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           side レオン  前編

 



―――はにかむようなその笑顔が、好きだった。


 黒曜石のつぶらな瞳が自信なさげに揺れるのを見るたび、俺が守ってみせると庇護欲を搔きたてられるのがわかって、自分でもおかしかった。

 8つも年上なのにそうは見えない幼い顔立ちの彼女は、どう見ても自分と同じか少し上くらいで。

 初めはおどおどとしていた態度が、接していくうちに打ち解けた雰囲気になっていくのが嬉しくて、こそばゆかった。

 彼女の傍には、自分がいる。

 いつの間にか、そうやって自惚れてしまっていたのかもしれない。

 そうなるのが当然であるかのように自然に、俺は彼女のことを好きになっていて―――当然、ハルカもそうだと思い込んでしまった。

 眩しげに細められるその、自分を見つめる眼差し。

 俺たちは惹かれあっているのだと、愚かにもそう思い込んでしまった。

 だから俺は、ハルカに告げたんだ。

 好きだ、と。

 自分と共に、こちらの世界で生きて欲しい、と―――


 自己嫌悪にも、断られることなんて考えもせずに。 

          


               ※        ※        ※



 俺は、女神の丘と呼ばれるところに居た。

 心地よい風が頬を撫でていき、花畑に寝転がっていた俺はそのまま伸びをひとつ。

 こんなところ誰かに見られたら立腹ものだな、とわかってはいるけれども出て行く気はさらさらなかった。

 

 周りには、花かんざしの花の群れ。

 一年前は蕾だったその花たちは今、女神の丘で気持ちよさそうに花弁を広げて太陽の光をいっぱい浴びている。

 少し皺が寄った白い色の花びらと、真ん中にある黄色い花芯。花びらの裏側にある、蕾のころははっきり見えていた紫のラインがたまに見えるのが綺麗だ。

 

―――ここは花育人ラダムが作った花畑がある、丘の上。

 ハルカが育てた花かんざしの花畑も、他の女神に奉った花畑と同じようにこの丘の上の一角にある。

 彼女がここで暮らした証、だ。


 ハルカは異世界からこの世界にやってきた「客人まれびと」・・・俺たちは花育人ラダムと呼んでいる、女神が選んだ、女神に奉る花をこの世界で育てるための大切な存在だ。


 だいたい大祭の1年前に召還されるのが慣例となっている。

 ハルカはそうやってこの世界へとやってきた。

 ―――そのときのことは、今でもはっきり覚えている。

 

 現れた彼女は、ものすごく怯えていた。

 客人として迎え入れたはずのその人からの拒絶に、叔父達が戸惑い、手を差し伸べるべきかどうか迷っているのを見て―――俺は、居てもたっても居られずに、彼女の傍に近寄ったんだ。

 不思議なことに、それが当たり前だとどこかで思っていた。

 ああ、怯えている彼女を安心させてあげなくては。大丈夫だよと、手を伸ばしてあげなくては、と俺は逸る気持ちを抑えて、ゆっくり、彼女に近づいていった。

 それは女神様の導きだったのかもしれない。だって俺はその後、彼女の守護人ガーディアンとして女神様に選ばれたのだから。

 何かの力に、背を押されるようにして、俺は彼女に近づいた。

 身体を丸め、顔を隠すようにしてしゃがみ込む彼女の手前で、そっとしゃがみこむ。

 彼女の後ろには、女神様の像が俺達を見守るようにして、立っていた。

 

「ようこそ、花育人ラダム

 ―――君の名前を、教えてくれる?」


 そう言った俺の声に顔を上げたハルカは。

 とても無防備な表情で、俺を見つめてきたっけ。

 俺はその、涙に濡れた艶やかな黒の瞳がとても綺麗だと、そう思ったんだ。




「やっぱりここに居たのか」

 回想に耽っていた俺は、突然頭の上からした聞き慣れた声に、はっと我に返る。 

「・・・ユリウス」

 身体を起こして振り返ると、眉間に皺を寄せた美青年が立っていた。

 少し離れたところに、彼が乗ってきたのであろう馬が大きな木の下で僕の愛馬と一緒につながれているのが見える。

 いつの間に現れたのだろう。自分の考えに没頭してしまって全然気づかなかった。


「やあ、ユリウス。ユリウスも散歩?

