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「遊んでいるだけの女に用はない」と追放された令嬢——彼女が設計した『遊び』がなくなった日、騎士団の子供たちは剣を抜いた

作者: 歩人
掲載日:2026/04/16

 食堂に血の匂いが広がった——と、後にヘルムートの手紙は書いていた。


 私はその場にいなかった。けれど手紙を読んだとき、匂いまで伝わってきた。子弟寮の食堂の、あの冷たい石壁に染みついた血と鉄の匂いが。


 夕食の鐘が鳴ってまだ五分も経っていなかった。トーマスが向かいに座っていた年下の子供の顔面を、スープ皿ごと叩き殴ったのだ。


 陶器が割れる甲高い音。スープが飛び散り、テーブルの上の蝋燭が倒れる。年下の子供——名前はフリッツ、八歳——が椅子ごと後ろに転がり、後頭部を石の床に打ちつけた。鈍い音が食堂に反響し、一拍の沈黙の後、子供たちの悲鳴が弾けた。


 寮母のマルタが駆け寄る。しかしトーマスは止まらなかった。十歳の少年は椅子を掴んで振り上げ、マルタの制止を突き飛ばした。目が据わっている。歯を食いしばり、鼻腔が大きく広がり、瞳孔が開ききっている——恐怖が暴力に化けた子供の目だ。


「やめなさい、トーマス!」


 マルタの声はトーマスには届かない。少年は椅子を振り回し、近くにいた子供たちが蜘蛛の子を散らすように逃げた。


 足音。新任寮長ゲルハルトが食堂に飛び込んできた。


「何事だ!」


 しかしゲルハルトは子供に手を出さなかった——出せなかったのだ、とヘルムートは書いていた。武官上がりの大男が暴れる子供を力で押さえつければ、確実に子供の骨が折れる。そしてそれが騎士団副長の耳に入れば——。


 鎮静魔法を使える治癒師が呼ばれた。青白い光がトーマスの体を包み、少年は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。意識はある。しかし目だけが動いている。声が出ない。体が動かない。魔法で縛られた子供の目が、天井を睨んでいる。


 古参騎士ヘルムートが食堂の入口に立っていた。腕を組み、眉間に深い皺を刻んで、床に転がったトーマスと、血を流すフリッツと、震える子供たちを見渡した。


 そしてゲルハルトに向かって、低い声で言った。


「……ベルタがいれば、こうはならんかった」


 ゲルハルトが振り向いた。


「何だと?」


「ベルタの遊びがあれば——」ヘルムートの声は静かだったが、食堂の隅まで届いた。「あの子は、こんな目にならずに済んだ」


 ゲルハルトは何も答えなかった。


 ベルタ・シュピールフェルト。


 三ヶ月前にこの子弟寮を追われた、遊戯指導係の女。


 ——私のことだ。ヘルムートの手紙を握りしめながら、私は辺境の宿屋で、この場面を何度も何度も頭の中で再生した。




 三ヶ月前の話をしよう。


 騎士団子弟寮。王都エーレンフェストの騎士団敷地の奥に建つ、灰色の石造りの寄宿舎。六歳から十二歳の子供たち、三十人ほどが暮らしている。全員が騎士の子弟だ。


 私はここで四年間、遊戯指導係をしていた。


 遊戯指導係。名前だけ聞けば大層なものだが、実態は——子供たちと遊ぶ仕事だ。少なくとも、周囲の大人たちはそう思っていた。


 朝は武術訓練、午前は座学、午後の二刻が私の時間。広場に出て、子供たちと走り回る。積み木を積む。粘土をこねる。騎士ごっこの台本を書く。


 傍から見れば、私はただ子供と遊んでいる女だった。


 ——でも、違う。


 子弟寮の子供たちは、普通の子供ではない。


 親は騎士だ。戦場に出る。何ヶ月も帰らないことがある。そして——帰ってこないことも、ある。


 ある朝、寮母が六歳の男の子の前に膝をついて、言った。


「お父様は、北方戦線で——」


 それ以上は聞こえなかった。寮母の声が小さかったのではない。男の子の泣き声が大きかったのでもない。子供は泣かなかった。ただ黙って、朝食のパンを咀嚼する手を止めた。


 翌日から、その子は誰とも口をきかなくなった。


 年長の子供たちが年少者を殴ることも珍しくなかった。力で序列を作ろうとする。それは彼らが見てきた「騎士」の姿——父親の姿だ。強い者が弱い者を従える。武力が正義。子供たちは、親の背中を見て育つ。


