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歓びと絶望


 出産直後は命も危ぶまれていたヴィヴィアだが、容体は徐々に快方に向かい、十日が過ぎる頃にはようやく我が子を腕に抱く事を許された。


 両の掌に乗るほどに小さなそれをヴィヴィアはそっと腕の中に抱きしめる。

 愛しい夫の子を授かる日が来ようなどと思った事もなく、その重みを掌に感じただけで涙が溢れ出た。


 母性が満たされるというのはこういう事なのかと、小さな命を抱き上げてヴィアはその至福に酔いしれた。

 今まで感じた事のない歓喜と安らぎがヴィヴィアを押し包み、同時に、この小さな命を守りたいという狂おしいほどの欲求が身の内から突き上げてきた。


 最初はヴィヴィアの命を奪いかけたものといった眼差しで赤子を遠目に眺めていたロベルトも、両腕を万歳をする格好で気持ち良さそうに寝入っている姿や、乳母からの乳をうくうくと無心に飲んでいる赤子の姿を見るうちに、だんだんと興味を覚えてきたらしい。


 時々、乳母の目を盗んで子の頬をつついてみるようになり、そのうち玩具を振って子をあやすという技を覚え、ふた月を過ぎる頃には、危なっかしい手つきでエリーゼを抱き上げるようになっていた。


 父親の大きな腕が安心できるのか、ロベルトに抱かれるとエリーゼはすぐにむずかるのを止める。

 そうなれば益々情が移るのは必然で、本邸では赤子を抱いて座るロベルトの傍らに幸せそうに寄り添うヴィヴィアの姿が見られるようになった。


 とはいえ、エリーゼは病弱な子どもだった。

 心の臓が少し弱いようだと生まれた時点から医師に言われていて、風邪を引けばすぐに爪の色が悪くなり、幼い頃のヴィヴィアよりも格段に手間のかかる子だった。


 一つになるまで生き延びられるかと親二人は大層気を揉んだが、毎日医師に容体を確認させて、風にも当てぬよう大切に育て上げれば、何とか一歳の誕生日を迎える事ができ、その月、アンテルノ家では盛大な誕生会が催された。


 セルダント家はもとより、ロベルトの親族も大層エリーゼの誕生を喜んで、誕生を祝うその宴は今までとは比べ物にならぬほど大規模なものとなり、公国内の主だった貴族らも呼び集められた。

 この席でロベルトは、エリーゼこそがアンテルノの血を継いでいく者だと発表し、その傍らではヴィヴィア夫人に抱かれた小さなエリーゼが退屈そうにあくびをして、会場の笑いを誘った。


 大人たちが集う宴には出席しなかったものの、その後の内輪の会には子どもたちも呼び集められた。

 

 エリーゼの兄二人や従兄妹らは小さなエリーゼを取り囲んで、口々に祝いの言葉をかけてやっていたが、楽しそうな笑い声が響く中、エリーゼのすぐ脇に立つヴェントの目が全く笑っていない事にロベルトは気が付いた。

 他の子どもたちは気付いていないようだが、さすがに大人の目はごまかせない。


 ロベルトはその姿に微かな懸念を覚えたが、ヴェントの立場を考えれば仕方のないと、それについて咎める事はしなかった。


 エリーゼが生まれるまでは、ヴェントこそがアンテルノの名を継ぐと思われていた。

 それがいきなり立場を失ったのだから、一時的にくさってしまうのも無理がないだろう。


 一方のユリフォスは、爵位とは関係のない立ち位置にあったため、妹ができた事を純粋に喜んでいるようだった。

 ヴィヴィアから渡された玩具を振って、楽しそうに妹の相手をしてやっている。

 

 そうした二人の差は年を追うごとに顕著となり、やがて十二になったユリフォスはヴェントの後を追う形で騎士学校に進学したが、休暇を利用しては妹の顔を見に帰ってくるユリフォスと異なり、ヴェントは一切本邸には寄り付かなくなった。

