26 ヴィヴィアとエトワースへ
その三月には学位授与者の発表があったが、アルルノルド殿下は学位までには手が届かず、予定通り退学されたそうである。
入れ替わりで四月からユリフォスが数術学部に戻って来た。
ガルダール賞の受賞を目標に、専門課程を一年頑張るそうだ。
リリアセレナが暮らすアンテルノ家でもある変化が起ころうとしていた。
幼少より病弱で度々熱を出して寝込んでいたヴィヴィアだが、リリアセレナと毎日庭園を散歩するようになってから少しずつ食事の量も増え、血色も良くなってきた。
ここ一年は熱を出す事もなくなっていて、フォール医師から小旅行に行っても大丈夫だろうと初めて許可が下りたのだ。
ヴィヴィアはずっと、アンテルノ家の領地エトワースに行きたがっていた。
エトワースには最愛の娘エリーゼのお墓がある。
ロベルトの両親も同じ地に眠っていて、ヴィヴィアの実母リレイラのかけがえのない故郷でもあった。
ヴィヴィアの願いを聞いたロベルトはちょっと考えた後に、大きく頷いた。
「今の時期ならば風が体に堪える事もないだろう。
一緒にエトワースへ行こう。
君と一緒にエトワースを訪れる事ができるなんて夢のようだ」
アンテルノ家に恵みをもたらせるエトワースの地を、ロベルトもずっとヴィヴィアに見せてやりたかったようだ。
故郷であり、娘や両親が眠っている海辺の街、エトワース。
ロベルトは誰よりもこの地を愛していた。
けれど、理由はそれだけではないだろうとリリアセレナはこっそりと思った。
お父様はとにかくお母様と一緒にいたいのだ。
リリアセレナの目から見て、お父様はお母様にぞっこんである。
泊りがけで領地視察に行く時も、毎回目のやり場が困るくらい別れを惜しんでいるし、子どもの前なんだから少し控えればいいのにとリリアセレナが思うくらいだ。
お母様が一緒に行けるなら、伝書鳩のように恋文を届ける役割も卒業かしらとリリアセレナは思った。
リリアセレナがロベルトと一緒にエトワースに出掛ける時、ヴィヴィアは必ずロベルトへの恋文をリリアセレナに託けていた。
ロベルトの方も、家を空ける時にはヴィヴィアの恋文があると学習してしまい、エトワースに着くなり「ヴィヴィアの手紙は?」と催促してくる始末だ。
そしてお母様付きの侍女からの情報では、どうやら最近はお父様までが妻に恋文を認めているらしい。
領地視察で館を空ける日には、ナイトテーブルの引き出しの一番上に恋文が入っているのだとか。
まあ、リリアセレナからすればどうでもいい情報である。
ヴィヴィアが初めてエトワースに行く日は、リリアセレナばかりでなく、フォール医師も同行した。
慣れぬ馬車旅でヴィヴィアが熱を出さないか、ロベルトが案じたからだ。
とはいえ、結果から言えばそれは単なる杞憂に終わった。
初めて遠出をするヴィヴィアは馬車から見える景色に目を輝かせ、始終楽しげであったからだ。
ロベルトも蕩けるように甘い顔でヴィヴィアにいろいろと説明をしてやっていて、それを向かいで見ていたリリアセレナは隣に座るフォール医師とちらりと目を見交わした。
フォール医師の顔には、胸やけを起こしそうだとでかでかと書かれていて、思わず笑いを噛み殺したリリアセレナである。
でもまあ、お母様と一緒にエトワースにお出かけできるのは嬉しかった。
同行したフォール医師も、新婚の雰囲気を醸し出す当主夫妻に当てられながらも、旅を存分に堪能したようだ。
デーラ城での午餐を終えると、まずは皆で墓所に足を運んだ。
エリーゼの墓石をそっと撫でるヴィヴィアの肩をロベルトが抱き、その後ろでリリアセレナやフォール医師も静かに手を合わせた。
病弱だったエリーゼは毎日のようにフォール医師に診てもらっていたから、フォールにとっても格別な思いがあったようだ。
優し気な眼差しで墓石を見つめ、時折、涙を拭っていた。
その後、ロベルトは当主としての仕事にかかりきりとなり、この城を管理するトマスがヴィヴィア達に城の案内をしてくれた。
体の弱いヴィヴィアは城内に高々と聳え立つ尖塔には登れないが、見たがっていた海は、崖側にむかって張り出した東棟からも眺める事ができる。
そこに案内されたヴィヴィアは、広々とした干潟とその向こうに広がる壮大な海をしみじみと眺め、これが海なのね……と小さく呟いた。
