第7話 神の悪意
DNA鑑定の残酷な結果を知った翌朝。
天井まで届く大きな窓から、眩しいほどの朝日が降り注ぐ広大なダイニングルーム。大理石の床に落ちる光はいつもと変わらず美しく、専属の庭師が手入れをした芝生は青々と輝いている。誰もが羨む、非の打ち所がない完璧で裕福な朝の風景。
しかし、今の私にとって、この豪邸は息の詰まる無間地獄へと変貌していた。
「ママ、もっとパンちょうだい!」
「僕が先! あっちいけ!」
「うぇぇん、パパぁ……」
長くて重厚なマホガニーのダイニングテーブルの片側に、三つの子供用ハイチェアが等間隔に並べられている。左から順に、長男の鳳太、次男の蓮太、三男の創太。
私は、出張シェフが焼いたクロワッサンを乱暴に奪い合う長男と三男、そしてその騒ぎに巻き込まれて泣き出す次男の姿を、まるで恐ろしい化け物でも見るかのような虚ろな目で見つめていた。
「ほらほら、仲良く食べないと。パパみたいに、野菜も残さず食べないと強く大きくなれないぞ」
向かいの席では、夫の隆史が嬉しそうに自身の朝食を頬張っている。彼の毎朝の定番は、バターで炒めたたっぷりのほうれん草のソテーを、二枚の厚切りパンで挟んだ特製の『ポパイサンド』だ。子供の頃から彼が愛してやまない大好物であり、出張シェフにもわざわざ毎朝作らせているこだわりの一品だった。
二枚のパンに挟まれた、ほうれん草。
生まれてきた順番。
最初は、ただの偶然だと思っていた。しかし、真実を知ってしまった今、この並び順には、神が私に与えた残酷な因果を感じずにはいられなかった。
向かって左端に座る長男の鳳太。彼は、あの裏社会の男、江上浩二の血を引いている。
そして右端に座る三男の創太もまた、浩二の子供だ。
その二人に挟まれるようにして、中央の席で小さくなっている次男の蓮太だけが、夫である隆史の本当の子供なのだ。
食卓での椅子の並びだけではない。家族で外出する際に使う、海外製の高級な三人乗りベビーカーもそうだ。左から、長男、次男、三男。リビングに並べられた彼らのおもちゃ箱も、寝室に敷かれた布団の位置も、すべてがその順番になっている。
浩二の子に挟まれて、この世に生を受けた隆史の子。
どこへ行っても、何をしていても、常に下劣な男の血に挟まれている隆史の血。その光景を目にするたび、私は嫌でも自身の犯した罪を意識させられた。まるで、見えざる神が私の不貞を嘲笑い、この歪な罪の形を白日の下に晒しているかのようだった。
「三兆三三三三億分の一……」
淹れたての紅茶が注がれたマイセンのカップを見つめながら、私は誰にも聞こえない声で呟いた。
奇跡という名の、絶対に逃れられない呪い。
もし、この事実が誰かに知られたら。私を盲目的に愛するお人好しの夫が、自分が慈しんでいる「奇跡の天使」のうち二人が、赤の他人の――それも裏社会の底辺を這いずるような男の子供だと知ったら。
そして何より、私の胸の奥に黒い染みのように広がっていたのは、当の本人である浩二の存在だった。
『もしかして、俺の種だったりしてな』
彼のあの無責任な笑い声が耳にこびりついて離れない。今はまだ、彼自身もあれがただの質の悪い冗談だと思っているだろう。しかし、浩二は金に汚く、粗暴で、後先を考えない男だ。もし何かの拍子で彼が真実に気づいたら? あるいは、ただの気まぐれで「金持ちの旦那に浮気をバラすぞ」と私を脅迫してきたら?