 けれど子供には、大人の抑制がない。


 力で従えようとした結果、殴られた子供は壊れる。殴った子供も、別の形で壊れていく。暴力の連鎖が、閉じた寮の中でぐるぐると回り続ける。


 それが騎士団子弟寮の現実だった。


 私がやっていたのは——その連鎖を、遊びの中で止めることだ。




 トーマスの話をしよう。


 十歳。父親は半年前に戦死した。母親はその前に病で亡くなっている。天涯孤独の戦災孤児。


 トーマスは砦遊びが好きだった——というより、砦遊びの「壊す」部分が好きだった。


 砦遊びは私が設計した遊びの一つだ。木の積み木で砦を組み立て、それを壊す。単純な遊び。だが、設計には意味がある。


 トーマスは毎回、異様な力で砦を叩き壊した。他の子供たちが引くほどの勢いで、積み木が弾けて壁にぶつかるほどの力で。顔を真っ赤にして、歯を食いしばって、積み木の山を何度も何度も殴りつけた。


 私は止めなかった。


 破壊衝動というのは、出口がなければ人に向かう。トーマスの拳が積み木を殴っている間は、人間を殴らない。砦遊びはトーマスにとって、攻撃性の安全な放出口だった。


 壊し終わった後、トーマスはいつも肩で息をしている。拳の皮が剥けていることもある。


 その時、私は静かに言う。


「もう一回、作ろうか」


 最初の一ヶ月、トーマスは作らなかった。壊すだけ壊して、立ち去った。


 二ヶ月目。壊した後、積み木をひとつ拾い上げた。元に戻したのではない。ただ拾って、見つめて、放り投げた。でも、それだけで十分だった。


 三ヶ月目。壊した砦の残骸を、一つずつ積み直し始めた。前よりも丁寧に。前よりも高く。壊した砦を、自分の手で作り直した。


 破壊と再建。それがトーマスの遊びだった。


 父親を失った怒りを積み木にぶつけ、壊し尽くした後に、もう一度作り直す。何度でも。何度でも。壊しても終わらない。作り直せる。——その感覚を体に覚えさせること。それが、トーマスの砦遊びの治療目標だった。


 遊び設計帳の記録——「トーマス。砦遊び開始から三ヶ月。破壊後の再建率100%。攻撃衝動は遊びに転化済み。中断厳禁」。




 トーマスだけではない。子弟寮の子供たちは、それぞれ違う形で壊れていた。


 十一歳のルーカス。ガキ大将。父親は北方戦線の中隊長で、年に二度しか帰らない。帰ってくるたびに素振りを見て「まだまだだな」と言う。褒めたことがない。


 ルーカスは年下の子供を殴ることで、自分の価値を確認していた。力が正義——それが彼の知っている唯一の世界だった。


 私がルーカスに用意したのは、騎士ごっこの脚本だ。ただし毎回、役を交代させる。強い騎士の日もあれば、逃げる村人の日もある。


「俺は騎士だ。逃げるなんて」


「そう? でも村人さんが逃げないと、騎士さんが守る人がいなくなるよ」


 しぶしぶ引き受けたルーカスが、砂まみれの顔で笑った瞬間を覚えている。攻撃する側でも、命令する側でもない立場で、初めて笑った。


 ある日、ルーカスが「守る側」の役で六歳のフリッツの前に立ちはだかった時——遊びなのに、目が真剣だった。守ることの意味を、体が覚えた瞬間だった。




 そして七歳のアンナ。


 父親を三ヶ月前に亡くしてから、一言も喋らなくなった子。


 子供は、大人のように言葉で悲しみを処理できない。七歳では、悲しみの正体すらわからない。お腹が痛いのか、寒いのか、怖いのか。区別がつかないから、全部を閉じてしまう。


