第4話 ママ友の指摘
数日後の午後。私は横浜の山手にある、会員制の高級ホテルのラウンジにいた。
天井で煌めくバカラのシャンデリアの光を浴びながら、運ばれてくる最高級のダージリンティーの香りを嗅ぐ。テーブルを囲んでいるのは、私と同じように裕福な経営者や医師を夫に持つ、華やかなママ友たちだ。彼女たちの手元にはバーキンやケリーが並び、指先にはハリー・ウィンストンやヴァンクリーフのダイヤが光っている。
ここは優雅な社交場であると同時に、女たちが笑顔の裏で残酷なマウントを取り合う戦場でもあった。
「栄子さんのところの三つ子ちゃん、もう四歳になったのよね? 本当に羨ましいわ。三人ともすくすく育ってて」
向かいに座る、美容クリニック院長の妻である沙織が、上品なティーカップを置きながら微笑みかけてきた。
「ええ、おかげさまで。最近はすっかり自己主張が激しくなって、私も手を焼いているんですの」
私は育児にほぼ関わっていないが、さもそれに励む主婦を演じた。
「でも、やっぱり三つ子ちゃんって特別よね。ご主人が溺愛しているのも頷けるわ。……ちょっと最近のお写真、見せてくださらない?」
沙織の言葉に、他のママ友たちも「見たいわ」と身を乗り出してきた。私は完璧な母親の笑みを浮かべながら、先日リビングで撮ったばかりの三人と隆史が写った写真を画面に表示し、彼女たちにスマートフォンを渡した。
「わあ、可愛い! お揃いのお洋服を着て、本当に天使みたいね」
「ええ、本当に。でも……」
画面を覗き込んでいた沙織の視線が、ふと止まった。彼女のよく手入れされた細い指が、画面をピンチインして写真を拡大する。
「ねえ、栄子さん。前から思っていたんだけど……」
沙織は、一切の悪意を含まない、無邪気で純粋な声で言い放った。
「三つ子ちゃんなのに、次男の蓮太くんだけ、パパさんにそっくりね」
その瞬間、私の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
「蓮太くんは、優しそうに下がった目尻とか、ふっくらした輪郭がパパさんに瓜二つだけど……。長男の鳳太くんと、三男の創太くんは、全然パパに似ていないわよね。目つきがすごくシャープというか、男らしいというか」
他のママ友たちも、画面を覗き込んで無遠慮に同調し始める。
「本当ね! 栄子さんにも似ていない気がするわ。この二人、なんだかすごく野性的なお顔立ちじゃない?」
「誰に似たのかしら? 栄子さんのお父様? それとも、隔世遺伝とか?」
彼女たちの声は、明るく、楽しげで、ただの世間話の延長に過ぎなかった。しかし、その「無邪気な指摘」は、私の心臓を深く抉る鋭利な刃となって突き刺さった。
全身の血がサッと引いていくのがわかる。背筋を冷たい汗が伝い落ちた。
『もしかして、俺の種だったりしてな』
浩二のあの冗談めかした声が、ママ友たちの笑い声と重なって脳内で乱反射する。
「……そう、かしら。二卵性だから、顔が違うのは普通のことよ。それに、子供の顔なんて成長と共にどんどん変わっていくものだし」
私は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に動かし、ティーカップに手を伸ばした。カチャリと、ソーサーとカップが微かにぶつかる音が鳴ってしまい、自分の手が震えていることに気がついた。
「そうよねえ。でも、三人並ぶと本当に違いがくっきりわかって面白いわ。蓮太くんは温厚なお坊ちゃまって感じだけど、他の二人は将来やんちゃになりそうね」
沙織は満足そうに微笑み、スマートフォンを私に返してきた。
私は画面に映る三人の顔を、まるで呪いのアイテムでも受け取るかのようにそっと受け取った。
虚栄心を満たすための道具だったはずの子供たちの写真が、今や私を奈落の底へと引きずり込む呪具のように思えた。
この女たちは何も知らない。ただの思いつきで口にしただけだ。
しかし、他人の目から見ても、鳳太と創太の顔立ちが隆史とは決定的に異なり、異質な空気を放っているという事実が、ここで完全に証明されてしまった。
