第2話 番犬の目
夫の弟である豊。34歳になる彼は、在宅勤務のプログラマーをしている。普段からあまり口を開かず、本宅の自室にこもりきりの、物静かで目立たない男だった。少し前まで、豊は食卓の周りを走り回る三つ子たちに向けて、とても柔らかく、温かい笑顔を見せていた。甥っ子たちを可愛がる、優しい叔父の顔だった。
しかし、私が彼と目が合った瞬間、その温かい笑顔は一瞬にして完全に消え失せていた。豊の目は、一切笑っていなかった。光のない深い漆黒の瞳が、まるで私の皮膚の下にある醜い内臓まで、私の抱えるドロドロとした嘘のすべてを見透かそうとするかのように、じっと私を、ただ私だけを真っ直ぐに見据えている。
それは、決して家族に向けるような眼差しではなかった。
獲物の些細な動きも見逃すまいと息を潜めて観察する、冷酷で鋭い『番犬』の視線。彼のその射抜くような視線から、強烈な敵意と警戒心がはっきりと伝わってきた。私は背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。胸の奥で、警鐘がバリンバリンと鳴り響いている。私は必死に表情筋をコントロールし、彼に向けても「完璧な妻」としての笑みを向けてみせた。
豊は何も言わず、表情一つ変えずに、ただゆっくりと視線を外し、再び手元のグラスへと目を落とした。
ドクン、ドクンと、自分の鼓動が異常に早くなっているのがわかる。
この完璧に構築された裕福な鳥籠の中で、お人好しの夫も、嫌味な姑も、誰も私の本当の顔には気づいていない。
だが、彼だけは違う。
あの冷たい番犬だけが、私の存在を疑っている。
油断すれば、いつか喉首を噛みちぎられるかもしれない。そんな本能的な恐怖が、豪華な晩餐会の明るい光の下で、私の足元に黒い影となって忍び寄っていた。
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息の詰まるような晩餐会を終えた夜。
本宅から離れた私たちの別宅の地下には、夫の隆史が趣味で集めた旧車が並ぶ、広大で空調の完備されたガレージがある。
床は磨き上げられたタイル張りで、壁にはヴィンテージの看板や専用の工具が美しくディスプレイされていた。ガレージ特有のガソリンとオイル、そして古い革の匂いが混ざり合った空気が漂っている。
「見てごらん、栄子。この流線型のボディ。いつ見ても本当に惚れ惚れするよ」
隆史は、自身が最も愛する旧車であるジャガー・Eタイプの前に立ち、まるで初恋の相手を見つめる少年のように目を輝かせていた。
「このロングノーズからテールにかけての官能的なラインは、現代の車には絶対に真似できない。ボンネットを開けた時の、直列六気筒エンジンの造形美といったら……まるで一つの芸術作品のようだろう?」
嬉々として熱弁を振るう隆史の横顔を見つめながら、私は静かに微笑みを浮かべていた。
「ええ、本当に。何度見ても息を呑むほど美しいわ。当時の職人たちの情熱が、そのまま形になったみたい」
私の唇から紡ぎ出される言葉は、寸分の狂いもない「完璧な妻」の模範解答だった。
しかし、私の内心は冷めきっていた。
(ただの古臭い、鉄の塊じゃない)
それが本音だ。
エアコンもろくに効かず、いつエンストするかもわからないような何十年も前の車に、何千万円という大金を注ぎ込む神経が私には全く理解できなかった。私なら、そのお金で最新のハイエンドモデルのスポーツカーと、ハリー・ウィンストンのジュエリーをいくつも買うだろう。
私にとって、このガレージに並ぶ車たちは「ただの古い車」であり、一切の興味を惹かれる対象ではなかった。
それでも私は、隆史の言葉一つ一つに大げさに頷き、旧車に深い理解を示す演技を続けた。
思えば、すべてはこの「演技」から始まったのだ。
