第8話 訃報
数日後。
夕闇が高級住宅街を青黒く染め始める頃、エントランスの冷たい大理石の上で、夫の隆史は私の肩を優しく抱き寄せた。
「それじゃあ、行ってくるよ。今日は都内の重要なクライアントと会食なんだ。遅くなるし、お酒も入るから、向こうのホテルに泊まって明日の昼過ぎに帰るよ」
隆史は仕立ての良いオーダースーツに身を包み、いつものように心底愛おしそうに私の額にキスを落とした 。
「ええ、気をつけてね。あまり飲みすぎないように。子供たちのことは私と舞子さんに任せて、商談頑張ってきてちょうだい」
私は完璧な妻としての微笑みを顔に貼り付け、彼のネクタイの結び目を直すふりをした。
「ありがとう、栄子。君のような妻がいてくれて、僕は本当に幸せだ。愛しているよ」
人を疑うことを知らないお人好しの夫は、満足げに微笑むと、大きめのカバンを抱えて迎えに来ていた黒塗りのハイヤーに乗り込んでいった。重厚な門が閉まり、赤いテールランプが見えなくなるのを見届けてから、私は長く、重い溜め息を吐き出した。
その日の深夜。
子供たちを寝かしつけた新居は、耳鳴りがするほどの静寂に包まれていた。広大なリビングルームのソファに深く沈み込みながら、私は手元のスマートフォンを何度も、何度も確認していた。
画面は真っ暗なままだ。通知を知らせる光は一切点灯しない。
いつもなら、この時間になれば江上浩二からメッセンジャーアプリを通じて、下品でしつこい呼び出しの連絡が来るはずだった。
『金持ちの旦那はどうせ寝てるんだろ?』
『今から来いよ。あの声、聞かせろ』
私が彼からの誘いを無視していても、数時間おきに画面を埋め尽くすほどの粗暴な言葉が送られてくるのが常だった。あの暴力的なまでの執着が、私の中の渇きを癒す唯一のスパイスでもあった。
しかし、今夜は違った。
昨日から、浩二からの連絡がぱったりと途絶えているのだ。私から『何をしているの?』と短いメッセージを送ってみたが、既読すらつかない。
ただの気まぐれだろうか。それとも、裏社会の面倒なトラブルにでも巻き込まれているのか。
最初は気にも留めていなかった。しかし、時間が経つにつれ、私の胸の奥にどろりとした不気味な胸騒ぎが広がり始めていた。
(……もし、あの男が何かを企んでいるとしたら?)
『もしかして、俺の種だったりしてな』
ふいに、浩二のあの冗談めかした無責任な声が脳裏に蘇る。長男の鳳太と、三男の創太。私と彼との間に生まれた、「三兆分の一の呪い」の証拠。
もし、浩二がその事実に気づき始めているとしたらどうだろう。あの男は金に汚く、他人の人生を破滅させることに何の躊躇いも持たない。私のこの完璧で裕福な生活を逆手に取り、莫大な金を要求してくるかもしれない。「金を出さないなら、お前のあの優しい旦那に、三つ子のうち二人が俺の子供だってバラすぞ」と脅してくる未来が、鮮明な映像となって頭の中に浮かび上がった。
(やめて……。それだけは、絶対に)
私は無意識のうちに、自分の腕を爪が食い込むほど強く掻き毟っていた。
隆史に真実が知られれば、私の人生は完全に終わる。あの陰気で鋭い義弟の豊にも知られ、矢絡深家から着の身着のままで放り出されるに違いない。
音の鳴らないスマートフォンを握りしめたまま、私は恐怖と焦燥感で一睡もできず、ただ暗闇の中で浅い呼吸を繰り返していた。
+++
翌朝。
高く澄み切った青空から、眩しい朝日がダイニングルームに降り注いでいる。出張シェフが用意した焼きたてのパンの香りと、高級なコーヒー豆の豊かな香りが部屋を満たしていた。
しかし、私の心には昨夜から続く分厚い暗雲が立ち込めたままだ。寝不足で重い頭を抱えながら、私は気を紛らわせるために、壁掛けの巨大な薄型テレビの電源を入れた。
画面には、朝の情報番組が映し出されている。
三つ子たちはまだ寝室で舞子が見てくれている。静かな朝のダイニングで、私は熱いコーヒーを口に運んだ。