 元々活発で社交的なタイプなので、騎士学校の中で着実に人脈を広げていっているようだ。



 そのヴェントの卒業もいよいよ間近となり、ヴェントの将来をどうしてやるか、父親として考えるべき時期になってきた。


 嫡男でなくなったヴェントは、ロベルトの弟のように爵位を持つ貴族のところに婿入りさせるのが普通だが、家を継ぐエリーゼは相変わらず体が弱く、三つになった今もほとんど外遊びができていないのが現状だ。


 万が一を考えてヴェントかユリフォスのどちらかを家に残しておかねばならないが、今までヴェントを事実上の嫡男として育ててきた経緯を考えれば、ヴェントを差し置いてユリフォスを残すという選択はあまりにヴェントに惨いように感じられた。


 相応の格式の家に婿入りさせてやれるならそれでもいいが、思うような家はすでに婚約者の座が埋まっている。

 今更捜したところで、いい縁は残っていなかった。


 考えた末、ロベルトはアンテルノ家が持つ爵位の一つをヴェントに与えてやる事にした。

 とはいっても領地のある爵位は一つだけで、ロベルトが騎士学校を卒業した際に父から与えられたジュベルの名がそれである。

 これならば、もしエリーゼに何かあっても、ジュベルの名と共にヴェントをもう一度アンテルノ家に迎え入れれば済む話だ。


 ヴェントにはその際に、アンテルノ家の継嗣がエリーゼである事に変わりがないとよくよく言い含めた。

 その上でジュベルの名を継いで領地ブレノスを富ませていくようにと命じれば、格下の貴族の婿養子に出されるより余程いいと思ったのだろう。

 二つ返事で、ジュベル卿となる事を了承した。


 ブレノスはヴェントが生まれ育った場所でもあり、実母は今もブレノスの別邸に暮らしている。

 ただ、領地収入がそれほど良い訳ではなかったから、社交界で肩身の狭い思いをしないようにと、財政的にかなり裕福なイル卿の娘との縁を取り持ってやった。

 

 イル卿の娘ならば、ジュベル程度の家格の貴族よりもっと条件の良い縁組はいくらでもあったようだが、何と言ってもヴェントはアンテルノ家の血筋を引く。

 ヴェントの父方の従兄、シモン・アルマディーノはつい先日大公殿下の姫君を妻に迎えていて、大公家とも遠い縁戚になるという事を考えれば、これ以上ない縁だとイル卿は判断したようだ。



 慶事が続くアンテルノ家であったが、相変わらずエリーゼは体は弱く、目が離せない状態が続いていた。

 ヴェントの縁組についてはすべてロベルトに任せ、ヴィヴィアは最低限の社交とエリーゼの世話に明け暮れる毎日だ。


 この三月で四つとなり、たくさんお喋りするようになったが、エリーゼはちょっとした気温の変化ですぐに体調を崩す。

 体調が良い時も、部屋の中でお絵描きをするか人形遊びをするのがせいぜいで、戸外を走り回るなど考えられなかった。


 大人に抱かれて庭園を散歩する事はあるが、少し無理をすると喉に痛みを覚え、翌日には高熱を出す。

 母親であるヴィヴィアはそんなエリーゼの状態に神経をすり減らし、エリーゼが生まれてから一回りも細くなってしまった。


 エリーゼは聡明な子どもで、四つにしては言葉もしっかりしている。その成長を喜ばしく思う一方で、その脆弱さは親二人をやきもきさせた。

 エリーゼが元気だと館には楽しそうな笑い声が響くが、そうした時は余り多くない。


 ヴィヴィアはエリーゼの状態に一喜一憂し、エリーゼが熱で苦しんでいる時は自分を責めて泣くようになった。

 ぐったりと眠るエリーゼの傍らで、ヴィヴィアはよく「健康に生んであげられなくてごめんなさい」と泣きながら謝っていて、看病疲れで時折、寝付く事もあった。


 仕事や社交で家を空ける事の多いロベルトと違い、ヴィヴィアはずっと家に閉じこもりきりだ。

 だから余計に追い詰められていったのだろう。

 

