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20 ユリフォスの実母と異母兄


 さて、刺繍の腕を上げる事は勿論大事だが、十のリリアセレナには学ばなければならない事が山ほどある。

 歴史や語学、修辞学といった座学の他に、淑女としての行儀作法、チェンバロの演奏や乗馬にダンス等々。


 リリアセレナは体を動かす事は得意だし、一通り何でも器用にできてしまうのだが(刺繍は別として)、お勉強というものが余り好きではなかった。

 きちんと教養を身に着けていないとユリフォスに恥をかかせる事になると知っていたから頑張っているけれど、はっきり言って文字を目で追うだけでうんざりする。


 どうやったらお勉強が楽しくなるのだろうと考え、ある日リリアセレナは、気まぐれで図書室を覗いでみる事にした。


 名だたる旧家だけあって、アンテルノ家の図書室の蔵書は非常に充実している。

 子どもの頃のユリフォスも、時間があれば図書室に通い詰めていたと家令のデュランが言っていた。


 そのユリフォスは自らガランティアの王立修学院を希望しただけあって、知識を得る事に非常に貪欲である。

 あらゆる分野の書物に興味を持ち、散文や音楽、建築学や法学に至るまで、様々なものに目を通していたようだ。

 木の棒を持ったチャンバラごっこよりも頭脳ゲームが好きで、暇さえあれば地面に木の棒で升目を描き、一人でボードゲームの真似事をやっていたとロベルトからも聞いていた。


 訪れた図書室には数術関係の本がいくつかあり、それを従僕に取ってもらったリリアセレナは、テーブルの上に広げてぱらぱらと捲ってみる。

 本は数字と記号、図形の羅列で埋め尽くされていて、さっぱり意味が分からなかった。


「円を一つ描き、次にその円がすっぽり入るような外接正八角形を描き……、外接正八角形って何なのかしらね。今度は円の中にすっぽりおさまるような内接正八角形を……。一体これのどこが面白いのかしら」


