同席したいのはやまやまなんですが、どうにも弱くて……」と、予防線を巡らせた。アルコールで潰され、いいように話を持っていかれたのでは、面白くない。

「なあんだ、意気地がないなあ。男は浴びるように飲んで、潰れて、二日酔いに苦しんで、そうしてみんな強くなっていくんだぞ――」木曽は、仁王像のようにぎろっと眼を剥いた。「私が飲んでいいと言ってるんだ、パアッと遊んだらいいんだよ!」

 義哉は、木曽の凄みを孕んだ気配に、馬脚を見たような気がした。どうやらこの男は、どうあっても酒を飲ませるつもりらしい。

「だーいじょうぶ、潰れちゃったら私が優しく介抱してあげるから」などと、ホステスが義哉の腕に手をそえる。義哉は、とっさに閃くものがあって、女の目をまっすぐ見つめた。「えー、マジで、弱いンですって……」と、手を柔らかく握り、助けを求めるように首をかしげる。女が、アッ、と小さく云って、言葉を詰らせた。長いつけ睫のしたで、水っぽい瞳がすこし揺れている。義哉は女の腕をぐっと引き、声を低くして、「ほんとうに、ちゃんと介抱してくれます? お姉さんが、ですよ? 放置とか絶対イヤですからね」と言った。

 女の、喉から胸元にかけてのあたりが、桃色に染まっている。

「……なんだったら、膝枕とかしちゃうし!」

「それ、約束ですよ。忘れたりしたら、泣きますから――」義哉は甘えるように言い、それから木曽にむかって、「じゃあ、ご馳走になってもいいですか」

 木曽は、上機嫌で頷き、うえがクラブになっているから、席を変えよう、と云った。

 義哉は木曽につづき、女に腕を絡ませて階段を上がりながら、

「体質的に、駄目なんですよね――」と、さりげなく呟いた。「生まれつき肝臓が悪くて、アルコールの分解がうまくできないンです」

 出任せだったが、女は素直に、ハッとした顔つきになって、義哉を見上げ、

「じゃあ、飲んじゃダメだよー」

「でも、少しくらい飲まないと、警部は機嫌を悪くするだろうし……」

「だったら、わたしに任せといて――」と、女は悪戯っぽく目を輝かせた。「あなたがウィスキーをオーダーしたら、ウーロン茶を出してあげる。ビールだったら、ノンアルコールのやつを入れるし。日本酒なら、砂糖水。これで完璧」

「でも、赤くならなかったら不審がられますよ」

「君、ハンカチ持ってる? わたし、チークを貸してあげるから、ハンカチに付けておくといいよ。汗を拭うふりをして、少しずつ頬や首にはたけばそれっぽく見えるから。あなた、色白だし、自然な感じで赤くなれると思う」

 こっちから要求する手間が省けたようだ。義哉はうすい唇の端に笑みを湛えて、

「お姉さん、ハグしてもいいですか」あながち演技という訳でもなかった。

 ホステスは、辺りを窺いながら、いまはダーメ、仕事中だから、と低く云った。

「それにしても警部ってすごいですね。今をときめく、って感じじゃないですか」と義哉が言うと、ホステスはよく聞こえないという風に耳を寄せてきた。けっして聞き取れない音量ではないはずだと思ったが、耳元でおなじ事をもういちど言った。「さっきの、取り巻きのひとたちは、どういう関係の?」

 女は、ああ、という顔をして、

「このあたりを仕切ってる組の人がほとんど。ここも、そこの資本。わかるでしょ、癒着ってやつ。木曽さんはそいつらの招待で、この店で豪勢に遊んでるってわけ。ここんところ、毎晩よ」

「便宜を図り、図られ――、って訳ですか。しかし、それでよく警察のほうで問題にならないですね」

「いまどき警察なんてろくなもんじゃないし」と、女は口を尖らせた。「でも、あんなに派手にやってたら、絶対に目立つよね。ま、いろんな人の弱みとか握ったり、脅迫したり、懐柔したりして、上手にやってんのよ、きっと」

「なるほど」

「こーゆー世のなかだし」と、女は難しい顔になって、「とにかく、木曽さんには逆らわないほうが利口っぽいよね」

 突然、女々した雰囲気を横にやって、割り切ったようなことを言う女が、義哉には妙に可愛らしく見えた。

 木曽はよく飲み、よく笑い、侍らせたホステスを服のうえからべたべたと触って、

「どうだろう最上くん、私は悪徳警官というべきかな」などと、答えづらいことを尋ねてきた。義哉はチークを含ませたハンカチを喉のあたりに当てて、

「大人の世界の難しいことは分かりません」と、酒に浸食されたような声で言った。けれども、心の片隅にいつもいる、市民を救って殉職した父のことがやけに思い出された。世の中にはいろいろな人間がいる――そういう密かな感慨がある。

 木曽は、充血した目をおおきく見開いて、

「つまらん遠慮はするな。君だって、討伐士として名を売った人間じゃないか。子供のふりは許さんよ。――いいかな、最上くん。現実はきれいごとじゃ済まないんだ。頑固に正義感をふりかざして、いったい何になる。マキャヴェリというルネッサンス期の政治思想家はね、こんなことを言ってるんだ。『秩序ある悪と、秩序なき善と、どちらかを選べと言われたら、私は迷わず前者をとる』とね。わかるかい。秩序と安定は、あらゆる悪に勝るんだよ。街の実情を考えてみたまえ。ヤクザは抗争をくりかえし、シャーマンはやりたい放題。だれも問題に手をつけられない。結局、苦しむのは市民なんだ。これを私は、私なりのやりかたで秩序づけていきたいと思っている」

 義哉は、黙ってその演説を聴いた。――こんなのは木曽の自己正当化に過ぎないが、けれども確かに、一面では真実である。父のまっすぐな正義は、自分と母になにも残さなかった。わかりやすい正義ほど、その実、空虚なものはない。そういう現実を静かに見つめ、木曽という男を、感情的な反発から切り離して考えれば、手を組んでみるのも案外悪くないように思われた。義哉に利用価値のあるうちは、木曽から裏切られることもないだろう。木曽が根っからの俗物である分、そういう読みには信頼を置くことができた。

 義哉は、やりきれない思いをふりきって顔をあげ、

「……で、木曽さんは俺になにをやらせたいンです?」

 木曽は我が意を得たりとばかりにニヤつき、

「実はねえ、『多頭蛇』の連中のおかげで、困ったことになっているんだよ。かれらは少しばかり、大きな顔をし過ぎた」

 潰してこい、ということだろうか。義哉は水滴ひとつない硝子のテーブルに視線を落とし、烏龍茶を含んで、

「要するに、俺に死ねと?」

「馬鹿を言っちゃいかんよ」木曽は妙な顔をしている。「アミューズメント・パークの主には、凄まじいサイコキネシス能力があった。これを軽々と粉砕するんだから、君には相当の力があるのだろう。充分にやれるはずだ」

「………」

「気が乗らないかね」木曽は、眉をあつめてはっきりと不機嫌を表に現した。

「いや、そういう訳では」

 木曽は唇をなめて、不気味に微笑んだ。

「ところで、最上くんは、麻薬をやるのかね」

 義哉は、微動だにしなかったが、内心では呼吸の止まる思いだった。覚悟していたこととはいえ、実際に持ち出されると気が重かった。

「いや、誤解せんでくれよ。なにも咎めている訳じゃない。若い人間には、そういう気持になるときもあるだろう。ただ、私も警官のはしくれだ。――わかるね?」

「………」

「分からんかね。私はきみを署まで引っ張っていって、薬物検査を求めることもできる。そうなったら、きみは一巻の終わりだ。討伐士のライセンスがどうなるかは云うまでもない」木曽はちびりとグラスに口をつけると、打って変わって声音を抑え、「もちろん、そんなことをする考えはないよ、今のところはね。結末は君の返事次第だ。でもね、これは君にとっても大きなメリットのある話なんだぞ。――私は、多頭蛇の始末がついたあかつきには、この地域の麻薬利権の一部を、君に任せてもいいと思っているんだよ。組の連中には、私から話をしておこう」

 義哉は、あきれて木曽を凝視した。すると木曽はくっくっ、と喉で笑い、背広のポケットからなにやら掴み出し、テーブルのうえにぱらぱらと零した。

「売人の元締めになるということの意味が分かるかね? こいつが、いつでも、好きなだけ、手に入るってことだ」

 シャンデリアのひかりを浴び、厚みのある光沢を放つテーブルのうえで、軽やかに躍動するのは、無数の白い錠剤だった。義哉はゾッとなった。そうして、木曽の爛々とした瞳のむこうに悪魔じみたものを見たような気がした。

