第10話 資産家との出会い
週末の都内。高級ホテルの地下に設けられた広大な特設会場には、息を呑むような価格のヴィンテージカーが美しく並べられ、シャンパンを片手にした富裕層の男女が優雅に談笑していた。
私は事前に誂えた、淡いブルーのシルクのワンピースに身を包み、背筋を伸ばして会場へと足を踏み入れた。ターゲットである矢絡深隆史の姿は、すぐに目に入った。
彼は会場の中央付近で、自身の愛車である流線型のクラシックカーの傍らに立ち、まるで自慢の恋人を眺めるような愛おしげな視線を送っていた。隣には誰もいない。絶好のチャンスだ。
私は静かに深呼吸をし、完璧な「令嬢」の仮面を顔に貼り付けた。
ゆっくりと彼の車に近づき、そのボンネットの少し手前でピタリと足を止める。そして、少しだけ目を見開き、芸術作品に魂を奪われたかのような、うっとりとした表情を作った。
「……なんて、美しい車なんでしょう」
誰に言うでもなく、しかし確実に彼の耳に届く声のトーンで、私は感嘆の吐息を漏らした。
「えっ……?」
私の声に反応し、隆史が驚いたようにこちらを振り向く。私は彼と目が合うと、少しだけ恥じらうように小首を傾げた。
「あ、申し訳ありません。あまりにも見事な造形美に見惚れてしまって……。もしかして、オーナーの方ですか?」
「は、はい! そうです。僕の車です」
隆史は、私の計算し尽くされた笑顔と清楚な出立ちに一瞬言葉を失い、そしてすぐに頬を紅潮させた。三十代半ばのいい大人が、まるで純情な少年のように慌てふためいている。チョロい男だ。私は心の中で冷笑しながら、暗記した魔法の呪文を口にした。
「ロングノーズからテールにかけての、この官能的なライン。本当に素晴らしいですね。シリーズ1の初期型特有のフラットフロアの造形美も残っていて……ボンネットを開けた時の、直列六気筒エンジンの美しさが目に浮かぶようですわ」
「……っ!」
隆史は雷に打たれたように目を見開き、信じられないものを見るような顔で私を見つめた。
「き、君……! わかるんですか!? このジャガー・Eタイプの、初期型特有の価値が!」
「ええ。車は単なる移動手段ではなく、歴史と情熱を継承する、生きた芸術品ですもの」
私が彼のインタビュー記事の言葉をそっくりそのまま引用して微笑むと、隆史の目は限界まで見開かれ、そして激しい感動に潤み始めた。
人を疑うことを知らないこの男は、若くて美しい女性が自分のマニアックな趣味を深く理解し、あまつさえ自身の哲学に共鳴してくれたことに、全身を震わせて歓喜していた。
「素晴らしい……! こんなに若くて美しい女性で、僕の車をそこまで理解してくれる人に出会えたのは初めてだ! あの、もしよければ、もっと車のお話をさせていただけませんか? ぜひ、連絡先を……!」
食い気味に距離を詰めてくる隆史。私は、心の中で高らかに勝利のファンファーレを鳴らしていた。
完璧な一本釣り。私の仕掛けた極上の疑似餌を、このお人好しの資産家は、喉の奥深くまで見事に飲み込んでくれたのだ。
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その日を境に、隆史からの猛烈なアプローチが始まった。
予約の取れない高級フレンチ、会員制の寿司屋、そして抱えきれないほどの深紅のバラ。彼は持てる財力と情熱のすべてを注ぎ込み、私を必死に口説き落とそうとした。私はすぐに靡くような安っぽい真似はせず、適度に誘いを断りながら彼を焦らし、その熱狂をさらに煽り立てた。
彼との結婚が現実味を帯びてきた頃、私は過去の「汚点」を完全に切り捨てる作業に取り掛かった。
私が資産家を捕まえたと聞きつけ、金の無心にやってきたあの母親だ。
ホテルのラウンジに現れた彼女は、相変わらず安っぽい化粧と下品な香水を漂わせていた。
「栄子、あんた玉の輿に乗るんだって? お母さん、最近お店の売り上げが厳しくてさぁ、少し融通してくれない?」
へらへらと笑いながら手を差し出す母親。私は一切の感情を排した冷たい目で彼女を見下ろし、分厚い茶封筒をテーブルに投げ捨てた。
「三百万円入ってるわ。これが手切れ金よ」
「え……?」