 アンナには、静かな遊びを用意した。粘土をこねる。糸を紡ぐ。色を塗る。言葉のいらない遊び。


 私はアンナの隣に座って、黙って粘土をこねた。話しかけない。目も合わせない。ただ、同じ空間にいる。


 一週間。二週間。三週間。アンナは粘土に触らなかった。


 四週間目。


 隣から小さな手が伸びてきた。ルーカスが投げ出した粘土の塊に、アンナの指先が触れた。


 ——最初の接触。


 四週間かけて、やっと一歩。粘土に触れただけ。声はまだ出ない。


 でも、それだけでいい。急がないこと。


 遊び設計帳に記録する。「アンナ。静かな遊び開始から四週間。初の対物接触。次段階: 共同作業への誘導。急がないこと」




 四年間、こうやって一人ひとりの子供を見てきた。


 五十人以上。それぞれに課題があり、それぞれに遊びを設計した。攻撃性の高い子には全身を使う鬼ごっこで衝動を発散させ、臆病な子には段階的な木登りゲームで恐怖を克服させた。一人として同じ処方箋はない。


 遊び設計帳は三冊目に入っていた。


 ——そこに、新任寮長ゲルハルトがやってきた。


 前任の寮長は穏やかな文官で、遊戯指導の意味を理解していた。少なくとも、邪魔はしなかった。しかしゲルハルトは違う。武官上がりの大男で、子弟寮に赴任してきたのは「騎士の子弟に甘い教育をするな」という上層部の方針を実行するためだった。


 赴任初日、ゲルハルトは子弟寮を巡回した。武術訓練場を見て頷き、座学の教室を見て頷き——そして広場に出た。


 広場では、私が子供たちと砦遊びをしていた。トーマスが砦を壊し、ルーカスが積み直し、アンナが隅で粘土をこねている。笑い声と怒鳴り声と、積み木が崩れる音が入り混じっている。


 ゲルハルトは腕を組んで、しばらく広場を眺めていた。


「——おい」


 私は振り向いた。腕まくりをして、膝に泥がついて、髪が乱れた、二十三歳の伯爵令嬢。社交界では見られない姿だろう。


「はい、寮長」


「何をしている」


「遊戯指導の時間です」


「……遊んでいるだけではないか」


 ゲルハルトの目は冷たかった。子供たちを見ているのではない。私を見ている。伯爵家の令嬢が泥にまみれて子供と転げ回っている——その光景を、蔑みの目で。


「騎士の子弟に遊びは不要だ。この時間は剣の素振りに充てる」


「寮長」


 私は立ち上がった。


「この子たちには今、剣より積み木が必要です」


 ゲルハルトの眉が跳ね上がった。


「何だと?」


「トーマスは父親を亡くしてから攻撃衝動が制御できません。砦遊びで発散しなければ、人を殴ります。ルーカスは暴力でしか自分の価値を確認できない。騎士ごっこで守る側の経験を積ませなければ、このまま暴君になります。アンナは——」


「黙れ」


 ゲルハルトは私の言葉を遮った。


「子供と遊んでいるだけの女に、給金を払う余裕はない」


 ——それが、判決だった。


 元婚約者のクラウスが追い打ちをかけた。騎士団副長の息子。金髪を後ろに撫でつけた、見栄えのいい男。


「ベルタ。前々から申し上げていたはずだが。騎士の妻として、体面というものを考えてもらいたい。子供と転げ回るなど、恥ずかしいとは思わないのかね」


 クラウスにとって、私は「騎士の妻候補」でしかなかった。社交界で見栄えのする妻。パーティーで夫の隣に立つ妻。——子供の心を治す専門家ではなく。


 婚約破棄と追放は、同じ日に宣告された。


 悔しかった。


 悔しくて、腸が煮えるほど悔しくて、でも一番悔しかったのは——クラウスのことではなかった。四年間、毎日泥まみれになって、一人ずつ子供の心を編み直してきたのだ。その全てを「遊んでいるだけ」の一言で切り捨てられた。私の仕事を、私の四年間を、何も見ずに。


 けれど怒鳴り返す言葉は、出てこなかった。怒鳴ったところで何が変わる。ゲルハルトには遊びの価値が見えない。見えない人間に見せることは、私にはできない。


 ——いや、違う。本当のことを言えば、私は怖かったのだ。怒鳴れば、四年間かけて積み上げたものが本当に「遊び」でしかなかったと認めることになる気がして。




 荷物をまとめるのに、一刻もかからなかった。


 動きやすい服が数着。着替え。それと——遊び設計帳、三冊。


 寮を出る前に、寮母のマルタを呼んだ。


「マルタさん。これを」


 遊び設計帳の写しを渡した。三冊分。夜を徹して書き写したものだ。


「各子供の遊びの処方箋が書いてあります。特にトーマスの砦遊びは——中断しないでください。あの子は今、壊したものを作り直す段階に入っています。ここで中断したら——」


