12 リリアセレナの反抗
それから二日後、リリアセレナに新たな侍女が配された。
名をアルラと言い、ややふくよかな体つきをした五十過ぎの女性だ。
ある貴族家に嫁いでいたが、若くして夫と死別し、公都にある教会の窮児院で長年働いていたらしい。
人見知りのあるリリアセレナがつい警戒するような視線を向けても全く動じる事はなく、
「アルラと申します。どうぞお見知りおき下さいませ」
と、人好きのする柔らかな笑顔を向けてきた。
随分後になって知った事だが、アルラが身を置いていた窮児院には親を亡くした子ばかりでなく、親から捨てられた子どもも多くいたようだった。
そうした子達は心に傷を負っており、アルラはその扱いに長けていた。
リリアセレナが虐待を受けていたと知ったロベルトは、医師のフォールに相談してアルラをリリアセレナ付きの侍女として迎え入れた。
年の近いベルだけではリリアセレナを支えきれないだろうと判断したためだ。
勿論リリアセレナは、そうした経緯を全く知らなかった。
当時のリリアセレナは、いきなり連れて来られた婚家の環境に慣れるのに精一杯で、他の事に目を向ける余裕はなかったからだ。
物静かだが、威厳に溢れた義父のロベルトと「お母様」となった優しそうなヴィヴィア、それにベルとアルラ。
それに、家令のデュランや家政婦長の二ア、ヴィヴィア付きの侍女のルーダとミミなどがリリアセレナの周囲にいて、他にもまだ名前を覚えられない大勢の使用人が家にいた。
誰をどこまで信じていいのかわからなくて、リリアセレナは恐恐と周囲の状況を窺っていた。
リリアセレナの幸不幸の鍵を握るのは、義母のヴィヴィアだった。
自分が熱を出して寝付いていた時に度々部屋を訪れ、優しい言葉をかけてくれた「お母様」。
アンシェーゼの母様と同じ緑の瞳をしているのは少し怖いけれど、このお母様はあの人とは違うのかもしれない。
リリアセレナは子を慈しむ母という存在に強い懐疑を抱きながら、一方で餓えるほどにその愛情を欲していた。
アンシェーゼの母カーラは最後までリリアセレナを拒絶した。
けれど、この新しいお母様はどうなのだろう。
本当にリリアセレナの事を愛してくれるのだろうか。
母親の愛情を信じきれないリリアセレナは、わざと我が儘を言ってヴィヴィアの愛情を試してみようとし始めた。
最初にしたおねだりは、幼児が喜ぶような文字の少ない絵本だった。
七つになったリリアセレナは、文字だけの難しい本をすらすらと読めるようになっていたが、駄々をこねて絵本を取り寄せてもらった。
そして絵本の読み聞かせをヴィヴィアにねだってみたのだ。
ヴィヴィアはちょっと驚いたようだが、この幼稚な言動をそのまま受け入れた。
窘めたり面倒くさがったりする事なく、リリアセレナの傍らに座って、幼い子どもにするように優しく絵本を読み聞かせてやった。
傍から見ると、さぞ滑稽な状況であっただろう。
絵本の内容は七つの子どもが読むようなものではなかったし、ましてやそれを読み聞かせてもらうなど馬鹿げている。
けれど、リリアセレナはどうしてもそれをして欲しかった。
ヴィヴィアの傍にぴったりとくっついて、優しい声を聞きながら本の挿絵を覗き込むと、心が満たされるような気がしたからだ。
勿論、旧家の奥方でもあるヴィヴィアには貴族としての社交もあり、ずっとリリアセレナの傍にいられる訳ではない。
けれどヴィヴィアは、時間が許す限りそうした読み聞かせに付き合ってくれた。
そしてヴィヴィアが不在の時は、代わりにアルラがそれをしてくれた。
優しいお母様と乳姥のような侍女の二人を手に入れたリリアセレナは、幼児返りする楽しさを覚えてしまった。
だから今度は、家庭教師の授業を拒絶した。
「難しいお勉強をしたくない」と我が儘を言い、わざと何度も授業をすっぽかした。
怒られるかもしれないと警戒したが、ヴィヴィアは何も言わなかった。
この程度では嫌われないと知ったリリアセレナは、もっと激しい我が儘を試してみる事にした。
朝起きて身支度をする時に、ドレスや髪型にいろいろと注文を付ける。
