第11話 偽りのサプリメント
矢絡深家に嫁いでから数ヶ月。
私が手に入れた生活は、計算通り、いや、それ以上に完璧で裕福なものだった。
神奈川県の高級住宅地に建つ白亜の豪邸。広い庭は専属の庭師によって常に美しく整えられ、リビングには海外から取り寄せた最高級の家具が並んでいる。クローゼットには季節ごとにハイブランドの新作が届けられ、私は毎日エステサロンやパーソナルトレーニングに通い、自らの美しさに磨きをかけることだけに時間とお金を使っていた。
夫である隆史は、一回り以上年下の私を、まるで脆く美しいガラス細工か何かのように大切に扱い、盲目的に愛してくれた。
「栄子、今日も本当に綺麗だよ。君が僕の妻だなんて、いまだに夢を見ているみたいだ」
毎朝、出勤前に彼は私を優しく抱きしめ、甘い言葉を囁く。その瞳には、私に対する一切の疑いも、曇りもない。純度百パーセントの、重すぎるほどの愛情だけが溢れている。
だが、その完璧すぎる平穏は、次第に私の首を真綿で絞めつけるような息苦しさに変わっていった。
欲しいものはすべて手に入った。しかし、この黄金の鳥籠の中は、あまりにも安全で、単調で、ひどく退屈だったのだ。
その退屈さを最も痛感するのは、夜のベッドルームだった。
「……栄子、愛しているよ。僕たちの、可愛い赤ちゃんが早く来てくれるといいね」
隆史は毎晩のように私に体を求めてきた。彼の手つきは、私が少しでも痛みを感じないようにと、不自然なほど慎重で優しすぎた。そこには男としての野蛮さやスリルは微塵もなく、ただ「妻を慈しむ」という儀式のようなものだった。
「ええ……。私も、あなたに似た可愛い赤ちゃんが早く抱きたいわ」
私は暗闇の中で完璧な微笑みを作り、彼が喜ぶような甘い声を紡ぎ出す。
しかし、内心では冷ややかに舌打ちをしていた。
(冗談じゃないわ。誰が子供なんて産むものですか)
せっかく手に入れたこの自由で優雅な生活を、なぜ泥臭い育児なんかで台無しにしなければならないのか。妊娠線でこの完璧なプロポーションが崩れるのも、夜泣きで睡眠を削られるのも絶対に御免だった。
私は隆史に隠れて、密かに都内の婦人科クリニックへ通い、ヤーズフレックスという偽薬期間のない医療用ピルを処方してもらっていた。これを毎日飲み続けている限り、私は絶対に妊娠しない。
「ふふっ……」
ある日の午後、隆史が会社へ出かけた後の静まり返ったリビングで、私は一人、シャネルのバッグから処方されたばかりのピルシートを取り出した。
直径六ミリほどの、真っ白で小さな糖衣錠。
この小さな粒が、私の自由と完璧なプロポーションを守ってくれる絶対的な防壁だ。
しかし、医療用のピルシートをそのまま持ち歩いたり、家の洗面所に置いたりすれば、いくらお人好しの隆史でも、何かの拍子に見つけて不審に思うかもしれない。私はそんなマヌケなミスで自分の首を絞めるほど愚かではない。
私は海外の高級ブランドが販売している、クリスタルガラスのような装飾が施された美しいサプリメントケースを用意していた。
プチッ、プチッ。
一つずつ、アルミのシートから白い錠剤を押し出し、その煌びやかなケースの中へと移し替えていく。すべて出し終えた空のシートは、細かくハサミで切り刻み、他のゴミに紛れさせて厳重に捨てる。
これで、誰の目から見ても、ただの「美容意識の高い若い妻が持ち歩く、高価なビタミンサプリメント」にしか見えない。
「さて、今日も美しくいなくっちゃ」
私はピルが詰まったサプリメントケースをカチャリと閉め、満足げな笑みを浮かべた。