優雅なティータイムの残りの時間は、私にとって地獄のような拷問だった。完璧な笑顔を顔に貼り付けながら、私の頭の中では、破滅へのカウントダウンが静かに、しかし確実に刻み始められていた。
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その日の深夜。
夫の隆史が寝室で深い眠りについた後、私は一人、新居の広々とした大理石の洗面室に立っていた。
分厚い扉を閉め切り、冷たい大理石の洗面台に両手をつく。鏡の中には、青ざめた顔をして、血の気を失った唇を噛み締めている私の姿が映っている。
家の中は不気味なほど静まり返っている。聞こえるのは、換気扇の微かなモーター音と、自分自身の異常に早い鼓動だけだ。
『次男の蓮太くんだけ、パパにそっくりね』
『この二人、なんだかすごく野性的なお顔立ちじゃない?』
ママ友たちの無邪気な声が、夜の静寂の中で何度も何度もリフレインする。私は洗面台の縁を、指の関節が真っ白になるほど強く握りしめた。
「……違う。そんなはずない」
私は鏡の中の自分に向かって、震える声で呟いた。
「あり得ないわ。確率の問題よ」
私は震える手でスマホで検索した。当時、隆史に隠れて確実にピルを服用していた。ピルユーザーが妊娠する確率は約〇・三パーセント。そして、自然妊娠で三つ子が生まれる確率は約〇・〇一パーセントだ。
それだけでも奇跡的な確率なのに、隆史と寝た後、浩二とも体を重ねたからといって、同時に別々の男の精子で受精する「異父過排卵受精」が起こる確率など、〇・〇〇〇一パーセント以下だと表示されている。
三つ同時に起こる確率。それは……約三兆三三三三億分の一。
宝くじの一等に連続して当たるよりも、雷に何度も打たれるよりも低い、天文学的な数字だ。そんな馬鹿げたことが、この私の身に起こるはずがない。ただの妄想だ。くだらない被害妄想だ。
そう必死に自分に言い聞かせた。しかし、どんなに確率論を振りかざしても、現実という名の怪物は私の足元まですでに忍び寄っていた。
血は争えない。
日を追うごとに凶暴さを増していく鳳太と創太の振る舞い。そして、鏡を見るたびにフラッシュバックする、浩二のあの鋭く冷酷な目つき。
もし、万が一、この最悪の想像が現実だったとしたら?
もし、長男と三男の父親が、あの裏社会の男だということが隆史にバレてしまったら?
私の脳裏に、最悪のシチュエーションが次々と浮かび上がってきた。
私を「完璧な妻」として盲目的に愛し、崇拝している隆史。彼が真実を知った時、その異常なまでの愛情は、反転してどれほどの憎悪と狂気に変わるのだろうか。想像しただけで背筋が凍りつく。
それだけではない。本宅から常に私を冷ややかに観察している、あの「番犬」の存在だ。
義弟の豊は、最初から私を財産目当ての女だと疑っている。もし彼がこの秘密に少しでも勘付けば、ハイエナのように私の過去と秘密を暴き立て、隆史に密告するに違いない。
そうなれば、私はこの完璧で裕福な生活をすべて失う。
高級車も、毎日のエステも、羨望の的となるステータスも、すべてが泡と消える。着の身着のままでこの豪邸から放り出され、莫大な慰謝料を請求され、泥沼のような地獄へと転落するのだ。
「……嫌だ。絶対に嫌」
私は鏡の中の自分を睨みつけた。美しい顔が、恐怖と執着で醜く歪んでいる。
手放せるわけがない。私がどれほどの計算と演技を重ねて、この座を手に入れたと思っているのか。
この完璧な人生は、私だけのものだ。誰にも邪魔はさせない。
そのためには、事実を確認しなければならない。この不気味な疑惑を払拭、あるいは受け入れて永遠に葬り去るために。
私は震える指でスマートフォンを操作し、検索エンジンの入力欄に文字を打ち込んだ。
『DNA鑑定 匿名 自宅』
検索ボタンを押すと、冷たい液晶の光が私の青ざめた顔を不気味に照らし出した。
見えない真綿でじわじわと首を絞められるような、息苦しい恐怖。それはもう、後戻りのできない完全な地獄への入り口だった。
私は洗面室の暗がりの中で、たった一人、誰にも聞かれないように浅い呼吸を繰り返していた。