「悪い話じゃないだろう、ん」

「どうかご理解頂きたいンですが――」義哉は吐き気を抑えつけながら、云った。「俺は木曽警部になるべくいい返事をしたいと思っているンです。じゃなかったら、ここに来たりはしませんでした。けれども、多頭蛇が相手となると――、簡単にお答えする訳にはいかないンですよ」

 ちょっと飲みすぎたようです、と義哉は云って、こめかみの辺りを揉み、うつむいた。とにかく錠剤を視界から追い払いたかった。すぐに、額のあたりに、木曽の刺すような視線を、ひしひしと感じた。義哉はいたたまれず、ホステスをふりかえって、「すいません、水を貰えませんか」

 女がグラスを受けとって立とうとするのを、木曽は手で抑えて、

「いま大事な話をしているところだから。――最上くん、とりあえず、返事だけ聞いておこうか」

 義哉は、鼻先まで垂れる前髪のしたから木曽をまっすぐに見つめた。

「木曽警部、さっき申し上げたとおりです。気に食わないというならどうぞ、署へでもどこへでも引っ張っていってください。俺だって死ぬのは御免です。いますぐ多頭蛇を潰してこいと云われても、できないものはできないンですから。それに、ちょっと飲みすぎていまは気分が悪い。――俺、ブチっと来ると自分じゃどうにもできなくなる性質なんです。ご迷惑をおかけしたらすいませんね。先に謝っときます」

「……なんだ、私を脅かすつもりか」

 木曽は、鼻白んだ。ディフェンダー使いの義哉がその気になれば、木曽など一瞬で血祭りにあげられるということを、想起したのだろう。

「そう聞こえたンなら、それもお詫びしますよ」

「断る、ということだな」

「時間が欲しい、と云ってるンです」

「いつまでに返事をくれる」

「早いうちに。急ぐつもりですけど、情報収集や準備が必要ですから、一日二日は見てもらわないと」

 義哉は酔いを装って、必要以上に大きな声をだした。そうして、だらしなくソファにふんぞり返る。木曽は、太い眉をあげた。

「やれやれ。飲めと言ったのは私だしなあ。ま、それくらい慎重でなければ討伐士としてやっていけんということだろう。きみは若い。いちどくらい、無作法を大目に見てやってもいいだろう。……覚えておけ、次はないぞ」

 義哉は、ホステスを抱き寄せると、約束ですよ、と云って、ごろんと横になり、太腿に耳をあてた。木曽が、呆れたような笑い声をたてる。高級クラブのざわめきが、煌くシャンデリアのしたを往来した。ホステスが、義哉の髪を撫でてあやすようなことを言っている。義哉は女を見上げて、にやりと笑いかけた。

「……そうだ警部。聞いてもいいスか」

「なんだね」

「俺がクスリをキメてるって、よく分かりましたね。さすがベテラン警官。職質のオニってやつですか」

「まったく、しょうがない小僧だな――」と、木曽は云って、グラスの氷をカラカラと鳴らした。「よし、ひとつ種明かしをしてやろうか。忠告しておくが、君、仕事上のつきあいのある者には、つねに、自分を裏切るととんでもないことになるぞと、よーく分からせておかなきゃいかん。――君には、情報屋として使っていた、売人がいただろう。あの薄汚い男に、きみのことを吐かせるのは実に簡単だった。知っているかい。あの売人には――」さも可笑しそうに喉を鳴らし、小指をたてて、「末期エイズのコレがいたンだ。それも、私の馴染みにしている組の売春窟から逃げてきた、汚れきった女だよ。私はだめもとで、売人にこう脅しをかけてみた。――女のことを組の人間に知らせれば、むこうにはけじめがあるから、かならず殺しにくるだろうとね。とうぜん売人は女を見捨てるだろうと思った。放っておいても死ぬ女だからな。ところが、おどろいたことに、あの男は真青になって、知っていることを洗いざらい喋ってくれた。まったく、あんな馬鹿は今どき珍しい。いいかね、最上くん。ああいう売人風情を情報屋につかうなら、首根っこをしっかり押さえておかないといかん。だから舐められ、あっさり裏切られてしまうんだ」

「なるほど。そう言えば、あいつは多頭蛇の息のかかった連中に殺されたみたいですけど」

 義哉は、世間話でも振るように云ったが、その実、木曽に情報を提供したコータを、庇護してくれても良かっただろうと、一言云いたくて仕方なかった。情報源の秘匿に、木曽が少しでも気を配れば、コータが多頭蛇に狙われることはなかった筈だ。

「そりゃあ当然だよ」と、木曽はこともなげに云った。「あの売人が私にタレ込んだことを、そのまま多頭蛇の連中に教えてやったからね。私もね、はじめのうちは、多頭蛇との衝突を避けて、もろもろのことを穏便に済ませるつもりで、いろいろと模索したんだよ。その過程で、どうしても情報源を明かす必要があったんだ。みかじめ料や密売の上納金でだいたい折り合いはついたんだが、……色々とこっちの事情が変わってきて、御破算になってね。あの売人には悪いことをしたと思うが、くっくっく、正直なところ、私も忙しくって、ゴミになどいちいち構っておれんよ」

 ひどいっすね、と義哉は呟いた。どうしたの、震えてるよと、ホステスが肩に触れる。それを、義哉は乱暴に払いのけて、身を起こし、

「ああ、警部、マジで頭が痛くなってきたンで、失礼させてもらってもいいスか。――多頭蛇のことは、前向きに検討させてもらいますンで」

「ひとつ、よろしく頼むよ。で、どうだ、土産にすこし持っていくかい」

 木曽は、テーブルの錠剤をまとめて、手にすくった。これは、どうしたって受けとらなきゃならない――義哉は瞬時に判断した。麻薬に屈したように見せることで、木曽は義哉の急所を掴んだと考え、油断するだろう。歯を食いしばって汚物のなかに手を突っ込むような嫌悪感を圧殺し、一粒のこらずかき集めて、ポケットに押し込んだ。そうして、

「……木曽さんは麻薬課にも顔がきくンですか」と、麻薬の出処にさりげなく話題をむけた。

 木曽は曰くありげに微笑し、「まあ、いろいろと、だよ。これからしばらくは、麻薬がなにかと手に入りづらくなる。その辺りの事情は、追々話してあげよう。――おおい」と、階段のほうにむかって声を張り上げた。特徴的なコーンロウの頭が、小走りにあがってくる。義哉をマンションの前で呼び止めた男だった。木曽は男にむかって、「悪いけどねえ、最上くんを家まで送っていってくれんかね」と、横柄に言いつけた。男は、目上のやくざにするかのような、折り目正しい返事をした。


 義哉は遠慮なく肩を借り、マンションの自室まで運ばせると、どうもでした、警部によろしくう、と怪しく装った呂律をもってコーンロウに礼を云った。玄関の扉が閉まるや、ソファから跳ね起きて、チークの染みたハンカチを屑籠にほうり、脱衣所へ行って、洗顔料のチューブを絞る。そうしてディフェンダーに音声通信を起動させ、高梨に繋がせた。

「あんたを信頼していいのか?」

 義哉のその第一声に驚いたらしく、高梨はくしゃみを堪えているひとのような、妙な声を出した。

「どうなんだ」

「あのな最上、おまえさんは信頼できるかどうか判らん奴に、信頼できるかどうか聞くほどの間抜けじゃないだろう――」と、高梨はおかしそうに笑う。「腹が決まったンだな。木曽警部は、短いほうだったか」

「いや、バリバリに長いほうだ」

「ふうん。じゃ、尻尾を振るのか」

 義哉は答えず、蛇口のしたに顔をもっていって、ごしごしと泡を濯いだ。

「おーい、聞こえてるかー」

「……あいつはどうしても気に入らない」と云って、義哉は手探りでタオルをとり、顔を埋めた。

「そうか、わかった。俺はどうするか、もう言ってあるよな」

「いいのか。下手を踏めば、俺もあんたも多頭蛇に追い回されるか、でなきゃ、当局からデッドオアアライヴって表題のついた顔写真を張り出されるか、――どう転んでも、野垂れ死にすることになるぞ」

「そう言われると決心が鈍る。あんまり脅かさないでくれよ。で、なにから取り掛かる?」

 義哉は排水口のあたりを睨みながら、額に手をあてて、しばらく黙り込んだあと、

「木曽がなぜあんなにデカい面をしていられるのか、不思議なんだ。警察が腐ってて、木曽がやり手だからと言っても、限度がある。あいつの背後を洗って欲しい。バックがありそうな気がする」