「二度と私に連絡してこないで。私の前に姿を現したら、容赦無く弁護士を使ってあなたを社会的に潰すわ。私の結婚式にも呼ばないから、そのつもりで」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 親に向かってなんて口の利き方……!」
「親? 男に狂って私を押し入れに閉じ込めていた分際で、母親面しないでちょうだい。汚らわしい」
私は呆然とする彼女を置き去りにし、振り返ることなくラウンジを後にした。血の繋がりなど、私にとっては何の価値もない。邪魔なものは、躊躇なく切り捨てる。それが私の生き方だ。
数日後、私は隆史から差し出されたハリー・ウィンストンの婚約指輪を受け入れ、彼の本宅へと挨拶に向かった。
広大な敷地に建つ重厚な屋敷。応接室には、隆史の両親と、彼の弟である豊が同席していた。
「栄子さん、よく来てくれましたね。隆史から話は聞いていますよ」
隆史の横で完璧な令嬢の笑みを浮かべる私を見て、義両親はすっかり気を良くしているようだった。
「お初にお目にかかります。栄子と申します。至らない点も多いかと存じますが、隆史さんを全力で支えさせていただきます」
私が三つ指をついて優雅に頭を下げた、その時だった。
斜め向かいに座っていた義弟の豊と、ふと視線が交差した。
在宅でプログラマーをしているという彼は、無口で目立たない印象の男だった。しかし、私を見つめる彼の瞳の奥には、一切の温度がなかった。
真っ黒で、氷のように冷たく、底知れぬ警戒心を抱いた視線。
(……何、この男)
豊の目は、私の完璧な笑顔の裏側に隠された「計算」と「強欲」を、まるでレントゲンか何かのように正確に透視しているかのようだった。兄の財産に群がるハイエナを見るような、強烈な敵意。
背筋を冷たいものが這い上がったが、私は表情を一切崩さず、彼に向けても極上の微笑みを向けてみせた。それが、私とあの「番犬」との、静かで乾いた出会いだった。
結婚が決まると、私はさらに周到な準備を進めた。
ある夜、私は隆史の胸の中で、わざとらしく甘い声を出しながら彼を見つめた。
「ねえ、隆史さん。私、あなたとの赤ちゃんが早く欲しいな……」
「本当かい、栄子!? ああ、僕もだよ。君に似た可愛い子供が生まれたら、どんなに幸せだろう!」
隆史は狂喜乱舞し、私を優しく抱きしめた。
だが、当然それは真っ赤な嘘だ。
子供なんて、絶対に欲しくない。妊娠線でこの完璧なプロポーションが崩れるのも、夜泣きで睡眠を削られ、泥臭い育児に追われるのも御免だ。私はただ、この裕福で優雅な生活だけを貪っていたいのだ。
私は彼に「早く子供が欲しい」と熱烈にアピールする裏で、密かに都内の高級婦人科クリニックへ通い、ヤーズフレックスという偽薬期間のないピルを処方してもらっていた。
お人好しの夫は、私が毎晩欠かさずピルを飲んでいることなど夢にも思わず、「いつか授かるさ」と嬉しそうに私を抱き続けた。私の完璧な計画は、寸分の狂いもなく進行していた。
そして迎えた、結婚式当日。
横浜の最高級ホテル。天井でバカラのシャンデリアが煌めく中、私は何百万円もする純白のウェディングドレスに身を包み、ヴァージンロードを歩いていた。
隣では、隆史が感極まってすでに大粒の涙を流している。
私は参列者席へと視線を向けた。
新郎側には、財界の重鎮や名士たちがズラリと並んでいる。
一方、私の新婦側の席に座っている「両親」や「親族」たちは、全員が私が大金をはたいて代行業者から手配した『レンタル親族』だった。
温厚そうな父親役の役者。涙ぐむ演技をしている母親役の女優。彼らは完璧な作り笑いで、私の門出を祝福するフリをしている。
本当の家族は一人もいない。すべてが金で買われた、偽物の空間。
だが、それでいい。私は過去という名の泥濘を完全に切り捨て、自らの手と計算だけで、誰もが羨む圧倒的な地位と富を手に入れたのだ。
「……栄子、君は世界一美しいよ」
誓いのキスの後、涙で顔をくしゃくしゃにした隆史が私に囁く。
「ありがとう、隆史さん。私も世界一幸せですわ」
私は完璧な角度で微笑み返し、参列者たちに向けて優雅に手を振った。
心の底で、冷酷な勝利の笑みを高らかに響かせながら。
これが、私があの息苦しい鳥籠を自らの手で作り上げた、完璧で、そしてひどく歪んだ始まりの日の記憶だった。




