中編
結局俺はその日、屋敷に戻った。
で、俺の姿を認めるやいなや、屋敷の空気がちょっと変わったのがわかってかなり憂鬱な気分になってしまう。
そうだった、これが嫌でここに帰らなかったんだよ。
みんな気づかれないようにしてるみたいだけど、わかるから。
腫れ物を触るような扱いっていうの?
俺がハルカに恋していたことは周知の事実で、俺は今までそれをなんとも思っていなかったんだけど、こういうとき身に染みる。
なんていうか、居た堪れない。皆、俺のこと笑ってんじゃないかとか考えるとどうしても屋敷に足を向ける気がしなかったんだ。いやもうほんと、後ろ向きなんだけど。
まあでも振られ男としては仕方が無いじゃないかとも思う。
だから、戻った報告をしに父さんの部屋に赴いた俺は、「そうか」とだけそっけなく頷いた父さんの姿に心からほっとしたんだ。
戻らないことを咎めることも、何があったのかとか、そういうこと、ひとつも訊かれなかったから。
いつもなら考えられないことだったので、助かった、と思うのと同時、少し気分が浮上した。
で、その晩。宣言どおり、ユリウスと酒盛りが始まったわけだけど。
はっきり言って俺はそんなに酒は強くない。けど、ユリウスが用意してくれたワインはフルーティで甘みが強く、つまりは飲みやすかった。
さらりと喉を通るので、ついつい飲みすぎてしまう。
で。結果的に酔っ払い一丁できあがり、という有様になってしまった。
「怖いってなんだー!」
「だいたい、あんなにわかりやすく好きだという態度とってたのに信じられないとか訳わかるかー!」
「歳の差がなんだー!」
酔いが回っていて自分でも何を言ってるかわからないが、力いっぱい叫ぶとくらりと眩暈がした。
ああ頭がふらふらする。
吐く自分の息でさえ酒臭くって、俺は眉をしかめた。
今の俺の状況。ユリウスが泊まる客室で、ユリウスに注がれるまま、ワインを結構なハイペースであおっていた。
ユリウスと言えば、目の前で俺と同じように銀色の杯に入った酒を飲み。目の前でぐでんぐでんになってる俺を面白そうな顔をして眺めながら、絶妙なタイミングで相槌を打ってくれていた。ここらへん、やっぱり歳の功ってあるよなぁって思う。
いつも面白がられるのわかってて口を割ってしまうのは、こういうユリウスの機微に乗せられてしまうからだ。
ユリウス自身は酒豪で、どれだけ飲んでも酒に乱れる所をみたことがなかった。
そういえば、幼い顔立ちに似合わずハルカもお酒に強かった。酒好きのユリウスが嬉々としてハルカと良く飲んでいたのを思い出す。
『おいしい』
ほんのりと頬を染め、嬉しそうに杯を傾けるハルカはなんだか色っぽくて、ちろりと唇を嘗めるしぐさにどきまぎしたものだ。
「・・・レオン、にまにま笑うのは止めろ。気持ち悪い」
「んあ~?」
ユリウスの方を向くが、頭の中が霞がかかったようになって何も考えられなかった。
ユリウスが肩をすくめる気配がする。
「心の声が全部口に出ていたぞ・・・しかし見事にハルカのことばかりだな。
いったいあいつのどこが良かったんだ?」
ソファの縁に腕をかけ、寛いだ様子のユリウスが面白そうに訊いてくるのに、俺はぼんやりと頭を働かせた。
この世界では珍しい黒髪・黒の瞳を持つ彼女はとても優しい性格で、そのせいかいつもおどおどしている印象が強かった。
『守護人』として彼女の傍に居て、いろんな姿を見ていた。
見かけと同じ、女らしい細やかな性格。必死にこちらの生活になじもうとがんばる姿勢がどこか痛々しくて。
まるで人に怯える子犬みたいだ・・・と、相手は年上だというのにそんな風に感じたりもしていた。
何もかも一人でがんばろうとするその姿に放っておけなくて。
だからだろうか。
自分の世界に入りこみやすい彼女が、初めて俺に見せてくれた笑顔は、今も鮮明に記憶に残ってたりする。
ハルカの、頼りなげに揺れる黒い瞳が好きだった。
でももっと好きなのは、それに負けないようにと、迷いながらも前を見据えるその凛とした表情で。
両極端なその姿に、俺はいつも目が離せなくて・・・自分もがんばらなくてはと、彼女を守れるように強くありたいと。
そう、強く望んでいたんだ。
「・・・どれだけべた惚れなんだ・・・まったく、フィルターかかりすぎだろう」
呆れたようなユリウスの言葉が、酒の染みた頭の中に入ってくる。
「お前はハルカが同じ歳のように接していたみたいだがな、あいつはあれで結構ちゃっかりもしていたぞ?
