身を焼く嫉妬
その報せを聞いた瞬間、ロベルトは体中の血が逆流した気がした。
毎晩のように体を愛おしんでも子ができる兆候はなかったので、ヴィヴィアに子が根付く事はないのだと、ロベルトはいつしかそう勝手に思い込んでいたからだ。
懐妊なさったかもしれませんと報告してきたニアという侍女に、わかったとだけロベルトは答えた。
それ以外、返す言葉はなかった。
このまま無事に子が生まれるとはロベルトにはとても思えなかった。
子はおそらく流れるだろう。
ロベルトはすぐにヴィヴィアを見舞ったが、ヴィヴィアは強張った表情で自分を見上げるばかりで、腹の中の子については一切触れようとしなかった。
おそらく口にする事が恐ろしいのだろうとロベルトは思った。
健常な子が自分に生まれるとは、ヴィヴィアは微塵も信じていないのだ。
その晩からヴィヴィアを抱く事は止め、不安がっているヴィヴィアを守るように腕に抱いて眠る日々が続いた。
カナの神に祈るのは、ヴィヴィアの無事だけだ。
子は生まれても生まれなくても良い。
ヴィヴィアが無事であるならば、むしろ子など流れても構わないとロベルトは思っていた。
悪阻が始まって僅か十日後にヴィヴィアは流産した。
報せを聞いたロベルトが病室に駆け付けた時、床に散った血は全て拭い取られていて、広々とした寝台に血の気を失ったヴィヴィアだけがぐったりと横たわっていた。
名を呼ぶとヴィヴィアはうっすらと瞳を上げ、縋るようにロベルトの首に両腕を伸ばしてきた。
「わたくしの赤ちゃんが……」
唇を震わせ、そう言葉を絞り出すヴィヴィアの体を、ロベルトはしっかりと抱きしめてやった。
嗚咽するヴィヴィアの背をあやすように何度も撫でてやりながら、ロベルトは我知らず小さな笑みを唇に浮かべていた。
「もう泣くんじゃない、ヴィヴィア。
君が無事だっただけで私は十分だ」
子が流れた事を、心のどこかでロベルトは喜んでいた。
病弱なヴィヴィアに出産は耐え難いものとなるだろう。
祖母のように子と引き換えにヴィヴィアを失う事を思えば、さほど体に負担のない時期に子が流れた事は、ロベルトにとってはむしろ僥倖だった。
ヴィヴィアはそれから十日近くを寝台で過ごし、塞ぎがちになるヴィヴィアを慰めるため、ロベルトは日中もできるだけ傍らに付き添ってやる事にした。
天気がよければ庭園が見える窓辺へと体を抱き運び、膝の上にずっと抱いて幼子のようにヴィヴィアを甘やかす。
セルダントの両親やロベルトの親族も次々とヴィヴィアを見舞ってくれ、最初は目を泣き腫らすほどに日がな一日泣いていたヴィヴィアも、だんだんと落ち着いてきた。
元々、子は授からぬかもしれないと言われていたから、仕方のない事だと納得する事ができたのだろう。
やがて医師の許可も出て、再び寝所も共にするようになったが、それ以来、ロベルトはヴィヴィアが妊娠しないように細心の注意を払うようになった。
体に負担を掛けないように丁寧にヴィヴィアを抱き、情熱が暴走しないように気を配る。
ロベルトを満たせないのではと不安がったヴィヴィアが、時折煽るような事をしてくるようになったのには困ったが、この程度の我慢はまあ仕方がない。
最愛の女性を腕に抱き、肌を合わせられるだけでロベルトは十分満足だった。
ロベルトにとってヴィヴィアは壊れやすい宝物だった。
手に入れれば狂おしいこの恋情が少しはおさまるかと思っていたが、肌を合わせて尚、想いは更に膨れ上がり、執着に限りがない。
亡き祖父が自分の妻をあまり表に出そうとしなかったという気持ちが、今のロベルトにはよく理解できた。
ヴィヴィアに対しても、ヴィヴィアの世界は自分だけでいいと本気で考えている自分がいて、けれどそれをあからさまにすればヴィヴィアが息苦しさを覚えるだろうから、気取られないように努めて優しく穏やかな夫を演じている。
ヴィヴィアをこのまま妻として手元に置くために、そろそろ愛人を探さなければならないとロベルトは思った。
アンテルノ家の血筋を引く子どもを二人もうける事が、ヴィヴィアとの婚姻の条件だった。
