第1話 完璧な妻
神奈川県にある高級住宅地。高台の広大な敷地にそびえ立つ白亜の豪邸が、私の完璧な城だ。
高い塀に囲まれた敷地内には、美しく刈り込まれた芝生が広がり、専属の庭師の手によって常に完璧に管理されている。ここには二つの大きな建物がある。一つは、結婚を機に私たちのために建ててもらったモダンなデザインの新居。そしてもう一つは、同じ敷地内の少し離れた場所に建つ重厚な造りの本宅だ。そこには義理の両親と、夫の弟である豊が住んでいる。私、矢絡深栄子は26歳。誰もが羨んでくれる、若くて美しい「トロフィーワイフ」だ。夫の隆史は私より13歳年上の39歳。輸入車ディーラーの二代目社長として成功を収めており、彼が私に与えてくれる裕福な生活は、まさに非の打ち所がないほど完璧だった。
「栄子、今日も世界で一番綺麗だよ。僕の可愛いお姫様」
毎朝、出勤前の玄関で、隆史は私をきつく抱きしめる。その腕の力は、まるで私がふっと消えてしまう幻であるかのように強い。彼は私の髪を撫で、頬に、首筋に、何度も何度も熱いキスを落とす。
「本当に君は美しい。僕のもとに来てくれて、こうして天使たちまで産んでくれて……僕は世界一の幸せ者だよ」
甘ったるい声と、ひしひしと伝わってくる重すぎる愛情。それは、時に私の首を真綿で絞めつけるように息苦しい。
「ふふっ、ありがとう。あなたも気をつけて行ってらっしゃい」
長年の演技で培った大女優顔負けのスキル。私は『完璧な妻の微笑み』を顔に貼り付け、彼を見送った。
隆史の乗った高級車が重厚な門を抜けて見えなくなると、私はふぅっと長いため息を吐き出し、笑顔の仮面を剥ぎ取った。
静まり返った広々とした大理石のエントランスに、奥のリビングから甲高い声が響いてくる。
「ママー! これ見てー! 僕が作ったの!」
「こっちが先! 僕のほうが早いんだから!」
4歳になったばかりの三つ子たちだ。長男の鳳太、次男の蓮太、三男の創太。隆史にとって、彼らは目の中に入れても痛くない至宝だ。
「はいはい、三人とも走らないの。転んだら危ないですよ。ほら、おもちゃはお片付けしましょうね」
わめきながら走り回る三人の子供たちを追いかけ、懸命になだめているのは、我が家が雇っているベビーシッターの骨蔵舞子だ。彼女は28歳と私より年上だが、化粧っ気がなく、地味で真面目だけが取り柄のような女性だった。「舞子さん、あとはお願いね。私、これからジムとエステの予約があるから」
「はい、奥様。いってらっしゃいませ」
舞子は恭しく頭を下げる。
私は子供たちに一瞥もくれず、シャネルのバッグを手に取り、自分用のポルシェのキーを指で弄りながら家を出た。
本当は、子供なんて絶対に欲しくなかった。自分の美しいプロポーションが崩れるのも、夜泣きで睡眠を削られるのも御免だったからだ。だからこそ、育児の煩わしい部分はすべてこの舞子という女に任せきりにしている。パーソナルトレーニングジムでは、若くて日に焼けた筋肉質な男性コーチが、甘い言葉を囁きながら私を指導してくれる。彼の熱を帯びた視線を感じながら汗を流し、筋肉の張りを感じる。その後は、完全個室の高級エステサロンで、最高級のオイルを使って肌を磨き上げる。私は常に美しく、価値のある女でいなければならない。それが、この裕福な生活を維持するための唯一の武器なのだから。
しかし、完璧に磨き上げられた鏡の中の自分を見つめるたび、私の心の中には冷たい風が吹き抜ける。
欲しいものは何でも手に入る。お金も、美貌も、地位も。
けれど、この完璧に管理された無菌室のような生活は、泥水で育った私には息が詰まり、発狂しそうなほどのプレッシャーだった。完璧な妻を演じ続けるストレスを中和するためには、時折、自ら泥水を浴びるような破滅的な刺激が必要だったのだ。