歳どおりの強かさも、持ち合わせていた」
くすりとユリウスは笑い、くい、と酒の入った杯を傾けた。
「―――でなきゃ、あんなに好意を振りまいていたお前のことかわしたり出来るものか。
感情のまま突き進まないところは歳相応だったろう・・・意外に気の強いところもあったしな」
ユリウスの深い湖色の瞳が緩み、何かを思い出したかのような表情になる。それは俺の知らないハルカの姿だろうか。そういえば、ユリウスにとってはハルカも俺と同じ歳が下になる。
俺より近い位置に、彼らは立っていたんだろうか。
ユリウスの穏やかな表情にそんなことを考えて、酒で抑制の効かない感情が、どろどろとした醜いものを産み出してくるのがわかった。
悔しい。
それにまた、ユリウスの口から出た『歳の差』発言に、またまた怒りが膨れ上がる。
それはそのまま、俺の口から言葉として迸った。
「ずりぃ・・・!
なんだよ、歳の差って。歳が離れてるってだけで、恋愛対象からはずされてしまうのか?
そんなのどうしようもないじゃないか・・・!」
胸が熱い。
なんだかもう、色んなことで頭の中がぐちゃぐちゃだった。
酒の酔いもあって、ソファに沈み込む。
ユリウスの苦笑する声が聞こえてきた。
「ちと飲ませすぎたか・・・
しかしまあ、お前を置いていった女だ。もう忘れるんだな。もう二度と会うこともないんだ」
「―――」
思わず、ふらつく頭を堪えて顔を上げてしまった。
ぼんやりとした視界に移る、端正な顔立ち。ユリウスはきっと何気なくいった言葉は、けれど俺にものすごい破壊力をもたらしてくれた。
―――もう、会うことがない。
すう、と酔いが冷めた気がした。
そうか。
俺がハルカのことを好きでも、この想いを諦めようとしても、・・・もう、世界にとってそんなこと全然関係ないことなんだ。だって、彼女はこの世界に居ないんだから。
小さなことで笑ったり、怒ったり、感動したり、そんな日常のことをハルカと一緒にすることは二度とできないんだ。
これから俺が向かう未来に、ハルカの姿が二度と現れることは、ない。
「―――!」
照れた顔も、唇を尖らせてちょっと拗ねる顔も、たまに見せる大人びた顔も、全部全部僕が好きだった彼女の姿。
還らないでと抱きしめたその華奢な体つきも、香る彼女の匂いも、まだこの手に、この記憶に残ってる。
けれどそれもやがて、記憶の中に消えていってしまうのだろう。
「―――見返してやればいい」
俯く俺に、ユリウスの言葉が降ってくる。
「おまえ自身がいい男になって、ハルカを悔しがらせるくらい、うんと幸せになるんだ、レオン」
優しい声、俺のために掛けられた言葉に、けれど俺は切なくなってぎゅうと拳を握った。
うん、だけどユリウス、もし俺が万が一いい男になったとしてもハルカがそれを見ることは二度とないんだ・・・
「好き―――だったんだ」
く、と俺は唇をかみ締める。
「本当に、俺、ハルカのことが好きだったんだ、ユリウス」
「―――ああ」
静かな頷きが返ってくる。
ユリウスは目を細めて、テーブルに置かれた俺の杯を手に取り、ワインを注いだ。
「還って・・・ほしく、なかったんだ。俺の傍に居てほしかった。
俺の隣で、笑っていて、欲しかった」
「・・・ああ」
す、と細長い指が俺に杯を渡してくる。
俺はそれを両手で受け取ると、やるせない気持ちを誤魔化すようにくい、と一気にそれをあおった。
喉が焼けるように熱くなる。飲みきれなかった分が、唇の端からぽたりぽたりと雫となって顎をつたって絨毯の上に落ちてゆく。かっと全身が一気に熱くなった。
頭がぼうっとする。目の前が霞んで、何もかもがどうでもよくなってくる。
「今は眠れ、レオン。それから、どうするか考えろ・・・」
そんなユリウスの声を最後に、俺の意識はばたりと途絶えた。
※ ※ ※
翌日はひどい二日酔いだった。
吐き気がするは頭は痛いは最悪なコンディションだった。なのに、結構な分量飲んだはずのユリウスは平然とした様子でいた。
うう・・・酔っ払いすぎて、要らないことまでユリウスに話してしまった気がする・・・
けれどもそうして胸の内を無理やりとは言え吐き出した俺は、それまでとは違い気持ちがすっきりし、一人になりたいとは思わないようになった。
表面上は普段どおりに戻り、俺は日常の生活に戻った。
あれから女神の丘には一度も、行っていない。
そうして、花祭りが終わって2週間後。
久しぶりに街にやってきた俺は、赤茶色したレンガ調の石畳の上をゆっくり、ゆっくりと歩いていた。
花畑からの帰り道、この道をよくハルカと歩いた。
二人でよく、ルナの実を屋台で買って食べてたっけ。
そんなことを思い出し、俺は思わず口元に苦笑を刻んだ。
自分でも未練たらしいと思ったから。
考えないようにしても、いつの間にかハルカのことを考えてしまう。
