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「児童文学とはいえ、一冊の本の翻訳ともなれば、結構な労力だろう。
理由をつけて断っても構わなかったのに」
綾部氏が帰った後も応接室に残り、アリスの原文を読み耽る睦月を眺めながらそう告げると、
「この程度の量なら、そう時間はかからないし、翻訳は嫌いではないことに気がついた。君のお陰だな」
睦月はサラリと言って笑みを浮かべる。
滅多に表情を変えない彼の美しい微笑みに、目眩がする。
「しかしあの時は、綾部氏がお前を見初めたのかと思ったな」
小さく笑ってそう告げると、睦月は露骨に眉を顰めた。
「君が僕に欲情するからと言って、他の男もそうだと思うのは具の骨頂だな。少し思考回路を正常に改めなけば、君は恥をかくぞ」
切り捨てるようにそう告げる睦月に、まるで発火するように顔が熱くなった。
「……随分な自信だな」
思わずそう告げると、
「自信? 事実を言ったまでだ」
と、また本に目を向ける。
そんな彼の態度に怒りを覚え、少し乱暴にその手を引き寄せ、唇を合わせた。
何度も唇を合わせて、舌をからめとる。
唇を離した後、彼は冴えた美しい瞳でこちらを見たまま、小さく笑った。
「ひとつ分かった、君は怒りと欲情が非常に密接な関係にあるようだ。多分、それは支配欲に近いのかもしれないな」
まるで今の行為が他人事のように、そう分析して楽しげな表情を浮かべる。
その言葉にまた、激情を感じる自分は、まさに彼の言葉通りなのだろうと思いながら、ばつの悪さ感じながら彼を見た。
「それでは僕は君を怒らせないように注意しなければ」
不敵に微笑みながらそう告げた睦月の言葉に、刺すように胸が痛んだ。
そう、彼は出来るならば、自分に触れてほしくないのだろう。
何をショックを受けるのか。
分かっていたこと。
それでも、改めて突き付けられると心に堪える。
そんな彼は他愛もない言葉に、どれだけの鋭さを思っているのか、自覚もない様子で本に目を向ける。
そして、気付きはしないだろう。
“なるべく君を怒らせないようにしよう”
その言葉さえも、こんなにも自分を欲情させていることに――