「了解。それから?」

「木曽が気になることを言っていた。そのうち麻薬は手に入りづらくなるってな。高梨サンは麻薬の流通に詳しい?」

「いいや」

「なら、これも調べて欲しい。特に、多頭蛇の関係してる麻薬のルートを詳細にたのむ。シャーマンにとって、麻薬の確保は死活問題だから、もしかしたらそこに付け入る隙が見つかるかもしれない」

「なんだ、木曽警部のために、多頭蛇を潰してやるのか?」

「潰さなきゃならないだろうな。――木曽警部は、トラブルに巻き込まれて死ぬんだ。俺たちに殺されるんじゃない。俺たちはあくまで木曽警部に従順だった――そんなシナリオを考えている」

「ときどき最上が怖くなるよ。けれど、おまえさんのそういうところ、嫌いじゃないぜ」

「オッサンに言われてもな」と、義哉は云った。鏡には渋い顔つきが映っている。「今のところは以上だ。木曽警部への返事を保留しているから、急ぎで頼む」

 通信を終えると、義哉は冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り、ソファに深くもたれた。ふたくちほと口を付けた頃、ポケットのなかのもののことを思い出した。無造作に掴みだし、屑籠のちかくまでいって、義哉はふと立ち止まった。ふわりとした妙な違和感が、踵の辺りにまとわりついている。それが、ふくらはぎをつたって、膝の裏の辺りに達したとき、義哉の脚はごく自然に、上体をキッチンのほうへ運んでいった。捨てるのは、別に今じゃなくたっていい――義哉は意識の深いところに怠惰という名の挫折感をゆらゆらと彷徨わせながら、手のひらの中でぎりぎりと軋む薬剤を、空になったジャムの瓶のなかに落として、シンクの下に仕舞った。それから居間のリクライニング・チェアに座って、沈思黙考した。

 置き時計の短い針が、ローマ数字を二つ跨いだ頃、ディフェンダーが音声通信を取り次いだ。

「おいおい、こいつはなにかとヤバそうだぞ」と、高梨は興奮が覚めやらぬという風に云った。「黎明党って知ってるか」

「いや。聞いたことがない」

「だろうな。ハッカー仲間でも知っているのは希だ。木曽の周辺を洗っているうちに出てきたンだが、あいにく俺も名前しか知らなくてな。仮想現実のなかに、ハッカーの集まる会員制のカフェがあるんだが、そこへ押しかけていってなんとか事情通をとっ捕まえ、聞き出してきた。要するに黎明党ってのは、神権主義者の流れを汲む連中の設立した、秘密結社らしい」

「神権主義者……、神を創造しようとした狂人どものことか」

「ああ。神権主義者は次元崩壊後の反動のなかで徹底して狩られ、いまでは負の世界遺産みたいに思われてるが、実はだいぶ昔から息を吹き返していたらしい。やつらは未だに、神の創造を目論んでるようだ」

「懲りない連中だな。それで?」

「その黎明党には、比良坂市・臨時防衛委員会の委員が多数、名を連ねている」

「あんたの口から、オカルト雑誌の記事みたいな話を聞くことになるとは思わなかった」

「確かにうさんくさいな。事情が事情だから、まだ裏は取れてないが――、けれども情報屋としての勘では、黎明党ってのが、ただ名士の集まってるだけのクラブとは思えない」

「あんたの仕事を疑っちゃいないよ――」と、義哉は無雑作に云った。「ただ、話がデカくなってきたんで少しうんざりしただけだ。過去の時代の亡霊はともかく、臨時防衛委員会まで絡んでくるのか……」

 比良坂市は、次元崩壊のおりに日本政府より発令された非常事態宣言の地方自治に関する条項に基づき、臨時防衛委員会の勧告および指導を全面的に受け入れなければならない――という法的な建前になっていた。

 崩壊直後から始まったレギオンの侵攻により、分断された各都市は、なによりもまず生き延びること、滅亡を免れることを考えなければならなかった。ところが、平時の自治体制ではとてもではないが、レギオンの猛威に対応できない。それで、各都市には、防衛上の政策を迅速に遂行するため、大きな権限を与えられた組織――臨時防衛委員会が設置された。委員会は、主たる対抗兵器としてディフェンダーの開発を主導したり、それを駆使して戦う討伐士を育成したり、警察および自衛隊を防衛にもっとも適した体制へ改革していったり、必要に応じて報道統制を敷いたりなどして、防衛体制の確立と混乱の収拾に大きな指導力を発揮してきたのである。

 ところが、事態がある程度落ち着いてきても、臨時防衛委員会はその権限を返上しようとはしなかった。政府内では、委員会を廃止に追い込もうとする与党と、権限の維持を目論む産業界や官僚とのあいだで、激しい権力闘争があったらしいが、そのあたりの事情を義哉は知らない。書店に並んでいる、政治評論の専門書の内容にも諸説あって、評論家の数だけ見解があるというような状態だった。

 いずれにしても、臨時防衛委員会は、市長や市議会をほとんど名前だけの存在に貶め、地方政治を牛耳り続けた。委員の身の安全を確保するという名目で、一切の情報が秘匿されており、市民は、かれらがいま何をしているのか、どういうメンバーで構成されているのか、まったく知らない。無論、委員会が市のために献身的に活動している健全な組織だと信じているような住民はひとりもいなかったが、その一方で、正面切って委員会の秘密主義を批判するメディアや市民団体も皆無だった。それがどうしてなのかを公に尋ねるものさえいない。

 義哉は、その謎がたったいま解けたような気がしていた。

「要するに、木曽のようなダニの類いが、比良坂市・臨時防衛委員会の秘密主義に異を唱える奴を潰してまわっていた――、そういうことなのか?」

「おそらくは、な。そして木曽のほうも、委員会の威を借りて、担当する区域で好き放題やる……」

「なんてこった」義哉は前髪をかきあげて、溜息をついた。

「おいおい、しくじれば終わりってのはもともとだろ。これくらいでしょげるなよ」

「あのな、全容の分からないどころか、霞みたいに得体の知れない連中がバックにいるんだぞ。この厄介さが、――まあいい。で、麻薬のほうはどうだ。なにか分かったか」

「そのことだが、おまえさんが木曽から聞いてきた通りだった。今月に入って、麻薬の流通量がおおきく落ち込んでる。比良坂市に蔓延してる麻薬はほとんど一種類でな、……」

「イリュージョン、だろ?」

 義哉は、キッチンのほうに視線をさまよわせた。

「ああ。こいつはアンフェタミン、メタンフェタミンが主成分で、覚醒剤に近い。元々は兵士の強壮剤なんかに使われていたもので、植物からじゃなく工場で作られるンだ。脳内物質のドーパミンとかアドレナリンの分泌を促す。聞いたことあるだろ、要するに人間を興奮させる。もうひとつの固有の性質は、服用者のディフェンダーへの耐性を一時的に大きく上昇させるってことだ。だからシャーマンどもが好んで服用する。おまえさんがピエロの前で使ったのも……」

 義哉はさえぎって、

「その、イリュージョンの流通量が減っているってことだが、なぜ?」

「それなんだが、情報屋の間でも、いろいろな噂が飛び交っている。陸路の密輸ルートがレギオンに潰されたからという話もあれば、主要な工場や倉庫にガサ入れがあったからって説もある。正攻法で、密売人から元締め、ブローカー、生産者と順に辿っていってるんだが、なにしろごちゃごちゃと入組んでいて一筋縄にいかない。――すまない、今のところ、末端価格が今週に入って倍になったというくらいしか掴めていない」

「多頭蛇は焦ってるはずだ」と、義哉は云った。「シャーマンは麻薬なしにディフェンダーを操れない。連中にとって深刻な問題になる。抜け目のない連中だから、備蓄くらいはしてるだろうが、配給は絞らざるを得ないはずだ」

「ああ、俺が調べたところでもそんな状況だ。それに、多頭蛇の幹部のほとんどは麻薬中毒だからな。倹約には渋々了解しているようだが、不満が募っている。そのことは方々から聞くし、盗聴で裏も取れている」

「ところで、木曽は麻薬の利権にも関わっているようだった」と義哉は言った、「流通に介入できるようなことを言っていた。俺に売人の元締めをやらせてもいいだのと抜かし、錠剤を見せびらかしたりしていた。そのあたり、なにか分からないか?」

「黎明党が麻薬の製造や流通に関わっている気配はある――」と、高梨は云った。「そういう疑いのある製薬会社の重役が数人、名を連ねているようだ」

「なるほど。木曽の麻薬の出処はそこか」義哉は、思考世界の濃霧のなかでぼんやりと輪郭をとりつつあるものに、深慮の目を凝らした。「なあ、覚醒剤とは全然ちがうタイプの、鎮痛なんかに使われる麻薬があった筈だが。たしか……」

