8 顔合わせ
その翌日は朝から薄曇りで、暗雲が立ち込めた鈍色の空は、まるでリリアセレナの行く末を表しているかのようだった。
食欲がなかったリリアセレナはスープと果物だけを口にして、すぐに身支度にとりかかった。
用意されていたのはゼニスブルーのドレスで、袖はふんわりとしたパフスリーブとなっている。
前身頃には小さな薔薇の造花がたっぷりとあしらわれ、ウエストから下は軽やかで張りのあるシャンタンという生地素材が使われて、裾に向かって美しいドレープを描いていた。
リリアセレナは痩せて血色も良くないため、赤やピンクのドレスを着ると、どうしても肌色の悪さが際立ってしまう。
黄色系統の服も肌色をくすませてしまうのでブルーのドレスが選ばれたが、肉付きのない貧相な体ではお世辞にも似合っているとは言えなかった。
袖から覗く細い腕を見て、リリアセレナは思わず小さな溜め息を零す。
夫や義父母となる人は、自分を見てきっとがっかりするだろう。
それとも、そこまでリリアセレナに興味を抱いていないだろうか。
アンテルノ家には一刻程で到着し、馬車から一人降り立った小さなリリアセレナは、お城とも見紛うような大邸宅に一瞬息を呑んだ。
正面で出迎えてくれたのは二十歳前後の青年で、その華やかな装いから、この男性が自分の夫ユリフォス・ジュードなのだとわかる。
その斜め後ろには四十過ぎと思われる男女が立っていて、こちらがアンテルノ卿夫妻であるらしかった。
主一家を囲むように、大勢の使用人が整列して控えている。
けれど、アンテルノ家の三人以外に貴族の姿はなく、親族総出で華々しく出迎えられると思っていたリリアセレナは、やはり自分は望まれていない花嫁なのだという思いを強くした。
失望を押し隠し、リリアセレナはおそるおそる夫ユリフォスの顔を仰いだ。
ユリフォスはすらりと背が高く、穏やかで知性的な面立ちをした男性だった。
髪の色は柔らかな薄茶色で、瞳の色も同様だ。くすんだ赤に黄色が混ざったような優しい榛色をしていた。
「マティス公国にようこそ。ユリフォス・ジュードです」
その声がどこかぎこちないのは、七つの妻にどう声をかければ良いものか、ユリフォス自身戸惑っていたせいもあるだろう。
リリアセレナは強張った口元に、何とか笑みらしいものを貼り付けた。
「リリアセレナ・フェーデと申します。どうぞ末永くお導き下さいませ」
続いて、義父母となるアンテルノ卿夫妻に挨拶したが、当主であるアンテルノ卿は長身痩躯で、いかにも旧家の当主であるといった威厳と威風に満ち溢れていた。
一方のヴィヴィア夫人は夫とは真逆の雰囲気を醸し出していて、庇護欲をかき立てるような愛らしさと清楚な気品を感じさせる。
やや寡黙な男性陣に代わって、なにくれとなくリリアセレナに言葉をかけてくれたのがこのヴィヴィアだったが、正直に言うとリリアセレナはヴィヴィアの瞳が怖くて堪らなかった。
故国の母カーラと同じ緑色をしていたからだ。
カーラは、大陸では稀少とされる緑瞳を大層自慢にしていたけれど、虐待を受けて育ったリリアセレナにとって、その緑瞳は恐怖の対象でしかない。
冷え冷えと澄んだ翠玉のように、一切の温もりを拒絶していた。
今は柔らかく笑んでいるこの女性も、いつかは母様のように目を吊り上げてリリアセレナを罵るのかもしれない。
そう思うと、足元からじわじわと恐怖が這い上ってくる気がした。
その後、挨拶もそこそこに連れて行かれたのは、敷地内にある小聖堂だった。
その聖堂は、外壁が白と深緑の大理石で化粧張りされていて、要所に配された幾何学模様が美しい。
中はきっと薄暗いのだろうと思っていたが、内部は思ったより明るかった。
上部に明り取りの窓が広くとられていて、そこから明るい光が指し零れていたからだ。
朝は分厚い雲が空全体を覆っていたが、いつの間にか雲は流れ、陽差しが差し始めていたようだ。
嫁いで早々何をお祈りするのだろうかと困惑するリリアセレナに、ロベルトが静かに声をかけてきた。
「今日この日のために、カナの大司教に来てもらった。この結婚を司祭に祝福していただこう」
調印により婚姻はすでに成立していたが、リリアセレナが余りにも幼いため、正式な結婚披露宴は社交デビューをした後と決まっていた。
近しい親族にはおいおい紹介していくようになるが、生憎その時、リリアセレナの傍らに夫のユリフォスはいない。
中途半端な立ち位置で残されるリリアセレナの気持ちを鑑みて、アンテルノ側が司祭の祝福をお願いしたものらしかった。
簡素な結婚式だった。
貴族の参列者はアンテルノ卿夫妻だけで、花嫁のリリアセレナはベールさえつけていない。
神の御前で互いの献身と愛情を誓い合い、それをアンテルノ家の使用人達が静かに見守った。
白の祭服に身を包んだ司祭が『生命の象徴』とされるオリーブの枝を手に持ち、二人の頭上で邪を払う。
