新たな子の誕生
跡取りとなる子が一歳の誕生日を迎えたのを機に、ロベルトは父からアンテルノ家の領地経営にも本格的に関わるよう命じられた。
アンテルノ家の領地エトワースは東に大きな干潟を有し、面積自体はそこそこあるのだが、土地の広さに比べて収益は余り多くない。
エトワースをどう富ませていくかについては代々の領主も頭を悩ませており、父は農作物の品種改良に手をつけてある程度の収益を弾き出したようだが、まだまだ改善の余地はある。
領主としての仕事や社交に追われる内、気付けば息子のヴェントも二歳を迎えようとしており、元気に駆け回るようになった子の姿を目で追いながら、そろそろ二人目をもうけなければならないなとロベルトは独り言ちた。
一人目の愛人は没落した貴族の中から探したが、今度の女性は平民でも構わないとロベルトは思った。
次男であれば家を継ぐ可能性は低く、後ろ暗い背景さえ持っていないならそれでいい。
そうして見つけた新たな愛人候補は公国の学者をしていた男の娘で、名をテレジアといった。
身元がしっかりした訳ありの娘がいないか捜させていたところ、妻の死後に酒浸りとなり、大きい借金を重ねた末に死んだという男の娘が口入れ屋を頼ってきたのだ。
会って話をしてみれば物の道理もわかった気丈な娘で、バンベッセの娘と同じ条件を提示して愛人の話を持ち掛ければ、借金を肩代わりしてくれるならと娘は二つ返事で了承した。
このままでは娼館に身を売るしかないとわかっていたからだろう。
最初はシシーナと同じようにブレノスの領地に住まわせるつもりでいたが、ブレノスにはヴェントが実母と暮らしている。
同じ領内であれば噂がヴェントの耳に入る可能性もあり、教育上良くないと思ったロベルトは、父の了承を得てエトワースの別邸にテレジアを囲う事にした。
今回の事は、今しばらくヴィヴィアには隠しておく事にした。
ヴィヴィアはヴェントの存在を受け入れ、ようやく以前のような曇りない笑顔を見せてくれるようになったところだった。
また同じ苦しみを味わわせるのは忍びなく、エトワースの領地視察のついでに別邸を訪れれば、新しい愛人の事をヴィヴィアに勘付かれる心配もない。
一年後、テレジアはロベルトの期待に応えて、玉のような男の子を生み落としてくれた。
たまたま領地エトワースを訪れていたロベルトの父、ランドルフがそれを先に知り、父であるロベルトより先に孫の顔を見に行くという番狂わせもあったが、母子ともに経過は順調で、これ以上喜ばしい事はなかった。
祖父であるアンテルノ家当主とロベルトが相次いで顔を見せた事で、子の将来は安泰だと思ったのだろう。
テレジアは生まれた子をエトワースに残し、新たな人生を歩みたいとロベルトに申し出た。
平民であれば、一人で生きていく事にさほどの不安は覚えていないようで、娘が身を立てていけるだけの十分な金子を用意してやれば、テレジアはそのまま行き先も告げずにどこかに旅立っていった。
子はユリフォスと名付けられ、その事はすぐにロベルトの姉弟やセルダント家にも知らされた。
二人の男児をもうけた事でアンテルノ家は安泰となり、ヴィヴィアの二親は心からほっとした様子だった。
ヴィヴィアがユリフォスの事を知らされたのは、それから更にふた月後の事である。
実は二人目の子どもができていてもうすぐ子は三月になり、名をユリフォスと言って、その母親はもう別邸を去っていて二度と会う事はないと、全て過去形でいきなりたくさんの情報を渡されたヴィヴィアは、「え」と言ったきり、しばらく言葉を失っていた。
ここは、隠し事をされていた事を怒るべきなのか、妻として焼きもちを焼くべきなのか、それともロベルトなりの気遣いを一応感謝すべきところなのだろうか。
嫉妬しようにも当の相手は未練も見せずに別邸を出て行っており、ロベルトがその女性に微塵も心を残していない事は言葉の端々からも感じられる。
ロベルトはヴィヴィアからの何らかの反応を待っていて、妻として一番模範的なのは男児が生まれた事への祝意を述べる事なのだろうが、ヴィヴィアはそこまで人間ができていない。
他所に子どもを作られた事はやっぱり悲しいし、愛人がいたなんて寝耳に水だし、とりあえず寝室で告白されたのでヴィヴィアはロベルトに枕をぺしぺしとぶつけてみた。
何と言っていいかわからなかったからである。
元気よく怒ってくれた事にロベルトはほっとしたようで、実は主だった親戚はもうみんな知っているんだと新たな告白もしてきて、自分だけ蚊帳の外だったと知らされたヴィヴィアはそれはもう盛大にむくれた。
一方のロベルトは、これで男児は二人生まれたし、義務は果たしたと満足そうにヴィヴィアを抱きしめてきて、その腕の中でヴィヴィアはしばらくじたばたと抗ったが、最後には諦めて腕の中に大人しくおさまった。