 エリーゼは物分かりのいい子で、寝台から離れられない日々が続いても、文句を言う事はほとんどなかった。

 両親や使用人たちから愛情と優しさだけを与えられ、春の陽だまりのようににこにこと笑う子どもだった。


 いつか外を自由に走り回ってみたいと窓辺に置かれたカウチからよく庭を眺めていて、けれどその夢はついに叶う事はなかった。



 別れは唐突に訪れた。

 冬のある日、窓辺からずっと外を眺めていた事が堪えたのか、エリーゼはその晩から熱を出し、翌日の夕刻にはあっけなく逝ってしまったのである。

 

 息絶えた子にヴィヴィアは半狂乱で取り縋った。

 黄泉から呼び戻そうとするように何度も何度も名を呼び、ようやく強く抱きしめる事が許された我が子を胸に抱きかかえて狂ったように泣き叫んだ。


 ヴィヴィアの兄や両親、ロベルトの姉たちも駆け付けて必死にヴィヴィアを宥めようとしたが、ヴィヴィアは死んだ我が子を離そうとしなかった。

 頬を摺り寄せては名を何度も呼び、もう一度目を覚まさせようと腕の中で揺すりあげ、心が壊れたように泣き続けて、最後には力尽きて意識を失った。



 何とか葬儀は済ませたが、ヴィヴィアはその晩から高熱を出して寝込むようになった。

 一時はエリーゼの後を追って死ぬのではと懸念されるほどで、ロベルトはヴィヴィアの傍から離れる事ができなくなった。


 次男のユリフォスは騎士学校の卒業を控えていた。

 社交の場に出してやり、いろいろな貴族と顔繋ぎをさせるべき時だとわかっていたが、ロベルトにも余裕がない。


 家が落ち着くまで騎士団に入っておくようにとユリフォスに告げれば、義母の状態を知るユリフォスは文句ひとつ言わずに父親の言葉に従った。


 ただそれは、ユリフォスにとっては不本意極まりない道であったに違いない。

 ユリフォスは数術などの座学を好んでいたが、実技の方は余り成績が振るわなかった。


 そのせいか、ロベルトが勧めた近衛騎士団への入団は辞退し、どうせ騎士団に入るのなら生まれ故郷であるエトワースに近いクアトルノの騎士団に入団したいとロベルトに申し出てきて、ユリフォスはそのまま公都から離れていった。


 

 子を失ってから三、四か月が経過したが、ヴィヴィアは相変わらず、枕から頭を起こす事ができない。

 エリーゼの死と共に、生きる気力を一気になくしてしまったような感じだった。


 ロベルトもエリーゼを愛してはいたが、最初からどこか諦めがあった。

 生まれた時から長くは生きられないだろうと医師に言われていたし、頭のどこかでそれを冷静に理解していた。


 けれど母親であるヴィヴィアには受け難いのだろう。

 毎日エリーゼの名を呟いて、ぼんやりと遠くの空を見つめている。


 ヴィヴィアを妻に望んだのは間違いだったのだろうかと、一回りも小さくなったようなヴィヴィアの顔を見つめ下ろしながら、ロベルトは後悔とも自責ともつかぬ思いを噛みしめていた。


 誰よりもヴィヴィアを愛していた。

 今もその愛情に変わりはない。


 ヴィヴィアを守りたくて、誰よりも幸せにしてやりたくて妻にと迎え入れたのに、結局ヴィヴィアは心を壊すほどの哀しみの最中にある。


 哀しみを癒してやろうにも、ロベルトにはどうすればいいのかわからなかった。

 館から笑い声は消え、ただ深い哀しみだけが絶望の様に館全体を覆っていた。


 もしこのままヴィヴィアを失うような事があればと、ロベルトは戦慄する。


 ヴィヴィアの体調が戻らず、このまま一生寝台から起きられなくても、傍らにヴィヴィアさえいてくれたら、自分は生きていけるだろう。

 けれど、失う事には耐えられない。


 狂うほどに焦がれ続けた最愛の女で、ロベルトを満たせるのは唯一ヴィヴィアしかいなかった。






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