12、もう一つの記録石の残り香
春の月がおぼろに霞む。
若い貴公子が長い廊下を急ぎ足で駆け、水晶と真珠を散りばめた銀と白の扉を開いた。
「ヴァイリカスから記録石が届きました」
部屋には豪奢な衣装の幾人もの人間がいた。
金銀細工の飾りを施された寝台を取り囲んでいる。
寝台には、紙のような顔色の老女が横たわり長い銀髪を散らしていた。
ゆるやかに胸は上下していたが、かすかに開いた色あせた唇から漏れる呼吸音は弱々しく微かであった。
「お祖母様、記録石を起動させますね」
魔術師のローブを纏い杖を持った若い男性の姿が等身大で映し出された。
しかし壊れてしまっているのか、映像は動かず、声も再生されなかった。
「…………お父様…………」
老女の声が掠れる。目に涙が浮かんだ。
「お父様、アンジェリーナです……」
老女が映像に手を伸ばす。
「お父様……」
老いた皮膚の底には、夜でもなく朝でもなく夜明けの前の仄白く暗い静けさのような死の匂いが澱みたまっていた。
映像は動かない。
老女の手は、むなしく空を切った。
そして老女の手はそのままゆっくりと落ちる。
「「「「お祖母様っ!!」」」」
燃える火の灯が、細く息をして揺れるみたいな呼気が吐かれた。
老女の最後の息。
生と死の境界線を越えて魂が肉体から離れる。
その時、映像の男性の杖が大きく振られた。
老女の肉体の上に、半透明な姿の老女が現れる。
「お祖母様!?」
霊体の老女に孫である貴公子は驚きの声を発した。
『アンジェリーナ』
映像の男性が一歩踏み出した。
『お父様?』
老女が声とともに、みるみる刻を逆行して10歳くらいの少女となった。
『僕のお姫様。迎えにきたよ』
男性が手を広げた。
『僕のお姫様は泣き虫の怖がり屋さんだからね。暗い道も迷うことがないように、記録石に僕の魂を閉じこめて待っていたんだよ』
実現の低い賭けであった。
アウロラダンジョンの100階を攻略する者が現れて、その者が男性の記録石を発見して、なおかつ持って帰ってくれる―――それは、まぐれに近い幸運だった。
その幸運の形は、茉莉花という人間であった。
男性は一縷の可能性の賭けに勝ったのである。
少女が男性に飛びつくように抱きついた。
『お父様、お会いしたかった』
『帰ることができなくてごめんよ。最期の時に、記録石を遺すことが精一杯だったんだよ』
男性も少女を600年の歳月を経て、ようやく抱き締め返した。真摯な愛情で。強く、強く、少女をひしと掻き抱く。
部屋の中の人々は、驚愕のあまりの衝撃で瞠目して立ち尽くしている。
『僕の杖を持っておくれ』
『はい、お父様』
『行こうか』
男性が杖ごと少女を抱きあげた。左腕に少女を乗せ、右手で少女の手を握る。離さないように。愛しげに。優しく手を繋ぐ。
歩きかけた青年が振り返った。
『頼みがある』
「は、はい!」
あわてて我に返ったみたいに貴公子が返事をした。
『その記録石をアンジェリーナの柩に入れて欲しい』
「わかりました。必ず入れます!」
青年が目を細めて笑った。
『息災でな。アンジェリーナの息子よ。アンジェリーナの孫たちよ。死者の身であるが、つつがない安穩を祈っておるぞ』
少女も家族に向かって微笑む。
『ありがとう、幸せだったわ。だから悲しまないでね。いつまでも心から愛しているわ』
青年の身体が浮かんだ。
そうして。
水面に浮かんだ泡の膜のように一瞬で消えたのであった。
10日後、王宮で騒ぎが起こった。
第二王子が王太子の側近に掴みかかったのだ。
「そいつから僕の番の匂いがするんだ! 僕の番の匂いだ! 僕の番と会ったのか!?」
狂ったように叫ぶ第二王子を王太子が戒める。
「彼は身内に不幸があって、今日久しぶりに出仕してきたのだ。落ち着け、きちんと調べるから。誰か、弟を部屋に」
王宮が全力をあげて膨大な時間をかけて綿密に調査をしたが、結局、第二王子の番の存在は不明であった。
高位貴族の葬儀である。
参列者は多く、調べる人数は膨大だった。
事細かに調べられたし、追跡調査もされた。
それでも匂いが移った経緯の詳細がはっきりとしなかったのである。
第二王子の番の匂いが多数の者に薄く付着をしていたが、それも時間とともに消えてしまった。
そして誰も。
生きている者を念頭に探してしまったが故に。
誰ひとりとして、アンジェリーナといっしょに埋葬された記録石にまで辿りつくことができた者はいなかったのであった。
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