第9話 底辺からの脱却
壁の薄いアパート。隣の部屋から漏れ聞こえる下品なテレビの音。湿気とカビ、そして、むせ返るような安物の香水と煙草が混ざり合ったひどい匂い。
それが、私、矢絡深栄子の記憶の底にこびりついている原風景だ。
私の母親は、神奈川県の端にある場末のスナックで働く、若さだけが取り柄の売れないホステスだった。彼女は子育てになど微塵も興味がなく、その人生のすべては「男」で構成されていた。
夜な夜な、素性の知れない違う男を六畳一間の狭い部屋に連れ込み、その度に私は押し入れの中で息を潜めて朝が来るのを待った。
母親は男に金を貢ぎ、裏切られ、殴られ、そして最後には必ず捨てられる。
「どうして私を捨てるの! あんなに愛してるって言ったじゃない! お願い、行かないで!」
化粧の剥げた顔で、土下座をして男の靴にしがみつき、玄関のドアの前でみっともなく泣き叫ぶ母親の姿。男は舌打ちをし、すがりつく彼女を容赦なく蹴り飛ばして出て行く。
「あんたからもお願いしてよ! パパに行かないでって言ってよ!」
フローリングに倒れ込んだ母親は、冷え切った目で一部始終を見つめている私に向かって、狂ったように叫んだ。
私は一言も発さず、ただ冷ややかに、その醜悪な顔を見下ろしていた。
(馬鹿みたい)
それが、幼い私の偽らざる本音だった。
滑稽で、惨めで、救いようのない底辺の生き物。愛だの情だの、そんな目に見えない無力な幻想に自分の人生を委ねるから、女は男に安く消費され、こうしてゴミのように捨てられるのだ。
生きていく上で本当に必要なのは、圧倒的な「金」と「地位」、そして他者をコントロールする力だけ。
私は絶対に、こんな惨めな大人にはならない。泥水の中で、私は固く心に誓った。
高校生になる頃には、私は自分がどれほど美しい容姿を持っているかを完璧に理解していた。
すれ違う男たちは皆、私を振り返る。同級生の男子も、街のチンピラも、果ては教師すらも、私を見る目が隠しきれない欲望に濁っていた。母親の血を引いたのか、男の本能を狂わせるフェロモンのようなものが私には備わっていたのだろう。
しかし、私はその辺の安い男たちには一切靡かなかった。
「栄子ちゃん、今度の週末、他校の先輩たちとドライブ行かない?」
安っぽい化粧で着飾った同級生の女たちは、ファミレスの食事代や、安いシルバーアクセサリー一つで簡単に男に体を許していた。自分の価値を自ら暴落させていることに気づかない愚か者たちを、私は心の底から軽蔑していた。
私のこの美貌と若さは、決して安売りしてはいけない最強の武器だ。
手当たり次第に網を張るような真似はしない。狙うのは、圧倒的な富と、確固たる地位を持つ本物の資産家。たった一度のチャンスで、最も巨大な獲物を「一本釣り」するのだ。
そのためには、私自身も「底辺の女」の匂いを完全に消し去る必要があった。
私は死物狂いで勉強し、奨学金を得て名の知れた私立の短大へと進学した。アルバイトで稼いだ金はすべて、教養を身につけるためのマナー教室や、美しい肌と髪を維持するための高級エステに注ぎ込んだ。
言葉のアクセント一つ、歩き方、ティーカップの持ち方に至るまで。生粋の富裕層の令嬢たちの動きを観察し、ビデオで録画しては鏡の前で反復練習し、そっくりそのままコピーした。皮膚に染み付いた貧困の匂いを、最高級のボディクリームの香りで上書きする。
泥水の中で育った過去を完全に漂白し、誰もが振り返り、誰もがひれ伏す「完璧で純真なお嬢様」という強固な仮面を、私は何年にもわたって丹念に作り上げていったのだ。
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短大を卒業する頃には、私の武器は完璧に研ぎ澄まされていた。
あとは、その武器を突き立てる最適な「獲物」を見つけるだけだ。
私は、高級ホテルのラウンジでのアルバイトや、セレブが集まるパーティーの末席に潜り込み、独自の資産家リストを作成していった。
IT企業の若き社長や、外資系金融のエリート。彼らは確かに莫大な金を持っているが、遊び慣れていて女を値踏みする目が肥えている。それに、彼ら自身の浮気のリスクも高い。私が求めるのは、そういう競争の激しいスリリングな男ではない。
絶対的な財力があり、盤石な地位を持ち、何よりも――女性経験が少なく、人を疑うことを知らない「お人好しで御しやすい男」。
そんな都合の良い条件を満たすターゲットを血眼になって探し続けた結果、一人の男が私のリストの最上位に躍り出た。
矢絡深隆史。当時三十三歳。由緒ある輸入車ディーラーの二代目社長。
経済誌のインタビューや、パーティーで集めた業界の噂話を総合すると、彼は真面目で温厚、そして何より「旧車」という趣味に莫大な金と情熱を注ぎ込んでいるオタク気質の男だった。三十代半ばにして独身。女遊びの噂は皆無で、休日は常に自宅のガレージに引きこもり、油まみれになって古い車のエンジンを弄っているという。
(これだわ……!)
