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22 領地訪問


 その翌々日、リリアセレナはロベルトと一緒にエトワースへと発った。


 エトワースは海沿いにある街で、公都の邸宅から馬車で凡そ二刻かかる。

 進行方向が見える側にロベルトとリリアセレナが並んで座り、向かいの席に侍女のアルラが控えた。


 嫁いでから初めての長旅に、リリアセレナは朝から興奮していた。

 目にする光景すべてが事新ことあたらしい。


 街を抜けると長閑のどかな田園風景が道沿いに広がるようになり、一際大きく枝を張ったブナの木や、川べりに設けられた小さな水車、可愛らしいレンガ造りの小さな家などが見える度、リリアセレナは小さな歓声を上げた。


「お父様、屋根のてっぺんに飾られたあの猫は何ですか?」


 真鍮しんちゅうで作られた平べったい猫が灰色の屋根の棟に乗っかっている。

 どっしりとした石造りの家に、その部分だけが妙に可愛らしかった。


「あれは風見猫だ。猫の向く方向によって風向を知る事ができるようになっている」


「猫が南を向いているという事は、今日は南風が吹いているのですね」

 初めて見る風見猫にリリアセレナは目を輝かせた。


「でも、どうして猫なのでしょう? 屋根の上だから鳥の方が似合うような気がしますけれど」


「この辺りは海に近いからね」とロベルトは楽しそうに窓の外を見た。


「船乗りにとって猫は船の守り神なんだ。

 猫は、船内に積んだ食料や荷を食い荒すネズミを捕まえてくれる。

 船と同じように家も守ってもらおうと、風見猫をとりつけたのだろう」


「猫がそれほど大事な動物とは知りませんでした」

 ただ可愛い動物だと思っていたが、この地域に住まう人々にとってはとても大切な存在であるのだろう。


「では、お父様も猫がお好きなのですか?」

 問われたロベルトは、ちょっと考え込んだ。


「特に好きだとも嫌いだとも思った事はないな。

 猫を飼った事もないし、私にとっては馬や犬の方が身近で可愛い動物だ」


 父ロベルトと一緒の旅は楽しかった。

 マティス公国に嫁いで来る時の馬車旅は苦痛でしかなかったけれど、父と会話を楽しみながらの旅は、あっという間に時間が過ぎた気がする。


 気付けばエトワースに到着していて、海を望む高台にもうけられた大きな石城が眼前に迫っていた。


「うわあ」

 その古城を見て、リリアセレナは小さく声を上げた。


 公都にある瀟洒な邸宅とは全く趣が違う。

 いかにも堅牢な石造りで、灰色でできた石壁はぶ厚く、窓は小さめに作られていた。


 北側には一際高い塔が建っていて、どうやら最上部は見張り台になっているようだ。

 数世代に渡って増築、改築が繰り返されたらしく、建物の様式に一貫性はなかったが、それでも十分に美しい。

 城の建設に着手した当主の妻の名前に因み、デーラ城と名付けられているとロベルトから説明された。


 今このデーラ城を守っているのは、ユリフォスの傅育官ふいくかんであったトマスという家令だ。

 小柄で痩せ型の六十前後の男性で、目尻には笑い皺があり、褐色の髪にはちらほらと白髪が混じっていた。

 

 父と離れて暮らしていたユリフォスにとって、トマスとその妻ハリエットが親代わりのようなものだと聞いている。

 次に紹介されたハリエットもまた、笑顔がふんわりとした優しそうな女性で、ユリフォスの幼な妻であるリリアセレナが遠いデーラ城に足を運んでくれた事を心から喜んでくれた。


 遅めの昼餐を終えたロベルトはすぐに領主の仕事に取り掛かり、リリアセレナはトマスに城内を案内してもらう事となった。


 最初に案内してもらったのは、尖塔の頂上にある見張り台だった。

 ここからは全周囲を見渡す事ができ、かなり遠方まで眺められるのだという。


 螺旋上になった石階段をひたすら上っていったのだが、上っても上っても階段は更に上に続いている。途中で心が折れそうになったが、根性で何とか上り切った。


 そうして辿り着いた頂上からの風景はまさに別世界だった。

 西側からは街や田畑が見え、東側には広大な海が広がっている。


「すごい……」


 思わず言葉を失うリリアセレナに、「ここがアンテルノ家の治めるエトワースです」とトマスは誇らしげに説明した。


「海から敵の侵入を防ぐ要衝の地で、だからこそ前大公家は同じ流れを引くアンテルノ家にこの地の護りを任せたのでしょう」


「わたくし、海を見るのは初めて。こんなに広くて青いものだったのね」


 初めて見る海の手前には、海とも砂地ともつかぬ湿地帯が広がっている。

 所々に潮だまりがあって、筋のような段差もできていた。


「草も木も生えていない泥だけの土地が続いているわ。

 あれはなあに?」


「干潟というものです。海に満潮と干潮がある事はご存じですか?」


「ええ。ご本で読んだ事があるわ」


「干潮になると、あのように泥地が剝き出しになるんです。

 反対に満潮になりますと、あの一帯は全て海に浸かります」


「そう言えばお父様がおっしゃってた。

 エトワースには農地として利用できない土地がたくさんあるって。それがここなのね」


「はい。この広大な干潟を民が暮らせる土地に変える事ができれば、エトワースは随分豊かになるでしょう。

 ユリフォス様はそれを学ぶために、今、修学院で学んでおいでです」


「ここを民の住める土地に?」

 リリアセレナは所々に水が残る泥地を困惑した目で眺め下ろした。


「度々水に浸かるような土地で人は暮らせないわ。ここにたくさん土を運んでくるのかしら」


「いえ。ユリフォス様が考えておられるのは干拓です」


「干拓?」

 耳慣れぬ言葉に、リリアセレナは首を傾げた。


「海の中にしっかりとした堤防を作り、その後に堤防内の水を抜いて土地を作るそうです」


「水を抜く?

