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至福の時


 その後両家の間で話は順調に進んでいき、ロベルトとようやく二人きりで会う事が叶ったのはその五日後の事だった。


 セルダント家を訪問したロベルトは、ヴィヴィアを妻とする許しを改めて両親に請い、その姿を兄のセイシルがにやにやしながら眺めていた。


 そのセイシルはと言えば、挨拶の済んだロベルトを庭園へと引っ張っていき、何であの時俺に殴らせたかなあとぶつぶつと文句をぶつけていた。


 ヴィヴィアの名誉を守るために必要な芝居だったとはいえ、あそこまで自分を挑発しなくても良かったのにというのが、セイシルの言い分である。

 返しに殴ってくれていいぞとロベルトに言っていたが、あっさりと断わられ、代わりにヴィヴィアと二人きりになりたいからどっかに消えてくないかと返されて、がっくりと肩を落としていた。


 セイシルがいなくなるや、ロベルトはすぐさまヴィヴィアを木立の陰へと引っ張って行った。

 訳が分からぬままロベルトについて行くと、ロベルトはそのままヴィヴィアの体を引き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまう。


「ずっとこうしたかった」

 

 広い胸に抱き込まれ、満足そうにそう囁かれるから、ヴィヴィアはもうどうしていいかわからなくなる。

 

 今までは夜会で顔を合わせても近付く事さえなかったのに、ヴィヴィアの危機には颯爽と駆け付けてくれて、翌日には両親経由で愛の告白。

 怒涛の展開にヴィヴィアはまだ夢の中を歩いているような心地なのに、ようやく会えたと思ったロベルトはいきなり自分に触れてくるし、ヴィヴィアの心臓はもうバクバクだ。


 礼儀正しくて、誰に対しても節度を保っていたいつもの兄さまはどこに行った? と訳の分からない事をぐるぐると考え、けれど恋する心は正直で、焦がれ続けていた相手にきつく抱きしめられて天にも舞い上がる気分でいる。

 恋愛経験のないヴィヴィアはロベルトの背に手を回す事も躊躇われ、指に触れたロベルトの上衣をただぎゅっと指で握り込んだ。


「兄さま……」


 ありったけの恋しさを込めてそう名を呼べば、ロベルトが小さく息を呑み、はしばみ色の瞳がより一層、色を深みを増した気がした。


「そんな顔をしないで。抑えがきかなくなる」


 言われた意味がわからずに、え? と顔を上げたヴィヴィアに、ロベルトが不意に上体を屈めてきた。

 吐息を掠め取るような口づけが落とされ、唇が離れてからやっと、ヴィヴィアは自分が口づけをされた事に気付く。


「あ……」


 唇に触れた柔らかな感触がロベルトのそれだと知ったヴィヴィアは真っ赤になった。

 もの慣れぬままに視線をうろうろと彷徨さまよわせていると、それを見ていたロベルトがそっと頬に手を当ててくる。


「私が初めて?」

 

 問われるままについ素直に頷いてしまったヴィヴィアだが、満足そうにロベルトが唇の端を持ち上げるのを見て、恥ずかしさとも悔しさともつかぬものが胸の奥から込み上げてきた。


「そう言う兄さまは随分慣れていらっしゃるみたい。

 何だかずるいわ」


 小さな声で抗議すると、ロベルトは何でもない事のように笑った。


「この年まで何も知らなかったら、その方がおかしいだろう?」


 ヴィヴィアはプイと顔を背けた。

 何と返していいかわからなかったからだ。


 取り敢えず、ロベルトがこの手の事に慣れているという事だけはわかり、ヴィヴィアはちょっとだけ唇を尖らせた。


 自分はまだ頬の火照ほてりだって治まらないのに、ロベルトの方は余裕でヴィヴィアをあしらっている。

 初めての口づけに心臓を跳ねあがらせているヴィヴィアの気持ちなんて、きっと一生わかりっこないのだ。


 ヴィヴィアが本気で拗ねている事に気付いたロベルトが、困ったように指で頬をつついてきた。


「ヴィヴィア、いい子だから機嫌を直して」


 そのまま両頬を手で包まれて、ヴィヴィアは仕方なく顔を上げる。

 少し体温の低いロベルトの手が、火照ほてった頬に心地よかった。


「かわいいヴィヴィア。私がどんなに君に触れたかったか、君にはわからないんだろうね」


「……ヴィヴィアだって、兄さまが恋しかったわ」


「そう?

