ヴィランとワルツを
橋本美鳥という人間は、車にはねられて死んだ。それはそれは、あっけない最期だった。
その単的な情報が前世の最期のことだと気がついたのは、この世界に生まれ落ちてしばらくしてからだった。
今世は獣人という種族に生まれたが、戦時下なこともあり生まれ落ちたその日から戦災孤児となっていた。しかし、この世界には種族に関係なく皆が大なり小なり魔法が使えた上に、獣人という種族の中でも猛獣クラスであったため、生まれながらの不幸があったとしても生き抜くことは比較的楽だった。かく言う私も、成体になってすぐ軍に志願し、順調に出世街道を爆進していった。
獣人の厄介なところは、幼体の間は食事を取らなくても自身の魔力を喰んでエネルギーに変えられるところだろう。この生態により、我々の種族は他の種族に比べて幼体の時に命を落とすことがほぼないと言われている。しかも、成体になる速さも種(草食)によればわずか三年となっているため、百余年と長引く戦時下では圧倒的に有利な状況を維持し続けてきた。繁殖という点で、我々を凌駕する種族はいないと言っていいだろう。
では、なぜいまだに天下が取れずにいるのか。
それは、我々が戦っている相手が“神”(信仰)という、とても面倒臭いものだからだ。そいつらは、減ったと思えば際限なく湧き出してくる。枯れることのない泉のようにも見えるが、水とは違い時代が乱れれば乱れるほど湧き上がってくる不可解なものだった。
しかし、それに似たものが獣人にもあった。それが、匂いだ。
特に上位の獣人が一番大事にしており、“番”と呼ばれる伴侶探しに人生の半分を割くのだ。獣人に生まれると必ず、世界のどこかに番が存在する。番とは、上位の獣人たちの本能に染み付いて離れない、もはや魂と言ってもいいくらいに重視されている。
この番に傾倒するのは、上位獣人の中でも最上位種(肉食)と呼ばれるヒエラルキーの上の方のやつらだった。下位種(草食)だと出会い頭にそのまま交配して五〜十匹産み落とすのがザラだが、戦においては後方支援か肉壁くらいにしかならない。上位種が番に拘らなければあっという間に終わっていただろう戦況にも、お構いなしだ。しかもタチが悪いのが、この番が獣人以外の種族に稀に現れるのだ。最悪の一言に尽きた。
ここで私が前世を思い出したことが、じわじわとこの獣人の本能に作用してくる。
どういうことかというと、私はこの番に対する本能的衝動を理性で若干で抑えつけることができているようなのだ。前世の人としての性がそうさせるのか、いわゆる番に対する求愛衝動や焦燥感というものに苦しめられるということがなかった。これに関しては、上位のくせにと蔑むやつらと上位なのにと憐れむやつらの二パターンに分かれてどちらにせよ侮辱されたので、全員を片っ端から半殺しにして黙らせた。恋愛脳で前線を離脱するようなやつら、ぶち殺さないだけマシだと思って欲しい。
そんなこんなでダラダラと続いた獣人族と神の戦いは、ある日一変することになる。
私が従軍して数年後のことだ。
獣人族の王が、魔王として覚醒したのだ。
元々魔王が誕生するきっかけとなったのは、女神様が庇護していると謳われていた人間の王国ハートロックが、ある時から聖なる力を邪なことに使い始めたからだった。その信仰心と聖力を持って周辺諸国を同盟と称して侵略していった結果、その過程で蹂躙された魔者や獣人、亜人種たちの怨念が獣人の国王に取り憑いた。
女神に見放されたハートロック王国は、この十数年の間に魔王に統率(実力行使により番に拘るのも強制的にやめさせていた)された獣人軍に蹂躙され、何億といた人間たちはもう一千万人といない。
今、世界は人間とそれ以外に二分された。
人以外の種は垣根を超えて混じり合いながら、異文化を受け入れ様々な生態を理解し共存することを受け入れていた。人だけが、頑なにそれを拒んだに過ぎない。
そんな愚かな人間の国で、聖女召喚が行われたのが半年前。
女神の最後のお慈悲に縋ったというわけだ。
(面倒臭いなぁ……)
その聖女御一行が、我らが魔王の首を狙って順調に行軍しているというので、魔王軍の三大将軍の一角を任されている私がその討伐の任を受けたのが数刻前だった。
人間は飲まず食わずでは一週間も持たずに死んでしまうらしいので、彼女たちの行軍ルート上必ず立ち寄るであろうオアシスで待ち伏せていた。