一年の期限を迎える前に、愛人の候補となる女性を慎重に選んでいかなくてはならない。
一人目の子どもの母親は、平民の女より貴族の血が入った女性の方が好ましいのではないか。
そう考えたロベルトは、あらゆる伝手を使って末端の貴族らの情報を集め、愛人とする女性を慎重に吟味し始めた。
そうしてこれならばと思い、選んだのが、バンベッセ家のシシーナという女性だった。
バンベッセは一応貴族を名乗っているが、領地はすでになく、今は父親と兄が騎士団でもらう給金で細々と生計を立てている貧乏な家だった。
貴族としての面子を整えるため借金を重ね、今は爵位を売る寸前まで追い詰められており、娘のシシーナは二十五を過ぎているというのに未だ嫁ぎ先さえ決まっていない状態だ。
金銭的援助と引き換えにシシーナとの愛人契約を持ち掛けたロベルトに、バンベッセ家は一も二もなく飛びついた。
そこらの平民に娘をくれてやるくらいなら、高位の貴族の愛人とさせた方がよほど外聞がいいと考えたのだろう。
ロベルトの出した条件は、バンベッセ家の借金をすべて肩代わりする代わりに、シシーナが一時的にロベルトの愛人となり、アンテルノ家の子どもを生むというものだ。
『シシーナはジュベル家の領地ブレノスの別邸に住まい、子を生んだ時点で愛人関係は解消する』
『生まれた子どもはアンテルノ本家のみに属すものとし、シシーナ及びバンベッセ家は一切の権利を主張しない』
この二点は特に重要であるため、書面として約束を取り交わしたが、その際にバンベッセ側は、子を生んだ後のシシーナの生活の保障について尋ねてきた。
ロベルトとしては、生家に帰した後の生活についてはバンベッセで身の振り方を考えればいいと思っていたのだが、バンベッセ卿はシシーナを無理やり子どもから引き剥がす事を望まなかった。
もしもシシーナが望むなら、何らかの形で傍に置いてやって欲しいと頭を下げてくる。
言われたロベルトは僅かに困惑した。
傍にいる事ができたとしても、子の母親はあくまでロベルトの正妻であるヴィヴィアだ。
ヴィヴィアと養子縁組をしない限り、生まれた子には何の権利も生じないからだ。
シシーナは実母の名乗りを上げる事も許されないし、立場的には一介の使用人となる。
留まってもいい目が見られる訳ではなく、却って惨めな思いをする事になるだろう。
その事をしっかりと伝えたが、バンベッセ卿はそれでもいいというばかりで埒が明かず、結局シシーナの身の振り方については、子が生まれた後にもう一度話し合う事で決着が着いた。
曲がりなりにも子の母親となる人間だ。
そう無体な事はしたくない。
一月後、シシーナはロベルトが用意した別邸へ身一つで移ってきて、その報せを聞いたロベルトはすぐ、父やセルダント家に愛人を迎えた事を報告した。
三人に否やはなく、後は妻であるヴィヴィアに告げるだけだった。
定められていた事とはいえ、夫の口からそれを知らされたヴィヴィアの衝撃は大きかった。
頭では理解していても、いざ本当にロベルトが愛人を迎えるとなれば、どうしようもなく心が乱れる。
子を産めない自分の代わりに跡継ぎを生んでくれるのだと自分に言い聞かせても、その女性に対する妬心はどうしようもなく膨れ上がり、子を流した悲しみが改めて胸に突き上げた。
宥めようと自分を抱き込んでくるロベルトの胸の中で、ヴィヴィアは子どものように泣きじゃくった。
わがままを言っているのは自分だとわかっているから、醜い言葉だけは必死に飲み下した。それがヴィヴィアにできる精一杯だった。
ロベルトは月に一度、領地ブレノスの見回りに行く時にシシーナの待つ別邸を訪れる事にした。
身の回りの世話をさせている侍女に、子を孕みやすい時期を報告させ、それに合わせて行くようになる。
ロベルトが公都に別邸を用意させなかったのは、愛人の住まう別邸が近くにあれば人の噂にもなりやすく、同衾のために夜、出掛ける夫をヴィヴィアが見送るのは辛いだろうと思ったからだ。
別邸ではなく、ブレノスの本邸にシシーナを迎え入れるようかと考えた事もあったのだが、子をなした後に変な欲をかき、女主人のように振舞われでもすれば面倒だと気付き、敢えて別の館を用意した。