 天気もいいし、花は綺麗だし、ここはうってつけの場所だよな」

 にかっと笑ってそう言うと、ユリウスの形のいい眉が極限まで寄ったのがわかった。

 おそろしく機嫌が悪い。

 ユリウスの輝く金色の髪が、太陽の光に反射して眩い。深い湖の色をした瞳が、不機嫌そうに俺のことを見下ろしてくる。


「こんなところで何をしている」

「ん?だから散歩。日向ぼっこ。気持ちいいよ」

「・・・ここは立ち入り禁止区域なのは知っているだろう」

「そうだっけ?」

 うそぶいて、俺はまたごろりと花畑に寝転がった。 

 ユリウスの言うとおり、この『女神の丘』は国の管轄で、一般人はめったに入ってこられない場所だ。

 入れるのは花祭りの夜のひと時だけ。そのときだけは、日々の感謝をささげるため、女神に捧げる花を国民が神殿に摘んでいくのに開放される。

 捧げる花はどんな花でもいい。だけど異世界の花というのはやっぱり人気が高いもので、毎年花祭りの時期だけこの場所は人の姿で溢れかえることになる。まぁそりゃそうだな。もの珍しいし。

 でももう今は、花祭りは終わってしまった。

 それまでここを世話していたハルカは還ってしまったし。今は代わりに世話をする者だけがここを毎日訪れる。

 それを知っていたから、一人になりたいのもあってここ数日この場所に入り浸っていたのだけど。

 大公の息子って肩書きだけで、俺はここを自由に出入りすることが出来たから。

 それももう潮時らしい。お迎えが来てしまった。


 ユリウスは俺の言葉にため息をつき、同じように俺の隣に腰を降ろした。

 片膝を軽くたてて花畑に座るユリウスはとても様になる。 

 今年27歳になるユリウスは俺とは10歳違いで、妹しかいない俺にとってこの美しくて聡明な従兄弟は、親しい兄のような存在だった。

 ユリウスの湖の瞳が、頭の上から俺を覗き込んできた。

「叔父上たちが心配していた。ここ数日、お前が屋敷にいないとな。

 どこに行ったか覚えがないかと手紙をもらった。・・・よもやと思って来て見れば、こんなところで感傷に浸っているとはな」

 呆れたようなユリウスの言葉に俺は苦笑を返す。

 何というか、言い返す言葉がなかったし。

 というか、さすが父さんだと舌打ちしたい気分だった。俺の泣き所をちゃんとわかってる。

 俺はこの歳の離れた綺麗な従兄弟に実はすごく懐いていて、冷たく当たることなんてできやしないから。

 

 花祭りの夜が終わり、ハルカが還ってから。

 周囲の気遣うような視線に耐えられず、俺は屋敷に帰っていなかった。

 昼間はこの花畑で今のようにぼんやりと過ごし、夜になると、近くにある小屋で寝泊りをしていた。

 誰にも、会いたくなかったんだ。

 ハルカの思い出がたくさん詰まった花かんざしの花畑に入り浸り、ハルカのことを想い、ひとり悶々とした日々を送っていた。

 女々しいのは自分でもわかっていた。でも、どうしようもなく胸が苦しくてとてもじゃないけど普通の生活なんて送れなかったんだ。


「・・・らしくないな」

 何も言い返さない俺の様子に、ユリウスが形の良い眉を片方上げた。

 俺はその言葉にも返事をしないで、ごろりと寝返りを打ってユリウスに背を向けた。 

 沈黙が、横たわる。

 気持ちのよい風が、俺とユリウスの間を吹き抜けていった。

 目を瞑ると、土の匂いと頬をくすぐる花かんざしの花びらの感触。太陽の恵みと女神の祝福を受けた花畑は、傷ついた心とささくれだった気持ちを少しずつ、少しずつ癒してくれる。

