マウンドの宇宙人 MLB投手 イーウェル・ブラックウェル(1922-1996)
ブラックウェルのピッチングは非常に理にかなっており、これだけ打者の視界を意識して、投球をロックオンさせない工夫をこらした投手はメジャーでも珍しかったのではないかと思う。ドジャースのグラスノーあたりが、正攻法でなくこういう変則投法を身につけたなら、ポール・スキーンズ以上の難攻不落の投手になれるような気がするのだが・・
一九八センチ八十八キロのブラックウェルは、まるで病院か収容所から抜け出したきたかのように痩せ細っており、病弱そうな顔つき、ガリガリに痩せた長い四肢のどこを取っても、とてもプロのスポーツ選手には見えない。ところが頭足類の触手のような腕から繰り出されるストレートは抜群に速く、シンカーの落差はフォークボール並みだった。
現在は似たような投手が見当たらないが、少し前のランディ・ジョンソンのようなタイプと言ったらいいだろうか。二メートルを越える長身サウスポーのジョンソンがサイドスローから繰り出す速球は、打者の背中側からドリフトしながらベースを横切ってくるような迫力があり、左打者がミートするのは至難の業だったが、右のサイドスローであるブラックウェルの球もサウスポーのクロスファイアーのようにベースを急角度で横切る打者泣かせの曲球だった。
三百勝投手のジョンソンと生涯八十二勝のブラックウェルでは、格が違うと思われるかも知れないが、一九四七年のブラックウェルが全米の野球ファンに与えたインパクトは、全盛期のジョンソンでも敵わない。それこそ異次元からやってきた宇宙人のように並みいるメジャーの強打者を困惑と驚愕の渦に巻き込んだのだ。
ブラックウェルは、父親がカリフォルニア州サン・ディマスのセミプロチームに所属していた関係で、幼少の頃より野球に親しんできたが、本人は野球よりもフットボールにご執心だったため、中学時代には完全に野球をやめてしまった。
ハイスクールに入学して再び野球をやるようになったのは、野球好きの父親に説得されたからであり、プロ入りするまでフットボールに未練たらたらだったらしい。
ハイスクール入学当初は三塁手だったが、素晴らしく肩が強いので投手に転向させられた。それもピッチング練習の時でさえ、捕手はフル装備で捕球しなければ危険なほど速かった。
同じチームの外野手には後に陸軍のオールアメリカンフットボールチームのメンバーに選ばれたグレン・デービス二世がいたが、プロのスカウト達が見学に来るのは、決まってノッポの新入生目当てだった。
卒業が近づくにつれ、カブス、ドジャース、カージナルスと次々にスカウトがブラックウェル家を訪れたにもかかわらず、なかなか契約にこぎつけられなかったのは、契約金の問題などではなく、父親が固執したメジャーの春のキャンプに参加させるという条件をどこのチームも飲めなかったからである。
入れ替わるように現れたパイレーツ、インディアンス、ブラウンズのスカウトもブラックウェル家を説得することが出来なかった中、レッズのパット・パターソンは会長のワレン・ガイルスを説き伏せて、ユーウェルを一九四二年の春のキャンプに参加させることを承諾し、ついに契約にこぎつけた。
マイナー契約だったため、年俸は千五百ドルに過ぎなかったが、チャンスは金には変えられない。レッドソックスとのエキジビションゲームにリリーフ登板した十九歳のブラックウェル少年は初めて対戦したメジャーリーガー、テッド・ウィリアムズを緩いセカンドゴロに打ち取り、開幕メジャー残留を勝ち取
ったのだ。
さすがにメジャーでの荷は重く、数週間後には2Aのシラキュースに落とされたが、そこで十五勝十敗、防御率二・〇二という好成績を残し、チームはインターナショナルリーグの優勝決定戦にコマを進めることができた。
決定戦での活躍ぶりは圧巻の一言で、先発した三試合をオールシャットアウトしたほか、リリーフでも無失点でぴしゃりと押さえ、ブラックウェルはリーグ優勝の立役者となった。しかし、この時の無理がたたって肺炎を発症したため、アメリカンアソシエーションの覇者コロンブスとのリトルワールドシリーズには登板できず、チームは一勝四敗で敗退した。
2Aでの好投が認められ、翌シーズンのメジャー昇格が確実視されていたブラックウェルだったが、社会情勢ばかりはいかんともし難く、一九四二年十二月から約三年半もの間、陸軍に応召されてしまった。幸い派遣されたヨーロッパ戦線では、ドイツ降伏後から連隊ごとの野球チームで対抗試合が行われるようになったおかげで、ブラックウェルは野球勘を取り戻し、一九四六年三月の除隊後、わずか一週間そこそこで公式戦に登板できるコンディションにまで仕上っていた。
実質的なメジャー初年度となる一九四六年のシーズン、ブラックウェルは九勝十三敗、防御率二・四六という成績だった。