たとえ一生、ブレノスを訪れる事がなくても、館の女主人は正妻のヴィヴィアだけだ。
その後、ロベルトが領地の見回りに出掛ける度、ヴィヴィアは身を食むような嫉妬に苦しんだが、ロベルトが別邸を訪れるようになって二、三か月後、シシーナの懐妊の報が公都の本邸にもたらされた。
この報をどう捉えて良いか、ヴィヴィアにはわからなかった。
アンテルノの血を受け継ぐ子が誕生する事は喜ばしい事で、これでロベルトは義務を一つ果たした事になる。
けれど、愛する夫の子どもを別の女性が孕んでいると思うとそれもまたヴィヴィアには耐えがたく、館が喜びに包まれる中、ヴィヴィアは一人、賑やかな喧騒から離れてひっそりと涙を拭った。
心の整理がつかないまま、正妻の義務として祝意を口にしたヴィヴィアを、ロベルトは黙って抱きしめた。
何をどう言い繕ってもヴィヴィアの心を抉る気がしたし、一方のヴィヴィアにしても夫を詰る立場にない事は自分が一番よく知っていた。
とどのつまり、呵責なくヴィヴィアを傷つけられるのも、その傷を癒し得るのも、ロベルトしかいなかった。
ヴィヴィアは溺れた人間が藁を掴むようにロベルトに依存していき、その事にロベルトは冥い悦びを覚えた。
ヴィヴィアを決して傷つけたい訳ではないが、自分の愛ゆえに苦しんでいるヴィヴィアを見ると、愛おしさが募り、胸がどうしようもなく熱くなる。
本当にわたくしだけ? と、ヴィヴィアは閨の中でよくロベルトに尋ねた。
もう二度とあの女性を抱かないでね……。どうかわたくしだけを見つめていて……。
昼間はけなげで物分かりのいい妻を演じるヴィヴィアも、二人きりの寝所ではシシーナへの嫉妬を隠そうとせず、切れ切れに放恣な願いを口にした。
ロベルトの心を自分に繋ぎ止めようとするように、甘く乱れてロベルトの夜を独占しようとする。
その姿に、ロベルトはどうしようもなくそそられた。
この時ロベルトは、初めて自分をどうしようもない下種だと感じた。
やがて時満ちて生まれたのは、待望の男児だった。
ロベルトはその報せを大いに喜び、すぐにブレノスを訪れてシシーナをねぎらった。
そして子は、ロベルト自身によってヴェントと名付けられた。
シシーナと顔を合わせたのはそれが最後で、その後は使者に伝言を渡すだけとした。
中途半端な優しさは、相手に勘違いを起こさせるだけだ。それでは却って残酷だろう。
生家に戻るならば一定額の生活費を生涯払うとシシーナ本人に伝えたが、シシーナは今更、家に戻りたくない様子だった。
子の傍にいる事を望むばかりか、自分ならばもう一人健康な男児を生む事ができると言ってきて、使者からその言葉を知らされたロベルトは強い不快を覚えずにはいられなかった。
シシーナとの関係は、子どもを生むまでというのが当初からの約束だ。
ロベルトがシシーナを囲ったのは子を産んで欲しかったからであり、それ以上深い関係になるつもりは毛頭ない。
ヴェントの傍に留まれば、使用人のまま一生を過ごすようになると立場を改めて伝えたが、シシーナは考えを改めようとせず、最後にはロベルトの方が折れた。
ただし、二度と会うつもりがない事はきちんと告げた。
ロベルトがブレノスを訪れた時は、シシーナは一時的に館から遠ざけられる。
その事は重々言い含め、シシーナも最後には納得した。
ヴェントの首が座った頃、ヴェントはブレノスにある本邸に迎え入れられた。
ヴィヴィアとの養子縁組も済み、アンテルノ家の血を引く男児と公に認められたからだ。
血を繋ぐ事を至上の責務とする貴族にとって、これほど喜ばしい事はなかった。
やがてヴェントが無事一歳の誕生日を迎えた時、ロベルトは公都の本邸で盛大なお披露目会を催し、その存在を周知させた。
この時初めて、義理の母となるヴィヴィアとも面通しをさせた。
拒否反応を示すかと思われたヴィヴィアは意外に落ち着いており、我が子として連れて来られたヴェントを大事そうに抱きあげた。
ヴィヴィアにとってヴェントは、いずれロベルトの後を継ぐ大切な子どもだった。