第一話 没落華族 ―睦月―
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「嫌よ! あんな人のところに嫁ぐなんて絶対嫌!」
廊下から、泣き叫ぶ姉の甲高い声が聞こえる。
「弥生! そんな我儘が許されると思っているのか!」
ドスの効いた父の低い声が、響き渡る。
ドタドタと廊下を駆ける音に、床がギシギシときしむ音も聞こえてくる。
明治から続く和洋折衷のこの屋敷は、今や手入れも行き届かない近所の者達に言わせてみれば『幽霊屋敷』だ。
暴れまわって床が抜けなければいいのだが……。
小さく息をついて、自室で書に目を通す。
泣き叫ぶ姉の声も、自分にはどこ吹く風だ。
冷酷な弟かもしれない。
どんなにがんばっても嫁がされるのだから、大人しく言うことを聞いておけばいいのに。
そう、姉の婚姻は、この没落華族が浮上する為の最後の希望。
どんな泣き叫んでも、嫁がされるに決まっている。
あの、悪名高い東雲の当主の元に……。
どうやら姉は隣の部屋に閉じ込められたらしい。
外側から鍵をかけられたらしく、
「お父様、開けて!
嫌よ、私は東雲にお嫁になんか行きたくない!」
と泣き叫びながらドアを叩き付けていた。
ああ、どうして隣の部屋なんかに閉じ込めるのか。
どうせなら、奥の部屋に閉じ込めたらいいのに。
――五月蝿くてかなわない。
そんなことを思っていると、乱暴にこの部屋のドアが開けられ、息が上がった父が目を向いて飛び込んで来た。
上等のスーツ姿に整えた口髭という出で立ちは、いかにも文化人気取りで滑稽に映る。
「今、弥生を隣の部屋に閉じ込めて来た」
父は肩で息をしながらそう告げる。
「分かってますよ」
「まさかと思うが睦月、逃がすような真似はするまいな」
「僕が?
……そんな面倒なことはしませんよ」
「弥生は我が間宮家を救う最後の希望なんだ」
「分かってますよ」
と、同じ言葉を返す。
分かっているから、早く出て行って欲しい。
そんな空気をあえて醸し出しながら書に目を通す。
姉が最後の希望。
そんなことは今更、念を押されるまでもなく分かっている。
明治時代に祖父が国家への勲功によって華族となった、所謂『新華族』と呼ばれる我が間宮家は、
真の華族には時に蔑視される成り上がり華族であり、そんなコンプレックスを埋めるかのように自分を『一流』に見せたがることに懸命で、そして浪費家であり、そうした家風はやがて家計を圧迫し、今や借金を抱えた名ばかりの没落華族となっていた。
そんな間宮家に救いだったのは、双子の姉・弥生の類稀なる美貌だった。
鹿鳴館のパーティで姉の姿を遠目に見た、富豪の東雲琢磨が彼女を見初め、
借金のすべてを肩代わりし、今後も豊かな生活を約束することを条件に婚姻を申し込んできた。
ここまでは御伽噺のような話かもしれない。
残念だったのは、姉に想い人がいたということと、東雲の若き当主の評判がすこぶる悪いということだ。
元々、東雲の妾腹で、しかも異国の血が入った混血児。通常ならば絶対に当主になど立てる身分ではなかったのだが、東雲本家の男子が何らかの事情により死に絶え、残ったのが琢磨だけだったらしい。
本家男子達が死に至った原因は、公には明かされていない。
実は琢磨の陰謀ではないかという噂もある。
そんなこともあり、東雲琢磨という男は鬼のような男と囁かれていた。
姉が泣いて嫌がるのも、無理はないのかもしれない。