「モルヒネか」

「そう、それだ。製薬会社なら、医薬品として普通に取り扱ってるよな」

「だろうな。それがどうした」

「できればモルヒネより強いほうがいい。服用したら即ガツンときて、まともな判断ができなくなるような……」

「というとヘロインか。モルヒネから作られるもので、効果は強烈だ。『麻薬の女王』なんて呼ばれている」

 義哉は復唱して、メモ帳に殴り書きした。「それから、多頭蛇のヘッドだが、どんな奴だか知ってるか。元は一級の討伐士だったと聞くが」

「ああ、油断ならない男らしい。本名は、大崎甚一。二十六歳。装備しているディフェンダーは確か『サンディエゴ』。六年前の旧い型式だが、アームストロング・インダストリィ社指折りの傑作と云われている。接近戦用に特化したパワータイプだ」

「サンディエゴか……。耐性はかなりのものだな」

「なんでも、陸上自衛隊の対レギオン部隊に所属していて、精鋭ぞろいの小隊を率いていたそうだが、現場で苦境に陥ったときに大隊から切り捨てに遭って、よほど腹が立ったんだろう、基地に生還するなり上官を殺害して、そのまま逃亡したらしい」

「で、多頭蛇のヘッドにおさまったというわけか。そういう短気な奴ならうってつけだ」

「なにをするつもりだ」

「なあ、高梨サンから、木曽に入れ知恵をしてくれないか。内容はこうだ。クスリに飢えた多頭蛇の連中に、イリュージョンと見せかけたヘロインをたっぷり掴ませる。奴らがラリったところで、俺が襲撃をかける。奴らは一斉にセーフティのないディフェンダーを起動させる。バーン、そろってあの世逝きだ。――この策略をあんたから吹き込まれた木曽はすぐに、俺を呼び出して、こうやって始末をつけるんだと言ってくるに違いない。製薬会社に作らせたヘロインの錠剤をつきだして、もう断らせないぞと云わんばかりにな」

 高梨は、苦しげにうめいて、「脳圧の急上昇で大惨事、という訳か。あんまり想像したくない絵だ。けれど、なんでわざわざ木曽に言わせるような形にするんだ?」

「決まってる、ハメるためだよ」

 義哉は打ち合わせを終えると、椅子の背をいっぱいに倒し、まっ白の天井を漫然と見上げた。

(バーン……)

 ひくく呟いてみると、構えず氷に触れたときのような、ゾッとする感じが心底を流れた。ふと静けさのなかに自分を置いてみて、おのれを残酷な策略に駆り立てるものがコータを殺されたことへの怒りなのか、それとも木曽への素朴な嫌悪なのか、よく分からなくなった。ただ、血に塗れて命乞いをする木曽の姿をおもいっきり冷笑してやりたいという執念がある。麻薬をめぐってぎくしゃくしているであろう多頭蛇の連中を、これでもかというくらいに翻弄し、苦しめ、恐怖させてやりたいという熱望がある。自己嫌悪に近いおぞましさを覚えながら、少しでも頬を緩めると、仮面が砕け散って、残忍な笑いがはじけてしまいそうな気がする。

 義哉は立ち上がると、キッチンへ行って、シンクのまえにしゃがみこんだ。床の飴色の木目を見つめながら、プラスティックのような匂いと、意識を席巻する興奮の波のことをぼんやりと思った。そのうち、リーナから通信がはいった。応答する気にはとてもなれなかったが、どことなく古い弦楽器のようなかの女の声を耳に蘇らせて、瓶の蓋に手をかけるのは思いとどまった。


     *


 部屋に浮かぶ無数の拡張現実ウィンドウには、まるで刑務所の風景を切り取ってきたような凶相が並んでいる。それらが口を揃えて、異議を言い立てるものだから、大崎甚一は、おちおちトーストにマーガリンを塗ることもできなかった。

「ヘッド、聞いてるんスか」と、坊主頭の男がだみ声をはりあげる。「まだイリュージョンの備蓄はあるンでしょう。そいつを少しでいいから分けてくれと言ってるンですよ」

 大崎はバターナイフを容器にざくっと突き立てて、

「……何度おなじことを言わせりゃ気が済むんだ。抗争でも始まらない限り、多頭蛇のクスリは使わせねえ」

 目の落ち窪んだ男が、長髪をがりがりと掻きまわして、

「干上がっちまうだろうがよ」

「ヘッド、あんたにゃ前々から言いたいことがあったンだ」などと、肩から胸を刺青だらけにした男が凄む。「耐性のあるあんたはクスリがなくても戦える。だが俺たちは違う。クスリをとめられたら、そこらへんの三下となンにも変わらないンだ。そういう事情を少しは考えてくれてもいいだろうよ。……あんた、もしかして俺たちに反乱でも起こさせたいのか」

 大崎はトーストにハムとチーズを乗せて、レタスを挟み、「とにかく」と、低く言った。「木曽ともう一度、話し合ってみる。おまえらには、調達の目星がつくまで、量を抑えてしのいでもらうしかない。――たまにゃ、クスリを断ってみるのも健康にいいかもしれんぞ」

「笑いごとじゃねえンだよ」長髪の男が、目を見開いた。瞳のまわりは充血し、黄色く濁っている。その怒号を皮切りにして、男たちのざわつきが酷くなった。

「あのなあ、俺だっててめえらに言いたいことの一つや二つ、あるんだぞ――」と、大崎は手のひらをテーブルに叩きつけた。「ごろつきどもをけしかけて、コータって名前の売人を殺させた奴が、このなかにいるだろう。ったく、くだらねえ真似しやがって。木曽にタレ込んでる奴を殺すってこたあ、木曽に喧嘩を売るってことだぞ。分かってンのか。いいか、よく聞け。俺たちだけじゃ、イリュージョンを必要なだけ確保するのは難しくなってきている。どうしたって、ああいう悪徳警官の協力が要る。そのうえ、モガミだっけ? 一級の討伐士にまで喧嘩を吹っかけてきやがって……。腕が立つうえ頭も切れるって評判の奴だぞ」

「やけに弱気じゃねえか」と、刺青の男が冷笑した。「あんた、なんのために、俺たちにでけえ面してやがんだ。木曽もモガミも、まとめて潰しちまえばいいだろうが」

「馬鹿かおまえは。木曽を潰したところで、おなじようなのがまた出てくるだけだ。とにかく、クスリは出さねえ。じゃあ、切るぞ」と云って、大崎は卓上の腕時計を拾いあげた。そろそろ、同居人の少女が起きてくる時間だった。

「だったら、俺たちは俺たちで、好きなようにさせてもらうぜ」と、丸刈りの男が顔を赤くして言った。「俺らが自分で調達してキメる分には文句ねえだろ。クソ。イリュージョンなしにどうやってクラブで遊べっつんだよ」

 大崎はコーヒー・メイカーのフィルターに粗挽きの豆をつめながら、

「……あんまり派手なことはするなよ」と最後に云って、集会を解散させた。

 ビーカーに琥珀色の液体が八割がた溜まったころ、リビングのドアが開いた。学生鞄を肩にかけた、ブレザー姿の少女が、目をこすりながら、「おにいちゃん、おはよう」と云った。

「別におまえの兄貴になったつもりはないけどな――」と、大崎は素っ気なく言って、リモコンをとり、テレビを点けた。「おはよう。よく眠れたか」

 ううん、と少女は首を振った。「ほとんど寝てないの。あたし、振られちゃったみたい。ゆうべから、ずっと返事を待ってたんだけど。ねえ、男のひとって、好きでもない子から好き好き光線を飛ばされたり、バーカとか言われたら、やっぱりイラって来る?」

「クラスメイトか」

「違うの。ネットの対戦ゲームで知合ったひと。一人ぼっちが好きなくせに優しくて、だけど捻くれてて、喋るとすごく大人びてるのに今にも溺れてしまいそうな雰囲気があって……。なんだか、気になってしかたないの。会ったこともないのに。変だよね」

 切れ長の凛とした眼が、食卓に差すやわらかい陽光のなかで、憂いを帯びたように細くなる。少女がけだるげに長い首を傾げると、肩までの黒髪が、白い頬にかかって、夏のせせらぎのように艶めいた。

 大崎は少女の目を見て、重症だなと思った。

「ねえ、どうして応答してくれないのかな?」

「俺に聞くなよ――」と、大崎は云って立ち上がった。コーヒー・メイカーの泡を噴くような音が止まっている。食器棚からカップを二つ取り出して、ビーカーを傾けた途端に、ふんわりと芳香が立った。片方を少女のまえに運んでやると、力なく微笑んで、ありがとうと云った。