 机の前で腕組みをしてうーんと唸っていると、そこにちょうどロベルトがやって来た。

 領地の事で何か調べものがあったようだ。


「おや。珍しい本を読んでいるね」

 話し掛けられたリリアセレナは、困ったようにロベルトを見上げた。


「ユリフォス様が習っておられる数術とはどんなものなのかちょっと知りたくなって……。

 ねえ、お父様。数術は貴族男性の必須の教科とされていますけれど、こんな難しい事を学んで何かに役に立つ事があるのでしょうか」


「数術を学ぶ意味か」

 ロベルトは分厚い本のページを指で撫でながら、ちょっと考えた。


「一番の理由は、論理にかなった思考を学ぶためだろう。数術を学ぶ事で、物事を客観的に判断する能力が身に着くと言われている。

 土地と人を治める者は広い視野に立って物事を見渡す事が肝要だからね。だから貴族の子弟がこぞって数術を学ぶようになった」


「論理に適った思考……ですか」


 リリアセレナには難しすぎてよくわからない。

 困ったようにそう繰り返すと、ロベルトは小さく笑った。


「まあ、そんなに難しく考えずとも、ユリフォスはただ数術が好きなだけだ。

 あの子は昔から、時間さえあればこの図書室に入り浸り、夢中になって本を読んでいた。

 ……母親の血筋かもしれないな」


 ふとロベルトが零した言葉に、リリアセレナは不思議そうに顔を上げた。


「ユリフォス様のお母様は数術がお好きだったのですか?」


「いや……」

 一瞬、ロベルトは言い淀んだ。


「私はユリフォスの母の事を、私はほとんど知らないんだ。

 ただ、公国の学者をしていた男の娘だという事は知っている。

 真面目な男だったようだが、妻の死後に酒浸りとなって借金を作ったそうだ」


「そうでしたの。あの……、言いにくい事をお尋ねしてしまってごめんなさい」

 素直に頭を下げるリリアセレナに、いやとロベルトは首を振る。


「ユリフォスが生まれて二、三か月後に彼女は消えた。その後の消息は聞いていない。

 どこかで幸せに暮らしてくれていればいいのだが……」


 そう呟いたロベルトは、追憶を辿るようにそっと瞳を伏せた。

「彼女はかけがえのない息子を私にもたらせてくれた。彼女には感謝しかない」


「きっと、幸せになっておいでですわ」

 リリアセレナは力強く、ロベルトにそう言った。

「わたくしもそのお方の人生が喜びに満ち溢れるよう、心よりお祈り致します」


 リリアセレナの言葉に、ロベルトは微笑みながら頷いた。

「ありがとう」


 そう言って大きな手で頭を撫でてくれたから、リリアセレナはくすぐったそうに目を細めた。

 こんな風にお父様から頭を撫でてもらうのが、リリアセレナはとてもとても好きだった。




 そんな事があってからしばらくして、義叔母のシオン卿夫人アンダルシアがリリアセレナの指導役として家に来てくれる事になった。


 リリアセレナは一般的な淑女教育を家庭教師から教わっているが、それ以上に大事なのは、社交場におけるアンテルノ家の立ち位置や交友関係を知っておく事だ。

 リリアセレナがまだ幼いという事もあって先延ばしにされていたが、そろそろ本気で家の諸事情や宮廷における派閥の状況などを教えておいた方がいいと、ロベルトが判断したようである。


「では今日は、アンテルノ家の縁戚関係についておさらいをしておきましょう」


 アンダルシアからはきはきと声をかけられ、リリアセレナは「よろしくお願い致します」と頭を下げた。


 ここは普段、女主人が茶会などを開く居間だ。

 東側に瀟洒な張り出し窓があり、南側にも広めに窓がとられている。窓には重厚感溢れるセゼス織のカーテンがかかり、金の房が付いたタッセルで留められていた。

 背もたれに背をつけず、すっと美しく上体を伸ばして座っているアンダルシアを見習って、リリアセレナもしっかりと背を正した。


 褐色の髪に同色の瞳をしたアンダルシアは、鷲鼻という事もあって、理知的で冷ややかな印象を相手に与えがちだ。

 物怖じせずに思ったままを口にするため、人情味のない女性だと誤解される事も多かったが、一度ひとたび心を許した相手に対してはとことん誠実で、愛情を尽くせる女性でもある。

 アンダルシアは夫ヴァザーリの兄嫁であるヴィヴィアに深く心酔しており、そのお陰でリリアセレナもしっかりとその恩恵を受けていた。


 今日の講義はアンテルノ家の親族関係だったが、四親等以内の親族を一人一人詳しく説明され、リリアセレナは心の中で悲鳴を上げた。

 十数人いる義理の従兄妹達の名前を覚えるだけでも大変なのに、領地や特産品、交友関係までも説明されて、頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。


 渡された家系図を見ながら必死になって情報を頭に叩き込んでいた時、リリアセレナはふと、結構重要な親族について全く語られていない事にようやく気がついた。


「あの……、ユリフォス様の兄君に当たるジュベル卿について全く教わっていないのですが」

 その名を聞いたアンダルシアは、一瞬それとわかるほどに眉根を寄せた。


「ジュベル卿については、最低限知っておくだけで良いでしょう。

 領地はブレノスというところで、場所は公都の北に当たります。さほど広い土地ではありませんが、小麦や穀物の栽培が盛んです。

 妻はイル卿の長女で一男一女に恵まれています」


「イル卿の長女……? では、ジュベルという家名はどこから来たのでしょうか」


 次男のユリフォスがアンテルノ家を継ぐ事になったのは、兄君がジュベル家に婿養子として入ったせいだとリリアセレナは思い込んでいたが、どうやらそうではなかったらしい。


 驚きを隠せないリリアセレナに、アンダルシアは小さく溜め息を吐いた。


「貴女にはすでに伝わっているものだと思っていましたが、そうではなかったようですね。

 ジュベルの名は元々アンテルノ家が所有していたものです。

 旧家であるアンテルノ家は代々四つの貴族位を受け継いでいて、そのうちの一つがジュベルでした」


 そして静かに言葉を足した。


「今のジュベル家はアンテルノ家と完全に袂を分かち、交流も全くありません。名前を口にする事も避けた方がいいでしょう。

 リリア、よろしいですか。お父様やお母様を悲しませたくないのであれば、決してこの家でその名前を口にしてはなりません」


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