私は雑誌に載った彼の写真を見つめ、勝利を確信したような冷たい笑みを浮かべた。
少し優しすぎるほどの下がった目尻。人が良さそうな甘い輪郭。
この男なら、私の作り上げた「令嬢」の仮面を、一切の疑いを持たずに信じ込んでくれる。
ターゲットが決まれば、あとは彼を釣り上げるための極上の餌を用意するだけだ。
私は隆史の趣味である「クラシックカー」について、徹底的なリサーチを開始した。
図書館で専門書を借り漁り、インターネットで海外のフォーラムまで読み込んだ。彼が最も愛してやまないという、ジャガー・Eタイプ。
『車は単なる移動手段ではありません。歴史と情熱を継承する、生きた芸術品です』
インタビュー記事のその文字を指でなぞりながら、私は鼻で笑った。
(馬鹿みたい。エアコンも効かないただの古臭い鉄屑に何千万も注ぎ込むなんて、どうかしてるわ)
あんなガラクタのどこが良いのか、私には微塵も理解できない。だが、そんな本音は心の奥底に厳重に封印した。その「どうかしている」部分こそが、彼を完全に操るための強烈なフックになるのだ。
人が自分の最も深い趣味や情熱を理解されたとき、どれほどの快感を覚えるか。しかもそれが、若くて美しい女からであれば、男の自尊心は限界まで膨れ上がり、冷静な判断力を完全に失う。
「ロングノーズからテールにかけての、官能的な流線型のフォルム」
「当時の職人たちの情熱が宿る、直列六気筒エンジン」
「シリーズ1の初期型特有の、フラットフロアの造形美」
私は、専門用語や彼が好んで使っていたポエティックな表現を、まるで呪文のように何度も暗唱した。暗記用のノートは、車のスペックや歴史、そして「どのタイミングでどんな言葉をかければ彼の心を揺さぶれるか」というシミュレーションで真っ黒に埋め尽くされた。
数週間後。
隆史が自身の愛車を出展するという、資産家や愛好家が集まるシークレットなクラシックカー展示イベントの情報が舞い込んできた。
私はその運命の日に向けて、完璧な武装を整えた。
派手すぎず、しかし男の目を確実に惹きつける、淡いブルーの清楚なシルクのワンピース。髪はゆるく上品に巻き、メイクはあくまでナチュラルに、少しだけ無防備な隙を感じさせるように計算し尽くした。
イベント前夜、私は自室の姿見の前に立ち、彼にかける最初の一言を練習した。
目を少しだけ見開き、芸術品に感動して打ち震えるような表情を作る。
「……なんて美しい車なんでしょう。この流線型のフォルムに、息を呑んでしまって」
鏡の中の私は、どこからどう見ても、旧車の魅力に心を奪われた純真で知的な令嬢だった。
冷たい微笑みが、美しく彩られた唇の端に浮かぶ。
待っていなさい、お人好しな社長さん。
私が、あなたのその退屈な人生に、最高の運命を演出してあげるから。
誰も奪うことのできない、完璧で強固な鳥籠を手に入れるために。私の冷酷な狩りが、今まさに始まろうとしていた。