「ベルタ嬢」マルタの目に涙が浮かんでいた。「私は遊戯指導のことはわかりません。でも、お預かりします」


「……ありがとう」


 荷物を担いで、正門に向かった。


 広場を横切るとき、窓から子供たちが見ていた。


 トーマスが積み木を一つ、握りしめていた。砦遊びの積み木。手のひらに収まるサイズの、角が丸くなった木の塊。


 目が合った。


 何か言いたそうだった。でもトーマスは口を開かなかった。私も何も言わなかった。


 ——ごめんね。


 声に出せなかった。声に出せば崩れる。泣いたら、この門を出られなくなる。トーマスの砦遊びを中断することの意味を、私だけが知っている。あの子の拳がどこに向かうか、私だけが知っている。知っていて、置いていく。


 門を出た。


 振り返らなかった。振り返ったら、足が止まる。足が止まったら、膝から崩れる。だから、歯を食いしばって、前だけを見て歩いた。




 辺境ヴィーゼ領。王都から馬車で七日。北方戦線の跡地に近い農村地帯。


 なぜここに来たか。理由は単純だ。行く宛がなかった。


 シュピールフェルト伯爵家には帰れない。次女の私が婚約破棄されて出戻れば、長姉の縁談に差し障る。父からは「しばらく身を隠していなさい」と手紙が来た。金は多少、同封されていた。


 辺境の宿屋で働きながら、日々を過ごした。掃除をし、食事を運び、客の相手をする。体を動かす仕事は嫌いではなかった。


 ——けれど、手持ち無沙汰だった。


 遊び設計帳を開く。三冊。子供たちの顔が浮かぶ。トーマスは砦を作り直せているだろうか。ルーカスは守る側の役を続けているだろうか。アンナは——粘土に触れただろうか。


 考えても仕方がない。もう私は遊戯指導係ではない。ただの、宿屋の下働きだ。


 ヴィーゼ領の村には、子供がたくさんいた。


 帰還兵の子供たち。父親が戦場から帰ってきた——が、帰ってきた父親は以前の父親ではなかった。夜中に叫ぶ。酒に溺れる。些細なことで怒鳴る。子供たちは家にいたくなくて、広場にたむろしていた。


 その子供たちの遊びを、私は宿屋の窓から見ていた。


 戦争ごっこ。


 殴り合い。取っ組み合い。棒切れを振り回す。「死ね」「殺せ」という言葉が飛び交う。遊びのはずなのに、顔は笑っていない。


 ——見覚えのある目だった。


 子弟寮のトーマスと同じ目。恐怖が暴力に変わった目。


 三日、窓から見ていた。四日目の朝、私は宿屋を出た。


 村の広場に行き、隅に腰を下ろした。持っていたのは積み木——宿屋の親父に頼んで、端材から作ってもらったものだ。不揃いで、角が鋭い。子弟寮のものほど良い出来ではないが、積めば砦になる。