魔王が気に入っている水浴び場でもあるここは、豊かな水が渾々と湧き出る泉があるだけだった。特に実がなる植物もなければ、棲家にしている小動物もいない。泉を中心に半径一キロにただ美しい砂丘が広がっているだけの、侘しくも美しい情景。
この美しい景色が魔王のお気に入りだと皆が知っているから、魔王以外の何者も近寄らぬようにしているのだ。その価値を知らない汚らわしい人間たちは、素知らぬ顔で砂丘を踏み締めその水を口に含もうとする。百年前から何も変わっていない……、本当に愚かな生き物だ。そして、それを同じくらい愚かな宿命を背負っているのが、我々獣人でもある。
「ここの水を飲めるような立場にないの、分かった?」
そう幼子に言い聞かせるように説明してみたが、目の前の奴らには聞き入れてもらえなかった。
それに加え、こちらを威嚇する五人の殺気がどんなに頑張ってもそよ風のような威力で、さらにやる気が下がっていく。あまりに期待外れで、毎日女官が手入れしてくれている自慢のマニキュアを両手を広げて眺めてみた。真っ黒なエナメルに、黄金で縁取ったフレンチネイル。魔王の髪と瞳をいつでも思い出せて、気分が上がる。
「そういや、犬と猫ってのは喧嘩するもんだって、昔から獣人の間じゃ決まってんの。知ってた?」
ねぇ?とそのうちの一人の男に視線を向ければ、唾棄された。野蛮だ。
「知るか、俺は人間だ」
「嘘こけ、お前混血だろ?それに、聖女様の犬っころだ。アタシらは鼻が利くんだ、そこの聖女様を使徒三人で回してんだろ!くっさいくっさい……お前ら、ほんと終わってんなぁ」
何が聖女だよ、っと鼻で笑い飛ばせば、愛らしい顔をした聖女様が顔を真っ赤にして使徒の一人の背に隠れてしまった。恥じらったところで、ヤること全員とヤッてんだからあざといなと今度はため息が出た。
「そういうお前からも、雄の臭いがするが?」
「お前、オオカミが混じってんのか?アタシは、混じりっ気なしの雪豹の獣人!よろしく」
「混じり者呼ばわりは虫唾が走る……!それに、俺の質問に答えていない」
目の前の男の瞳孔が、獣のような形に変わった。
可哀想に……、人以外を徹底的に排除する人の中で生きていくのは相当苦労してきたに違いない。だが、人と獣人の混血は薄くても濃くても外見だけは人間に寄るので、目立つ行動さえしなければ擬態はしやすい。五感の鈍い人間など、それ以外の種族からすれば騙すのは容易いのだ。だから、すぐに人間の女は獣人の雄に攫われ、男は娼婦だと思って人間に擬態した獣人の雌を買う。
そうした犠牲になりやすいのは、その人間との間に生まれた子ども(混血)だった。殊更、人間の国で生まれてしまった子どもたちが、一番の犠牲と言ってもいい。人間に迫害されてきたのは、いつだって彼らだった。
獣人の国で保護したくても、戦時下では難しい。番に選ばれた娘を無理やり連れ戻して、子を孕んでいたら悪魔に身を捧げたからと母子共々殺すのだそうだ。何が聖なる国だよ全く、慈悲深くて嫌になる。死に物狂いで逃げ出して、闇医者に頼んで子を産み落とす人間の女が哀れで仕方がない。
おそらく目の前の男も、それなりに苦労してきたのだろう。
ちなみに、私には前世の最期の記憶があるだけで、それ以外の記憶は全くない。人間がどういう思考回路をしているかだとか、そういうのも全く分からない。あるのは普通の獣人よりも少しばかり強い理性だけだった。
「アタシは、自分より弱い雄は相手にしないんだ」
考え事をしながら聖女の使徒であり半獣でもある男だけ残して、残りの三人が後方に逃げていく。逃げても無駄だ、他の将軍がその先で待ち伏せているのだから。遅かれ早かれ死ぬだろう。
『お前はどこもかしこも真っ白で、綺麗だな』
そう頭を撫でてくれた魔王の笑顔を思い出しながら、腰に下げたサーベルを抜いた。普段はしまっているデカい猫耳と尻尾を露わにして、獣人としての身体能力と特殊能力を最大値まで高める。
アタシは、雪豹の一族だ。
その血統魔法は、自分たちの触れたところから全てを凍てつかす事ができるというもの。
サーベルの一振り、その風が届く範囲全てを凍てつかす。
「俺は、オオカミの半獣……焔の一族だ」
全てが相反する。
男の振り被った大剣から放たれた熱波が、凍てついた風とぶつかった。相殺されたお互いの力に、特殊能力は互角だと知る。けれど、身体能力はアタシの方が圧倒的に上だ、比べるべくも無い。
「『番』なんて鼻で笑っていたが、強烈だな!脳みそがビリビリ痺れて、今すぐお前の頸にでも噛み付いてやりたくなる!!胸クソ悪ぃ、死にてぇ!!」
