13 リリアセレナの癇癪
その後、いつもの時間にベルが朝食を運んでくれたが、はっきり言って食事なんて喉を通らなかった。
リリアセレナの言葉を聞いて、優しいお母様はどう思っただろうか。
物静かで感情を余り面に出さないお父様も、今度こそリリアセレナの我が儘に呆れ果てたに決まっている。
嫌われてもいいと思っている筈なのに、心がひどくきしんだ。
どこを見ても世界はどんよりとした灰色で、楽しい事など一つも思い浮かばない。
朝の膳が下げられてしばらく経った頃、父ロベルトが部屋を訪れた。
この時間帯は執務をしている筈で、わざわざリリアセレナのところに顔を見せるという事の方がおかしい。
朝のお祈りをすっぽかすという事は、それほどの大事であるのだろう。
愛されたいという思いと、嫌われた方が楽だという思いがせめぎ合い、リリアセレナの心の中は暴風が荒れていた。
お父様は責め立ててくるだろうか。それともアンシェーゼの母様のように手を出してくるだろうか。
あの大きな手でぶたれたら、リリアセレナの小さな体など部屋の隅に吹っ飛んでしまうに違いない。
それでも謝るという選択肢はリリアセレナの中に存在しなかった。
「リリアセレナはお祈りにも行かずに、朝ご飯だけ食べました」
反抗的に言葉を紡いだリリアセレナを、ロベルトは静かな眼差しで見下ろした。
「そうだね。アルラからそう報告を受けた。
……尤も、食事はあまり進んでいなかったようだが」
「リリアセレナはどうしようもない子なんです。
いい子ぶろうかと思っていましたが、無理だったんです。
だからお祈りにも行きませんでした」
いつものように、お父様と呼びかける事ができなかった。
お前の父親ではないと言われる事が怖かったのだ。
「祈りとは人に強要されてするものではない」
ロベルトは穏やかに言葉を返した。
「今は神と向き合えないというのなら、それは仕方のない事だ。神は待って下さるだろう」
「リリアセレナは悪い子です。
いつになったら、きちんとお祈りができるかわかりません。
このままずっと聖堂には行かないかもしれません。
こんなリリアセレナはお嫌いでしょう?」
挑むように言い切ったけれど、語尾は少し震えてしまった。
ロベルトは俯いて何事か考え、それからゆっくりと目を上げた。
「リリアセレナの事を悪い子だと思った事はない。それともリリアセレナは私に嫌って欲しいのかな?」
「嫌われても平気です」
虚勢を張るリリアセレナに、ロベルトは「そうか」と頷いた。
「私は平気ではないけれど、それは仕方のない事だ。
ただこんな事で私がリリアセレナを嫌う事はないよ。それだけは覚えておきなさい」
リリアセレナは頷く事ができなかった。
血が滲むほど強く拳を握り締めたまま、ただ白くなったその拳を睨むように見つめていた。
大きな手がゆっくりと近付き、リリアセレナの頭を撫でるようにそっと触れる。
「聖堂に来るのが嫌なら、無理強いをしようとは思わない。
ただ、祈りは暗くて寒い場所からきっとリリアセレナを救ってくれるだろう。
……いつかリリアセレナにもそれがわかるといいね」
神に祈るだけで救われるなんておめでたいと、リリアセレナは投げやりに心の中で呟いた。
母様にぶたれたり、罵られたりしていた時に、お願いだから助けてって一生懸命神様にお祈りしたけれど、結局は救いなんて訪れなかった。
リリアセレナはどうやったって駄目な子なのだ。
実の母様にも要らないと思われていた子どもで、生きていたって、この先何の役にも立ちはしない。
自分をこの世に送り出した母という存在から否定され続けてきたと哀しみと孤独は、何をしても報われないという無力感を小さなリリアセレナに植え込んでいた。
一生懸命その呪縛から抜け出そうとしたけれど、足掻いても足掻いても真っ黒な闇がリリアセレナの足首を掴んでいる。
そんなに要らない子なら、生まれた時にさっさと殺してくれれば良かったのだと、リリアセレナはもう会う事もない故国の母に恨み言を吐いた。
リリアセレナだって生まれたくて生まれてきた訳じゃない。
気付いたら生きて呼吸をしていて、その事を責められたって、リリアセレナにはどうする事もできないのだ。
リリアセレナだって、本当は愛されて育ちたかった。
誰かに必要とされたいし、ちゃんとリリアセレナの言葉を聞いて欲しい。
ずっと寂しかった。罵られて悲しかった。一方的に叩かれて悔しかった。
自分に冷たいこの世界がリリアセレナは大嫌いだった。
抑え込んできた鬱憤が心の中で膨れ上がる。
哀しみとも悔しさともつかぬ涙がはらはらと眼から零れ、頬を伝って、ドレスの襟元を濡らした。
「リリアセレナ……?」
気遣わしげな声をかけられ、のろのろとそちらに目を向ければ、ヴィヴィアが驚いたように部屋に入ってくるところだった。
咄嗟に覚えたのは激しい羞恥だった。
惨めったらしく泣いている姿を優しいこの人に見られたくなかった。
「来ないで……ッ!」
気付けば、喉が切れるほどの大声で叫んでいた。
「何で……」とリリアセレナは泣きながら首を振った。
何でリリアセレナは愛されなかったのだろう……!