 黙って積み始めた。一人で。


 子供たちは最初、無視した。戦争ごっこの方が面白い。


 一時間後、一人の少年が近づいてきた。十歳くらい。頬に青痣がある——父親か、子供同士か。


「何やってんだ、おばさん」


 おばさん。二十三歳でおばさんか。まあいい。


「砦、作ってるの」


「は? 砦?」


 少年は鼻で笑って、積み上げた砦を蹴り倒した。積み木が散らばる。


 私は黙って拾い集め、また積み始めた。


「もう一回、作ろうか」


 少年は呆れた顔をして去っていった。


 翌日も同じだった。積む。壊される。「もう一回、作ろうか」。


 三日目。


 壊しに来た少年が、蹴る直前に止まった。


 砦は前日よりも高く、前日よりも複雑だった。窓がある。門がある。見張り台がある。


「……一緒に作っていい?」


 少年の声は小さかった。


「もちろん」


 それが始まりだった。




 辺境に来て二週間。広場に毎日通ううちに、子供たちが集まるようになった。


 砦遊び。騎士ごっこ(全員が全役を回る版)。静かな遊び。子弟寮で四年かけて磨いた遊びを、一つずつ村の子供たちに合わせて調整し、設計し直した。


 戦争ごっこが減った。殴り合いが減った。「死ね」「殺せ」の代わりに、「もう一回」「次は俺が守る番」という言葉が聞こえるようになった。


 宿屋の親父が不思議そうな顔で言った。


「最近、広場が静かになったな。前は毎日、泣きながら帰ってくる子供がいたんだが」


 ——そうだろう。遊びが変われば、子供が変わる。


 辺境に来て二ヶ月近くが経った頃だった。


 その日の夕方、広場に見知らぬ男が立っていた。


 大柄。筋肉質。顎に短い髭。左頬に古い傷跡。右足を引きずっている——義足ではないが、膝から下の動きが鈍い。戦場で負った傷だ。


 男は広場の端に立って、子供たちが砦遊びをしている様子を見ていた。


 私が近づくと、男は目を細めた。


「……子弟寮の、遊びの先生か」


 驚いた。


「ご存知なんですか」


「ああ」


 男は短く言った。軍人口調。


「ヴォルフ・グリュンヴァルトだ。元騎士団所属。息子が——子弟寮に、いた」


 いた、と過去形で言った。


「エーリヒという名だ。十歳になった。あなたの遊びの時間が、あいつの唯一の笑顔だったと——手紙に書いてあった」


 エーリヒ。


 覚えている。おとなしい子だ。ルーカスに殴られても殴り返さない。怒りを内に溜める子供。爆発するまで溜め込む。砦遊びでは壊す方ではなく、作る方が好きだった。細かい装飾を積み木で再現しようとして、何度も何度も崩れて、でも諦めなかった。


「エーリヒの遊びは、砦の装飾遊びでした。壊れやすいものを丁寧に作る——忍耐と集中の訓練です。あの子は暴力を内側に溜めるタイプで、出口が必要だった。精緻な作業に集中することで、溜め込んだ感情を別の形で昇華させる設計にしていました」


 ヴォルフは黙って聞いていた。


「……しかし今は」


「今?」


「手紙が途絶えた。二ヶ月、来ない」


 ヴォルフの声は平坦だった。しかし、握りしめた拳の関節が白かった。


「最後の手紙に、一行だけ書いてあった。『遊びの時間がなくなった。もう書くことがない』と」


「子弟寮で——何があったか、知っているか」


 私は目を伏せた。


「……私は、三ヶ月前に追放されました」


 ヴォルフは何も言わなかった。ただ、広場で砦を作っている子供たちを見つめた。


 しばらくして、低い声で言った。


「あなたがいなくなってから、息子は笑わなくなった」




 ヴォルフは辺境に引退した元騎士だった。戦場で右足を負傷し、前線を退いた。妻は早くに亡くし、一人息子のエーリヒを子弟寮に預けていた。


 年に一度、面会に行く。そのたびにエーリヒは嬉しそうに、遊びの時間のことを話した。「ベルタ先生と砦を作った」「今度は窓を三つつけるんだ」「ルーカスが僕の砦を壊さなくなった」。


 ——それが、三ヶ月前から途絶えた。


「足が悪いから、子供の相手はできんが」


 ヴォルフは広場の空き地を指差した。


「あそこを整地した。子供たちが遊べるように」


 見れば確かに、広場の一角が平らに均されていた。石が取り除かれ、雑草が刈られている。


「遊び場を?」


「……ああ。元々は、息子が来た時に一緒に遊べればと思っただけだ」


 不器用な人だ。子供の相手はできないが、遊び場は作る。自分が遊べなくても、子供が遊べる場所を用意する。


 ——似ている、と思った。私と。目に見えない形で子供を支える人間。


「ヴォルフさん」


「何だ」


「ここで遊戯指導を続けさせてください。宿屋の仕事が終わった後になりますが——」


「……ああ、好きにすればいい」


 短い返事。でも、ヴォルフの目の端が少しだけ緩んだのを、私は見逃さなかった。




 辺境での日々が流れた。


 午前は宿屋の仕事。午後は広場で子供たちと遊ぶ。遊び設計帳の四冊目が始まった。


 ヴィーゼ領の子供たちは、子弟寮の子供たちとは違う課題を持っていた。親が戦死したのではなく、帰ってきた——けれど壊れて帰ってきた。夜中に叫ぶ父親。酒に溺れる父親。些細なことで拳を振るう父親。


 子供たちの恐怖は、「父親がいなくなること」ではなく、「帰ってきた父親が怖い」ことだった。


 砦遊びの設計を変えた。壊すのは自分ではなく、「嵐」だ。嵐役の子供が砦を揺らし、他の子供たちが砦を守る。壊れても、全員で作り直す。「壊すのは自分のせいじゃない。でも、作り直すのは自分にもできる」。