数年前、資産家が集まるクラシックカーの展示イベントに潜り込んだ私は、事前に彼の情報を徹底的に調べ上げ、このジャガーの前で熱心に見入るふりをした。まんまと罠にかかり、私に運命を感じて猛アプローチをかけてきたのは、他でもない隆史自身だ。
あの時、彼を落としたのと同じ手法で、私は今もこの退屈な鳥籠の鍵を握り続けている。
「君は本当に素晴らしいよ、栄子。僕の趣味をここまで深く理解し、愛してくれる女性は君しかいない」
隆史は愛おしそうに私の肩を引き寄せ、私の髪に軽くキスをした。
人を疑うということを知らないこのお人好しの夫は、自身の誇る美しい愛車と、若く従順な愛妻に囲まれ、今この瞬間も、これ以上ないほどの至福を噛み締めているのだろう。
私は彼にもたれかかりながら、ガレージの冷たい床に落ちる二人の影を、ひどく虚ろな目で見つめていた。
+++
深夜のベッドルーム。
分厚い遮光カーテンが引かれた寝室は、完全な暗闇と静寂に包まれていた。
最高級のシルクのシーツが擦れる微かな音と、隆史の少し荒くなった息遣いだけが部屋に響く。
「……栄子、愛しているよ。僕の可愛い栄子……」
耳元で何度も繰り返される甘い囁き。
三つ子という奇跡の子供たちが生まれてからというもの、隆史は必ずスキンを使用するようになった。そして、私を抱く時のその手つきは、まるで触れれば崩れてしまう精巧なガラス細工か、ひどく高価な壊れ物を扱うかのように、徹底して丁寧で、優しすぎるものへと変わっていた。
彼の手は私の肌の上を滑るように優しく這い、体重をかけすぎないように不自然なほど気を遣いながら、ゆっくりと、ひたすらに甘く私を愛撫する。
それは、妻を慈しむ夫としては完璧な振る舞いなのかもしれない。
だが、暗闇の中で天井の模様をただぼんやりと見つめている私にとって、その行為はただの苦痛でしかなかった。
(ああ……退屈)
単調で、予測可能で、あまりにも安全すぎる行為。そこには何の驚きも、私の内側を焦がすような熱もない。
規則的なリズムに合わせて揺れながら、私の心は完全にこのベッドルームから離脱していた。満たされない肉体が、ひどい虚しさを訴えかけている。
隆史の、私を神聖なものとして崇めるような優しさに、私はもうとうの昔にうんざりしていた。
その時、私の脳裏に唐突に、ある男の顔がフラッシュバックした。
江上浩二。
以前から付き合いのある、裏社会の匂いを纏った危険な男。
隆史とは正反対の、野蛮で、粗暴で、危険な魅力を持った男。
浩二は、私をガラス細工のようになんて扱わない。彼は私の完璧な妻としての仮面を強引に引き剥がし、雑に、そして暴力的とも言えるほどの熱量で私を蹂躙する。煙草の匂いと、汗の匂い。痛みを伴うほどの強い力。
気がつけば、私は無意識のうちに浩二のその乱暴な腕力を、ひりつくような熱を思い出していた。
隆史の単調な動きの合間に、浩二の低い声が耳の奥で蘇る。
『金持ちの旦那には、こんなことできねぇだろ?』
その幻聴を聞いた瞬間、私の下腹部の奥深くで、どろりとした熱い塊がうごめくのを感じた。
私を縛り付けているこの豪華で息苦しい鎖を引きちぎり、理性のブレーキを完全に外してしまいたい。何もかもを忘れて、ただ本能のままに貪り合うような、獣のような交わりをしたい。
浩二に会いたい。
今すぐにでも、彼に私を滅茶苦茶にしてほしい。
自分を雑に扱ってくれるあの男の体温を激しく渇望する暴力的な衝動が、暗闇の中で私の全身を駆け巡っていた。
「……栄子、いいかい?」
隆史の甘く気遣うような声が、私を現実へと引き戻す。
「ええ……あなた……」
私は暗闇の中で唇を噛み締めながら、夫の首に腕を回し、彼が喜ぶような甘い声を作って応えた。
完璧な妻の仮面の下で、私の渇きは限界を迎えようとしていた。




