8 業火
まだ外は薄暗い。
新宿の街をあてもなく歩き回ったあと、タクシーでマンションに帰ってきたハルは服を脱いで洗濯機に次々に放り込んだ。
全裸になり、洗剤を入れて、スイッチを押す。
冷たい床に座り込み、洗濯機にもたれて、目を閉じて振動を感じる。
寒気がする。熱いシャワーを浴びて着替えたいが、疲れ切っていて何をする気力もなかった。
バカだ。
自分でもわかっている。それなのにやめられない。
やめられないのがなぜなのか。
カズさんに愛されているのに、なぜ――。
わからないけれども、男たちに抱かれることはやめられない。
痛みこそが生きていることへの証でもあるかのように。
「あんたなんか生まなきゃよかった」
母親の口癖だった。
実際にそうだったのだろう。
ハルには3歳上の姉がいたが、ハルが幼稚園の頃、児童福祉課の役人が来て、養護施設に送られた。
ハルは要保護のケースに当たらなかったらしく、これまで通りに母親のもとで育てられることになった。
別れて以来、姉とは音信不通だ。もう顔も忘れてしまった。
ハルにとって、生まれてきたことへの贖罪、それが体を売ることだったのかもしれない。
自分を痛めつけることでしか生きている実感が得られなかった。
それなのに、城戸と出会ってしまった。
愛されることを知ってしまった。
それはハルにとって幸せだったのか、それとも――。
悪寒に身を震わせると、ハルはようやく立ち上がって、寝室のブランケットを羽織って戻ってきた。
洗濯機はまだ回っている。
残り時間を確認し、湯沸かしポットで湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れる。
爪先が冷たい。
床にしゃがんで熱いコーヒーを飲みながら、ハルは城戸との食事を思い出していた。
ひとつの鍋を分け合い、おいしいねと言い合える相手のいる食卓。
ハルが望んで得られなかったものだった。
いや、望みさえしなかった。
望むだけ愚かだとわかっていたから。
ハルは立ち上がって冷蔵庫を開け、袋に入ったクロワッサンを見つけて口にくわえた。
冷蔵庫の中はほとんど空っぽだ。
ハルが唯一食べられるフルーツであるリンゴと開封した牛乳パックが入っているだけで、あとはチョコレートボックスが2つ、棚の奥に並んでいる。
クロワッサンをくわえたまま、ハルはチョコレートボックスを取り出した。
箱のひとつの中身は現金だ。1万円札で200枚ほどあるだろうか、ハルは銀行口座がないので、ずっとこうして手元に置いてあった。一晩で多い時には5万円ほど稼ぐ日もあるが、出勤前に勇斗と高級焼き肉屋で散財したり、ほとんど外食だし、洋服を買ったりするのでたいして貯まらない。貯める目的もなかった。
もうひとつの箱の中身は睡眠導入剤と精神安定剤のシートが合わせて30枚ほどが輪ゴムで止められて入っていた。自称薬剤師の客から手に入れたものだ。睡眠薬は何シート分か服用してしまったが、しばらく安心できるだけの量はまだあった。
チョコレートボックスの中身を確認し、元の位置に戻すと、ハルは冷めかけたコーヒーを飲みながらクロワッサンを齧った。
洗濯機の脱水終了のアラーム音が鳴っている。
洗濯物を干したら、少し仮眠することにしよう。
クスリを飲んで。
週末には城戸に会える。
「会いたかった」
ハルに会うと、城戸はいつもマンションの玄関でハグして迎えた。
優しく、柔らかく、あたたかなハグ。ハルをまるごと包み込むような。
いつまで、こうして抱きしめてくれるのだろう。
嬉しさのどこかで、いつも終わりの予感に怯えていた。
永遠なんてどこにもない。
城戸に出会うまでハルには怖いものはなかった。
失うものなど何もない、空虚そのものだったから。
だが、いったん安息を手に入れてしまうと、それを失うのが怖くなった。
また何もない空っぽに戻るのが怖かった。
気づくと涙が頬を伝っていた。
ハルは再び冷蔵庫から取り出したチョコレートボックスを持ってベッドに横になった。
悪い夢をみないように。
少し眠ろうと思った。




