求められる代償
翌朝ヴィヴィアの両親は、ロベルトへの謝罪やヴィヴィアの今後についての相談のためにアンテルノ家へと出向いていき、ヴィヴィアは自室での謹慎を命じられた。
昨晩の醜態はヴィヴィアには耐えがたく、両親への申し訳なさや己の軽率さがただ恥じ入られて、ヴィヴィアはほとんど一睡もしないまま夜を明かした。
ぼんやりと椅子に座し、窓の外を見るともなしに眺めているヴィヴィアの傍らには、ニアという侍女が片時も離れずに従っている。
幼い頃からヴィヴィア付きとして仕えるニアは、ヴィヴィアが友とも頼む腹心の侍女で、ヴィヴィアが心に秘めてきた想いも全て知っていた。
昨日の顛末について女主人から説明を受け、ヴィヴィアから決して目を離さないようにと強く命じられたニアであったが、言われるまでもなく、ニアの目から見ても今のヴィヴィアはあまりに不安定だった。
声を掛ければ最低限の返事はするが、心はここにあらずといった感じで、今も眼差しだけが頼りなく揺れている。
窓の外ではけぶるような雨が庭園の梢を濡らしていて、音もなく降り落ちる雨とも呼べぬ雨に魅入られたように、ヴィヴィアは僅かに唇の端を上げた。
もしかしたら修道院に入るようになるかもしれないとヴィヴィアはようやくその事に思い至った。
昨日までは、ロベルトの前で笑い者にされたり、ドレスを裂かれた姿を見られた事がただ恥ずかしく、自分の評判など考える余裕もなかった。
けれどよくよく考えれば、あのような姿を夜会の列席者に晒してしまった事こそが一番の問題なのだ。
いくら扇で隠し、ロベルトの肩口に顔を埋めていたとはいえ、いずれ誰であるかは特定され、醜聞として大きく広がっていく事だろう。
そうなれば、両親とてどう庇いようもない。
まともな縁は望むべくもなく、このまま行き遅れて修道院に入るようになるか、こうした醜聞を気にしない家格の家に嫁がされるかのどちらかだ。
どうでもいいとヴィヴィアは思った。
物心ついてからずっと、ヴィヴィアの世界はロベルト一色だった。
どうせロベルトの許に嫁げないのであれば、相手が商人だろうが、後添えを求める年配の貴族だろうが、露ほどの違いもない。
両親がアンテルノ家から帰ってきたのは夜もかなり更けた頃で、改めて父に呼ばれたヴィヴィアは、身だしなみだけを軽く整えてすぐに父の部屋へと向かった。
部屋には兄も呼ばれていて、父親と真剣な顔で何かを話していた。
ヴィヴィアに気付いた父親は座るよう促し、ヴィヴィアは両親の向かいの席にゆっくりと腰を下ろした。
「二人と話をしてきた」
父の声には深い疲労が滲んでいた。
「ノルディアムの娘の行為については義兄も不快を覚えていて、向こうが心無い噂を広めるようなら、それなりの対応を取ると。
ただ一番問題なのは、お前が庭園でアルカウトに襲われかけ、髪やドレスを乱した姿を人に見られてしまった事だ。
人の噂に戸は立てられん。今後お前に、望むような縁談を用意してやる事は難しくなるだろう」
「はい」
覚悟していた事だった。
ヴィヴィアは唇を噛み、静かに頭を下げた。
「このような事になり、本当に申し訳ございませんでした」
「ヴィヴィア」
父親は低く名を呼び、顔を上げたヴィヴィアの瞳を真っ直ぐに見つめてきた。
「ロベルトがお前を娶りたいと私たちに申し出てきた。
ただ、血の近しい自分たちにおそらく子はできない。だから、今のジュベル卿の爵位も返上すると」
「え」
思いもしない言葉にヴィヴィアの頭が真っ白になる。
ジュベルの名は、代々アンテルノ家の嫡男が受け継ぐ爵位だった。それを自ら返上するという事は、アンテルノの爵位も辞退するという事だ。
ヴィヴィアは色を失い、悲鳴のような声で叫んだ。
「お待ち下さい!わたくしはそのような事は望みません!」
爵位を失えば、ロベルトは今後、一介の騎士として生きていくしか道はない。
名だたる名家の嫡男としてあらゆる未来を手にしていたロベルトが、ヴィヴィアの尻拭いのためにすべて失うなど、到底受け入れられる話ではなかった。
「ロベルトはただ、わたくしに巻き込まれただけです。
どのような噂が立ってもわたくしは構いません!自分がしでかした事の償いは自分で致します!」
ヴィヴィアの言葉に父親もまた厳しい顔で頷いた。
「その通りだ。
私たちはお前が可愛いが、お前のためにロベルトが爵位を返上するなどあってはならない事だ。
義兄にとっては猶更だろう。
ここまで大切に育ててきた嫡男を、このような形で失うなどとても許せる話ではない。
私たちは時間をかけてロベルトを説得した。
……だが、ロベルトはどうしても譲らなかった」
父親は疲れたように言葉を切った。
「自分の罪は、血の近しいお前を愛してしまった事だとロベルトは言った。
思い切ろうとしたが、どうしても忘れられなかった。このような性癖を持つ自分は、そもそもアンテルノ家の嫡子にふさわしくないと」
ヴィヴィアは呆然と立ち竦んだ。
自分に都合のいい夢を見ているようで、理解が追い付かない。
「ロベルトがわたくし、を……?」
幼い頃からずっとロベルトに恋してきた。