 でも私の想いの方が強いと思うよ」


 熱の籠った声にヴィヴィアが思わず瞳を伏せると、ロベルトはヴィヴィアをを愛おしむようにこめかみや目尻や頬にいくつもの口づけをちりばめてきた。


「ヴィヴィア……」


 ロベルトの声に包まれて、ヴィヴィアはうっとりと至福を漂う。


 こんな風にヴィヴィアの心を乱すのはロベルトだけだった。

 その幸せを甘受している事が今でも信じられない。


 閉ざしていた唇をうっすらと開き、柔らかな吐息を滲ませたその時だった。

 不意にロベルトが噛みつくような激しい口づけを仕掛けてきた。


「………ッ!」


 ロベルトの舌がヴィヴィアの中に入ってきて、その熱情にヴィヴィアはただ翻弄されるしかない。

 か細い抵抗はやすやすと封じられ、逃れようとするように大きく身をしならせば、その口づけはさらに激しいものとなった。


 周囲から一切の音は消え失せて、ヴィヴィアはただ、ロベルトから与えられる感覚だけを一心に追う。

 ロベルトの息遣いや首すじを愛撫する手の熱さは、覚えのない疼きをヴィヴィアの内から引き出して、戸惑うままにヴィヴィアはそれらのすべてを受け入れた。


 ようやく唇が離れた時、ヴィヴィアはもう立っている事もできなくて、力の入らぬ手でロベルトの体に縋りついた。

 ロベルトが抱きしめてくれていなかったら、ヴィヴィアはとうに地面に座り込んでいた事だろう。


「こんなの……、こんなのヴィヴィアが知る兄さまじゃないわ」


 ようやく喋られるまでに息が整うと、ヴィヴィアは息も絶え絶えに一応文句を言ってみた。


「早すぎるもの。

 ヴィヴィアは昨日まで、ダンス以外で男の人と手を繋ぐ事もなかったのに……」


「ああ、そうなんだ」


 一方のロベルトは全く悪びれた様子がない。

 というか、どちらかと言えばヴィヴィアの反応に満足げだった。


「恋人同士になれたのだから、このくらいは普通なんじゃないかな。今までは我慢しすぎたから、私は少し自分を甘やかせるべきだろう」


「自分を、甘やかせる……?」


 ロベルトの理屈がヴィヴィアにはよく分からない。

 

「それに、どちらかと言えばまだとても足りないな。

 だからヴィヴィアもそのつもりでいて」


 そんなの無理……! とヴィヴィアは思わず心の中で叫んだ。

 会う度にこんな口づけをされたら、ヴィヴィアはもうどうしていいか分からなくなってくる。


 反論しようとしたら、ロベルトが不意に指をヴィヴィアの唇に押し当ててきた。


「それよりも、私はいつまで君の兄さまなの?