あの男なら、躊躇なくやるだろう。私の築き上げたこの完璧な人生を、泥靴で踏みにじり、莫大な慰謝料を要求してくるに違いない。
いつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えながら、私はこの息苦しい鳥籠の中で、完璧な妻の仮面を顔に貼り付け続けなければならないのだ。
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数日後の休日。
雲一つない青空が広がる午後、広大なリビングルームには、いつものように三つ子たちの騒がしい声が響き渡っていた。
「死ねー! 僕のロボットのパンチだ!」
「痛い! やめろよ、お前が死ね!」
高価なペルシャ絨毯の上で、長男の鳳太と三男の創太が、硬いプラスチック製のロボットの玩具を本気でぶつけ合いながら取っ組み合っている。四歳になり、彼らの力は日に日に強くなっていた。思い通りにならないとすぐに声を荒げ、容赦なく手が出る。その目には、相手を完全に屈服させようとするギラギラとした暴力的な光が宿っていた。
その粗暴で野蛮な振る舞いは、私を乱暴にベッドに組み敷いた時の浩二の姿そのものだった。
一方で、次男の蓮太は、激しい喧嘩を繰り広げる二人から遠く離れたソファの隅で、一人静かに絵本を読んでいた。争い事を極端に嫌い、怒声が聞こえるだけでビクッと肩を震わせて耳を塞ぐ。温厚で、優しくて、どこまでも人が良い。それは間違いなく、夫である隆史の性質だった。
成長するにつれ、残酷なほどに明確になっていく「血」の恐ろしさ。私はキッチンカウンターの影から、その光景を冷たい汗を流しながら見つめていた。
「こらこら、二人とも。家の中では暴れちゃ駄目だっていつも言ってるだろう?」
そこへ、淹れたてのコーヒーを運んできた隆史が、優しく微笑みながら二人の間に割って入った。
鳳太と創太は、父親の注意など意に介さない様子で舌を出し、ロボットを放り投げて今度は庭へと駆け出していった。隆史は怒ることもなく、「元気だなあ」と目を細めながら、私の隣に立ってコーヒーカップを置いた。
「栄子、いつも育児お疲れ様。あの二人は本当にエネルギーの塊だね」
隆史は私の肩を優しく抱き寄せ、庭を走り回る長男と三男、そしてソファで絵本を読む次男を交互に見つめた。
「……ええ、そうね。男の子だから、元気パワーが無限のようね」
私は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に持ち上げ、彼に微笑み返した。
その時だった。
隆史が、ふと真面目な顔をして口を開いた。
「でも……こうして見ると、本当に顔が少し違うね」
ドクン、と。心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。全身の毛穴が一気に開き、冷たい汗が背中を伝う。
気づかれた? ママ友たちに指摘されたあの決定的な違いに、このお人好しの夫もついに気がついてしまったのか。
私は息を詰め、膝の上で両手を強く握りしめた。
「……どういう、こと?」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
しかし、隆史はこちらを向き、微塵の疑いもない、心底幸せそうな笑顔を浮かべた。
「いやね、蓮太は僕にそっくりだけど、鳳太と創太は誰に似たのかなって。あんなにキリッとした男らしい顔立ち、僕の家系にはいないからさ。栄子のお父さんに似ているのかな? 三つ子って言っても、二卵性だからね。生命の神秘ってやつだ」
「……っ、ええ、そうね。二卵性だから、顔が違うのも当然のことよ」
私は大きく安堵の息を吐き出しながら、なんとか言葉を返した。
浮気を疑うどころか、子供たちの顔の違いすら「神秘」として喜んでいる。人を疑うという機能が欠落しているかのような善の権化。それに救われているはずなのに、今の私には、彼のその無邪気さが薄ら寒く感じられた。
「ああ、そうだ。今日は天気がいいから、ガレージの風通しをしておこうと思ってね」
隆史は思い出したように立ち上がり、リビングの隅に置いてあった重厚な革製の工具箱をテーブルの上に広げた。
「栄子、これ見てごらん。イギリスから取り寄せたヴィンテージの工具セットなんだ。ジャガーのメンテナンスには、やっぱり当時の道具を使わないとね」
彼の目の中に、少年のようにおもちゃを自慢する無邪気な光が宿る。革のケースの中には、油で黒光りする様々な形のスパナやドライバーが綺麗に並べられていた。
「あら、立派な道具ね」
「古い車にはね、どうしても現代の工具じゃ開けられない部品や、癒着した分厚いゴムパッキンがあるんだ。そういう時は、こういう特殊なヘラ工具じゃないと切り裂けない。これも立派なメンテナンス道具の一つさ」
隆史は嬉々として語りながら、その特殊な工具を布で丁寧に磨き始めた。鈍く光る鉄が、リビングの窓から差し込む光を反射して不気味にギラついた。
「危ないから、子供たちの手の届かないところにしまっておいてね」
私はその冷たい工具から目を逸らし、わざとらしく眉をひそめてみせた。
「もちろんさ。僕の可愛い天使たちに、万が一にも怪我をさせるわけにはいかないからね」
隆史は工具を革の鞘に収め、愛おしそうに工具箱を撫でた。
この異常なほどの執着と愛情。もし、この男が真実を知ったら、この巨大な愛は一体どこへ向かうのだろうか。
私はテーブルに置かれた冷めたコーヒーを見つめながら、これから先何十年も続くであろう、綱渡りのような虚飾の人生に、静かな絶望を抱いていた。