『……続いてのニュースです。昨夜未明、東京都内の雑居ビルの一室で、男性が血を流して倒れているのが発見されました』
女性キャスターの沈痛な声が響く。
私は手元のスマートフォンから目を上げ、何気なくテレビの画面を見つめた。
『現場は、都内の繁華街から少し離れた雑居ビルの四階です……』
現場からの中継映像に切り替わる。画面に映し出されたのは、建設中の無機質なビルの向かいにある、見覚えのある古びた雑居ビルだった。
剥れかけた塗装。エレベーターのない薄暗い階段。そして、警察の規制線である黄色いテープが張られた、あの四階の鉄扉。
ドクン、と。
私の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど大きく跳ねた。
手から力が抜け、持っていたコーヒーカップがソーサーの上にカチャリと嫌な音を立てて落ちた。茶褐色の液体が、真っ白なテーブルクロスにシミを作っていく。
『発見されたのは、この部屋に住む江上浩二さん、二十八歳。発見時、江上さんは刃物のようなもので複数回刺されており、すでに出血多量で死亡していました』
画面が切り替わり、一枚の写真が大写しになる。
裏社会の男には不似合いな、青い背景で撮られた無表情な顔。江上浩二の、運転免許証の証明写真だった。
「……嘘でしょ」
私の口から、掠れた声が漏れた。
浩二が、死んだ?
つい先日まで、あの薄汚れたベッドの上で、荒々しく暴力的な力で私を組み敷いていたあの男が。私の息苦しい鳥籠の中で、唯一の捌け口であり、ヒリヒリするような熱を与えてくれていた危険な男が、もうこの世にいない。
『警察の発表によりますと、被害者は裏社会の組織と何らかの接点があったと見られており、トラブルに巻き込まれた可能性が高いとのことです。また、凶器は現場に残されていませんでしたが、遺体の傷口の形状から、刃の一部が波打ったような、特殊な形状のナイフが使われたと見られています……』
画面の中で冷たくこちらを見つめる、浩二の運転免許証の写真。
(浩二が、殺された……)
私を野蛮に愛した男の死。一瞬、胸の奥がキュッと締め付けられるような、鋭い喪失感と悲しみが押し寄せてきた。もう二度と、あの危険な体温に触れることはできないのだ。
だが、その感傷は、ほんの数秒しか持たなかった。
悲しみの波が引いた直後、私の内側の最も深い、最も暗い場所から、別の感情がマグマのようにふつふつと湧き上がってきた。
『三つ子のうちの二人が、浩二の子供である』という、誰にも言えない絶対的な秘密。
私をいつか脅迫し、この完璧で裕福な人生をすべて破壊するかもしれなかった、最大の「時限爆弾」。
それが今、何者かの手によって、永遠に処理されたのだ。
死人は口を開かない。彼が死んだことで、鳳太と創太の父親が誰なのか、その真実を暴くことができる人間は、この世から一人もいなくなった。
私は、広大な大理石のダイニングルームを見渡した。美しい庭園、豪華な調度品、そして、私を狂おしいほどに愛してくれる、金持ちでお人好しの夫。
(……守られたわ)
私が築き上げたこの「完璧な人生」は、これからもずっと私のものだ。
浮気がバレることは、もう絶対にない。
震えていた私の指先から徐々に力が抜け、こわばっていた肩の力がゆっくりと降りていく。
テレビの中では、キャスターが未だに凄惨な殺人事件の全容を深刻な面持ちで語り続けている。しかし、私の耳にはもう何も入ってこなかった。
浩二の運転免許証の写真を画面越しに見つめながら、私はこぼれたコーヒーを拭くことも忘れ、自分でも気づかないうちに、口の端を吊り上げていた 。
恐怖と悲しみが反転して生まれた、黒く、淀んだ、絶対的な安堵感。
「……どうか、安らかにそのままお眠り続けて。さようなら、浩二」
誰もいないダイニングルームに、私のひどく歪んだ笑みと、甘い囁き声だけが静かに溶けていった。