この腕が他の女性を抱いたと思うと嫉妬で泣き出したいような気分になるが、ロベルトがそうしたのは跡継ぎを生めないヴィヴィアのためだとわかっている。
それにヴィヴィア自身、密かな安堵も覚えていた。
これでもう二度と、ロベルトを他の女性と共有しなくていい。いつロベルトが他の女性を抱くのだろうと怯えて暮らす必要はなくなったのだ。
やがてユリフォスは一歳になり、ヴェントの時と同じように盛大な誕生会が本邸で催された。
初めて会うユリフォスは、ロベルトと同じ榛色の瞳を受け継いでいて、目元の辺りがどこかロベルトに似ている気がした。
義父にもそう言えば、「何かにはまるとしつこいくらい夢中になる気性も似ているな」と笑って返され、義父がユリフォスの事を思いの外良く知っている事にヴィヴィアは驚いた。
エトワースの領地経営をロベルトに任せ始めたとはいえ、義父も年に数度は領内の見回りに出掛けている。
おそらくその時に会っているのだろう。
お披露目が終わると、ユリフォスは傅育官や乳母に連れられてエトワースの別邸に帰っていき、ヴィヴィアはそれを複雑な思いで見送った。
本当は、ロベルトの子ども二人を公都の本邸に引き取るべきなのかもしれない。
けれどロベルトは、それについて何も口にしなかった。
ヴェントが生まれた時、ヴィヴィアはまだ十九で、ロベルトが他所で生ませた子どもを引き取って面倒をみられるような精神状況でもなかった。
ようやくヴェントの存在に慣れた頃にユリフォスが生まれ、慌ただしく日々が過ぎて今に引き取る。
次男のユリフォスもこうして無事一歳の誕生日を迎えた事ではあるし、そろそろ二人を館に迎え入れる時期に来ているのではないだろうか。
ひと月近く悩んだ末、ヴィヴィアは義父にその事を相談してみた。
子に恵まれない貴族家が夫の庶子を認知する例は過去にない訳ではなかったが、ヴィヴィアのように新婚早々、夫が庶子をもうけ、それを認知するなど極めて稀な事例だ。
子がなかなかできずに庶子を認知したとしても、妻が暮らす本邸に引き取らない場合も多かった。
別邸に信頼できる養育係を配し、そこで暮らさせる。
余計な波風を立てぬためだ。
二人の子を今後どうするか義父やロベルトとも話し合ったが、結局二人の子どもはそれぞれの領地で育てようという結論になった。
ロベルトは月に一度はそれぞれの領地を視察で訪れるので、その時に息子と会うようにし、親族との交流については、年に一度二人を公都の本邸に招き、ふた月近くを過ごさせる事にした。
平穏な日々が、ヴィヴィアの上に降り積もっていった。
年が大きくなるにつれ、二人の子の性格の違いは際立ってきて、人懐っこく、はきはきと物おじせずに喋ってくるヴェントに対し、次男のユリフォスは暇さえあれば部屋の隅で本を読んでいるような大人しい子どもだった。
要領もヴェントよりは悪く、口も立つ方ではないが、聡明さは群を抜いていて、学者の娘であった母親の血筋だろうかとヴィヴィアはぼんやりと考えた。
生さぬ仲ではあるが跡継ぎにも恵まれ、それなりに幸せなのではないかとヴィヴィアは考える。
二人の子どもたちとの距離は縮まる事はないが、年に一度しか会う事がないのだからそれは仕方がないだろう。
ただヴェントが長じるにつれ、ふとした違和感のようなものをヴィヴィアはだんだんと感じるようになっていた。
ヴィヴィアの前では愛想よくにこやかに振舞っているが、そこはかとない敵意が眼差しから感じられるのだ。
ニアに相談すれば、実母と暮らしながら別の女性を母と呼ぶように強要されている事への不満があるのではと返された。
ただ、それを不服に思うのは本末転倒だった。ヴィヴィアが我が子と認めればこそ、ヴェントは今の恩恵を享受できている。
ニアからは旦那様にお伝えするべきではと強く言われたが、それを指摘すれば新たな火種を生むような気がしてヴィヴィアは静観する事を決めた。
自分の言葉がロベルトにどれほどの影響力を与えるかを、ヴィヴィアは気付いている。
余程不快な態度をとってきたというのならともかく、印象だけでヴェントを疎むのは、母親として間違っているような気がした。
それにどちらにせよ、二人の息子とは余り接点はないのだ。
ヴェントが実母を慕う気持ちも理解できるし、今しばらくは様子を見た方がいいだろう。
ロベルトの愛情は褪せる事なくヴィヴィア一人に向けられていて、そのせいでヴィヴィアは瑣末な事はあまり気にならなくなっていた。
ロベルトは穏やかで寛容な夫を装っているが、ヴィヴィアに対しては人一倍執着が激しく、嫉妬深い事も、この頃になってようやくヴィヴィアは気付き始めていた。
二人で夜会に出席してもヴィヴィアが他の男性と踊る事は決して許さず、ヴィヴィアが社交の場に出る事自体も好きではない様子だ。