「気色悪ぃことを喋るな、糞ったれっ…!」
お互いに悪態を吐きながら、一瞬で剣を交えた。殺し合いだ。
思い切り打ち込んだ一撃を上手くいなされ、後ろに下がった反動で間合いを取られた。大剣のくせにモーションが疾い。一瞬で踏み込んできた男の真上に飛んで、さっきまでアタシが立っていた場所にめり込んだ大剣の峰の上に降り立つ。そのまま大剣を地面と一緒に凍結させて動きを封じようとしたが、先にやつの焔が大剣ごと私を燃やそうとしたので、そレより疾く躊躇いなくサーベルを男の首に向けて振った。
あと少しで落とせそうだったのに、男が柄と手を溶かして横に逃げるほうが速かった。人間、半獣の割には強い方だと思う。けれど、それだけだ。
そんな凡庸な男に、アタシは今、惹かれてやまない。
「嫌いだわぁ、お前」
「奇遇だな、俺もだ」
お互いの殺気が膨れ上がり、鍔競り合いを合図に氷と焔がお互いの体から漏れ出た魔力に乗って爆発的に辺りに広がる。ぶつかり合ったその力が爆風を作り、砂塵を巻き込み空気の渦を作り出した。魔力によって作り出された氷と焔が混ざり合った暴風が、私たちを殺伐した戦いの中で二人きりにした。耳鳴りがする、研ぎ澄まされていく感覚が、目の前の男の殺気立つ瞳に意識を集中させた。
(魔王に忠誠誓ったばっかだからなぁ……あいつ、寂しがりだし束縛しいだから、拗ねちゃうかなぁ)
多分、目の前の男も聖女に騎士の誓いでも立てたんだろう。あの女の匂いがただでさえ鬱陶しいのに、右目の瞳孔に聖痕が浮かび上がっている。おそらく、私の左目の瞳孔に浮かび上がっているであろう呪詛に、男も私の事情を察しているはずだ。これが真っ当な純血の獣人同士だったなら、おそらくお互い嫉妬で殺し合いをしていたことだろう。獣人の本能は、番というシステムの前では愚かしいまでに野蛮なのだ。
私は記憶に、男は血に、人間(理性)が混じっているから今こうして比較的冷静に対話ができているに過ぎない。結局殺し合ってはいるが、お互いの事情を考えれば至極当然の結果ではある。
「今ここでお前を殺してやってもいいけど、それじゃつまらんな」
「ほざくな、今すぐお前の首を刎ねて寝所に飾ってやる」
「やだよ、お前らの交尾眺めるの」
「いいかげん下品な口を閉じろ!」
「えぇ……下品なのはお前らもだろ?一人の女共有とか、うちの魔王見習えよ」
「俺は抱きたくて抱いてるわけでは……」
「やだ、もっと不潔!私の番様はとんでもない不潔よ!!」
私の軽口に激昂したらしい男が猛攻を仕掛けてきたが、軽くいなして辺りを旋回している暴風に魔力を流して吹雪を作り上げた。それをまとめて男にぶつけた、が男の作った火柱が相殺してしまった。魔力が互角だと、物理で首を跳ね飛ばすしかなくなるのだが、どうしてか気乗りしなかった。この匂いのせいで、殺意が時たま鈍るのだ。おそらく、男もそうなのだろう。これはいけない、この鈍りが重なった時……私たちの理性が弾け飛ぶのだろう。
「やめだ」
「逃げるのか」
「分かってんだろう?このまま長引けば、多分、私はお前の上で腰を振ることになる」
「下品な……だが、まぁ、確かにこのまま番えばお互い聖痕と呪詛の関係で死ぬな」
「な?だから、理性が残ってるうちにやめるぞ。どうしても私と番たいなら、魔王を殺してからにするんだな」
そう鼻で笑ってやれば、男は獰猛な顔で笑った。
「私の忠誠心は、運命の愛を凌駕するんだよ。じゃぁな」
「全部根こそぎ奪いに行くから待っているんだな」
選別に男から特大の火球をもらったが、軽やかに避けて魔王のところへ戻ったのだった。
まぁ、二度と会うことはないだろう。
このビリビリと脳みそを揺さぶる匂いを、再度嗅ぐことはない。
※
「なんで牢屋で繋がれてんだよ?」
「なに、もう喧嘩してやれねぇんだけど?」
あのあと、ことの詳細を左目を通して眺めていた魔王に牢獄へ幽閉され、両足の腱を切られて自由を奪われていた私を、魔王城を血に染めて探しにきた馬鹿がいた。
「右目(聖痕)は?」
「くり抜いた」
「イカれてんなぁ……そんなにヤりたかった?」
見覚えのある大剣で鉄格子を一振りで壊して入ってきた男は、隻眼になっていた。対して私の左目の呪詛は、魔王が死んだことでさらに強力になっていた。面倒臭い男しか周りにいなくて困る。
「その呪詛、焼き消してやるよ」
「いや、もう殺してくれよ……番のよしみで」
「うるせぇ、名前教えろ」
「やだよ、ばーか」
終