 少しずつ、村が変わっていった。


 ヴォルフは毎日、広場の端で見ていた。片足を投げ出して座り、腕を組んで、子供たちが走り回るのを目で追っている。時折、転んだ子供に手を差し伸べる。すぐに引っ込める。——照れているのだ、この大男は。


「ヴォルフさん、子供と遊ばないんですか」


「……足が」


「足なんか関係ないですよ。座ったままできる遊びなんていくらでもあります。粘土こねましょう、粘土」


「俺に粘土をこねろと」


「はい」


 ヴォルフは渋い顔をしたが、結局、子供たちの輪に加わった。元騎士の大きな手が粘土をこねる姿は、子供たちに大受けだった。ごつごつした、不格好な粘土の塊。


「ヴォルフのおじちゃん、下手くそ!」


「……うるさい」


 子供たちが笑った。ヴォルフも——ほんの少しだけ、口の端を上げた。


 その横顔を見て、不意に気づいた。この人の前にいると、私も笑っている。子供と遊んでいる時とは違う、別の種類の笑みで。




 そして三ヶ月後。


 冒頭に戻る。


 王都の子弟寮で、トーマスが食堂で爆発した場面。


 あの日、私は辺境ヴィーゼ領にいた。知ったのは、後からだ。


 ヘルムートから手紙が届いた。




 ヘルムートの手紙は長かった。


 遊戯指導の時間が廃止され、剣の素振りに置き換えられたこと。


 トーマスの砦遊びが中断されたこと。最初の一週間、トーマスは壁を蹴り、床を殴り、声にならない叫びを上げていたこと。出口を失った攻撃衝動が、二週間目から人に向かったこと。年下の子供を殴り、寮母を突き飛ばし、止めに入った教官の手を噛んだこと。


 ルーカスが騎士ごっこの脚本を取り上げられたこと。守る側の役を経験する機会を失い、暴力による序列づくりに逆戻りしたこと。年少者を従えるグループを作り、食事の取り分を奪い、逆らう子供を殴ったこと。


 アンナが再び誰とも話さなくなったこと。静かな遊びの時間を失い、粘土も糸も色鉛筆も片付けられ、集団に戻る道が完全に塞がれたこと。隅に一人で座り、膝を抱えて、じっと靴先を見つめるだけの日々に戻ったこと。


 ——そして、鎮静魔法が常態化したこと。暴れる子供を魔法で黙らせる。声が出ない。体が動かない。意識だけがある状態で床に転がされる。翌日、魔法が解けた子供の目は、もっと暗くなっている。恐怖が二重になる。暴力への恐怖と、自分の体が動かなくなる恐怖。


 ゲルハルトは「規律の問題だ」と言い張った。「素振りの量を増やせ。疲れさせれば暴れる体力がなくなる」。


 ——違う。疲労で暴力は止められない。出口を塞がれた感情は、体力の有無に関係なく噴出する。


 手紙の末尾に、ヘルムートはこう書いていた。


「食堂で暴力事件が起きた日の夜、わしはゲルハルトの執務室に押しかけた。お前が去る前に寮母に託していた遊び設計帳の写し——あれを突きつけてやった」


「ゲルハルトはページを一枚ずつ読んだ。子供の名前。行動記録。遊びの処方箋。治療目標。経過観察。全てが記録されていた」


「トーマスの項目を読んだ時、ゲルハルトの手が止まった。『砦遊び開始から三ヶ月で、破壊後の再建率100%。攻撃衝動は遊びに転化済み。中断厳禁』——その最後の二文字を、三度読み直していた」


「ゲルハルトが言った。『……遊んでいただけではなかったのか』」


「わしは答えた。『あの女は、一人ひとりの子供の心を設計していた。お前が追い出したのは遊び相手じゃない。子弟寮の医者だ』」


「ゲルハルトは遊び設計帳を閉じたまま、しばらく動かなかった。それからな——この大男が、頭を抱えたよ。『なぜ……なぜ、もっと早く言わなかった』と。わしは言ってやった。『ベルタは言った。お前が遮ったのだ』。ゲルハルトは黙った」


「ついでに教えておく。あのクラウスの坊主だが——子弟寮の暴力事件が騎士団本部に報告された。暴力が激化した時期が、ベルタの追放と完全に一致する。副長殿が激怒してな、息子を呼びつけて問い詰めたらしい。『お前が婚約破棄した女が、子弟寮の秩序を支えていたのか』と。クラウスは何も答えられなかったそうだ。体面を気にしていた男が、体面を失ったわけだ」