 堤防というのは水が入らないように土砂を積み上げたものだと覚えているけど、その堤防を作った後、どうやって水を抜くのかしら。

 水桶で汲み出していたら、ものすごい時間がかかりそうだけれど」


「私も詳しい事は存じません。

 けれどその辺りの事はユリフォス様がガランティアで学んで帰られる筈です」


 もし本当に、この広々とした土地がすべて農地に変わったら、エトワースはどんなに豊かになるだろうか。

 そんなリリアセレナの心を覗いたように、トマスが穏やかに言葉を続けた。


「干拓が成功すれば、この辺りの景色は一変します。

 この不毛の大地に緑が溢れ、民が行き来する。そんな景色を、生きているうちに是非ともこの目で見てみたいものです」




 そうして見張り台からの風景を十分に堪能した後、リリアセレナはあの階段をまた黙々と下りる事となった。


 せっかくなので何段あるか数えてみようと、声に出して一段ずつ階段を下りていたのだが、途中、足を滑らせそうになって手摺に摑まった瞬間に、頭から数字が吹き飛んだ。


「結局何段あったかわからなくなったわ」


 眉をへの字にするリリアセレナに、「ユリフォス様も同じような事をなさっていましたね」とトマスが楽しそうに笑った。


「途中で数を数え損なって、翌日にまた挑戦していらっしゃいました」


 その後は気ままに城内を探索したが、至る所に幼いユリフォスの思い出が隠されていて、見て回るのがとても楽しい。

 あっという間に夜が来て、父のロベルトと夕食を囲みながら、ユリフォスの幼い頃の話をたくさんした。


 ユリフォスは人見知りが強かったらしく、普段別れ別れに暮らしているロベルトがたまに顔を見せても、なかなか傍に寄ろうとしなかったようだ。

 無理やり抱き上げたら、まるで人攫いにあったように泣き叫び、助けを求めるようにトマスに手を伸ばしていたという。


「あの泣き顔は一生忘れられないな」と話すロベルトの口調は随分楽しそうだ。

 自分を抱く父親から必死に逃れようとする小さな男の子の姿が脳裏に思い浮かび、リリアセレナも思わず笑ってしまった。


 食事が済み、お休みの挨拶をする前に、リリアセレナはヴィヴィアから預かっていた恋文をロベルトに差し出した。


「これは何?」

 不思議そうな顔をするロベルトに、「開けてからのお楽しみですわ。眠る前にお読みになって」とリリアセレナはいたずらっぽく答えた。


 ここで差出人をばらすと、威厳のあるお父様がでれでれとした男性に変わってしまいそうで、リリアセレナとしては父のそんな姿は見たくない。

 両親の仲がいいのは結構だが、ヴィヴィアの惚気だけでリリアセレナはお腹いっぱいだ。




 翌日は朝餐を早めに済ませ、ロベルトの領地視察に一緒についていった。


 案内をするのはエトワースの領地管理人のへバムである。

 五十半ばの実直そうな男性で、支度の遅れたリリアセレナが「お父様」と呼びながらロベルトの方に行くと、ぎょっとした顔で見つめられてしまった。

 ロベルトの庶子だと勘違いされたようだ。


「ユリフォスの妻だ」とロベルトが苦笑混じりに説明すると、へバムはあっと思い出したような顔をして慌てて頭を下げてきた。

 次期当主のユリフォスが妻を迎えた事は知っていたが、幼な妻であるという情報は頭から吹き飛んでいたらしい。


 リリアセレナは自分用に小さなポニーを用意してもらい、それに乗ってロベルトやへバムと一緒に農地を見て回った。


 エトワースの小麦畑は収獲間近で、風に吹かれてゆらゆらと金色の小麦が波打っている。

 その様子は、昨日見た海の景色をリリアセレナに思い起こさせた。


「今年の実りも順調です。今月末には、予定通り刈り入れを行う事ができるでしょう」


 へバムの言葉にロベルトが満足そうに頷く。

 豊かに実った小麦畑の向こうには青々とした畑が続いていて、そちらの生育も順調そうだ。


 三人で領地を回っていると、畑で作業していたらしい農民達が作業の手を止めて次々とこちらへと走り寄って来た。


 へバムが「ユリフォス様の奥方だ」と説明すると、畦に膝をついていた民達が口々に「若様とのご結婚おめでとうございます」と声をかけてきた。


 ユリフォスは幼い頃からデーラ城で育ち、祖父に当たる前アンテルノ卿ランドルフの馬に乗せられて、二人でよく領地を見回っていたのだそうだ。

 そのためここら辺の領民達からは「若様、若様」と言って慕われていた。


 ロベルトに言われてリリアセレナが手を振ると、皆も手を振り返してくれる。

 人々の温もりが伝わって来て、リリアセレナはとても嬉しかった。


「素敵な領地ですね」

 リリアセレナがそう言うと、ロベルトは「ああ」と頷いた。


「エトワースは私の誇りであり、何にも代えがたい大切な土地だ。

 リリアセレナもこのエトワースを愛し、ユリフォスと一緒に発展させてやってくれ」


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