1「今日は、書かなかった」
【冒頭】
本は、人を変えない。
けれど、誰かの中に、問いを残すことはできる。
一冊の本を読んだあと、人はどう生きるのか。
劇的な変化ではなく、ほんの少しだけ立ち止まった人たちを観測します。
これは、『読者地図』の新しい観測記録です。
一話完結・全6話。 どこからでも読めます。
『読書地図』でも同時投稿されます。
第1話 「今日は、書かなかった」
三月。新人賞の結果が届いた。
彼は、封筒を開ける前に、もう分かっていた。何度も同じ経験をしてきたから。
それでも、手は震えていた。
封筒の中には、一枚の紙だけが入っていた。『今回は見送りとなりました』という定型文。それ以外には何も書かれていない。
彼はその紙を何度か読み返したが、どこにも「次は」という言葉はなかった。それが、この世界のルールだった。
彼はその紙を机の上に置き、しばらくそのまま座っていた。書くことも、考えることもできなかった。ただ、時間が過ぎていくのを感じていた。
彼は今年で三十四歳になる。
社会人になって十年以上が経った。毎日、満員電車に揺られ、オフィスに通い、決められた仕事をこなす。
何も特別なことはない。普通の日常だ。
でも、彼はその日常の隙間を縫うように、小説を書いてきた。
それが、彼の「自分だけの時間」だった。仕事を終えて帰宅し、食事を済ませた後のわずかな時間。その時間だけは、誰のためでもなく、自分のためのものだった。
新人賞は、もう五回目だ。
最初は「まだ若い」と思われた。
二度目は「惜しい」と言われた。
三度目は「成長が感じられる」と評された。四度目は「そろそろ」と言われた。
そして五度目は、何も言われなかった。
彼はその結果を見て、自分が何かを間違えたのかもしれないと思った。
でも、それが何なのかは分からなかった。帰り道、彼は駅前の本屋に立ち寄った。特に目的はなかった。ただ、何かを探しているような気分だった。
店の奥の文芸コーナー。
新刊が並ぶ棚の片隅に、一冊の文庫本があった。表紙はシンプルで、タイトルだけが白く浮かんでいる。
『彼女の計画』。
彼は、そのタイトルを見たことがあるような気がした。でも、内容は知らない。彼は手に取って、数ページだけ読んだ。最初は何気なく。でも、そのうちに指が止まった。
そこには、
『書くことが誰かを傷つける可能性』
について、静かに触れられていた。
彼は、その部分を二度読み返した。自分のことを言われているような気がした。
それ以上は、読まなかった。
彼は、その言葉を読んで、何かが引っかかるのを感じた。それは、自分自身のことを言われているようだった。
彼は、その本を買った。
家に帰り、通勤電車の中で読み始めた。
何度か停車駅で顔を上げ、また読むことを繰り返した。読み終えるまでに、三日かかった。
彼は、読み終わったあと、しばらく何もできなかった。本を閉じたまま、ただそこに座っていた。
何かを考えようとした。
でも、考えるべきことが、何も浮かばなかった。
彼は、立ち上がった。
机の上には、書きかけの原稿がある。
もう何度も書き直した。
何度も最初からやり直した。
それでも、その原稿は、まだ完成しなかった。
彼は、その原稿を見つめた。
手を伸ばしかけて、止めた。
彼は、その原稿を机の上に置いたまま、ペンを置いた。
そして、その原稿に手を触れずに、電気を消した。
翌朝、彼はいつも通りに起きて、いつも通りに電車に乗った。何も変わっていない。
でも、彼の手にはあの本の感触が残っていた。会社に着き、デスクに座る。
何も変わっていない。
今日も、いつもと同じ一日が始まる。
彼は、何かを忘れたような気がしたが、それが何かは思い出せなかった。
ただ、今日は書かない。
それだけを、決めた。
【観測記録】
対象:匿名(読者A)
作品:『彼女の計画』
読了後経過:三日
観測項目:「書かない」という選択
特記事項:
彼は「書くこと」を手放したわけではない。
ただ、「書かなければならない」から解放されただけだ。
その選択が、彼の創作を止めるのか、それとも続けるのか、観測は継続する。
観測を続ける。
―『読後観測』―読者地図―は各話を独立短編で投稿―
第1話「今日は、書かなかった」
第2話「赤ペンを置いた日」
https://ncode.syosetu.com/n9607mn/1/
第3話「ノートを戻さなかった日」
https://ncode.syosetu.com/n9612mn/1/
第4話「送信しなかった夜」
https://ncode.syosetu.com/n9615mn/1/
第5話「何も感じなかった本」
https://ncode.syosetu.com/n9621mn/1/
第6話「感想を書いた日」
https://ncode.syosetu.com/n9625mn/1/
また、「読者地図」にも「読後観測シリーズ」として同時投稿されます。
―――関連作品―――
『彼女の計画』
カフェ「あおい」で上司の裏アカを覗いた瞬間から、私の日常は狂いはじめた。
『読者地図』本編はこちら。
物語が届く/届かないのは、作品の問題ではないかもしれない。




