第5話 震える手とパンドラの箱
深夜。夫の隆史が寝静まったのを確認し、私は一人、新居の洗面室に籠もっていた。
大理石の洗面台の上に並べたのは、ネットの匿名配送で密かに取り寄せた四人分のDNA鑑定キットだ。無機質なプラスチック製の綿棒と、検体を入れる小さなチューブが、私を嘲笑うかのように蛍光灯の光を反射している。
隆史の検体は、いとも簡単に手に入った。彼の愛用しているヘアブラシから、毛根がしっかりとついた髪の毛を数本抜き取るだけでよかった。人を疑うことを知らないあの夫は、妻が夜な夜な自分のDNAを採取しているなどと、夢にも思っていないだろう。
問題は、三つ子たちの検体だった。
今日の昼間、私は「虫歯がないか見てあげる」という母親らしい口実で、三人の口の中に綿棒を突っ込んだ。長男の鳳太と三男の創太は野生動物のように暴れ、次男の蓮太だけは大人しく粘膜を採取させてくれた。
リビングの隅で、私は震える手で三本のプラスチックチューブの蓋をきつく閉めていた。誰にも見られてはいけない、私の運命を握る爆弾。
急いでシャネルのバッグの奥底にチューブを押し込もうとした、その瞬間だった。
「奥様、子供たちのお着替えをお持ちしました」
背後で不意に声が響き、心臓が喉から飛び出しそうになった。
弾かれたように振り返ると、ベビーシッターの舞子がたたんだ衣服を持って立っていた。彼女の視線が、私が慌ててバッグに隠した「何か」と、私の不自然に強張った顔を往復する。
「……っ! 勝手に後ろに立たないでっていつも言ってるでしょ! 足音くらい立てなさいよ!」
鼓動が早鐘を打つ中、私は己の猛烈な動揺を隠すように、ヒステリックな声を張り上げた。
「も、申し訳ありません……」
舞子はビクッと肩を震わせ、深く頭を下げた。しかし、顔を上げた彼女の目は、ほんの一瞬だけ、私の過剰な反応に対する明らかな『疑念』の色を帯びていた。
(見られた……? いや、ただの綿棒とチューブだ。わかるはずがない)
私は冷や汗をかきながら必死に自分を納得させ、「あとは自分でやるから」と冷たく言い放ち、逃げるようにその場を立ち去った。
四つのチューブを専用の封筒に入れ、しっかりと封をする。
あの裏社会の男、浩二の検体は送らない。知りたいのは、長男と三男の父親が『隆史ではない』という決定的な証拠が出るかどうか、ただそれだけだ。隆史のDNAと一致しなければ、消去法でもう一人の男の子供だということが確定する。
「……三兆分の一なんて、あり得ない。ただの杞憂よ」
震える声で呟き、冷たい洗面台に両手をついたその時だった。
バスローブのポケットに入れていたスマートフォンが、ブブッと短く震えた。
画面に表示されたのは、『江上精肉店(浩二の隠語)』の文字。彼が裏家業で使う、一定時間で履歴が消去される強固な暗号化アプリからの通知だった。
『暇だろ? 金持ちの旦那にはエステ行くって誤魔化して、また家へ来いよ。あの声、また聞かせろ』
無神経で、下品で、暴力的な文面。
かつては、この粗暴さが私の退屈な日常を打ち破る最高のスリルだった。私の本能を焦がす、甘美な火遊びだったはずだ。
だが今、この画面の文字を見るだけで、胃液がせり上がってくるほどの強烈な吐き気と恐怖が襲ってきた。
「冗談じゃないわ……」
もし、鳳太と創太がこの男の子供だとしたら。私はこの下劣な男との間に生まれた爆弾を二つも抱え、いつ爆発するかとヒヤヒヤしながら完璧な豪邸で優雅な妻を演じ続けることとなる。
私は画面を乱暴にスワイプし、通知を消去した。今は、浩二のことなど一秒たりとも考えたくなかった。
+++
数日後。私は都内の最高級エステサロンで、完全個室のベッドにうつ伏せになっていた。
最高級のローズオイルの香りが漂う中、熟練のエステティシャンの滑らかな手が、私の背中から腰にかけてを丁寧に、ひたすら優しく揉みほぐしていく。
(ああ……退屈……)
その「壊れ物に触れるような」極上の感触は、皮肉なことに、夫・隆史の夜の愛撫を鮮明に思い起こさせた。私を神聖な存在として扱い、決して傷つけまいとするあの単調で安全すぎるスローストローク。
苛立ちと欲求不満が募る中、私の脳裏に唐突に、あの薄暗い部屋での記憶がフラッシュバックした。
シーツに乱暴に押し付けられる重い力。息が詰まるほどの煙草の匂い。私の悲鳴などお構いなしに、容赦なく肉体を貪り尽くす江上浩二の野蛮な腕力。
思い出しただけで、下腹部の奥に熱いものが疼くのを感じた。理性を焼き尽くすあの暴力的なスリル。私にはあれが必要なのだ。
しかし——脳内に浮かんだ浩二のニヤリと笑う顔が、不意に、先日リビングで取っ組み合いの喧嘩をしていた長男・鳳太と三男・創太の鋭い目つきと不気味に重なり合った。
『もしかして、俺の種だったりしてな』
あの無責任な冗談が、再び耳元で囁かれた気がした。
もし、私の胎内に、あの裏社会の男の血が本当に根付いてしまっていたら? この完璧で美しい私の人生に、あんな下劣な男の遺伝子が、二つも寄生しているとしたら?
その想像がもたらした絶望的な恐怖は、先ほどの甘美な熱を急激に冷却し、代わりに胃袋を雑巾のように力いっぱい絞り上げるような、激しい吐き気へと変わった。
「……ッ、うぇ……っ」
私は思わず口元を押さえ、ベッドの上で激しくえずいた。
「えっ!? 矢絡深様、いかがなされましたか!?」
驚いたエステティシャンが慌てて手を止め、私の背中をさする。
「なんでも、ない……。少し、胃の調子が悪いだけ……」
私は大量の脂汗を滲ませながら、完璧な妻の仮面の下で、這い上がってくる狂気のような恐怖を必死に飲み込んでいた。
DNA鑑定の結果は、今日の夕方にはオンラインで確認できるはずだ。
「矢絡深様、お疲れ様でございました。今日も一段とお美しくなられましたね」
エステティシャンの心にもないお世辞に、私は完璧な笑みで「ありがとう」と返し、ブラックカードを渡した。私は優雅で、美しく、完璧な妻でなければならない。その仮面だけが、今の私を辛うじて支えていた。
タクシーに乗り込み、高台にある白亜の豪邸へと帰還する。
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重厚な門をくぐり、美しく手入れされた芝生の庭へと歩みを進めた私の足が、ふと止まった。
庭の奥、大きなシンボルツリーの木陰で、ベビーシッターの舞子が三つ子たちを遊ばせている。それはいつもの見慣れた光景だった。
しかし、その隣にそぐわない人物が立っていた。
義弟の豊だ。