「ただ、俺にも覚えがない訳じゃない」大崎はコーヒーをひとくち啜って、「やたら怖くなるんだ。これ以上仲良くなったりすると、痛い目に遭うんじゃねえのかなって。とくに、相手がいい女だったりすると、そわそわして夜も眠れない。それでつい、無視しちまうんだ」

「あのひとは、きっと、あたしのことなんかどうでもいいと思ってる」

「なぜ?」

「そんな気がする。あたしだけじゃない。あのひとにとっては、世界がまるごと、どうでもいいの。大切なのは、いちばん憎んでいる二人のひとに、あなたたちは間違っているって、証明してみせることだけ」

「今どきの女子高生の云うことはちっとも分からないな。二人ってのは、つまり、そいつの両親か」

 少女は、こくっと頷いた。「小さい頃に死んじゃったんだって。でもまだこだわってるの」

「考えてもしかたないことは、あんまり気にするな。むこうも色々と忙しいんだろ。忘れたころに返事が来るだろうよ」

「だといいけど」と、少女はコーヒーにくちをつけた。「なんだかこのまま、音信不通になっちゃいそうで怖い。――ねえ、そういえばさっき、すっごい怒鳴ってたけど。多頭蛇が大変なの?」

「ああ、大したことじゃない」と、大崎は嘘をついた。「クスリがなかなか手に入らなくなってな。あいつらはそろいもそろってヤク中だから、ちょっとピリピリしてんだよ」

「どうして麻薬なんかやるんだろう」

「さあ。だが、人生がうまくいってりゃあ、クスリなんかやる気にゃならないだろうな」

「おにいちゃんは、あの人たちのことを可哀想だと思ってる?」

「どうして」

「だって、命令してるよりは諭してるように聞こえたから」

「俺があいつらの面倒を見るためにヘッドをやってるとでも?」

 少女が真剣にうなづいたので、大崎は笑い飛ばしてみせた。

「そんな大層なことは考えちゃいない。だいたい、あいつらは救いようのない極悪人だ。野放しにすりゃ、殺しだの強盗だの、やりたい放題やるだろう。けれど、『行き場のない人間』ってことじゃ、俺と一緒かもな。結局、シャーマンなんて偉そうなこと云ったって、ひとりで動けば、たちまち討伐士に狩られちまうのが落ちだから」

「行き場の……ない。おにいちゃんも?」

「そうだよ。――俺はこう見えても、昔はまともな自衛官だったンだ。愛国心だって、それなりにあった。だが作戦中に上官から見捨てられてな。そのせいで何人もの部下を死なせちまった。――部下はみんな、俺が鍛えたんだ。へこたれると、耳元で怒鳴り散らして煽る。すると奴らは目に涙を溜めて、何十キロという荷物を背負いなおし、歯を食いしばって歩く。上官なんてのは嫌な役目だよ。そこまでして苛め抜く以上、こいつらは絶対に見捨てるものかと思ってやってきたンだ。なんとか生還させたくて、レギオンと死に物狂いで戦ったが、結局ベース・キャンプまでたどり着けたのは俺だけだった。頭に来て、上官のテントに入っていったら、奴は本部にむかって、俺たちが命令違反でもしたかのような報告をしてやがった。……殺してやったよ。それから惨めな逃亡生活が始まった。行き場がないってのがどういうことか、骨身に沁みて分かった」

「だからあたしにも手をさしのべてくれたの?」

「どうだかな。ただ、転落したりしなかったら、おまえの傍を素通りしていたかもしれないな。――ンなことより、時間は大丈夫か。遅刻するぞ」

 大崎は腕時計に目を落す仕草をもって、さりげなく急き立ててみたが、少女はテレビを一瞥しただけで、

「ね、あたしにも手伝わせて。ディフェンダーへの耐性だったら、充分あるから」と云った。

「せっかく戸籍を書き換えたのに、また日陰者になりたいのか」大崎は冗談じゃないという風に言った。「ガキのくせにつまらねえことを気にしてんじゃねえ。さっさと学校へ行け」

 少女は、ぶー、と云って立ち上がった。スカートの裾をひらめかせて廊下に出、それからドアの隙間から顔を覗かせて、

「あたしだって、ここのほかに居場所なんかないんだよ。だから、守りたいの」

 大崎は目を逸らし、五分刈りの頭をがりがりとやって、

「とにかく、駄目なものは駄目だ。絶対に首は突っ込ませねえ」

 少女は唇を尖らせて、ファッキン! と言い捨てると、スリッパをばたつかせながら玄関のほうへ駆けていった。

「このやろう……」

 大崎の苦笑の呟きに、いってきますの瑞々しい声が重なった。


     *


 ブースで軽快にステップを踏むディスクジョッキーが、アシッド・ハウスの音源をベースに、ターン・テーブルとミキサーを駆使してディスコの空間を演出する。レーザーの多彩な光が煙ったい薄闇を裂いて、オーディエンスの激しい踊りが形成する熱狂のうねりのうえを疾走した。

 義哉はフロアに踏み込んだ途端、大音量と興奮のおりなす奔流に飲まれて、頭がくらくらしたが、すぐに自分を取り戻して、大口径のスミスアンドウェッソンを天井にむけ、続けざまに発砲した。雷鳴のように銃声が轟くと、フロア全体が冷水を浴びせられたかの如く空気を変えた。もう一発、追加してやると、方々から絹を裂くような悲鳴があがった。群集の集合意識の針はこのとき熱狂から恐慌へはっきりと触れた。どっと非常口へ殺到しはじめ、かわりにフロアのまんなかに空きができた。ざわめきのなか、義哉はそこへ踏み込んでいって、

「オラ、多頭蛇のジャンキーども、出てこい。まとめてぶっ殺してやるからよ」

 波紋の広がるようにして観客が引いてゆくなか、幾人かの男たちがぽつり、ぽつりと残っていた。誰もが、相貌を鬼のように歪め、青筋を立てている。

「てめえ……なんのつもりだ」

 ネイティブ・アメリカン風の刺青を全身に入れた半裸の男が、充血した眼をむいた。

「聞いてなかったのか、インディアン野郎。おまえら全員ぶち殺すって言ってンだよ。それとも、クスリのやり過ぎで、ボケちまったか」

 義哉は顎をあげ、せせら笑って見せた。

「ガキが……」

 スキンヘッドの男が、ワイシャツの胸ポケットから取り出した錠剤をくちに含む。喉仏がうごめくなり、唇の端から、一筋の唾液が滴った。目付きがとろけて、瞳は非現実のものでも捉えているかのような異様の光沢を放った。

 義哉の聴覚に、ディフェンダーからの警告が飛び込む。――周囲に無数のサイコキネシス反応。防御フィールドを発動します。義哉は黙許を与え、助走をつけてステージにあがり、その足でコンテナさながらの大型スピーカーの上に飛び乗った。

「オラ、かかってこいよ」と、中指を立てて、挑発する。

 十数人の物騒な顔つきの男たちが、一斉に淡い光を帯び始めた。髪や服がふんわりと持ち上がり、サイコキネシスの潮流が、エフェクトをとおして、義哉の視界に渦となって映る。

 義哉は頃合を見て、スピーカーの縁にしゃがみこみ、

「ところで皆さん、ヘロインのお味はどうですか」と、微笑した。

「あ? ヘロインだと?」

 長髪の男が、首を傾げるなり、まぶたの下から赤い球体がにゅるっと飛び出した。「ンだ?」と、男はぶら下がる眼球を手のひらに乗せて、要領を得ない顔つきをする。途端、耳からブッと脳漿を飛び散らせて、崩れ落ちた。

 惨劇は、瞬く間に伝播した。しゅう、しゅうと不気味な音を立てて、鮮血が飛び交いはじめる。みるみるうちにフロアに血と髄液の水溜りができ、そこへシャーマンたちはドミノのように次々と倒れこんだ。義哉のディフェンダー『ワイルドアゲイン』は、シャーマンの生活反応が消えたことを、矢継ぎ早に知らせて寄越した。

 最後のひとりが、膝を折って、窪んだ眼窩を義哉に向けたまま、「てめえ……ハメやがったな……」と喉を振り絞るようにして叫んだとき、義哉の胸中に、言い知れない快感と、それに影のようにつき従う自己嫌悪が、渦を巻いた。けれども、今は内省や葛藤のときではなかった。義哉は、自分を敢えて闘いの狂気のなかに置いた。