 呼び方が違うと思うけど」


 ヴィヴィアは狼狽うろたえたように視線を彷徨わせた。

 いずれヴィヴィアはロベルトの妻になるのだ。

 いつまでも兄さま呼びでは確かにおかしいだろう。


「ロ、ロベルト……」


 気恥ずかしさを堪え、小さな声でそう呼べば、「それでいい」とにっこりとロベルトが頷いた。


「兄さまと呼ばれたら、ヴィヴィアに手が出しにくいからね」


 ……もう出してるくせに! と、内心ヴィヴィアはむっと心の中で反論した。

 腰が抜けるようなあんな大人な口づけをしておいて、その言い方はちょっと納得できない。


 それに何だか、身体が密着しすぎているように感じるのはヴィヴィアの気のせいなのだろうか。

 ロベルトは未だにヴィヴィアを腕の中に閉じ込めたままで、時折思い出したようにその髪に小さな口づけを落としている。


「ずっとこうしていたいな。

 ああ、いっそこのままヴィヴィアを攫って帰れたらいいのに……」


 その言葉はすごく嬉しかった。嬉しかったけれども、ヴィヴィアは何となく母屋の方が気に掛かった。


 何と言っても兄のセイシルは、ヴィヴィアたちが二人きりでこの庭園にいるのを知っているのだ。

 そろそろ邪魔をしに来る頃ではないだろうか。


「あ、あのね、ロベルト……」


「ん?」


「こんな姿を誰かに見られたら、良くないんじゃないかしら」


 ロベルトはちょっと考え込んだが、「大丈夫だろ?そこまで変な事はしていないし」


 大丈夫というロベルトの基準がヴィヴィアにはわからなかった。

 少なくとも、未婚の男女が体をぴったりとくっつけて抱き合っている今の状態は、ヴィヴィア的には完全なアウトである。


「それより早く君と結婚したいな。

 半年も婚約期間をもうけるなんて、どんな苦行だ」


 ぼやくようにロベルトが呟き、この言葉にもヴィヴィアは苦行? と内心首を傾げた。


 結婚を指折り数えて過ごす日々はヴィヴィアにとっては至福としか言いようがなく、恋人同士の時をもっと楽しんでもいいわと密かに思っているヴィヴィアである。

 ただ、ロベルトが結婚をとても心待ちにしてくれている事は嬉しくて、ヴィヴィアも小さく頷いた。


 と、ヴィヴィアはふとある事が気になって、表情を改めてロベルトを見上げた。

 

「ねえ、伯父さまはわたくしが家に入る事をどう思っていらっしゃるの?」


 二日前の両家の顔合わせの時、本当にロベルトでいいのかと伯父には何度も確認された。


 元々、ロベルトはノルディアム家との縁組が順調に進んでいたと聞いている。

 アイラを家に迎え入れれば莫大な持参金がアンテルノ家にもたらされた筈で、今回、ヴィヴィアの両親はできるだけの持参金を用意しようとしてくれているが、ノルディアム家にと比べればその半分にも満たないだろう。


 誰の目から見ても、この結婚はアンテルノ家にとってはあまり利のないものだった。

 ヴィヴィアを望んでくれたロベルトはともかく、伯父の本当の気持ちはどうだったのだろうとヴィヴィアにはそれが気に掛かった。


 ロベルトもようやく、ヴィヴィアが何を心配しているかわかったのだろう。

 少しだけヴィヴィアから体を少し離すと、安心させるようにその顔を覗き込んだ。


「父は君の事を可愛がっている。

 元々血族をとても大事にしている人だから、あのような態度をアイラがとった時点で、婚姻の話は流れているんだ。

 

 持参金について言えば、多い方が好ましいだろうが、それほどのこだわりは父にはない。

 財産が目減りしている状態ではないし、度を過ぎた贅沢さえしなければ、今の領地収入で家の面目を保てる生活は十分にできるだろう。

 

 父が手放しでこの結婚を喜べないのは、セルダント家が了承したあの条件だ。

 君にはこの後、きっとひどく辛い思いをさせる事になる。


 君も……聞いているだろう?」


 改めて問われて、ヴィヴィアは小さく頷いた。

 母からも言われていた。この先ヴィヴィアが進む道は、思うよりもずっと険しいのだと。


 きっとそうなのだろう。

 ロベルトは婚姻後、一年も経たぬうちに愛人を迎え入れる事になる。


 それは確約された未来で、ヴィヴィアはいずれ、ロベルトが愛人に生ませた子どもを我が子として遇するしか道が許されていなかった。


「わたくしは貴方に健康な子どもを与えて差し上げる事ができないのですもの。

 だから、ちゃんとわかっているわ。

 アンテルノ家には、跡継ぎが必要だから」   

 