 手紙を読みながら、私は笑わなかった。笑えなかった。


 ゲルハルトが頭を抱えたところで、トーマスの壊れた砦は戻らない。クラウスが体面を失ったところで、アンナの四週間はやり直せない。


 因果応報。そう呼ぶには、あまりにも遅い。




 騎士団から正式な帰還要請が届いたのは、それから一週間後だった。


 王都から早馬で五日かけて、使者がヴィーゼ領に来た。騎士団の紋章入りの外套を着た文官が、宿屋に乗りつけた。


「ベルタ・シュピールフェルト嬢。騎士団子弟寮長ゲルハルト閣下より、遊戯指導係への復帰をお願い申し上げます。待遇は以前の三倍——」


「お断りします」


 文官が言葉を失った。


「し、しかし。子弟寮は今、大変な——」


「存じ上げています」


 私は広場を見た。子供たちが砦遊びをしている。ヴォルフが端で粘土をこねている。


「子弟寮に戻る気はありません」


 文官が焦る。


「な、なぜ——」


「遊戯指導係が必要なのは、子弟寮だけではありません。ここにも、遊びを必要としている子供たちがいます」


 そして——


「それに」


 私は遊び設計帳を手に取った。四冊目。表紙がもう擦り切れている。


「私がいなくても、遊びは設計できます。遊び設計帳の使い方をお教えしますから、子弟寮で実行できる人を育ててください」


 文官は口をぱくぱくさせたが、やがて生唾を飲み込んで、巻物に返事を書きつけた。


「……もう一つ」


 私は付け加えた。


「クラウス様——元婚約者にお伝えください。騎士の妻が何をすべきかは、夫が決めることではありません。私は子供と遊ぶ女です。それが恥だと仰るなら——その恥が、あなたの騎士団を支えていたのだと、お知りおきください」




 使者が去った後、ヴォルフが近づいてきた。


「断ったのか」


「はい」


「……そうか」


 それだけだった。ヴォルフは何も聞かない。なぜ断ったのか。後悔はないのか。これからどうするのか。


 ——この人は、いつもそうだ。私が何を選んでも、黙って受け止める。判断を尊重する。口を出さない。


 クラウスは、私の全てに口を出した。服装に。振る舞いに。仕事に。「騎士の妻として」という枕詞で、私の輪郭を削ろうとした。


 ヴォルフは、何も削らない。


 ……そのことに、胸の奥が少しだけ、温かくなった。今はまだ名前をつけない。つけなくていい。


 ヴォルフが、一つだけ付け足した。


「頼みがある」


「はい?」


「……エーリヒを、引き取る手続きを始めた。子弟寮から出す。ここで育てる」


 ヴォルフの声は平坦だった。しかし、指先が微かに震えていた。


「あいつが来たら——あなたの遊びに、入れてやってくれるか」


「もちろんです」


 即答した。


「ヴォルフさん」


「何だ」


「エーリヒくんの遊びは、砦の装飾遊びでした。壊れやすいものを丁寧に作る遊び。あの子には今、それが必要です。精緻なものを作る集中の時間が、あの子の心の安全弁なんです」