・・・正直、ユリウスの言葉に納得なんて全然していないけど、俺は何とか自分の気持ちに折り合いをつけようとがんばっていた。
だって、どうしようもない。
ハルカが俺のことを好きだったのならよかった。
それこそ嫌だといってもその手を離さず、引き止めて、口説いただろう。
でもハルカは俺の告白を断り、自分の国へと還っていった。
俺の手に届かない世界へと、還ってしまった。
ユリウスの言うとおり、俺はもう二度とハルカに逢うことはできないんだ・・・
喪失感が胸を襲い俺は思わず胸を押さえてその場に立ち止まってしまった。
すれ違う人びとが迷惑そうに見ていくけれど、俺はしばらく動くことができないでいた。
「お兄ちゃん?」
声をかけられたのはその時だ。
目をやると、目の前に小さな女の子が立っていた。
「どうしたの?どこかいたいの?」
たどたどしい言葉遣いに、自分を気遣う色を滲ませながら、女の子のヘイゼルの瞳がちょこんと俺を下から覗き込んでくる。
その稚さに少し心がほぐれて、俺は頬を緩ませた。
「・・・大丈夫だよ。なんでもない。
君はどうしたの?お母さんは、いる?」
迷子かと危惧しての言葉だったのだけれど、それは杞憂だったようだ。
女の子は俺の言葉ににっこりと花の零れるような笑みを浮かべると、通りの向こうを指差した。
お家の前でお花に水を挙げていた女の子の母親らしき女性が、笑顔を浮かべてこちらに手を振り返してくる。
「お母さんがね、おにいちゃんがつらそうにしてるから、ミウにおにいちゃんにめがみ様のおくり物をあげておいでって、これをくれたの」
「・・・女神様の、贈り物?」
「うん、ほら、これだよ」
得意げに、小さな背中に隠していたものを小さな手で差し出され、俺は驚いて目を見開いた。
それは茎の部分をリボンで結ばれた小さな花束で―――とてもとても見覚えのあるものだったから。
白い花弁、太陽の黄色い花芯、微かに見える紫のライン。
―――花かんざしの、花、だった。
「…どうして、これがここに?」
俺は驚いて女の子を見下ろした。
だってこれはここにはない筈のものだったから。
女の子は、きょとんと目を丸くした。
「おにいちゃん、知らないの?
はなまつりの日、いっぱいいいっぱいお花、めがみ様にあげたから、めがみ様がお礼にってみんなにお花、くれたんだよ」
「・・・みんなに?」
「うん、そうだよ。ほら」
小さな指が、空を指す。
俺はつられるように顔を上げて――――目に飛び込んできたものに、瞠目してしまった。
パステルカラーの家や店が立ち並ぶ、優しい色合いの街並みに。
それぞれの家の窓や玄関先から覗く、その鉢植えたち。
白い花弁が、ぴんと太陽に向かって伸びて、瑞々しい光を放ち、街を彩っている。
それは、花かんざしの花だった。
あの女神の花畑のように、優しくて愛しい花が彼女の面影とともに俺の心の中にふわりと入ってくる。
ふいに愛しさが溢れ出し、俺は胸が熱くなった。
街を歩いた時、はぐれないようにと繋いだ手が嬉しくて・・・見下ろす彼女の顔が朱に染まるのを見るのが好きだった。
目が合うと、いつもあのはにかんだ笑顔が返ってくるのがとてもくすぐったくて。
自分で気づいていないみたいだけど、実はすごく瞳が素直で、いつもくるくると感情を映し出していた。
嬉しいとき、こちらの世界では珍しい黒曜石の瞳がきらきらと光るのが綺麗で・・・愛おしかった。
「ね、きれいでしょ?ミウ、大事にお花、育ててるんだよ」
誇らしげな声が聞こえて、俺ははっと我に返った。
呆然として女の子を見下ろすと、屈託のない、明るい笑顔が俺に向けられる。
「おにいちゃん、どうぞ?
めがみ様のおくり物をもらうと、しあわせになるんだよ。だから、元気出して?」
「――――」
胸が詰まって、一瞬何も言葉が出なかった。
『どうか、しあわせになってね、レオン』
ハルカの最後の言葉が、脳裏に響く。
―――しあわせ?
俺のしあわせは、どこにある?
「・・・ありが、とう」
なんとか言葉を紡ぐと、女の子がくすぐったそうに笑う。その表情に、彼女の笑顔が重なってしまって胸がきゅうと引き絞られる感触がした。
ああ、駄目だ。
女の子から花束を受け取りながら、俺は心の中で白旗を揚げる気分で居た。
―――ごめん、ハルカ。
俺はどうやっても、ハルカの事、好きみたいなんだ。
また黙り込んだ俺を不思議そうに見つめる女の子に、にっこりと微笑む。
「ありがとう、元気になったよ。」
「ほんと?」
「うん。・・・幸せになるためのお花ありがとう」
―――俺はこれから、幸せを掴みに行く。
最後だけ心の中で呟き、俺は女の子にさよならを告げた。
そうして、走り出す。城に向かって。
『自分に何ができるか考えるがいい。
―――いつまでも感傷に浸っていても、何も変わらない』
そう俺に言ってくれた、従兄弟に会うために。