 ハルカの花畑。俺の、大好きな場所。

 ふいにせつなさに襲われて、ぎゅ、と耐えるように瞼に力を込め、俺は目を開けた。

 目の前で白い花弁がゆらゆらと揺れている。


「ユリウスー」

「・・・なんだ」

 間延びした声で名前を呼ぶと、静かな声が返ってきた。

 その珍しく穏やかな声に誘われるようにして、俺は口を開いた。


「俺、ハルカに振られたんだ」

「・・・そうか」 

 ユリウスは短い相槌を打つ。

 色々問いたださないその雰囲気に更に心がほぐれていくのがわかる。

 人恋しくなっていたのもあるんだろう。 

 ごろりとまた身体をひっくり返し、今度は仰向けになる。

 白い雲が流れていくのをぼんやり眺めながら、俺はまた口を開いた。


「おかしいよな。俺、自信があったんだ。

 ハルカもきっと、俺のこと好きなんだと思ってた。だからきっとハルカは還らない、ずっと俺の傍に居て、俺の傍で笑ってくれると信じてたんだ」

 苦笑いがにじむ。

 通じ合ってると思っていたのは、俺の独りよがりだったんだ。

 それがたまらなく哀しくて、恥ずかしい。


『ごめんなさい』


 還らないでと告げたときの、ハルカの答えが胸に突き刺さる。

 思い出したくないのに、何度も何度も脳裏に蘇ってしまい、そのたびに心が痛んでどうしても忘れられない。

 おかしいな、俺ってこんな暗い奴だったっけ。

 立ち直りが早いのが取り柄だと思っていたけれど、今回ばかりはそれも当てはまらないみたいだ。


 ふ、と空気が動いた気配がした。ユリウスが笑ったらしい。

 ちらりと目を上げると、なんだか面白がる表情をしたユリウスがそこにいた。嫌な予感満載だ。

「餓鬼」

「・・・・・・・」

 なんだろう、さっきまでのしんみりとした雰囲気がぶち壊しだ。

 というか俺が馬鹿だった。ユリウスはそんなに甘くないの知っていたのに。

「うるさいな、どうせ俺は餓鬼だよ。思い込みの激しい恥ずかしいやつだよっ」

「・・・ハルカはどうして還ったんだろうな?」

「は?」

 がばりと起き上がり、自棄になって叫ぶ俺の言葉はスルーして、ユリウスがそんなことを訊いてくるから俺は思い切り目を剥いた。

 どうして、って。

「そんなの・・・決まってるだろ。あっちがハルカの世界だから・・・。

 誰だって、自分の世界は大切だろ?」

 自分で口にした言葉に、ずきりと胸が痛む。俺は、ハルカがこちらの世界に残る理由にはなれなかった。


「まあそうだな」

 あっさりユリウスは頷いた。背中に流した、緩く結わえた金髪がさらりと揺れる。

 白磁の肌、冷たく見える切れ長の碧い瞳、高い鼻梁。

 黙っていると文句なしに美形の部類に入るユリウスは、湖色の瞳に意地悪気な光を浮かべて俺を見た。

 冷たい印象のユリウスにとても似合う表情だ。


「だがそれだけだと本当に思うか?」

「・・・どういう意味だよ」

 意味ありげな言葉に俺は唇を尖らせる。

 まったく、もったいぶるのはユリウスの悪い癖だ。回りくどい。


「さあな。でもお前が見えていた真実が、そのまま全部嘘だったとは俺は思わないだけだ。」

「それって・・・ハルカが少しでも俺のこと好きだったように見えたってこと?」

 ほんの少し期待を込めて訊いた言葉は、またもや「さあな」というさらりとした言葉で受け流されがっくりとする。

 っておい、ユリウス、俺、一応失恋して傷心なんだから翻弄して遊ぶのやめてくんないかな?!