隆史の優しさは、私を甘やかしてはくれるが、決して私の内側にあるドロドロとした渇きを潤してはくれない。彼の私への扱いは、高価な壊れ物に対するそれと同じだ。私はもっと、ヒリヒリするような刺激を求めている。理性のブレーキを外して、本能のままに振る舞えるような激しさを。この息苦しい鳥籠を壊してしまいたくなるほどの暴力的な衝動を、私は今日も冷たいエステのベッドの上で、必死に押さえ込んでいた。
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週に一度、金曜日の夜。
それは私にとって、一週間の中で最も憂鬱な時間の始まりを意味していた。
敷地内にある本宅で、親族揃っての晩餐会が開かれる日だ。
吹き抜けになった広大なダイニングルームの中央には、十数人は座れそうな重厚なマホガニーのテーブルが鎮座している。その上には、出張シェフが腕を振るった色鮮やかで美しいフランス料理のフルコースが並べられていた。
「おお、元気だな! 今週もまた一段と大きくなったんじゃないか? こっちへおいで」
上座に座る義父が、好々爺とした満面の笑顔で目尻を下げ、テーブルの周りを無邪気に走り回る三つ子たちをあやしている。
「じぃじ、あのね、今日ね!」
「パパ、抱っこして!」
自我が芽生え始め、言葉も達者になった4歳の三つ子たちは、大人の関心を引こうと必死だ。
「はいはい、おいで。ああ、可愛い僕の天使たち。怪我はないかい? 今日もいい子にしていたかな?」
隆史は三つ子の一人を抱き上げると、頬ずりをして、まるで窒息させるほどの深い愛情を込めた甘い声でささやく。彼の目は完全に子供たちに釘付けだ。その過剰なまでの溺愛ぶりには、妻である私でさえ時折背筋が寒くなる。
「本当に、賑やかでいいわねぇ」
上品な笑みを浮かべながら、優雅な手つきで紅茶の入ったマイセンのカップを置いたのは、姑だった。口元は微笑みの形を作っているが、彼女の目は全く笑っていない。
「シッターの舞子さんに任せきりで、栄子さんはご自分磨きに熱心で羨ましいわ。若いお母様は、毎日エステやジムで大忙しですものね。私たちが子育てをしていた頃とは、時代が違うのかしら」
静まり返ったダイニングに、姑の甲高い声が響く。空気が一瞬にして張り詰めた。
完璧な笑顔での嫌味だ。由緒ある資産家の矢絡深家に嫁いできた、若くて派手で、育児もしない後妻。それが私に対する彼女の根底にある評価だ。私はテーブルの下でドレスの裾を強く握りしめたが、顔には決して感情を出さなかった。
完璧な愛想笑いを浮かべ、わざとらしく小首を傾げてみせる。「お義母様、お恥ずかしいですわ。でも、隆史さんが『栄子にはいつも綺麗でいてほしい』って言ってくださるので、つい甘えさせていただいているんです。それに、舞子さんも本当に優秀で、子供たちもよく懐いていますし……ねえ、あなた?」
私は隣に座る夫に、甘えるような視線を向けた。
「あ、ああ、そうだよ母さん。栄子にはいつまでも僕の美しい妻でいてほしいんだ。子育ての負担は減らしてあげたいしね」
人を疑うことを知らない隆史は、私の意図など微塵も気づかず、私の肩を抱き寄せて満面の笑みで同意した。夫の名前を出せば、姑はそれ以上追及できない。隆史が私を異常なほど愛していることは、この家では絶対的なルールであり、誰も彼に逆らうことはできないのだ。
「……そう。隆史がそう言うなら、他人が口を出すことじゃないわね」
姑が忌々しそうに視線を逸らし、ワイングラスに手を伸ばした。
見事に躱した。私は心の中で冷たく微笑んだ。
その瞬間だった。
ふと視線を上げ、テーブルの斜め向かい側に目を向けた私の体が、微かに強張った。そこに座っているのは、隆史の弟である豊だ。