この色は嫌、今日はこのドレスを着る気分じゃないとどうでもいい難癖をつけ、やっぱり気が変わったとまた文句を言い、アルラの手を散々煩わせた。
たまに真面目に授業を受けていても、わからない事があったら癇癪を起してぷいと席を立つ。
家庭教師が止めても、知らん顔で部屋を出てやった。
ある時は、庭師のクタンが大切に育てていたお花を勝手に摘んでお部屋に飾った。
クタンは怒るかなと思ったが、小さな溜め息一つで許してくれた。
周囲を困らせているという自覚はリリアセレナにも勿論あった。
皆はきっとリリアセレナの事を悪い子だと思っているだろう。
けれど、その行為が止められなかった。
もっともっと我が儘放題に振舞って、それでもリリアセレナの事を本当に受け入れてくれるのかを確かめたい。
リリアセレナにとって、それは一種の賭けだった。
もしかすると、こんな我が儘な子どもは要らないと、いずれみんなから見捨てられてしまうかもしれない。
それを思うと、心臓がぎゅっと縮こまるような強い恐怖を覚えた。
けれど周囲に心を開く前に、リリアセレナはどうしても確かめておかなければならなかった。
だってリリアセレナがみんなを信じた後に掌を返されたら、リリアセレナは今度こそ立ち直れない。
優しさを知る以前よりもさらに深い孤独へと突き落とされるだろう。
それに、これまでの鬱憤もあった。
今まで理由もなく散々痛めつけられてきた事への怒りが、心のどこかで燻っていた。
ただ優しくされるだけでは心は満たされない。
今までに受けた理不尽さを何らかの形で発散させておかないと、行き場のない恨みや惨めさがいつか心を食い破ってしまうような気がしたのだ。
だからいよいよ傍若無人に振る舞った。
新しいお父様やお母様が一番怒る事は何だろうとリリアセレナは小さな頭で一生懸命考え、そうして思いついたのが、毎朝皆で行う聖堂でのお祈りをすっぽかすという事だった。
故国の離宮に暮らしていた頃、リリアセレナは信仰とは疎遠な生活を送っていた。
故国は聖教を信仰していて、皇女であるリリアセレナも生まれてすぐに洗礼名をいただいたが、聖堂を訪れた事は一度もないし、司祭様が離宮を訪れた事もない。
夜寝る前に「神の栄光のために」と必ず口にしていたが、どちらかと言うと惰性に近しいものだった。
けれどここマティス公国においては、カナ神への祈りはもっと真摯な意味合いを持っていた。
「貴方の御心に添える一日でありますように」
当主ロベルトのこの言葉から始まる朝の祈祷はアンテルノ家にとって非常に重要なものだ。
黙祷時にこっそり横目でお母様の顔を窺うと、張りつめた面持ちで一心に祈りを捧げておられた。
聖堂内は咳一つ聞こえぬほどに静まり返り、別世界にいるような透徹な静寂がそこには存在した。
祈りは懺悔であり、偉大なる神との対話を意味します――。家庭教師も、確かそんな風に言っていた気がする。
だからこそ、リリアセレナは皆が大切にしているその神聖なお祈りを、わざとすっぽかしてやる事にした。
「朝のお祈りに行きたくない」
ある朝、そう宣言したリリアセレナに、アルラは初めて小さく眉を寄せた。
「どこかお体の調子が悪いのですか?」
「悪くなんてない。ただ、リリアセレナがお祈りに行きたくないだけ」
とんでもない理由である。
アルラはぎょっとして窘めてくると思ったが、穏やかな表情のまま静かに言葉を返してきた。
「朝の祈りを捧げる事はマティスではひどく重要な事ですよ」
リリアセレナは反抗的にぷいと顔を背けた。
「リリアセレナは行きたくないの。だから行かない」
アルラはしばらく無言だったが、ややあって「さようですか」と呟いた。
「わかりました。では旦那様にもそのようにお伝え致しましょう」
バクバクする心臓を宥めながら、リリアセレナはこっそりと唾を呑み込んだ。
とんでもない我が儘を言ってしまったと、今更ながらに手に汗が滲んでくる。
アルラが朝の祈りへ向かうために退室し、部屋にはリリアセレナ一人が残された。
いつもよりも部屋がだだっ広く感じられた。
これで嫌われるなら仕方がないと、リリアセレナは泣きそうな目で床を強く睨みつけた。




