第6話 三兆分の一の呪い
義弟の豊。
普段は本宅の自室にこもりきりで、一歩も外に出ないあの陰気なプログラマーが、なぜか庭に出てシッターの舞子と親しげに談笑している。
距離があって声は聞こえないが、豊の顔には、晩餐会の時に私へ向けていたあの『番犬の冷酷な目』は微塵もなかった。まるで普通の、いや、それ以上に好意を持った男性が女性に向けるような、柔らかく温かい笑顔を浮かべている。対する舞子も、化粧っ気のない地味な顔を少し赤らめ、はにかむように俯いていた。
(……何なの、あれ)
私の中で、猛烈な嫌悪感と、それ以上の焦燥感が渦巻いた。
あの底辺のシッターと、気味の悪い義弟。二人が結託して、何か良からぬことをかんがえているのでは。
私が無意識にシャネルのバッグを強く握りしめたその瞬間、豊がこちらに気づいた。
目が合った瞬間、豊の顔から温かい笑顔が完全に消え去った。
光を吸い込むような漆黒の瞳。獲物を値踏みするような、氷のように冷たい視線。彼は一切の感情を消し去り、ただ黙って私を見据えた。
「……ただいま、舞子さん。豊さんも、子供たちの相手をしてくれてありがとう」
私は必死に表情筋を動かし、余裕のある美しい妻の笑みを作って彼らに近づいた。
「あ、奥様。お帰りなさいませ」
舞子が慌てて頭を下げる。豊は何も言わず、軽く会釈をしただけで、背を向けて本宅へと歩き去ってしまった。
あの目だ。彼は絶対に、私を敵視している。
私は心臓の嫌な鼓動を感じながら、逃げるように新居へと足早に向かった。
+++
新居の寝室に戻り、分厚い扉の鍵を内側からかける。
ベッドの端に腰を下ろした瞬間、手元のスマートフォンが短く鳴った。
新着メールの通知。差出人は『DNA鑑定センター』。
『ご依頼いただいておりました鑑定結果が出ました。マイページよりログインしてご確認ください』
全身の血が、一気に足元へと流れ落ちていく感覚がした。
ついに、運命が決まる。
私は息を呑み、メールに記載されたURLをタップした。ログイン画面が表示される。
IDとパスワードを入力しようとするが、指先が信じられないほど激しく震え、画面をうまくフリックできない。
「……っ、あ」
『パスワードが間違っています』という赤いエラーメッセージが表示される。
深呼吸をする。吸って、吐いて。落ち着け、私。ただの確認だ。隆史の子供であることが証明されて、私が安心するためのただの儀式だ。
両手でしっかりとスマートフォンを握りしめ、一文字ずつ慎重にパスワードを打ち込む。
エンターキーを押す。
画面が切り替わり、一枚のPDFファイルが表示された。
私は目を細め、画面をゆっくりとスクロールしていく。
『検体A(矢絡深隆史)と、検体B(長男・鳳太)の父権肯定確率』
——【0%】
生物学的父親であるとは認められない。
『検体A(矢絡深隆史)と、検体C(次男・蓮太)の父権肯定確率』
——【99.99%】
生物学的父親であると認められる。
『検体A(矢絡深隆史)と、検体D(三男・創太)の父権肯定確率』
——【0%】
生物学的父親であるとは認められない。
「…………ぁ」
私の口から、声にならない乾いた音が漏れた。
手から力が抜け、スマートフォンが最高級の絨毯の上に音もなく滑り落ちる。
嘘だ。嘘よ。
ピルユーザーの妊娠、三つ子、異父過排卵受精。三兆三三三三億分の一の呪いが、この私に降りかかったというのか。
長男と三男は、あの野蛮で粗暴な男、浩二の血を引いている。
そして私は、血の繋がらない赤の他人の子供を「奇跡の天使」だと崇め、異常な執着を見せる夫と共に、この鳥籠の中で暮らしているのだ。
恐怖と絶望で視界が歪み、私はベッドから崩れ落ちるように床に這いつくばった。声を出して泣き叫びたい衝動を必死に殺し、絨毯を掻きむしる。
バレたら終わる。隆史のあの重すぎる愛情が反転した時、私はどうなる? あの番犬の豊に知られたら、私はこの家から無一文で叩き出され、社会的に抹殺される。
「ママ、どうして泣いてるの?」
不意に、背後から無邪気な声が聞こえた。
弾かれたように振り返ると、鍵をかけ忘れていたのか、寝室のドアが少し開き、そこから次男の蓮太が顔を覗かせていた。その手には、隆史から買い与えられた旧車のミニカーが握られている。
少し下がった目尻、柔らかい輪郭。誰がどう見ても、隆史の血を色濃く受け継いだ、たった一人の「正真正銘の矢絡深家の跡取り」。
私は這うようにして蓮太に近づき、彼の小さな体を強く、痛いほどに抱きしめた。
「ママ? 痛いよ……」
「泣いてないわ。ママは泣いてなんかないのよ、蓮太」
私は蓮太の柔らかな髪に頬を擦り寄せながら、虚空を睨みつけた。
この子だ。この子だけが、私と隆史を繋ぐ唯一の命綱。
この事実を、絶対に誰にも知られてはならない。死んでも隠し通す。私が築き上げたこの完璧で裕福な人生を、誰にも奪わせてなるものか。
私の目から絶望の涙が乾き、代わりに、真っ黒で淀んだ決意の炎を静かに宿した。