許されぬ恋だと諦めて、それでも想いを断ちきる事ができず、叶わぬ想いに身を焼くしかなかった。
けれどロベルトもまた、わたくしと同じように禁じられた恋に苦しんでくれていたという事だろうか。
ヴィヴィアの瞳から堪え切れない涙が溢れ落ちた。
三つ年上の従兄弟は、ヴィヴィアにとってずっと触れる事のできない太陽のような存在だった。
眼差しを追う事さえ許されず、ただ想いを心の奥深くに留めるしかできなかったのに、ロベルトもまた自分の事を望んでくれたのだ。
ならば、これ以上の幸せを身に望むのは自分には過ぎた事だろうと、ヴィヴィアもようやく覚悟がついた。
「お父さま、わたくしを修道院に入れて下さいませ」
頬を伝う涙を指で払い、ヴィヴィアはきっぱりとそう答えた。
「ロベルトの人生を壊す事をわたくしは望みません。
想いをいただいただけでもう十分です。
心から感謝していると……、ロベルトにはどうぞその言葉だけをお伝え下さい」
深く頭を下げたヴィヴィアに、母は小さな吐息をついた。
「貴女はずっとロベルトの事を愛していたのね……。
わたくしは全く気付かなかったわ。昨日の顛末を聞かされるまで、わたくしはもう、貴女がロベルトの事を想い切ったのだと思い込んでいた」
ヴィヴィアは母の方を哀しく見上げた。
「ごめんなさい……」
謝る事しかヴィヴィアにはできない。
これほど慈しまれて育ててもらったのに、自分は父や母の期待を裏切ってしまった。
こんな風に二親を悲しませるなど、ヴィヴィアは決して望んでいなかったのだ。
「……貴女とロベルトの間には、子はおそらく生まれないわ。それでもロベルトが好き?」
どこか諦めの滲む声でそう問いかけられて、ヴィヴィアは「はい」と小さく頷いた。
どうしてもこの想いを諦める事ができなかった。
その姿が見たくて、見ればその眼差しを自分に留めたくて、心は理性を裏切り、ただ狂うようにロベルトだけを欲していた。
別の男性に嫁げばロベルトを忘れられるかもしれないと思った事もあったけれど、果たして本当にそうだっただろうか。
夫に抱かれても、ヴィヴィアの心は変わらずロベルトだけを追っていた気がする。
一生に一度の恋で、この恋に殉じる事がヴィヴィアにとっての幸せだった。
「ならば、ヴィヴィア。
貴女は他の女性とロベルトを共有する気はあって?」
唐突に問いかけられた言葉の意味がわからず、ヴィヴィアは戸惑うように母を見た。
「他の女性と、ロベルトを共有……?」
「貴女を妻に迎える代わりに、一年以内に愛人を迎える事ができるかロベルトに聞いたの。
ロベルトは、貴方を手に入れられるなら何でも言う通りにすると答えたわ。
貴女はどう?
その覚悟はある?」
ヴィヴィアは息を呑んだ。
「貴女も知っているように、ロベルトは必ず跡継ぎをもうけないといけない。
それがアンテルノの次期当主としての義務だから。
正妻がロベルトに子を与えられないなら、別の女性がその役目を果たすしかないわ。
子どもが二人生まれるまで、ロベルトは愛人の所に通うようになるでしょう。
公国では正妻の子にしか爵位継承は認められていないから、貴女はロベルトが外で生ませた子どもを自分の養子として迎える事になる。
ヴィヴィア。貴女はそれに耐えられる?
自分に子どもは生まれないまま、ロベルトが別の女性との間に作った子を我が子として認め、正妻として一生、ロベルトの傍らに立ち続ける事が本当にできて?」
思わぬ決意を突き付けられて、ヴィヴィアは喘ぐように息をついた。
ロベルトが他の女性を抱き、その女性との間に子をなす。
想像しただけで、臓腑に酸を掛けられたような痛みがヴィヴィアの心を刺し貫いた。
けれど……とヴィヴィアは思う。
けれどそれさえ我慢すれば、自分はロベルトを手に入れる事ができる。
どれほど焦がれても決して望む事のできなかったロベルトを、夫として仰ぐ事を許されるのだ。
ならば自分はロベルトの傍らにいたい。
それ以外の選択肢はヴィヴィアにはなかった。
「お父さま、お母さま、どうかわたくしをロベルトの許に嫁がせて下さい」
流れ落ちる涙はそのままに、ヴィヴィアは深々と両親に頭を下げた。
行き着く未来がどのようなものか、ヴィヴィアにはわからない。
けれど、ロベルトのいない世界を生きるくらいなら、絶望を抱えても共に歩める未来をこそヴィヴィアは欲した。
しばらくは、誰も何も答えなかった。
痛いほどの沈黙が場を支配し、ややあって父親が大きな息を吐いた。
「では、そのようにしよう」
目を上げて父を、そして父の傍らにいる兄へと目を向けると、兄は軽く肩を竦めてきた。
心から賛同するわけではないが、当人たちが覚悟を決めたのならこれ以上言う言葉はないと思っているのだろう。
母がゆっくりとヴィヴィアに近寄ってきて、その体をきつく胸に抱きしめた。
「馬鹿な子ね……」
堪えきれなくなったように母は嗚咽し、それでも娘の意思を尊重しようとするように、腕に抱いたヴィヴィアの頭を優しく撫でてやった。
「きっと歩むのは修羅の道よ。
それでもその道を貴女が選ぶなら、もう反対はしないわ。
思うままに生きてごらんなさい」