二桁に届かなかったのは、十三の敗戦のうち六つが完封負けと打線とのめぐり合わせが悪かっただけで、防御率はリーグ四位、六完封勝利はリーグトップと、内容的には他チームのエース級と比べても遜色がなかった。
前半戦四勝四敗、防御率二・四四でオールスターに選出されたのも、表面的な投手成績だけでなく投球内容が高く評価された証である。
一九四七年はブラックウェル父子の夢が叶った記録ずくめのシーズンだった。
二十二勝八敗で最多勝のタイトルを獲得したほか、一九三奪三振もリーグトップ、防御率二・四七はリーグ二位と、数字的にもナ・リーグの投手中、最高の成績を収めているが、数字だけでなく内容も凄かった。
五月十日から七月二十五日までは右投手のメジャー新記録となる十六連勝を記録。それも救援勝利や途中降板は一度もなく全て完投勝利である。七回同点でマウンドを降りた六月一日の試合を挟んで以降は十二試合連続完投勝利という無敵ぶりだった。
しかも驚くべきことに連勝期間中に打たれた本塁打はたったの一本だけである。これだけ完投していれば終盤は球が走らなくなるうえ、打者の目も慣れてくるため一発を浴びる危険性が高まるものだが、ブラックウェルの球は芯で捉えるのが難しく、とても長打など期待できるものではなかった。
その証があわや二試合連続ノーヒット・ノーランの快投を演じた六月十八日のブレーブス戦と二十二日のドジャース戦である。
まずブレーブス戦でノーヒット・ノーランを達成したブラックウェルは、続くドジャース戦でも九回一死からシングルヒットを打たれるまでノーヒットに押さえ込んでいた。もしあと二人を打ち取っていれば、同僚のジョニー・ヴァンダミーアが九年前に記録した史上唯一の快挙に並ぶところであった。
まさにあと一歩のところだったが、ブレーブス戦の前の登板でも最後の五人を凡退させているため、都合十九回無安打無失点を続けていたわけで、これが少しずれていれば、パーフェクトゲームより遥かに困難な『ダブル・ノーヒッター』ということになる。
二十一世紀のいかなるサイ・ヤング賞投手でも、これほどの投球内容を見せた者はいない。チームが
五位にもかかわらず、MVP投票で次点に食い込んだのも当然のことだろう。
前半戦十四勝二敗の余勢を駆って先発出場したオールスターゲームでも、三回を一安打無失点四奪三振と素晴らしいピッチングを披露した。パスボールやワイルドピッチでピンチを迎えてもそれぞれ三振で切り抜けているのは、捕手も取りそこなうほど変化が激しかったということなのだろう。選球眼がよく滅多に三振をしないジョージ・ケル、テッド・ウィリアムズ、ルー・ブードローまでが三振に切って取られたのもうなずける。
一般にサイドスローの投手は、ランディ・ジョンソンに代表されるようにやや中腰から前のめり気味に球を投げ込む。投球モーションに入ってから球をリリースするまでのテンポも、一般的なオーバースローの投手と変わらない。
ところがブラックウェルの場合は、アンダースローのようにバックスイングが大きく、腰の位置もかなり深く沈みこむ。そこから左足を一塁方向に大きく踏み出して、右膝がグラウンドに触れるほど低い体勢から投げ込むのである。
ワインドアップからリリースポイントまで二七〇度も右腕の稼動域があるうえ、グリップも打者からは左腕のグラブが影になってぎりぎりま見えないようにフォームに工夫をこらしているため、そうそう球種を見破られることもない。
長い腕が鞭のようにしなることから「WHIP(鞭)」という愛称で呼ばれていたが、球はルアーフィッシングのような軌道を描く。つまり、リリースの瞬間は右打者の側頭部を目がけてきた球が目の前を横切るようにしてアウトローに沈んでゆくのだ。
これを左打席から見ると、自分の顔面目がけてきた球がブレーキ鋭く膝元に落ちてくるような感覚にとらわれる。モーションが大きく、長い手足が邪魔になってリリースポイントを見極めづらいため、「蛸が投げているようだ」という打者もいたほどだ。
ストレートだけでも十分速く、角度があるところに、同じモーションでカーブ、シンカー、チェンジアップまで組み合わせられると、余程スイングスピードが速いか決め打ちをするしか対処のしようがなかった。
また、ボールが自分の方向に向かってくることから、右打者に比べると比較的球筋を見極めやすい左打者に対しては、目が慣れることを防ぐ目的で、時折オーバースローに切り替えるなど、打者の視点からより打ちにくい球を投げようと工夫を凝らしていた。
ブラックウェルの工夫をこらしたピッチングはアマチュア選手たちも見習うべき点が多かったのだろう、昭和二十四年には彼が解説した『ピッチングの秘訣』という本がわが国でも出版されている。
