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そうしてメイドの由加に手渡されたコーヒーを手に、彼の書斎のドアをノックする。
「どうぞ」
返事を確認し、ドアを開けると英国を思わせるアンティークな書斎が目に入った。
重厚なデスクに、革張りの椅子に詰まれた辞書。
東雲家はセンスがいい。
感心しながら書斎を観察しつつ、
「コーヒーをお持ちしました」
と告げると、彼は目を開いてこちらを見た。
「驚いたな、メイドが入って来たかとばかり」
「この部屋で淫らなことをしようと思っていたとか?」
少し笑ってそう尋ねると、彼は言葉を詰まらせ、ばつが悪そうにクシャッと髪をかき上げた。
「すまない、冗談だ。
とはいえ、昨日の今日では冗談にもならないか」
彼の前にコーヒーを置いた。
「お前は面白いな」
彼は小さく笑ってコーヒーを口に運んだ。
面白いとはどういう意味なのか。
けなしているわけではなさそうだ。
何も答えず、優雅にコーヒーを口に運ぶ彼を見ていた。
このアンティークな書斎に、コーヒーの香りはまるでパズルのようにピッタリと当て嵌まる。
なんとなく彼の手元に目を向けた。
どうやら仕事というのは、外国から届いた書類の翻訳のようだった。
「翻訳をしているのか?」
彼は、ああ、と頷いて苦笑した。
「母親が白人だからと当たり前のように仕事が来る。多少は出来ても日本育ちだから、そんな簡単なわけでもないんだがな」
「なるほど、そこの訳の解釈は間違っているようだ」
と英文を指すと彼は弾かれたように顔を上げた。
「英語が出来るのか?」
「自分も『多少』にすぎないが、良かったら手伝おうか?」
「頼むよ。それじゃあ、これを訳して欲しい」
「英国貴族から公家への手紙か。こんなものを目にできるなんて光栄だな」
僕は紙とペンを手に、ソファーに腰を掛ける。
ある程度、翻訳を終える頃、琢磨は熱っぽく洩らした。
「助かった、まさか君が英語が出来るとは」
「異国の物語を原文で読みたいという欲求から勉強を始めてね」
翻訳の仕事を手伝うのは、自分も楽しかった。
「……翻訳の仕事はこれからも来るから、また頼むよ。報酬はちゃんと支払う」
僕は、構わない、と頷きかけてハッとした。
しまった、姉は英語なんて出来ない!
しかし今更英語は出来ないとも、手伝えないとも言えない。
どうしたものか。
仕方がないから、姉には一度階段から落ちたということにして、一部記憶喪失になったということにしてもらおう。
そうしたならその後の生活において、多少の違和感も認めてもらえるだろう。
思い浮かんだ自分の案に多少の強引さを感じながらも、
「分かった、手伝おう」
とりあえず多くの営分に触れたかった僕は引き受けることにした。