「気付くのが遅えんだよ、バーカ」

 ほんの僅かの吐息が、小さな紙切れを散らすように、義哉のその言葉を浴びて、シャーマンはゆらりと仰向けに斃れた。

 血腥い匂いを、胸いっぱいに吸い込み、スピーカーから飛び降りると、非常ドアがぎぃ、と軋んで開いた。義哉は、隙間をうめる深い闇に目を凝らした。

「残酷なことを――」長躯の影が、フロアの惨状を見渡すなり、ぽつりと言った。「おまえがやってくれたのか」

「あんたたちに恨みはないが、仕事なんでな。多頭蛇のヘッド、大崎甚一で間違いないな?」

「……少しは悪びれろよ、餓鬼」

 男が、光の霧をまとったように、ぼうっと暗がりのなかで浮かび上がった。頭を短く刈り込み、凄まじい形相をしているので、屈強のレスラーのように見える。義哉のディフェンダーは、敵のサイコキネシス能力が、自身の最大値を超えている可能性を示唆した。

 大崎のインストールするディフェンダー「サンディエゴ」についての解析データが、義哉の視界に次々と映り込む。処理速度、附属するアプリケーションの質と量、安定性――どれをとっても非の打ち所がない。上位機種のガーディアンに伍する能力といって良かった。さすがトップ・メイカー屈指の傑作と言われるだけのことはある。羨望を感じないといえば、嘘になった。

「いいディフェンダーを入れてンな。お手柔らかに頼むよ」

「そっちは『ワイルドアゲイン』か。悪くはないが――、所詮、偵察用のディフェンダーだ。そんなので俺とやり合おうたあ、舐めてくれたもんだな」

 突然、大崎が突風になった。光の残像を曳いて、フロアをつらぬく。弾丸のように跳躍したかと思うや、義哉の眼前に迫った。プラズマを蓄えてまばゆく輝く右手が、いかずちのように振り下ろされる。

 義哉は敵の視覚エフェクトを撹乱する妨害電波を放つと、サッと飛び退いた。大崎は視覚の誤作動に気付かず、そのままスピーカーに突っ込んだ。バチイ、と凄まじい音を立てて、放電が起こる。きらきらとした蒼白い火花をまきあげて、スピーカーの上半分が砕け散った。

 煙のなか、坊主頭がぬうっと首をよじる。義哉はそれめがけて、踊りかかった。拳にサイコキネシスをあつめ、一気に出力を限界まで跳ね上げる。投げつけるように繰り出した拳は、大崎の十字に交差する腕によって阻まれた。敵の防御フィールドは厚い。予想していたことだ。義哉は弾き返され、フロアの上を激しく横転した。

 むろん、大崎のほうもただでは済まなかった。サイコキネシスの衝突によって起こった爆風を受けて、上体を逸らせ、表情を歪めている。よろめき、尻餅をつきそうになったところを、何とか踏みとどまった。

「なるほど。正面から『多頭蛇』に喧嘩を売ってくるだけのことはある」

 義哉は拳をフロアに叩きつけて、小刻みに舌打ちをしながら立ち上がった。けれども、半分は演技であり、布石である。のちの逃走を自然のものとして印象づけなければならない。その半面、一歩間違えれば腕や脚がなくなりかねない恐怖もひしひしと感じていた。

 大崎は、昂然として迫ってくる。

「……だが、戦闘補助OSの性能の差はどうしようもない。諦めろ。つっても、ヘッドを張ってきた人間として、落とし前はきっちりつけさせるぞ。楽に死ねると思うなよ」

「そうか、あんたはヘッドだったな。だったら、あんたの手下の不始末は、あんたの不始末ってことだ」

「何が言いたい?」

 俺のほうにも、あんたに落とし前を迫るちゃんとした理由があるってことだよ――義哉は心のなかで宣告した。大崎がそのとき、少しだけ、眉間のあたりに凝った皺を緩くしたので、義哉は、つまらないことを考えたと、後悔した。そういう文脈の話ではなかったはずだった。これは正義でも復讐でもなく、ただ生存と処世の問題だったはずだ。危うく偽善に堕ちるところだった、けれども、と、義哉はフロアの血溜まりに散らばる無惨な躯を見おろして、思わずにいられない。偽善者と、底なしに残酷な人間と、いったいどっちがマシなのだろう。

 それらの、戦いの意義への問いかけは、戦いそのものによって中断され、自己嫌悪の底なし沼への本能的な怖れは、神経を焼き尽くすようなアドレナリンの奔流によって掻き消された。生理学上の反応は絶対的に正しかった。死んでしまったら、後悔もなにもない。生存という命題は、ありとあらゆる観念のうえに君臨する。アドレナリンは絶対者の楽隊が奏でるファンファーレに他ならない。そんな風に思うと、義哉の唇の端が、なげやりにつりあがった。

 大崎のまとうサイコキネシスの薄光が、厚みをとつぜん増す。空気がぐらぐらと揺らぎ、熱エネルギーが高く掲げた手に集まる。ワイルドアゲインは警鐘を鳴らしている。丸焼きになるのが嫌だったら、すぐに退避するか、発動を妨げるしかないようだった。義哉は、逃げるのがなんとなく腹立たしかった。その感情を自覚するより先に、脚がフロアをつよく蹴っていた。みるみる視界のなかで拡大する大崎の顔面めがけて、まわし蹴りを繰り出す。巨躯のまわりをたゆたう光が弱くなった。けれども、脚はブウンと空を切った。

 靴底の減っていく嫌な感覚がすこし続いたのち、義哉は減速した。振り返ると、大崎はサイコキネシスを再び蓄えはじめている。どうあっても、義哉を焼き殺したいらしい。義哉はといえば、まだ、慣性から自由になっていない。やむなく、スミスアンドウェッソンを抜いた。重い銃声とマズルフラッシュを曳いて、弾丸が疾走する。二発、三発と続いたそれらは、大崎に肉薄するほど失速し、空中にピタリと静止した。防御フィールドは健在である。あの巨躯を貫通できるとは、義哉とて期待していない。目下は、集中を削ぐことができればいい。慣性から脱した義哉は、すぐさま逆方向の慣性を起こし、そこにありったけの脚力をもって加速をかけた。大崎が、所詮は時間稼ぎに過ぎないのにとでも言いたげな、呆れた貌をしている。それは義哉も分かっていた。焦慮が胸のうちを席巻する。発動されたら一巻の終わり……

 大崎の腕に焦点を絞り、引き千切ってやるくらいのつもりで拳を固める。そのとき視界の隅で、大崎が不気味にニヤついた。何かを企んでいる、フェイントか……? 予感は的中した。光を集めた腕が忽然と消えて、転瞬、身体が慣性を離れた。腹部に物凄い衝撃がある。目と鼻の先に、大崎の脚が、誇らしげに突き立っていた。天井とフロアが緩やかに位置を入れ替えてゆく。背中を激しく壁にうちつけて、義哉は、うぐ、と唸った。

 大崎の靴音が、フロアに緩慢のテンポを刻む。

「サンディエゴと、ワイルドアゲインじゃあ、接近戦制御デバイスの質がぜんぜん違うんだよ。いくら喧嘩の強い兄ちゃんだって、プロボクサーには勝てない。それと一緒のことだ。そのうえ、サイコキネシスの絶対値にも歴然とした開きがある。要するに、おまえは『詰んでる』ってことだよ」

 義哉は、カッと頭に血をのぼらせた。イリュージョンを噛み砕いてでも、この男の防御フィールドを破って四肢をバラバラにしてやりたい。その激情に飲まれそうになりながら、義哉はワイルドアゲインに空間の解析データを要求した。……ちょうど、頭上にダクトの蓋がある。肉眼で位置を確かめ、それから慎重に、動作をシュミレーションした。ひとつ手間取れば、焼死体になりかねない。こめかみの辺りを汗が伝った。

「諦めはついたか」と、大崎は言った。「おまえが仲間たちにしてくれたように、目を抉りぬき、鼓膜に針をブッさして、じわりじわりと殺してやろうと思ったが――、その潔さに免じて、ローストくらいで勘弁しておいてやるよ」

「………」

 大崎のまわりにひかりが凝縮する。義哉がまばゆさに目を細めると、ワイルドアゲインが視覚の感度を落とし、熱センサーのエフェクトをかけた。対流の揺らぎがフロアを飲み込み、おおきな焔が渦を巻く。鞭のようにしなる火柱のむこうで、大崎の眼光が、爛々としている。サイコキネシスを限界ちかくまで高めた証だ。義哉は後にも先にもこの一瞬と思い極めた。メイン・プロセッサはサイコキネシスの処理にかかりきりになり、ほかの機能は著しく低下する。セキュリティもその一つである。義哉は大崎にむかって、虚像を視覚のなかに形成する妨害電波を浴びせ、それから跳躍してダクトの蓋に飛びついた。手刀で金網をざっくりと裂き、身体をねじりこませるなり、背中に爆風を受けた。狭い空間のなかを、サッカーボールのように跳ね転がった挙句、蓋を破って落下した。