場は終始、静謐な祈りに満ち溢れ、リリアセレナは生まれて初めて信仰というものに触れた気がした。
式を終えて小聖堂を出ると、眩い陽射しが目に飛び込んできて、リリアセレナは僅かに足元をふらつかせた。
傍にいたユリフォスが手を差し出してくれたが、「大丈夫です」とリリアセレナは首を振った。
こんな事で人の手を煩わせ、呆れられるのが怖かったからだ。
「顔色が悪いわね」
リリアセレナの顔を覗き込んだヴィヴィアが、心配そうに顔を曇らせる。
「長旅で疲れているのではないかしら。先に部屋に案内させましょう」
小聖堂と大邸宅は渡り廊下で繋がっていて、リリアセレナは西側の玄関を入ってすぐの階段から三階に上がった。
案内された部屋に入れば、大きくとられた窓から日が差し込み、分厚いカーテンが半分まで下げられていた。
ここがリリアセレナのためのプライベートルームであるようだ。
「まだ眩しいようなら、もう少しカーテンを下げましょうか」
そうヴィヴィアに問われて、「大丈夫です」とリリアセレナは首を振った。
薄いレースのカーテン越しに入ってくる柔らかな陽射しが心地良かったからだ。
「リリアセレナ。こちらのベルが貴女の世話をするようになるわ。
困った事や不自由な事があれば、何でもこのベルに言いなさい」
リリアセレナが傍らの侍女を見上げると、ベルと呼ばれた少女が小さく会釈した。
年は十五手前といったところだろうか。
色白で、顎の尖った小さな顔に少しそばかすが散っていた。
「ベルと申します。何でもお申しつけ下さいませ」
ヴィヴィアがいなくなった後、リリアセレナはベルの手を借りて結い上げていた髪を解き、豪奢なドレスを脱いだ。
楽な装いにするようにとヴィヴィアに言われたからだ。
着替え終わったリリアセレナは崩れるようにソファーに倒れ込んだ。
長旅の疲労が重なった上、昨日は明け方からうとうとしただけで、体はもう限界だった。
肘掛けに寄りかかるようにぐったりと目を閉じていたら、その様子がヴィヴィアに報告されてしまったようだ。
半刻ほど経った頃に扉がノックされ、ベルが出迎えると、そこには五十過ぎの女性を連れたヴィヴィアが立っていた。
慌ててソファーから起き上がろうとするリリアセレナを、ヴィヴィアは軽く手で制した。
「そのままでいいわ。
リリアセレナ、こちらは医師のフォールよ。わたくしはいつもこのフォールに診てもらっているの。
とても信頼できるお医者様だから、貴女も診ていただきましょうね」
その言葉にリリアセレナは青ざめた。
「わたくしのためにわざわざお医者様を呼ばれたのですか」
「わざわざという程の事はないのよ」とヴィヴィアは微笑んだ。
「わたくしは度々このフォールに往診に来てもらっているの。ロベルトが心配症で、わたくしが一つ咳をしただけですぐにフォールを呼んでしまうから」
「風邪は万病の元と申しますからね」
斜め後ろに控えていたフォールが快活に言葉を添える。
フォールの目尻には笑い皺があり、目はぱっちりとして口も大きかった。
髪には白髪が混ざっていたが、目に力があるせいか若々しさの方が勝っている。
「わたくしは席を外すわ。どうかこの子を十分に診てやってね」
そう言ってヴィヴィアが退室した後、フォールは改めてリリアセレナの前に膝を折った。
「私はこちらの邸宅のすぐ近くで暮らしております。
元々公都の外れで細々と診療所を営んでいたのですが、私の噂を伝え聞いたジュベル卿……今のアンテルノ卿が、体の弱い奥様のために私をこちらに呼び寄せましたの。
これからは、若奥様のところにも度々伺わせていただくようになると思いますわ。
どうぞお見知りおき下さいませ」
リリアセレナが警戒しているのがわかるのだろう。
フォールはリリアセレナの心がほぐれるよう、たわいもない世間話を続け、リリアセレナがようやく肩の力を抜いたところで、ゆっくりと脈をとってきた。
体の症状を聞き、眼瞼や爪の色などを丁寧に確認していく。
「わたくしは病気なんかじゃないわ」
フォールが何か言う前に、リリアセレナは強張った声で言い張った。
「わかっております」とフォールは微笑んだ。
「おそらく、ここ数日の長旅が体に堪えたのでしょう。
ゆっくり休み、消化のいいものを召し上がれば、すぐに元気になられますよ」
「じゃあ、アンテルノ卿ご夫妻にもそう伝えてもらえるかしら。リリアセレナは病気なんかじゃないって」
「畏まりました」
フォールの返事を聞いて、リリアセレナはほっと肩を撫で下ろした。
「少し午睡をされた方がよろしいでしょう。寝室で休まれますか?」
「ここでいいわ」
病人扱いされたくなかったリリアセレナは、ソファーの上で少し転寝する事にした。
本当はアンテルノ家の方々と交流を持った方がいいのかもしれなかったが、体がだるくて立ち上がる気になれない。
そのままソファーで丸まっている内にフォールは退室し、いつの間にかリリアセレナは本気で寝入っていた。