 まったく、人が悪いんだから。

 肩を落とす俺の姿に楽しそうに片眉を上げるユリウスの様子にうう・・・、と更にがっくりした時だった。


「『怖いの』」

 と、端正なユリウスの唇から放たれた女言葉に、俺は初め意味がわからなかった。

 問うようにユリウスを見ると、静かな水面を思わせる碧の瞳と出会い、無意識にぴんと背筋が伸びた。

 冷たいのだけれどもどこか穏やかな色合いのその瞳が、俺の反応を試すように見つめてくる。

 薄い唇が、ゆっくりと動いた。

「『レオンの気持ちが、怖いの』」

「―――それは」

 思わず目を見開いてユリウスの顔を見つめ返すと、頷きが返る。

「ハルカが俺に言った言葉だ」

「それは・・・どういう」

「さあな?そんなことまで俺は知らない。自分で考えるんだな」   

 と突き放すように言った後で、ふっとユリウスは唇を吊り上げて皮肉気に笑った。


「だがもし俺なら。8つも年下の女に好きだと言われても、そうそう素直に信じられるかな。

 若さとは残酷だ。今は良くてもその先は?自分のことが好きだとどうして言える。唯でさえ人の気持ちは移ろいやすい。年が離れていれば尚更だ」

 加えて、とユリウスは意味ありげな視線を俺に向けた。


「それが異世界から来た人間ならどうだろうな?

 頼れるのが相手の気持ちひとつだけなんて心細すぎると思わないか、レオン」

「―――」

 俺は絶句した。

 そして、ユリウスの言葉を脳が理解するにつれ、信じられないくらい胸が熱くなってくるのがわかった。

「そんなこと・・・」

 かすれた声が口から漏れる。 

 俺はユリウスの静かな瞳を、強い感情を込めて見上げた。


「わからない・・・!

 だって、そんなこと言われたって、じゃあ今の・・俺の気持ちはどうなるんだ?

 彼女を好きだっていう気持ちは?

 信じてもらえないなら、好きで居続けるという証明だって出来ないじゃないか!」

 自分の気持ちを置いてきぼりに出される結論ほど悔しいことはない。

 目の奥が熱くなっていくのを、唇をかみ締めることでぐっと堪えた。

 

 大好きだと、何度彼女に伝えただろう。

 その度にはにかむ様な笑顔が返ってきた。

 言葉は無かったけれども、拒まれることも無かったから、いつかこの気持ちは伝わるものだと信じていた。

 俺を見つめる眼差しに好意を感じ取ることが出来たから、嬉しくて、無邪気な振りして彼女に触れたりもした。

 恥ずかしがって怒るその姿が可愛いと考えていたことは内緒だ。

 なのに。

 肝心の、俺の気持ちを信じて貰えないなんて、酷すぎる。

 それが年の差だと、悟ったように見つめるユリウスの姿が悔しい。

 そんなこと、認めることなんてできなかった。


「―――俺は、ハルカが好きだ」

 まっすぐ、ユリウスの碧の瞳を見上げた。 

「それはずっと、変わらない」

 宣言のようにそう口にすると、しばらくユリウスは沈黙した後で―――口を開いた。

「若いな」

「・・・!」

 思わずむかっとして言い返そうとしたのだけど、そう言ったユリウスの瞳がとても優しげな色を浮かべているのに気づいて思わず言葉を飲み込んだ。


「だがそのまっすぐさは、嫌いではない。・・・それは今しか持てない、純粋さだ」

 無鉄砲に走り出す弟を見守るようなその表情に、面映い気分になってふい、と俺はユリウスから視線をはずした。

 一見冷たそうに見えるユリウスだけれども、実はものすごく情に厚い人なんだってこと知っている。

 無茶をする俺を叱ったり突き放したりしながらも、いつだって後ろで見守ってくれている―――俺にとってユリウスは、そんな優しくて大きな存在だった。

  