 身体の節々が激しく痛む。辺りは闇である。ワイルドアゲインは視覚エフェクトを赤外線センサーから暗視モードに切り替えた。その途端、蒼白い首が幽鬼のように迫った。マネキンだと気付くまで、すこし時間がかかった。呼吸を整えながら、サイコキネシス反応の情報をディフェンダーに要求すると、大崎はまだ、ディスコにいるらしいことが分かった。義哉は、アンインストールをコマンドした。ほんとうによろしいですか、の確認メッセージを遮るようにして「急げ」と言った。

 蛍の群のような無数の光が、すう、と義哉の身体から出て、眼前にあつまり、ひとつのかたちを取り始める。それは馬の姿をした透明のオブジェだった。種類によって形はまちまちであるが、それが人間の意識を離れたディフェンダーの物質的なすがたである。光の粒子がほとんど抜けていくと、馬のオブジェはゆっくりと光を失い、義哉の手のひらのなかにぽとりと落ちた。義哉は、それをマネキンの群れのなかに放ると、窓を押し開けて、隣のビルの非常階段に飛び移った。――ワイルドアゲインのメモリの中には、木曽がヘロインを使って多頭蛇を潰すよう義哉に強要している動画が、そっくり残っている。無論、高梨との打ち合わせとか、ストーリーとの整合性に欠けるところは入念に削除してある。ワイルドアゲインは、サイコキネシスの反応を追ってやってきた大崎に拾われるだろう。大崎はかならず映像を再生する。そうして、義哉が逃げ切る時間を稼ぐためにワイルドアゲインを放置していったのだということを、露も疑わない筈だ。

 義哉は関節が外れたような猛烈の痛みに歯を食いしばりながら、身体をひきずるようにして非常ドアを抜け、雑居ビルの廃墟じみた廊下を、ふらふらと歩いた。やるべきことをやりきったというような充実感は、まったくと云っていいほどなかった。生存の喜びもない。ただ、大崎の、眉間の深い皺が、すこしだけ浅くなった様子をなんとなく思い出して、胸が苦しかった。


 義哉はスラムの安ホテルに部屋を取ると、携帯端末をコンセントに繋ぎ、コンビニの袋から安物のジンを取り出した。封を切って、ティッシュに含ませ、頬や腕の火傷のあとを拭うと、覚悟していたとおりの激痛が走った。うう、と唸るより早く、ティッシュは粘りけのある体液を吸って赤とピンクのまだら模様になる。義哉は歯を食いしばって拭っては丸め、屑籠めがけて放った。けれども、そのほとんどが縁にあたって散らかった。

 アルコールの匂いがツンと立ち込める。厚手のカーテンを少し寄せて、窓を開くと、涼しい夜風が流れこんで、傷口を慰撫した。患部に一々ガーゼを当てて、テープを巻き終える頃、携帯端末がディズニーアニメの着信音を鳴らした。

 応答するなり、高梨が、

「済まん、連絡が遅くなった――」と、息を弾ませながら言った。「俺のほうもバタバタしててな。情報屋仲間がふたり殺され、ひとりが行方知れずになった」

「盗聴は気にしなくていいのか」

 義哉は云って、指についたジンを舐めてみた。やっぱり、酒は美味いと思えない。

「一般の通信装置だからな、傍受されているかもしれん。けれど、スラムみたいな人口過密の区域では、大量の通信がある。拾ったところで識別に一晩かかっちまう。ま、日が昇るまでは安全だろう」

「だといいけど。こっちはディフェンダーを外してるんだ。心細いったらありゃしない。こんな状況で大崎に襲われたらそれこそジ・エンドだからな」

「そのことだ。さっき、二人殺されたって云ったろ。やったのは大崎かもしれない」

 義哉は袋からアラビアータを取り出して、包装を剥きながら、「どうして分かった」

「監視カメラに悪役レスラーが映っていた」

「なるほど」と言って、麺をフォークに引っ掛け、口に運んだ。途端、鋭い痛みが唇のうしろを走った。めくってみると、鏡台に、柘榴を割ったような裂け目が映った。八重歯が当たって深々と切ったらしい。そこから血が滲んでいる。傷だらけの蒼白い顔と相俟って、ホラー映画の登場人物のようだ。義哉はフォークをパスタに突き刺して、テーブルの端のほうに置いた。

 高梨は言葉を続けている。

「大崎は、木曽の居場所でも拷問してまわってるのかもな。けれども黎明党絡みじゃ、ほとんどの奴は知らないだろうし、知っていたとしても、なかなか喋らんだろう。ま、詳細は依然、調査中だ。――ところで、怪我の具合は」

「たいしたことはない。腕も脚もちゃんと繋がってる」

「そうか、それはなにより。新しい情報が入ったら、また連絡する。……そうだ、最上」

「なんだ」

「おまえ、これからどうするんだ」

「どうって――」義哉はベッドにゆっくりと這い上がって、枕の具合をなおした。古ぼけた天井に、暖色の鈍いひかりが散って、静物画のような趣がある。

「ほんとうに、学校へは行かないつもりか」

「その話か。疲れてるんだ。あとにしてくれ」

「なあ、『タマの取り合い』を地で行くような生活をしていて、充実してるか。ンなわけねえよな」

「………」

「十六、七歳の頃っつったら、いちばん楽しい時期だ。少なくとも、俺はそうだったよ。あの頃は、ガッコの仲間とバンドを組んで、放課後ライブハウスに集まって練習したり、文化祭でライブをやったり――、まあコピーだったけどな。でも、当時に戻れるんだったら、なにを捨ててでも戻りたいってのが本音だ。俺は、おまえのそういう貴重な青春の時間を、知らないふりして奪ってるんだと思うと、……正直、な」

「高梨サンが気に病むような話じゃない」

「なあ最上、クラスに好きな子とかいねえのかよ」

「おいおい、矢島から菓子折りでも受け取ったか」

「俺は真面目に話をしてるんだ」

 義哉は面倒くさくなって、「――ゆっくり考えてみる。だからもう寝かせてくれ」

「どうしてそう頑ななんだ。もしかして、自分に将来がないとか、未来はやってこないとか、そんな風に思ってるんじゃないだろうな」

「さあ、どうだろう。とにかく、その日その日を生き延びるのに必死だからな――」義哉は深刻を装って、それから柔らかく笑った。「ちゃんと考えるから、今日のところはこれくらいで勘弁してくれないか」

「いっとくが、俺はしつこいぞ。お茶を濁して済ませられると思うなよ。……じゃ、おやすみ」

 義哉は節々の痛む身体をおして、携帯端末をスタンドへ戻すと、ブラケット・ライトをひとつ残して明かりをすべて落とし、ベッドに横たわった。近隣の酒場のざわめきや、遠くの自動車の音が、風をわたるうちにぼやけ、さざなみのような振動になって、部屋に沁みこんでくる。カーテンが微風にゆらぐと、外から差し込む光が天井でぐらぐらした。窓からのぞく円い月にうっすらと暈がかかって、風は湿っぽい匂いがした。明日は雨だろうな、と義哉は思った。そうしてなぜか気持ちがすこし軽くなった。

 耳鳴りのように、こおろぎが鳴っている。耳を澄ますうちに、ふと、父親のことが心に浮かんだ。愚かな男だと思う。市民を救って死んだのも、大した思想があってのことではないだろう。ただ衝動的に飛び出していって、喰われたに違いない。そこに学ぶべきことなど一つもなかった。父は物心がつくかつかないかの頃に死んでしまったために、義哉はその一事をもって父を知るより他になかった。義哉は父を嘲るように、正義を嘲った。というのも、正義を是とすれば、父の死は美談になってしまう。義哉には、一つだけ深い悲しみに根差した信念があった。それは、父の死に、美しいところなど何もなかった、ということである。心を病んだ母と二人きりの、暗い六畳間が残されたのみである。だから、父を愛するのであれば、父の生き様は否定されなければならなかった。そして胸の張り裂けるような激情をもって、生存より正義を選んだ父を否定するのであれば、義哉は極限まで生存に拘ってみせなければならなかった。それが、父と自分をつなぐ唯一の絆だった。生存への執着をやめることは、父を捨てることに等しかった。