「干潟とは不思議な土地ね。陸地とも海とも違っているわ。
端の方には細長い草のようなものも生えているけれど、何も生えない不毛の地がこんなに大きく広がっているなんて思ってもみなかった」
ヴィヴィアの言葉に、トマスは微笑みながら頷いた。
「満潮になればあの辺り一帯が全て水に浸かり、反対に潮がもっと引けば干潟は更に広がります。
海水が染み込んだ土地なので、ここでは何も育てる事はできません」
「エトワースは耕地として利用できない土地が多いと、今は亡きお義父様が嘆かれていたの。
この問題を解決しない限り、エトワースの発展は望めないだろうとも。
お義父様の憂慮が、今ようやく理解できた気がするわ」
アンテルノ家は金に困っている訳ではないが、財が潤沢であるとは言い難い。
今は滅んだ旧クス大公家の流れを引く名門であるため、体面を保つためにかなりの金を要したからだ。
先代まではまだ、二つの領地収入があった。
けれどロベルトの代になって、ブレノスという領地を息子ヴェントのために手放している。
今やアンテルノ家の財政を支えるのは、ここエトワースの領地収入だけだった。
「本当はね、ロベルトにはたくさんの持参金を持った貴族令嬢との婚姻話が進んでいたの」
ヴィヴィアが寂しげに瞳を伏せ、リリアセレナにそう言った。
「でもわたくしを選んでしまったせいで、苦労をたくさんお掛けしてしまったわ。わたくしの実家は普通程度の持参金しか用意できなかったから」
「わたくしに言わせたら、お母様以外の女性と結婚するお父様の姿なんて想像できませんけれど」
リリアセレナは笑いながらそう答えた。
「財政のためにはその方が良かったのでしょうけれど、きっとお父様は今よりもご不幸でいらっしゃったわ。
今のように何かに必死になったり、少年のような笑顔で笑ったりという事はなかった気がしますもの。
それに、領地経営の事は心配なさらないで。
ユリフォス様がきっとお父様のお力となりますわ。そのためにガランティアに留学されているのですもの」
「そうね」とヴィヴィアは頷いた。
「ユリフォスはわたくしにはもったいないくらいの息子だわ。きっとあの子が、ロベルトと一緒にこのエトワースを盛り立ててくれる事でしょう」
そしてヴィヴィアは、傍で控えているトマスに穏やかな眼差しを向けた。
「これもすべて、トマスが愛情をかけてあの子を支え、育ててくれたお陰ね。
本当にありがとう」
ユリフォスの傅育官であったトマスは、毎年夏にユリフォスと一緒に公都の邸宅を訪れていたため、ヴィヴィアとも面識がある。
改めて言葉を掛けられたトマスは、「畏れ多い言葉です」と頭を下げた。
その後は自然にユリフォスの話になり、干潟を眺めながら三人でたくさんユリフォスの話をした。
デーラ城にはユリフォスが育った痕跡ばかりでなく、ロベルトやその姉弟達、そしてヴィヴィアの実母リレイラの思い出深い場所もたくさん残されている。
代々の子ども達の背丈を刻んだ傷が子ども部屋の石柱に残されていて、それを見つけたヴィヴィアは小さな歓声を上げた。
「今度、セルダントのお母様をデーラ城にお招きしたいわ」
一通り城内を見て回った後、ヴィヴィアが頬を紅潮させてそう言い、「素敵ですわ」とリリアセレナは顔を輝かせた。
「お祖母様もきっと喜ばれますわ。ここはお祖母様がご幼少を過ごされたところですもの」
「クラウディア姉様達にも声を掛けてみようかしら」
そう呟いたヴィヴィアに、リリアセレナは一つのお願いをしてみる事にした。
「もしリテーヌ伯母様をご招待なさるなら、わたくしのお友達のグラディアも招いてはいけませんか?」
グラディアはアンテルノ家と血の繋がりはないが、リテーヌ伯母様の義姪に当たる。
海をまだ見た事がないと言っていたから、きっと喜んでくれるだろう。
「勿論大丈夫よ」
ヴィヴィアはにっこりと笑い、
「夜にでもロベルトに相談してみるわ。時候のいい時期に、皆をこのデーラ城にお招きしましょうね」
リリアセレナは淑女らしからぬ歓声を上げ、ヴィヴィアに抱き着いた。
「お母様、ありがとう!」
大好きなグラディアとデーラ城を散策できるなんて夢のようだ。
その日が今から待ち遠しくて堪らなかった。