「ヴィヴィア……」


 ヴィヴィアの目を真っ直ぐに見つめ、ロベルトは「済まない」と謝った。


「男児を二人もうけるまで、私は愛人の許に通うようになるだろう。

 それがどれほど君を傷つけるかも知っている。

 けれど、覚えていてくれ」


 ヴィヴィアの手を取り、ロベルトは誓うようにその甲に口づけた。


「愛しているのは君だけだ。

 君が思う以上に、私は君に囚われている。


 生涯をかけて、私は君を守り抜くと誓う。 

 ……どうかそれだけは忘れないでくれ」





 後日、親族とごく親しい知人だけを招いた内輪の婚約会が開かれ、アルマディーノ家とロビン家に嫁いでいたロベルトの姉たちも身重の身を押してお祝いに来てくれた。

 二人はすぐにヴィヴィアに駆け寄って祝福の抱擁をしてくれたが、この婚姻にはかなりの不安を覚えたようだった。


 次姉のリテーヌなどは、「今からでも遅くないから、別の相手をわたくしが見つけてあげましょうか」と冗談交じりに囁いてきて、それを聞いた長姉のクラウディアが、「そんな事をしたらロベルトに殺されるわよ」と呆れた口調で妹を諭していた。


 ロベルトの子どもをいずれヴィヴィアが養子として迎えなければならないという事実は、この晴れの日にもヴィヴィアの心に大きく影を落としていたが、それでもロベルトと離れるなどヴィヴィアには考えもつかぬ事だった。


「どうしてもロベルトが好きなの」と涙ぐんでリテーヌに訴えれば、「知っているわ」とリテーヌは苦笑を滲ませた。


「貴女は昔からそうだったし、ロベルトもずっと貴女を忘れられずにいた。

 だからきっと、もうどうしようもない事だったのだね」


 そして優しくヴィヴィアの頭を抱き寄せた。


「いい? ヴィヴィア。

 この先どんなに辛い事があっても、ロベルトの心だけは疑っては駄目よ。


 貴女はロベルトの唯一なの。

 どうかそれだけは忘れないで」






 その半年後、多くの人に祝されてヴィヴィアたちは結婚した。


 ロベルトの愛情と執着は激しく、結婚後しばらくはヴィヴィアは寝所からほとんど出る事もできなかった。

 日中、ロベルトが仕事に出掛けている時に体を休めるようにしていたが、生活のリズムが狂ってしまった事はヴィヴィアの体に殊の外堪えたようで、半月後にはとうとう微熱を出して寝込んでしまった。


 自分の体が弱い事を、これほど恨めしいと思った事はなかった。

 妻の役目も果たせないのかと思うと自分がただ情けなく、枕に頭をつけたままヴィヴィアはひっそりと涙をぬぐったが、それを聞いたロベルトは熱に倦む身体を抱き寄せて、ヴィヴィアが落ち着くまで髪をずっと撫でてくれた。


 熱は幸い、二、三日で引き、その後ロベルトは、ヴィヴィアの体に負担を掛けないよう、夜の営みに気を配ってくれるようになった。

 若く健康なロベルトを満たせない事をヴィヴィアは心底申し訳なく思ったが、謝罪をするヴィヴィアにロベルトは、「馬鹿な事は考えるんじゃない」と笑って体を抱きしめてきた。


 ロベルトにとっては、ヴィヴィアだけが唯一、己の飢えを満たせる相手であり、そのヴィヴィアが自分の傍らにいるのであれば、欲望を少し抑えるくらいなんでもなかった。




 執着と愛情を一身に傾けられ、ヴィヴィアは至福とも言うべき時間を漂っていた。


 いずれロベルトが愛人を迎えるという未来すらヴィヴィアは忘れていた。

 取り巻く世界は完璧に整っていて、唯一の相手を恋い慕い、愛されるという幸せに浸っていた。


 月のものが止まっていた事もヴィヴィアは気付かなかった。

 体の弱かったヴィヴィアは月のものも不順で、ニアがおかしいと気付いた時はすでに悪阻つわりが始まっていて、ほどなくヴィヴィアは流産した。




 世界が崩れ始めた瞬間だった。







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