 愛情と否定の宿命的なねじれが、義哉を、高梨の云うところの「タマの取り合い」を求められるような世界に縛り付けている。義哉はなんとなくこの構造に気付きはじめていた。そのねじれが、義哉に薄汚い策略を弄させる。残酷の嘲笑を催させる。生存に関わりのない学校を馬鹿にさせる。

(あほたれ。いいから学校へ行け……)

 義哉ははっとなって目を開いた。それは義哉が無意識のうちに偽造した声であったが、けれども父の声でもあった。象徴たる一事の先に義哉がつくりあげた父の確かな声だった。父が生きていたら――、自分はいまごろ反抗期の真っ只中で、母親をどぎまぎさせながら、見境なしに食って掛かったりしていたかもしれない。その空想はあまりに甘美に過ぎた。義哉はつい、

「うるせー。行きたくねーっつってんだよ」と、掠れた声で呟いた。すると、写真立てのなかの父が、困ったように微笑したような気がした。

 義哉は瞬きをして、ゆっくりと寝返りをうった。そうして、高梨の話にちゃんと耳を傾けようと思った。

 浅い眠りと、酔っ払いたちの騒ぎ声と、全身の疼きが、物寂びた天井のしたをぐるぐると旋回した。ときおり、焦慮に胸を焼かれた。自分は綱渡りをしている。火の海に渡されたロープを、よろめきながら歩いている。なんとか均衡を保っているが、いつ崩れ去るとも知れない。ことが露見すれば身の破滅だ。ただでさえ狭い比良坂市に、生きていく場所がなくなる。――ふと気づくと、虫の音を残して、辺りが静かになった。義哉は深呼吸をした。

 やがて清々しい雨音が、辺りをやわらかく包んだ。ときおり、遠雷が響いてくる。薄目をあけると、カーテンの隙間に、ひくく垂れ込めた灰色の雲が見えた。とつぜん空を割って青い光が走り、一拍おいて、窓が震動するほどの雷鳴が轟く。義哉はベッドを降りると、家具を伝いながら洗面所へたどり着き、口のなかを濯いで、顔を洗った。ガーゼをひとつひとつ外して、温めのシャワーを浴び、備品の紅茶を淹れてポータブル・ラジオを窓辺に置いた。新しいガーゼを丁寧に宛がいながら、放送を聞くともなしに聞いているうち、アナウンサーが、

「えー、只今入ったニュースです。本日零時過ぎ――」などと、国営放送に特有の落ち着きはらった声で云った、「JR比良坂駅東の高級ホテル・秋山荘の大ホールに、ディフェンダーをインストールした男が侵入してサイコキネシスを発動し、多数の死傷者が出た模様です。男はかけつけた治安当局の討伐士により、その場で殺害されました。昨夜、大ホールでは地元紳士会による非公式の会合が開催されており、多くのひとで賑わっていました。侵入した男は犯罪グループ『多頭蛇』のリーダー、大崎甚一、二十六歳で、麻薬の取引などをめぐって警察幹部と対立しており、被害者のなかに管轄の担当者がいたことなどから、警察では怨恨による犯行の可能性もあると見て捜査を進めています。事件に巻き込まれて死傷された方々の名前などの情報は、入り次第お伝えします。……」

 義哉は窓辺に椅子を寄せて、紅茶をすすりながら、ぼんやりと雨の空を見上げた。それから、ルームサービスでかけ蕎麦を取って半分ほど食べると、チェックアウトを済ませた。


 バスが、驟雨に遮られたせまい空間のなかを揺れている。乗り合わせた制服姿の高校生たちが、大声で雑談をしていた。耳をそばだてなくても、内容が分かる。要するに、なにかと学校がうっとうしいという話だった。義哉は、手すりに頬杖をついて、密かに微笑した。話題が迫りつつある中間テストのことに差し掛かると、義哉の顔が少し歪んだ。数学の範囲がひろいという話に到って、義哉はいよいよ席を移った。それから高校生は静かになった。むこうもむこうで暗澹としたらしい。

 嘘でもなんでもいい、とにかく最後の仕事を片づけよう――義哉はガラス窓のむこうにゆらゆらする雨の街を眺めながら、決心を固めた。コータの恋人のことである。あの女の前に立つと、どうも胸がそわそわする。言い辛いことを抱えているというだけではなかった。女にはなにか劣等感のようなものを覚える。とても敵わない。比べたら、自分は餓鬼だと思う。あのゼリーで蔽われたような瞳を見ていると、義哉がいま苦しんでいることが、女にとって、とうの昔に通り過ぎたものに過ぎないのではないかという風に感じる。この胸につかえていることを洗いざらい話したら、女はくだらないとは言わないまでも、微笑して済ませてしまうだろう。あの女がなにを考えているのか、なにを感じているのか、気になって仕方がない。そうして、女の目に、自分がどう映っているのだろうと思うと、逃げ出したくてたまらなくなる。それだけに、

(キミ、自分で思っているほど嘘が上手くないよ……)

 の一言は痛かった。偽りの優しさと浅はかさを、鼻で笑われたような気がした。ひとの気持を分かったふりをして、少しも判っていないと、酷評されたような感じがした。女の瞳は優しかったが、眼光は冷やかで、悲しげだった。出来るものなら、あの瞳のまえには二度と立ちたくなかった。けれどもバスは構わず、雨のなかを走り続ける。

 嘘をつきとおす覚悟ができたか、あの瞳に、どんな烙印を押されようとも、覆らない覚悟が、だ――義哉は逆上にちかい鋭さをもって自問を繰返した。バスを下車し、ビニール傘を差してしばらく歩いた。目の先に雨ざらしのせまい階段がある。そこを雨合羽の男の子がトントンと降りてきて、義哉のすぐ傍を通り抜ける。階上から、母親がなにか男の子に呼びかけた。男の子はふりかえらず、水たまりを跳ね上げて駆けていった。母親は義哉に気付くなり微笑し、会釈をした。義哉は、「すいません、お世話になってます」と、ぼやけた声で挨拶した。女に変わりはないようだった。

 思い切ってドアをノックし、返事を待ってあがっていった。女は寝台のうえに上体を起こしていた。朝の白いひかりを背にうけて、長い黒髪の輪郭が、紫に滲んでいる。美しい顔は病に蝕まれながらどこか毅然としていた。尖ったパジャマの肩が、はなかく、痛々しい。

 義哉は意味もなく、殺風景な部屋のなかをあちこち見やりながら、

「病院を手配した。戸籍のことも、実費のことも、心配はいらない。支度にかかろう。そうだ、隣の小母さんに手伝ってもらうといい」

「やっぱり、コータになにかあったんだね」

 女の声が、水気を含んでいた。肩が震えている。義哉は、失敗を悟った。――そこから話を起こす馬鹿がどこにいる、ああ、サイアクだ。けれども動揺は無理やり押しつぶし、穏やかに女を見つめた。

「ないと云えば嘘になる。シマにいられなくなってな。しばらく、戻って来れそうにない。後のことを頼まれた。詳しいことは追々話す。――これから少しずつ寒くなる。暖かい病院で過ごすといい。サービスのいいところだから」

「教えて。コータは無事なの」

 義哉は、顔をあげていられなくなった。

「……もちろん。だから、あんたは療養に専念しろ」

「嘘はやめてったら」

 女は落涙していた。痩せ細った貌をゆがめて、義哉を睨みつけている。この眼だ――義哉は背筋が凍りついた。

「ねえ、はっきり云って。コータは死んでしまったのね」

 義哉は首を振るつもりだった。けれども、身体にとり憑いた戦慄が、義哉の首を万力のように押さえつけて離さない。義哉はやむなく、震えながら顎をひいた。途端に、女は天井を見上げて、狂ったように絶叫した。そうして、枕のしたに手を突っ込み、黒いものを取り出して、こめかみに押し当てた。

 パアンと、爆竹の弾けるような白々しい音が虚空に波紋を描いて拡散した。一瞬、義哉はなにが起こったのか分からなかった。女の髪がふわりと持ち上がって、押入れの戸にダリアの花弁が散る。硝煙の匂いも、小鳥のさえずりも、全てが嘘のようだ。それから義哉は自己嫌悪で朦朧とする意識をひきずりながら自宅へ戻った。ノートパソコンに、リーナからメールが届いていた。

 ――世界でいちばんたいせつなひとが、きょう、天国へ行ってしまいました。お願い、あたしを無視しないでください。心が毀れそうです。

 義哉は震える指で返信をタイピングをしながら、――偽善でもなんでも構わない、あとでこの人を失望させることになっても構わない、とにかくありったけの優しい気持を込めて、リーナを慰めようと思った。

 せっかく誤字の指摘をいただいたのに勘違いで消しちゃいました。手動でなおしました。ありがとうございました。20/03/06

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