血に狂わされるようにヴィヴィアの体に耽溺しており、その束縛と執着がヴィヴィアにはいっそ心地よかった。
子も産めず、病弱な自分をここまで愛し、大事にしてくれる夫は、この世界中のどこを探してもいないだろう。
時々、館を訪れる両親などはヴィヴィアが最低限の社交しかこなせていない事をロベルトによく詫びているが、ロベルトの本性を知る兄はそれを横目で見て苦笑いしている。
それがロベルトの願いでもあると知っているからだろう。
義父とも本当の父子のように暮らしていて、この婚姻生活にヴィヴィアは何の不満もなかった。
ただいつの頃からか、義父はだんだん生活の拠点を領地エトワースに移すようになっていた。
エトワースにはユリフォスもおり、空気のよい田舎でのんびりと孫息子と余生を過ごしたいと思うようになったようだ。
やがて、ヴェントが十一、ユリフォスが八つになった時に、義父は病を得て亡くなった。
血を継いだ孫も健やかに成長し、家が安泰であると安堵しての大往生で、この時ほどヴィヴィアは二人の息子に感謝した事はなかった。
やがて十二歳となったヴェントは公都にある騎士学校の宿舎で暮らすようになったが、交友を広げるのに忙しいらしく、本邸にはたまに顔を見せる程度になった。
ユリフォスの方は今まで通り夏場に長期滞在し、従兄弟たちと交流を深めている。
夜にはロベルトともボードゲームをするようになり、父子が対戦する傍でヴィヴィアは紅茶を片手にそれを観戦した。
このまま穏やかな日々が続くのだろうと思っていたが、その夏が終わろうとする頃、ヴィヴィアは急に体調を崩した。
微熱が続き、体の重だるさが抜けなくなっている。
その年の夏は殊の外暑く、おそらく夏の疲れが出たのだろうと簡単に考えていたが、休養を取っても微熱が引く事はなく、そうこうする内にヴィヴィアは食べたものを吐いてしまった。
この時になってようやく、ヴィヴィアは体の異変に気が付いた。
そう言えば、最後に月のものが来たのはいつだっただろうか。
ヴィヴィアは元々生理が不順な方で、過去にも月のものが三、四か月とんだ事がある。ロベルトが自分を妊娠させないよう気をつけているのも知っていたから、大丈夫だと思い込んでいた。
けれど軽い吐き気や体の怠さ、そして最近やたら眠くなるのも、妊娠初期の症状に当てはまる。
ニアから報告を受けたロベルトはすぐに医師を呼んだが、その診断はヴィヴィアが危惧した通りのものとなった。
医師はヴィヴィアが懐妊しておりすでに子が五か月まで育っているとヴィヴィアに告げてきたのだ。
今回は悪阻の症状が表に出て来ず、微熱や倦怠感といった夏風邪にも似た症状だけが現れたため、気が付かなかったのだろうと。
おなかに子がいると言われ、ヴィヴィアがまず感じたのは純粋な恐怖だった。
健やかな子を生み落とすなど、自分にはおよそ叶わない。
子を流した時の嘆きをもう一度味わうのかと思うと、恐ろしさに身が竦む思いがした。
青ざめたのはロベルトも同様だった。
前回は、早い時期に子が流れたから、母体へのダメージが少なく済んだ。
けれど今回は、ヴィヴィアの腹の中でかなり育ってきている。
今回、子が流れるような事があれば、果たしてヴィヴィアは無事でいられるのだろうか。
ロベルトにとってそれからの日々は、真綿で首を絞められるような長く苦しいものとなった。
自分が孕ませたせいで最愛のヴィヴィアが死んでしまうのかもしれないと思うと、後悔と恐怖に気も狂わんばかりだった。
感情が不安定になったヴィヴィアを宥めるために、常に傍に寄り添い、励まし続けたが、だんだん膨れていくヴィヴィアのおなかを見れば、否応もなく不安が募っていく。
ヴィヴィアは三十二になっていた。
出産は今回が初めてであり、身体への負担も大きいだろう。
一日でも早く、子が生まれて来るようにロベルトは神に祈った。
腹の子が育てば育つほど、ヴィヴィアは難産になる。
腰の細いヴィヴィアは、果たしてこの出産に耐えられるのだろうか。
このまま永遠に終わらないのではないかと思えるような苦痛に満ちた日々が続き、やがて月満ちてヴィヴィアの陣痛が始まった。
ロベルトが部屋から遠ざけられようとした時、ヴィヴィアはロベルトの名を呼んで、その首にひしとしがみついた。
これがロベルトとの今生の別れとなるかもしれないと思ったからだ。
「貴方の妻になれて幸せだったわ」
思いの丈を込めて、ヴィヴィアはそう耳元でに囁いた。
「ずっと貴方を愛してる」
ロベルトは何も答えられなかった。
ヴィヴィアの体をしっかりと抱きしめ、ただ祈るようにその額に口づけた。
初産のせいで、陣痛は長引いた。
苦しがるヴィヴィアの声を、ロベルトはずっと扉越しに聞き続けた。
やがてその日が暮れて日付が変わろうとする頃、弱々しい赤子の泣き声がようやく館にもたらされた。
エリーゼと名付けられる女の子の誕生だった。