夫を完璧に騙し通し、自分の思い通りにコントロールしているという万能感。それが、この退屈な日々の中で唯一、私の自尊心を満たしてくれる密かな遊戯だった。
+++
同じ頃、本宅の広大な庭先では、初夏の柔らかな日差しが芝生を照らしていた。
「……でね、豊。栄子もあんなに子供を欲しがってくれているのに、なかなか授からなくてさ」
休日の午後、洗車を終えた隆史は、庭のテラス席で冷たい麦茶を飲みながら、弟の豊にぽつりと悩みを打ち明けていた。
豊は手元の文庫本から視線を上げ、人の良すぎる兄の顔を静かに見つめた。
「焦る必要はないんじゃないですか。まだ結婚して数ヶ月でしょう。それに、兄さんも栄子さんもお若いんだから」
豊の声音は淡々としていたが、そこには兄を無闇に傷つけまいとする気遣いが滲んでいた。
豊は、この若くて派手な義姉が、ただの純真な令嬢ではないことを最初から直感で見抜いていた。あの計算し尽くされた笑顔の奥底に潜む、冷酷な強欲さ。彼女は間違いなく、兄の莫大な財産とこの裕福な生活を目当てに矢絡深家に潜り込んだのだと。
だが、隆史は栄子のことを盲目的に愛し、完全に信じ切っている。ここで豊が「あの女は何かを隠している」と頭ごなしに否定すれば、兄が傷つくだけでなく、兄弟の間に決定的な亀裂が入ることになる。それだけは避けたかった。
「そうなんだけどね。栄子が毎月、少し落ち込んだような顔をするのを見ると、なんだか僕まで辛くなってしまって。……ねえ、豊。やっぱり、一度不妊治療のクリニックを勧めてみた方がいいのかな? 僕の方に原因があるのかもしれないし、二人で検査を受けてみようかって……」
真剣に悩み、妻の作り物の悲しみに本気で心を痛めている兄の姿に、豊は内心で深いため息をついた。
「デリケートな問題ですから、慎重に話した方がいいと思いますよ。あまりプレッシャーをかけるのも良くないでしょう」
「そうだよな……。栄子を傷つけるようなことだけはしたくないんだ」
そう言って隆史は、モヤモヤを抱えたまま、本宅での毎週楽しみにしている親族揃っての晩餐会まで豊と時間を潰した。
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私は、本宅での息の詰まるような親族揃っての晩餐会に出席していた。
食後のティータイム。優雅な歓談の最中、私のスマートフォンから微かなアラーム音が鳴った。
「ごめんなさい」
私は完璧な令嬢の微笑みを作り、小さく小首を傾げてアラームを止めた。そして、シャネルのバッグからクリスタルガラスのサプリメントケースを取り出す。
中に入っているのは、私の自由と美しさを守る絶対的な防壁――直径六ミリの白いピルだ。
私はそれを一つ指で摘み、優雅な手つきで水と共に飲み込んだ。
「ビタミン剤ですの。美容のために欠かさず飲んでいて」
義父母は「感心ね」と微笑んで信じ切っている。お人好しの隆史も、ただ嬉しそうに頷いているだけだ。
しかし、斜め向かいに座る義弟の豊だけは違った。
彼は紅茶のカップを持ったまま、一切の感情を排した漆黒の瞳で、私の手元にあるケースと飲み込んだ錠剤を、穴が開くほど見つめていた。
(……何よ、その目は)
獲物の些細な動きも見逃すまいと観察する、番犬のような冷たい視線。一瞬だけ背筋が粟立ったが、ただのビタミン剤だと完璧に偽装したこの手口を、あの陰気なプログラマーに見破れるはずがない。
私は豊の視線を涼しい顔で受け流し、再び退屈な歓談へと意識を戻した。夫も義実家も完璧に騙し通しているという万能感に、深く酔いしれながら。




