空に溶けていく
何もない空虚な宇宙を走る、小さな救命艇の中。
薄暗い小さな部屋の中で、小さな赤いランプが点滅している。
その小さな救命艇に、二人だけで宇宙に飛び出した。
向かい側の少年が、シートベルトを外すのを確認してから、特別困った事もなさそうなので、聖は自分のシートベルトを外した。
小さな窓の外を見る。
偶然、宇宙空港に居た。
空港に居たので、避難警報にも対応する事ができた。
何が起こっているのかもわからず、避難誘導に従った。
ただ、それだけだった。
途中、知り合いが居たのでその少年を連れて救命艇に乗り込んだ。
二人乗り込んだところで、大きな爆発音がして、扉は閉められた。
最近、おかしな病気の蔓延や、ストライキ、クーデターの噂など、なにやらおかしな話ばかり聞くと思っていたけれど、まさか避難させられる事になるとは。
「これ……」
「どうした?」
少年に寄っていく。
一人フラフラしているところを思わず引っ張ってくる程度には知り合いだった。
けれど、これほど近くで顔を見た事もないほどには知らない人間だ。
同じ校舎の中の、学年も違うただの顔見知り。
寄っていくと、少年は、ずっと見えていた赤い点滅を指差した。
そこには、『空気残量』と書いてある。
書いてある通りに考えれば、もう空気が残り少ないという事だろう。
「どうして……」
騙されたのだろうか、と思う。
けれど現実を見れば、あの空港の騒ぎが嘘でも冗談でもないことはわかったし、確かに少し息苦しかった。
その時、ブブッ……と音を立てて、通信が何かの音を拾った。
よくは聞こえない。
けれど、
“射殺”
“制圧”
不穏な言葉ばかりが並んだのはわかった。
「…………」
二人とも、それについて、声を上げることもなかった。
「……お兄さんは、ひじり、だっけ?」
「ああ。そっちは?」
「僕は、愛瑠」
「アイル……。いい名前だ」
柔らかな沈黙が降りた。
愛瑠の前髪が、ゆるりと流れる。
「この救命艇、どこへ向かってるんだろう」
「そうだな……。……デフォルトでは、地球に設定されているはずだけど」
「地球までだって、普通は4ヶ月かかる」
けれど、そんな余裕はないのは、あの赤い点滅ランプを見れば、一目瞭然だった。
「食料倉庫を探してくるよ」
と言っても、狭い救命艇での事だ。
床にある小さな倉庫は、すぐに見つかった。
ガチャリと扉を開く。
「…………」
一つずつ取り出す。
水が、2リットル。ブロックタイプの栄養食品が4食分。
それに、毛布が4枚。
あるだけマシ、というものだろうか。
愛瑠が、カチカチっと、1本しかないペットボトルを開けた。
「ははっ……、いきなりだな」
「こんなの、大事に置いといても、いい事ないでしょ」
そう言って、愛瑠はペットボトルを寄越してくる。
そんな風に言うところをみると、愛瑠も、同じ事を考えているようだ。
地球までは、もたない。
かといって、戻れるわけでもない。
他に停留所があるわけでも。
こういうのを、なんて言うんだったか。
けれど、二人がそれを口に出す事はなかった。
口に出したところで、気分が滅入るだけだ。
自動操縦の救命艇。
出来ることは、無い。
愛瑠は、救命艇の隅に毛布を床に敷き、その上に座った。壁に寄りかかる。
「聖は、さ」
呼ばれて、顔を上げた。
愛瑠と目が合う。
綺麗な顔をしていた。
学内で見かける度、綺麗な顔をした奴だと思っていた。
「どうして、あそこにいたの」
「……ああ」
苦笑する。
「見送りに行ったんだ」
言いながら、愛瑠の隣に座った。
「従姉妹がさ、手術するっていうから」
「従姉妹って、あの。黒髪ロングの」
「そうそう」
「見たことあるよ。ホールで、二人で歌ってた」
「見てたのか」
ふっと笑う。
確かに従姉妹の風香と、ホールのピアノで遊んでいた事がある。
風香がピアノを弾いて、聖が歌う。
特に、歌が得意だったわけじゃない。
ただはしゃいでいただけだ。
目で追っているのは自分の方だと思っていたのに、そこまで知られていた事に戸惑ってしまう。
「愛瑠は?どうしてあそこに?」
「ああ」
愛瑠は、落ち込んだ顔を見せた。
「僕は……、捨てられたところだったんだ」
「捨てられた?」
不穏な、それでいて小さな子猫のようなその言葉。
「うち、父さんと二人だったんだけど、再婚して、違う家に住むって、出て行ったところだったんだ」
「一緒に住むんじゃなくて?」
「ああ。ただの学生なのに、突然。一緒に住む選択肢なんてなかった。金銭の話もなかった。それが当たり前みたいに。要らなくなった電子レンジみたいに。売家にそのまま、僕だけ置いて行かれた……。学費の督促状が来て、初めて気がついた」
なんともヘビーな話だ。
「再婚相手に優秀な息子が居るから、もう要らないんだって。笑っちゃうよね」
愛瑠は、膝に頭を埋めた。
「仲のいい家族だって、思ってたんだ。二人きりの。つい昨日まで。こんな年齢だから一緒に住めないのも仕方ないって。こんなの……」
泣くんじゃないかと思った。
けれど、啜り泣く声は、聞こえてこなかった。
「帰ったらさ、俺と一緒に住もう」
愛瑠は返事をしなかったけれど、聖は一人まくし立てる。
「俺、一人暮らしなんだ。明日の朝はさ、エッグベネディクトにしようと思ってんだ」
「……何それ」
不満そうな顔が聖の方を見た。
視線がこちらを向くことに高揚した。
「卵とさ、ベーコンを、イングリッシュマフィンで食べるんだ」
「ふーん」
「レタスもトマトも、もう買ってある」
目を逸らした愛瑠は、
「僕、野菜は嫌いだから」
と小さな声で言った。
「好きにさせるから」
「料理だってできない……!」
投げやりな愛瑠の手を、掴む。
冷たい。
「俺が得意なんだ。料理は俺が作るよ」
「掃除だって得意じゃないし」
「教えるよ」
愛瑠の手が、握り返してくる。
まるで、縋り付くみたいに。
「今日は……、風呂掃除だけやってくれたらいいから」
「……ああ」
他愛もない話だった。
けど、この人生の中で、どんな会話よりも幸せな話だった。
「今日は、もうこのまま帰ろう。コンビニ弁当でも買って、さ」
「うん」
聖が、愛瑠を抱き締める。
このまま力を入れれば、潰れてしまいそうな、小柄な身体。
「聖」
泣きそうな声。
どうしてこんな簡単な事が、今まで出来なかったんだろう。
愛瑠が名前を呼んでくれる。
「愛瑠」
名前を呼ぶと、ぴくりとしたので、そのまま押し込めるようにもう一度名前を呼んだ。
「愛瑠」
その泣き声を、飲み込んでしまうように口付ける。
薄い毛布をひいただけの硬い床の上。
床の冷たさが毛布越しに感じられた。
小さな窓の外は、満天の星が煌めく。
満天の星の中で、二人は、二人きりだった。
それだけが事実で、二人には、それだけで十分だった。
「聖……。朝起きたら、一緒に居て。手を握って一緒に居て」
「ああ。愛瑠。大丈夫だよ。もう、離さない」