そうしてこんなに世界はリリアセレナに冷たかったのか。
物語では動物の子どもだって母に守られているのに、皇女であるリリアセレナはただ虐げられ続けた。
恨みと憤りが胸の中で膨れ上がり、自分でも制御できなかった。
リリアセレナは目の前のテーブルにあったものを力任せに両手で凪ぎ払った。
高価なティーセットが床に落ち、ガシャンという耳障りな音が響く。中の紅茶が零れ、床の上で破片と入り混じった。
それでも気が済まずに、今度は飾られていた花瓶に手を伸ばした。高価なそれを両手で持ち上げ、力任せに床に叩きつけた。
「リリアセレナ……!」
驚いたようにヴィヴィアが駆け寄ってくる。
飛んだ破片の一つが皮膚を掠めたのか、チリリとする痛みが腕に走った。肌からじわりと滲む血を見たリリアセレナは、癇癪を起して喚き立てた。
「こんな世界なんて大っ嫌い……!
みんなみんないなくなっちゃえばいいんだ!」
うわああああああああああああああああん……! とリリアセレナは声を限りに泣き叫んだ。
何もかも思い通りにいかなかった。
新しいお父様や母様から愛されたいのに、自分は嫌われる事ばかりを繰り返している。
でも、いい子の振りなんてしたくなかった。取り繕ってはじめて与えられる偽物の愛情なんてリリアセレナはちっとも欲しくない。
きっとリリアセレナは性根の曲がった悪い子どもなのだ。
だから誰からも愛されないし、世界はいつまでたってもリリアセレナによそよそしい。
大きな声で泣き喚いているリリアセレナを、ヴィヴィアが強く抱き締めた。
リリアセレナはその腕を振り解く事ができない。
この温もりまで失われてしまったら、リリアセレナは今度こそ独りぼっちになってしまう気がした。
「大丈夫よ」
温かな腕がリリアセレナをしっかりと包み込み、優しい声が落とされる。
「リリアセレナ、何も心配は要らないわ。大丈夫。お母様がここにいるわ」
ヴィヴィアの体からは優しい匂いがした。
自分が暮らしていた離宮の庭園の片隅にひっそりと咲いていた夜香木を思わせる仄かな香りだった。
そのお花は昼間には固く蕾を閉じていて、夜になるとそっと花開く。
季節がいつであったか覚えていないけれど、夜、窓を開けた時にそっと入り込んでくる甘やかな香に、リリアセレナは幾度となく心を癒された。
そのくらいしか嬉しい事がなかったから、余計に記憶が鮮明であったのかもしれない。
でももし、ここで「お母様」に見捨てられたら、きっとあの香りさえも嫌いになってしまうだろう。
そうしたら、数少ない優しい思い出がまた一つ、リリアセレナから失われていく。
失うものは何もないと思っていたのに、なくす間際になって大切なものがあったと思い出すなんて世界は何て残酷なのだろうと、リリアセレナは思った。
ただ恨めしく、寂しかった。
お願いだから、どうかリリアセレナの事を捨てないで……!
しゃくり上げながら、リリアセレナはヴィヴィアの体にしがみつく。
決して声には出される事のないその思いを、ヴィヴィアならばわかってくれるような気がした。