 ヴォルフはしばらく黙って、それから頷いた。


「……覚えておく」




 エーリヒが辺境に来たのは、さらに二週間後だった。


 馬車が村に到着し、ヴォルフが出迎えた。片足を引きずりながら、馬車の前に立った。


 降りてきたのは——十歳の少年。小柄。目の下に隈があり、唇の端が切れている。手には小さな傷がいくつもあった。爪が手のひらに食い込んだ痕。怯えた目。


 子弟寮で何があったのか、全身が語っていた。


 ヴォルフはエーリヒの前に膝をついた。大きな体を折り曲げて、息子と目の高さを合わせた。


 何を言うかと思った。


 ヴォルフは口を開き——閉じ——もう一度開いた。


「……帰ってきたな」


 それだけだった。不器用な父親の、不器用な言葉。


 エーリヒは答えなかった。拳を握りしめて、ヴォルフの顔を見上げていた。


 ヴォルフが立ち上がり、不器用にエーリヒの背を押して、私の前に連れてきた。


「……頼みがある」


 ヴォルフの声が震えた。


 二十年以上の実戦経験を持つ古参騎士。戦場で右足の自由を奪われても顔色一つ変えなかった男の声が、震えていた。


「もう一度……こいつと、遊んでやってくれ」


 エーリヒを見た。


 怯えた目。握りしめた拳。爪が手のひらに食い込んでいる。——出口がない。感情の出口が、全部塞がれている。


 私はエーリヒの前にしゃがんだ。視線を合わせた。


 何も聞かなかった。何があったのか。誰に殴られたのか。怖かったか。寂しかったか。——何も、聞かなかった。


 代わりに、積み木を一つ差し出した。


 角が丸くなった、小さな木の塊。砦遊びの積み木。


「一緒に、砦を作ろうか」


 エーリヒは積み木を見つめた。


 長い沈黙があった。


 広場で他の子供たちが走り回る声が聞こえた。風が吹いて、木の葉がざわめいた。遠くで鳥が鳴いた。


 エーリヒの握りしめた拳が——ゆっくりと、ほどけた。


 小さな手が、積み木に触れた。




 夕暮れの広場。


 ベルタと子供たちが砦を作っている。エーリヒは端の方で、細い積み木を慎重に積み上げている。窓を三つつけようとして、二回崩れた。三回目。


 ヴォルフが広場の端に座っている。片足を投げ出して。大きな手で不格好な粘土をこねながら。


 子供たちの笑い声が、夕焼けの空に響く。


 トーマスの砦は——もうここにはない。でも、あの子の手が覚えた「壊して、作り直す」は、きっとまだ、あの小さな手の中にある。


 ルーカスは——守る側の役を、まだ覚えているだろうか。覚えていてほしい。


 アンナの指先は——粘土に触れただろうか。触れていてほしい。


 遊びは目に見えない。遊びの成果は数字にならない。剣の素振りは回数を数えられる。座学の点数は比較できる。でも、「壊した砦を作り直した回数」は、誰も数えない。


 だから——「遊んでいるだけ」に見える。


 でも私は知っている。遊びは子供にとっての言語だ。言葉にできない怒りを、恐怖を、悲しみを、遊びの中で表現し、遊びの中で消化する。それが遊戯療法。


 私の仕事は、その言語を設計すること。一人ひとりの子供に合わせた、世界で一つだけの処方箋を書くこと。


 エーリヒが積み木の砦に三つ目の窓をつけた。崩れなかった。少年は砦を見つめて——ほんの少し、口の端を上げた。


 笑った。


 私も笑った。


「いい砦だね。次は門を作ろうか」


 ——もう一回、作ろうか。


 何度でも。何度でも。壊れても、作り直せる。


 それを教えるのが、私の仕事だ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回のモチーフは「遊戯療法プレイセラピー」です。子供は大人のように言葉で感情を処理できないことが多い。遊びは子供にとっての言語であり、攻撃性・恐怖・孤立を遊びの中で安全に表現し、消化していく——という現実の心理療法を、異世界ファンタジーに落とし込みました。


 「もう一回、作ろうか」。この台詞をリフレインにしたのは、遊戯療法の核心が「繰り返し」にあるからです。砦を壊して、作り直す。何度壊れても、もう一度作れる。その体験の積み重ねが、子供の心を支える。書いていて一番苦しかったのはアンナのシーンで、四週間かけてやっと粘土に指が触れる——その一歩の重さを、自分でも泣きそうになりながら書きました。


 トーマスの「中断厳禁」という遊び設計帳の記録が、追放後の崩壊を予告するシーンは、この作品で一番好きな因果応報です。設計者がいなくなった後に、設計がいかに精緻だったかが露呈する——見えない仕事の恐ろしさ。




◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇




婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。




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村の子供たちを放置するわけにはいかないけど、子弟寮の子供たちは主人公に捨てられた、または子弟寮の大人たちが追い出したと強烈な恨みを持ち続けそう…。 主人公の指導はやはりどこかで覚えたんだと思うので、そ…
何かしらの理由で親を失ったり、親の性格が変わり暴力的になった子供は、周りのフォローが有ってもそれが合わなかったり、不適切だと性格が歪むからね・・・。
 主人公を追放した事が原因で、寮内で流血沙汰が起きたのに誰も責任をとらないのか?  泣き言書いた手紙と使者を差し向けただけ?  少なくとも、主人公を追放する引き金引いた張本人クラウスとそれを容認した寮…
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