「屋敷に帰れ、レオン」

 ふいに真面目な口調に戻ってユリウスが言った。

「そうして、自分に何ができるか考えるがいい。

 ―――いつまでも感傷に浸っていても、何も変わらない」

 頭の上に置かれる大きな手のひら。わしわしと髪の毛を搔き回される。

「・・・止めてくれよ」

 顔を顰めて腕を振り払うと、楽しそうな笑い声が返ってくる。


「ま、やけ酒でも何でも付き合うさ。

 ・・・今日はお前の屋敷に滞在することになってるからな」

 暗に今日中に帰って来いと言われて、俺はついつい苦笑を返してしまった。

 なんだかもう、すっかりユリウスのペースだった。それまで落ち込んでいたのが、ほんの少しだけ浮上したのを感じる。


「じゃあな。先に帰ってるぞ。美味い酒用意して待ってるからな」

 そう言ってユリウスは立ち上がり、軽くお尻についた泥を払ってから花畑を後にした。

 俺はそのユリウスの金色の綺麗な髪が、太陽の光にきらきらと光るのを見送って。

 柔らかい日差しに目を細めながら、俺は先ほどのことを思い返していた。

 

 ―――『怖いの』

 それがハルカの言った言葉だって?

 唇をかみ締める。どうして、と胸が詰まった。

 わからなかった。

 何が怖い?俺は何度だって言ったはずだ。ハルカのことが好きだと。

 ずっと幸せにしたいと、思っていた。

 出来るのならば自分の傍で、ずっとずっと笑っていて欲しかった。

 その綺麗な黒の瞳で、ずっと俺を映していて欲しかった。


『人の気持ちは移ろい易い。年が離れていれば尚更だ』


 それはつまり―――俺とハルカの年が離れていることが問題だったというのだろうか。

 そんなの、どうしようもないじゃないか・・・!

 それに肝心の、ハルカの気持ちがわからない。

 怖いというからには、彼女は俺のことを好きでいてくれたのだろうか?

 そんな風に考えるけれども、不意に思い出したハルカの言葉に俺の身体は動けなくなってしまった。 


『ごめんなさい』


 還らないでと告げたときの、ハルカの答えが胸に突き刺さる。

 ああそうだ。

 ・・・それが、ハルカの答え、だったんだ。

 いくら俺が好きでも、相手の心が自分に向いていないのでは仕方がない。

 ―――断られたことで、俺の心はものすごく後ろ向きになってしまっていた。


「結局俺の独りよがり、か・・・」

 呟いた言葉は、風に拾われてすぐに消えてしまった。



 自分を見つめるその優しい黒の眼差しも、笑窪のできるその笑顔も、澄んだその声音も。

 眉根が下がるその困った表情が好きで、たまにわざと無茶を言ったりした。

 名前を呼ばれるとうれしくて・・・

 ずっとずっと彼女を見ていたかった。


 ―――俺と彼女の想いが、重なっていればよかったのに。

 

 そうすれば、ハルカをこの腕に閉じ込めて、どこにも行かせはしなかった。

 でも。

 もう何度目かもわからない、忘れたいその記憶がまた蘇る。


『ごめんなさい、レオン』


 思わず強く抱きしめてしまった俺の胸にそっと手をついて。

 顔を伏せて、彼女は俺を優しく突き放した。


『しあわせに―――』

 泣きそうな顔で、笑顔を浮かべた彼女の最後の言葉がまだ耳に残っている。

『どうか、しあわせになってね、レオン』


 

 不意に訪れた胸の痛みを堪えるように拳を強く握り締める。

 宥めるように頬をくすぐる風の感触を感じながら。

 思いを吐き出すように、大きな大きなため息を付いた。

 そして、全てを振り切るように勢いよく立ち上がった。


 もう、止めよう。

 もう、終わったんだ―――


 きりきりとまだ痛みを訴える胸を見ない振りをして。

 俺は、女神の丘を後にした。

 

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