昭和二十年代までの日本野球はアメリカンベースボールと大きな格差があったが、その要因の一つが投手のモーションだった。
当時の代表的投手である金田正一(国鉄)、杉下茂(中日)、藤本英雄(巨人)は、二十一世紀の日本プロ野球でも十分通用するだけの技量を兼ね備えていた。金田の一六〇kmの豪速球、杉下のフォーク、藤本のスライダーは、近代一流のスラッガーといえどもそうそう打てるものではない。にもかかわらず、来日メジャーリーガー相手にあまり通用しなかったのは、比較的一本調子の投球と、球種を見破られやすいフォームで投げていたことによる。
日本の野手は中西太(西鉄)の長打力と吉田義男(阪神)の遊撃守備を除いては、ほとんど来日メジャーリーガーから注目されることはなかったが、投手の質は良く、「もっと緩急を使って球種が見破られないフォームで投げれば、メジャーでも通用しそうな投手が何人もいる」と日本の投手の資質を高く評価するメジャー関係者は少なくなかった。
メジャー有数の強打者であるロイ・キャンパネラとラルフ・カイナーが揃って「最も手強かった投手」としてブラックウェルの名を挙げているように、ただ球が速いとか、変化球が切れるとかいうのとは違って、「顔面を目がけてくる」という球の軌道が打者に恐怖心を植え付けるという点において、他チームのエースたちと一線を画していたといえよう。
ブラックウェルの身体的特徴を生かして、このような投法を伝授したのは、レッズの往年のエース、バッキー・ウォルターズだった。
レッズが一九三九年、一九四〇年とリーグ連覇を果たした時には二年連続で最多勝と最優秀防御率の二冠を獲得したウォルターズは、ブラックウェルが入団してきた当初は選手生活も晩年に差し掛かっていたが、引退後も監督としてチームに残り、この稀に見る逸材の指導に執心した。
「ディジー・ディーン以来、最高の右腕」と大絶賛されたブラックウェルには、今後何度もノーヒット・ノーランのチャンスがあるだろうと思われていたが、一九四八年は七勝九敗と全くファンの期待に応えられず、一転して心ない誹謗中傷に晒されることになった。別段、故障したわけでもないのに打たれるため、ファンは彼の不摂生がスランプの原因だと思い込んでいたのだ。ところが実は恐ろしい病魔がブラックウェルの身体を蝕んでいた。
一九四九年の一月、精密検査の結果、ようやく病名が発覚した。先天性の腎臓疾患で、すでに右の腎臓はほとんど機能していなかった。
仮にもプロスポーツ選手で、これまでにも幾度となく健康診断を受けてきたはずのブラックウェルが全く検査に引っかからなかったことは医学上の謎とされたが、逆に言えば左の腎臓だけでハードなスポーツをこなしてきたことになるわけで、普通では考えられない。
三月に右の腎臓を摘出したブラックウェルが六月にマウンドに帰ってきた時には、七十三キロまで体重が落ち、まるで幽霊さながらだった。さすがに病み上がりではまともに投げられず、中継ぎリリーフ中心で五勝五敗の成績だったが、病魔と闘いながらも力投を続ける彼の姿は感動を呼んだ。
投手としての将来は予想がつかないにせよ、人気者だけにシーズンオフにはジャイアンツとパイレーツから移籍金二十五万ドルでオファーがあったが、ガイルズ会長は首を縦には振らなかった。それだけブラックウェルの復活に懸けていたのだ。
正念場の一九五〇年、『鞭使い』は見事復活を遂げた。一時は二十勝も時間の問題と思われながら十七勝十五敗に終わったのは、シーズン終盤に虫垂炎の手術をしたからで、それがなければ終盤の調子の良さからすればあと三勝は堅かっただろう。さらに三振をあと三つ取れば二度目の奪三振王になっていた。
内容的にもワンヒットゲームが二試合、ツーヒットゲームが一試合とノーヒットノーランを期待させる好投を随所に披露したばかりか、二年ぶりのオールスターゲームでも延長戦に入ってからの三回をヒット一本に抑え、勝ち投手になっているように、全盛期に匹敵する球威が戻ってきた(防御率二・九七はリーグ三位)。
一九五一年も十六勝十五敗というエース級の活躍を見せたブラックウェルも、片肺飛行では体力的に厳しく、一九五二年は三勝十二敗と負けが込んだところでヤンキースにトレードされている。
古巣を離れるのは辛かったが、この年、生涯唯一のワールドシリーズ登板を果たせたのは不幸中の幸いだったと言えるかもしれない。
ヤンキース時代のブラックウェルはほとんど登板の機会がなく、二年間で三勝しか挙げていないが、ワールドシリーズも含めて敗戦は一度もなかった。
生涯成績 87勝78敗 防御率3.30
身体に重大な疾患を抱えながら、メジャーで20勝、ノーヒットノーランまで達成したブラックウェルの快投は、2025年ワールドシリーズの山本由伸に勝るとも劣らぬ感動を与えたことだろう。




